蜀の都、成都より遥か東方。蜀の領土の端に当たる巴東の地に大きな部隊が駐屯していた。
そこいらの賊などとは到底思えない、高度に鍛錬を積んだ者の動きを見せるその集団。
しかし、その中央本陣に目を向けてみれば、2種類の武具が入り混じっていた。
外縁を含めた集団の大多数を占めるのは緑を基調とした武具で身を固めた者たち。
それらに囲まれ、本陣付近に少数纏まっているのは赤を基調とした武具で身を固めた者たち。
緑と赤が丁度釣り合う辺りに、また更に小さなスペースが開いていた。
そこでは周囲より二段も三段も立派な武具を身に着けた複数の者が集い、言葉を交わしている。
中でも特段上機嫌でいるのが誰あろう、最近になって蜀に帰属したかつての英雄、馬騰であった。
「あっはっはっは!いや~、拍子抜けするくらいすんなりと進んだもんだね~!
ったく、月蓮の奴、相変わらず面白いことを持ち込んでくれるもんだねぇ」
「あはは、ごめんね、碧おばさん。お母さんってば説明も無しに色々やっちゃう人だから」
馬騰に受け答えするのは、白基調の見た目に上物と分かる衣服を身に着けた小柄な少女。
パッと見で目を引くのはその髪型だろう。頭のやや後ろで左右とも根元をリボンで括り、大きく輪を描くように髪を纏めている。
その肌は浅黒く、南方の者によく見られるタイプ。
彼女の名は孫尚香。あの呉の孫堅の三女、その人であった。
「いやいや、あんたが実際に遣わされて来たからあたいも楽しむことが出来るってもんだよ。
ま、ちと急な話ではあったけどねぇ」
「だよねぇ。シャオもびっくりしちゃった!
でも、もっとびっくりしたのは、こんな策におばさん以外にもこんなに蜀の将が揃ったことかな」
そう言って孫尚香は周囲を見回す。
その視界に映るのは馬騰を始め、黄忠、厳顔、徐庶、馬鉄そして趙雲であった。
「馬超っておばさんの娘だったよね?どうしていないの?」
孫尚香がそう疑問に思っても無理は無い。
何せ、彼女からすれば今回のこれの蜀側では馬騰が中心となっていて、その三女はちゃんとこの場にいるのだから。
次女と姪は魏へ渡ったと聞いている。二人がこの場にいないのは当たり前だ。
しかし、長女である馬超はそうでは無い。
母・馬騰、妹・馬鉄と共に蜀に参入したのだ。にも拘らず、この場にその姿は無い。
「あの馬鹿娘、隠し事とかあまりにも下手くそだからねぇ。
今回は桃香にはなるべく知られない方がいいんだろ?だから置いてきた」
すげなく答えた馬騰の口調は、まるで当たり前のことを語っているよう。いや、彼女にとっては当たり前の判断なのだろう。
簡単に切り捨てられたように見える馬超に、孫尚香は思わず同情してしまった。
「母親に置いてかれるのって結構クるんだけどなぁ……」
無意識に漏れたその台詞を馬騰はきっちりと拾う。それはそのまま孫堅へのフォローとなっていった。
「なぁ、小蓮。あんたは確か、呉の領地の中頃の砦を転々として運営と防衛の任に就いてるんだったっけ?
他の連中が建業でキツイ鍛錬課されてる時に自分だけ、とか思ってたのかい?
月蓮の奴が自分だけは切り捨てたんだ、って。
一つ言っといてやるが、それは違う。あんたの勘違いだ。
あいつは自分の娘それぞれに別々の才を見出している。
雪蓮の奴は戦闘の才。事実、最も濃くあいつの”血の力”とやらを受け継いでいるらしいね。
蓮華は執務の才。国の運営を任せるならあいつが一番だって言っていたよ。それと少しばかりの戦闘の才。多少は”血の力”があるらしいね。
そんで小蓮、あんたは上二人と少々事情が違うみたいだね。どうやらあんた、母親よりも父親の血が濃く出たんじゃないかい?
