夢。
昨晩を彷彿とさせる、同じような夢。
そこに一刀はまたも佇んでいた。
昨晩と異なるのは、移ろい続ける景色が随分とノイズ混じりである点のみ。
いや、それだけでは無い。
ぼんやりとしか見えなかった人物の姿が、今日は見えない。
しかし、僅かな違いがあっても、二晩も続けてこんな夢を見るともなれば、これは何かを伝えようとしているのではないかと感じられる。
では、その何かとは?と聞かれても、一刀にははっきりと答えることなど出来ない。
以前よりも遥かに判然としない、途切れがちな景色を眺めつつ、一刀はこの状況についてまた思考を巡らせてみる。
やはり、本筋は記憶の整理機能たる夢を通じ、一刀自身が無意識の内に感じ取っていた危機への警告だろう。
しかし、それにしては前回は記憶に無いような事物が出てきていた。
果たしてそれの意味するところとは何であるのか。
はたまた、そもそもこれらが夢では無い可能性も出てきている。
昨晩から突然発生し出したこの現象。身に覚えの無い警告。しかも、その警告の名指しの仕方。
そも、一刀がここまでこの夢のことを気に掛けているのはその部分にあった。
昨晩、奇妙にエコーの掛かった声は確かにこう言った。
『ここで徐晃ちゃんは――』、と。
もしもこの警告の内容が、『ここで徐晃は――』であったならば一刀もそこまで気にはしなかったろう。
かつての世界で軽く触れた三国志の物語の何かしらが、その日の出来事に呼応して呼び覚まされただけの可能性もあったのだから。
しかし、実際の声は徐晃”ちゃん”と言った。徐晃の性別を女性と断定していたのである。
つまり、ここで言う徐晃とはまず間違いなく菖蒲のこと。
今まさに遠征に出ている菖蒲が危ない事態に巻き込まれることを示唆しているのだ。
ところが、昨