月蓮の奴はあんたに補助の才を見出してると言ってたよ。ただ、そのためには色々見て学ばなきゃなんないからね。
今は腐らず見分を広めな。それがいずれあんたの大きな力になるさ。
ってか、月蓮の奴、言葉が足りなすぎるんだよ!まったく、あいつは昔から天才肌だったからねぇ。自分の考えは他人も全て考えつくもんだと思っているんだよ。あいつの悪い癖だ」
「おばさん…………うん、分かった。ありがとう」
孫尚香は感じ入ったようにポツリとそれだけを口にした。
場がしんみりとなりかけるも、それはあまり宜しく無いと考えた厳顔が口を開く。
「隠し事が出来ないという点では美以も同様じゃの。
あやつ、ずっと南方の森の中で過ごした野生じゃからか、悪い意味で素直すぎる。
ちと意味合いは違うが、華雄の奴もうっかり漏らしそうで怖かったからのう」
「朱里ちゃんや雛里ちゃん、愛紗ちゃんや鈴々ちゃんは桃香様を無視出来ようはずも無いから何も知らせていないのよね。
あ、焔耶ちゃんも、ね」
孫尚香に説明する意味も込めているのだろう。蜀の他の将がここにいない理由を簡潔に説明していた。
「それにしても、惜しいものですな。
愛紗はともかく、あの男は是非ともこの先の戦に放り込んでみたかったのだが」
ここまで聞きに徹していた趙雲がふとそんなことを口にする。
これに厳顔は首を傾げた。
「あの男?桃香様の下に男の将なぞおらぬじゃろう?
それとも愛紗の下に有能な者がおるのか?」
「ふふ、その通りですぞ。
何度か手合わせしたことがありますが、奴は面白い。
負け続きとは言え、我々と張り合えるというだけでも感心もの。
それに私が見たところ、まだ隠し玉を持っていますな、あれは。
その底力、同じ武人としては余すところなく見てみたいものです」
「あらあら。星ちゃんにそうまで言わせるなんて。
確か、周倉さん、だったかしら?今度私も手合わせ願おうかしら?」
「ほほう。ならば儂も一つ、噛ませてもらおうかの」
「ははは!是非に是非に。奴を極限まで追い込んでやってください」
何の気なしのこの会話。これが後に実現することになるのは別の話。
時を同じくして成都の街の調練場にて周倉が原因不明の悪寒に全身を貫かれたのもまた別の話。
「ところで、雫ちゃん。杏ちゃんは連れて来なくて良かったの?
雫ちゃんの直下で学んでいることだし、何より前の時にも来ていたでしょう?」
ふと思い出したように黄忠が徐庶に尋ねる。
これが逸れた話を元に戻し、先に進めるきっかけとなった。
「杏は……あの娘はこの先、もっとずっと大きくなります。蜀にとって欠かせないほどに。
それだけの才をあの娘から感じるからこそ、私はあの娘をこの場には連れて来ませんでした。
これは私の完全な独断。それを通すと決めたのです」
決意を秘めた瞳をもって徐庶は黄忠の問いに答える。
その徐庶に対し、意志を確かめるように、事実を噛み含めるようにして言葉を投げかけたのは厳顔だった。
「ふむ……前回の事、上手く誤魔化せる材料があったおかげで桃香様はお知りになっておらぬようじゃが、朱里たちは薄々感付いていそうじゃの。
今回はより大規模に行動しとる上に、隠せぬ証も持ち帰ることになる。何より、これもまた”裏切り”の一種じゃろうて。
桃香様が今度の件をお知りになれば、最悪、刎頸もあり得るんじゃぞ?」
「構いません。例えこの後に我が頸が刎ねられるとしても、それ以上にここで魏に対して呉と共同戦線を張ることの出来る状況を作り出すことの方が重要です。
私の安い頸一つでそれだけ価値のあるものを得られるのであれば、喜んで差し出しましょう」
「ほぉ~。見上げた覚悟だねぇ。
ふむ…………な~るほど。こりゃあ、本物だねぇ。
かつて漢王朝の忠臣と謳われたこのあたいが保証してやろう。雫、あんたは桃香の本物の忠臣だよ」
はっきりと言い切った徐庶に感心したような声を挙げたのは、意外にも馬騰。
そのまま徐庶の瞳を間近から覗き込み、確固たる意志をその中に見出したようであった。
「ふ~ん。それで蜀の主要な将は全部なの?」
真面目な雰囲気の会話から、ともすればそのまま沈黙の時間へと移ってしまうかの刹那に、孫尚香からの確認が入る。
会話を止めずに動かし続けるための楔となったこの問いに、繋げるべく答えたのは蜀の文武ともに精通し、参謀の立ち位置となっている黄忠。
「ええ、そう――――いえ、ごめんなさい。我が方の主要な将はもう一人おりますわ。
白蓮ちゃんは桃香様の親友でもありますから、隠し事は心苦しいだろうと思い、声を掛けておりません」
一瞬とは言え忘れられかけた公孫瓚。
かつての一時期だけ彼女に仕えたことのある趙雲はそんな元主の扱われ方に笑いをかみ殺して肩を揺らしていた。
このやり取りは(公孫瓚にとっては不本意極まりないだろうが)最早蜀内の定番となっていて、誰も趙雲を咎めないどころか、放置して話を進める。
「そういうわけでして、この場にいる我々だけが今回の策に参加した将ですわ、小蓮ちゃん」
「それが意外なほど多いとシャオは思うんだけどなぁ。
でも、ま、多いに越したことは無いしね!」
孫尚香は蜀側の対応に不満など欠片も無いことをその態度で示していた。
一部の将のみで彼女に、正確にはその背後にいる孫堅の思惑に乗り、罠を仕掛ける。
当初は孫尚香の想定通り、馬騰がほぼ単独で向かうつもりだった。
が、どこからか徐庶がこれを聞きつけ、瞬く間に部隊を編制、策の展開に入った結果、今に至る。そこに掛ける想いは先ほど彼女の口から語られた通りだ。
とは言え、その策の内容に皆が皆納得しきっているわけでは無い。
その一人、厳顔がここぞとばかりに徐庶に問い掛けた。
「のう、雫よ。何故前回と似た策を用いるのじゃ?
この儂ですら愚策じゃと思うほどなんじゃが」
「愚策だからこそいいんです」
対する徐庶の答えは実にシンプルで、しかし、理解が難しいものであった。
「んん?愚策なんじゃろう?それが良い?」
「はい。前回とほとんど同じ策だからこそ、相手側もこちらの動きを半ば以上予想出来ます。
ここで注意するのは、完全に前回と同じにはしないことです。そうしてしまうと、その裏に潜む意図を読み取ろうと過度な警戒を呼び込んでしまいますので。
相手に適度に大きな部隊を作らせること。これに成功しさえすれば、後は自ずと我等の目的は達成されるでしょう。
ただ、こちらの目的が目的です。
皆さん、多少の被害は仕方無いですが、必要以上の被害を受けてしまわないように注意しておいてください」
澱みなく話す徐庶の言葉からは、このために策を練り込んで来た彼女の自負が見て取れた。
集う将も皆、異論は無いとばかりに首肯を以て答える。
そこへタイミングを見計らったかのように一人の伝令兵が駆け込んで来た。
その報告を聞き、徐庶が一言発する。
「時が来ました。
我等蜀と、そして呉の安寧のために。我が策、只今より始動致します」
鬨の声は禁じた為に、陣内では静かな闘志の炎がメラっと燃え上がるのみであった。
「……嫌ぁ~な感じね」
上庸の平原を進む部隊の中央でそう漏らしたのは魏の軍師、司馬懿こと零。
零は菖蒲が持って来た情報を頼りに緩やかに部隊を進めつつ、前方に多数の斥候を放っていた。
すると、先だっての情報の無さが嘘のように、敵陣の情報が齎され始めた。
ただ、敵陣の場所がだだっ広い平野の真ん中であるがために、容易には近づくことが出来ない。
結果、入って来る情報は曖昧なものとなってしまっている。
曰く、西涼軍らしき騎馬部隊が見える、組織だった行動を目撃した、草刈りはしていないようだが監視はしている、などなど。
いずれの報告も、相手がただの賊では無いと明らかに告げている。
位置的、時期的に、蜀の軍の仕業である可能性を高く見積もりながら、しかし零には断定が出来ない。
以前、魏の将たちの間に衝撃を走らせたあの定軍山が頭を過ぎる。
愚策。はっきりとそう感じてしまうだけにこうなってしまっているのだ。
思考の道筋を変えようとしても、どこかで曲がってここに戻ってきてしまう、ループのような状態。
不意に、これが敵の思惑では、とすら考えてしまうほどだった。
総じて零が感じること。それが先ほどの一言に集約されている。
「蜀の軍の仕業、あるいはそのものでなくても息が掛かっている、とは言い切れないのですか?」
「どうかしらね……
せめてもっと近づけて、蜀の属する将の姿でも認められたら確定出来るのだけれど。
今のままじゃあ、断定は難しいわね。
華琳様を始め、桂花や一刀もその才を認めている諸葛亮と龐統。あの二人がこのような愚策を許すとは思えないのよ」
「では、西涼軍の報告の件はどのように?」
「菖蒲なら大体は分かっているんじゃない?
西涼に関しては鶸や蒲公英の例もあるわ。つまり、いくら蜀方面で西涼の部隊が見つかったからと言って、それが全て馬騰の配下だとは限らないのよ。
すでにその下を離れているかも知れない。そんな”元”西涼軍であれば、いかにもな軍隊らしい行動にも説明がついてしまうのよ」
「…………やはり、敵の陣取りが非常に厄介だと……
ですが、こうして惑わせるのも蜀の策だという可能性もあるのでは?」
「ええ、それは勿論考慮しているわよ。でも、偶然である可能性も捨て切れない。
この辺りはそれほど大きな邑も無く、広がる平原には遮蔽物もほぼ無し。
仮に賊の類であっても、どこぞの邑を乗っ取るのでなければ、陣は必然的に平原になって何もおかしくは無いのだから」
様々な可能性を否定しきる判断材料が足らず、どうしても零は溜め息を我慢できない。
敵部隊のある程度の規模は分かっても、こうなると数よりも重要な情報、つまり敵将の情報が欲しいところ。
しかし、無いものねだりをいつまでもしていても埒が明かない。
少ない判断材料を基に、零は決断せねばならないのである。
「一先ず、部隊にはこのまま前進を続けさせるわ。斥候も引き続き出しておく。
確定した情報が得られるまでは最悪の状況を想定して動くわ」
「と、言いますと?」
「蜀の罠の可能性、よ。
ただ、もし本当にこれだったとすると、きっと私は何かを見落としているのよ。
そうなってくると対応は後手後手になってしまうでしょうから…………菖蒲、先鋒の貴女には相当な負担と危険を背負わせてしまうかも知れないわ」
「大丈夫ですよ、零さん。例えそうなっても、零さんはすぐに対策を打てると信じています。
その僅かな間くらい、私の部隊で凌いで見せますから」
同郷出身が故の確かな信頼をそこに感じられる。
零はこれに気持ちを新たにした。
「そこまで言われたら、是が非でも菖蒲の信頼に応えなければならないわね」
「ふふ。ええ、期待していますよ、零さん」
柔らかく微笑み合う二人の表情は、他には見せたことの無いものであった。
ほぼ時を同じくして上庸の地よりはるか東方、許昌との中間辺りに、かなりの速度で行軍を続ける一軍がある。
言わずもがな、一刀が凪を伴って率いる部隊だ。
その速度はかつての定軍山の折に一刀に同行した者から見ても、それと遜色ないほどであった。
「一刀殿!少々強行軍過ぎるのではありませんか?!」
部隊全体の疲労その他を懸念して凪が一刀に呼びかける。
同様の問いは幾度か為されている。が、対する一刀の答えは常に同じであった。
「今は我慢してくれ!上庸直前には必ず大休止を入れる!」
今は一刻も早く上庸の地、その向こうへと辿り着く必要がある。
その先で視界に映るものが平穏無事な零と菖蒲の部隊であるならば御の字。
一方でもしも窮地に陥っていた場合、直ちにこれを助けねばならない。
最悪なのは、辿り着いた時点で既に全てが終わり、零と菖蒲の部隊が壊滅している事態だ。
最後の可能性を減ずるには、今はただ遮二無二足を動かし続ける他無い。
幸い、桂花も最悪の事態を考えた上で部隊編成をしてくれたようで、部隊はその構成のほとんどを騎馬で固められている。
一部に見える歩兵は主に輜重部隊員で、行軍中は馬が曳く馬車内にいることになった。
その他、僅かに混ざる歩兵は騎兵の後ろに相乗りすることで行軍速度の上昇を図っている。
実は相乗りしている兵たちは、皆桂花によって選出された黒衣隊員たち。
さすがに曲乗りまでは仕込んでいないものの、こういった速度を要求される場面の到来を見越した訓練として、相乗り技術の向上は図っていたのだが、これが功を奏した形となる。
そもそも、その訓練が可能となったのは偏に真桜によって皮の鐙と鞍が量産されたが故のこと。
まさに真桜さまさまといったところだ。
そんな、この兵達の裏事情を知るのは、本人を覗けば一刀くらいなのだが、それは些細なことで、精々凪辺りが余分に一刀に心酔する程度。そこには何も不都合は無かった。
結果としてグングンと目的地との距離を縮めていることが重要なのである。
「皆!もう少しだけ耐えてくれ!
皆が敬愛する将の危地、我等が気力を犠牲にする程度で救えるとあらば、これほど喜ばしいことは無いだろう?!」
『おおぉっっ!!』
疲労を見せながらも力強く返されるその声に、弱気なものは見られない。
これもまた、桂花の選出の賜物だった。
零、あるいは菖蒲。いずれかに大恩を感じている者を中心に組んでくれていたのだ。
「…………あの、一刀殿。
どうしてそれほどまで――――」
「最終目的の為に安易な妥協はしない。そう決めているから、だな」
凪の中に不意に沸き、口を突いて出た問い掛けに、一刀は静かに答える。
その深いところ、根本にある理由までは一刀の心の中に仕舞われたまま、表層に出て来る部分を言葉に直したその理由。
一刀の裏の顔を知らない凪でも、これまで一刀が為して来た数々の功績を知っていればこそ、その言葉に納得を示すことになった。
「最終目的……華琳様の覇道をお支えし、大陸の統一を成し遂げること、ですよね?
ですが、安易な妥協、とは?」
「出来ることの後回し、手抜き。簡単に言えばそんなところだ。
後は、そうだな……物事の判断時に楽観視はしないこと。
『物事は悲観的に考えて楽観的に行動せよ』って聞いた事は無いか?」
「いえ、私は初めて聞きました。兵法の一種なのでしょうか?
ですが、その……今のこの行軍は”楽観的な行動”では無いのでは?」
「残念ながらまだ”悲観的に考え”の状態だよ。
今回の件に当て嵌めるなら、そうだな……
『菖蒲と零が罠に掛けられ、危地に陥りかけている、或いは既に陥っている』。これが悲観的な考え。
これに対してどう対応するか。可能な限りの全速で二人の下に向かい、助太刀することだ。
そしていざ現場に到着すれば……
『助太刀に来たのだから、自分たちの策をもって二人は必ず助けられる』。それが楽観的な行動だ。
要するにさっきの言葉の”行動”っていうのは、想定に対して打ち出した対応に乗り出してからのことだと思えばいい。
ちなみに、これは戦関係だけでなく色々なことに応用出来るから、覚えておくと便利だと思うぞ」
「なるほど……勉強になります」
「うん。凪ならきっとすぐに実践出来るようになる。
頑張ってくれ。期待してるぞ」
「はい!」
凪が抱いた疑問はどうやら一刀の回答で解消されたようだ。
一刀が語ったのは、飽くまで自分が行動指針の基本に置いている内容である。
しかし、特に頭を使う仕事を持つもの、軍師たちや華琳辺りはこれそのものでなくとも近い対策は取って行動を起こしているはずだ。
国を守るためには数々の事態を想定し、それにあった対応策を定めておくことが肝要。
これを為すに必要なのが『悲観的に考える』こと。
予め策の基礎があるのと事が起こってから後手後手で対応しようとするのとでは天と地ほどの差がある。
そして、大陸制覇という一大事業を完遂するには、そこに自分ならば可能だという絶対の自信が必要。
その自身をもって行動することが、そのまま『楽観的に行動する』ことだ。
まんま桂花たちが日頃練る防衛策、それと華琳の覇道に対する姿勢だと一刀は思っているのだった。
今までも魏の一将としての行動の中で、幾度も強行軍を行ったことはある。
それでも今回はそれらを合わせても一二を争うほどだった。
どうにか全ての兵を騎兵に収めているとは言え、その疲労の蓄積は半端では無くなりつつあった。
それでも、一刀は強行軍を指示する手を休めない。
今回を越えると思しき唯一の強行軍。それはかつての定軍山への強行軍。
奇しくも同じような状況で、しかし今度は眼前に靄が掛かっているような不確かな不安によって突き動かされている感覚。
以前の時よりも準備には力が入っている。
救援先の部隊も高い警戒心を持って事に当たっているはずである。
だと言うのに、どうしてかそれが余計に一刀を不安に駆らせるのだ。
まるで、運命が一刀に試練を与えようとしているかのように。
(……ダメだな。”あの出来事”を経てからどうにも、何にでも外史の構造を当て嵌めて考えてしまおうとしている気がする。
もっと事実のみを見つめておかないと……それを考えるのはもっと心にも体にも余裕のある時だけでいい)
思考が迷宮に迷い込んでしまう前に、強制的に方向を捻じ曲げる。
まずは何より、出来ることを行い、遂げるべき事を成し遂げねばならない。
今はただ、その目的のためだけに己の全てを費やさんと定め直していた。
零は非常に慎重になって事を進めた。
進軍速度は微速、一方で斥候は過密。
想定される敵の規模、所属を少しでも絞りたいがための行動だった。
しかし、いずれも芳しい結果は得られない。
その状態のまま気付けば数日が過ぎようとしていたため、零は決断せねばならなくなってしまった。
「…………菖蒲。さすがにこれ以上無駄に時間を掛けるわけにはいかないわ。
危険が潜んでいることは承知で、それでも最早討伐に乗り出すしかないのよ」
「零さん……分かりました。
以前にも言いましたが、私は零さんを信じています。
この命、部下と共に零さんに預けます」
菖蒲は真摯な気持ちを込めて零にそう告げる。
それが零の背中を押す最後の一押しとなった。
「伝令兵!皆に通達!
これより我等は上庸に潜む賊の本格的な討伐に乗り出す!
進軍速度を上げ、いつでも鶴翼、及びその他の陣を築ける態勢を整えておけと伝えなさい!」
「はっ!」
「…………ふぅ。ようやく動き出しましたか。
こちらの思惑が漏れているのでは、と随分焦らされましたね……」
「中々に慎重な奴が指揮を執っているようだねぇ。
こっちの陣内の情報は漏らしてないんだろう?だったら、どんな想定でどういった対策を打ってくるのか。
こいつは楽しみだねぇ」
徐庶と馬騰が蜀の陣営で交わした会話は、魏側が捕捉されていることを示してる。
馬鉄が(馬騰の命で)偵察として出ていた分、情報の取得は早い。
魏側の動きに寸分遅れることも無く、自身の策を全うすべく、徐庶も動き始めていた。
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第百十四話の投稿です。
戦の開始前、漂う不穏な空気。その正体。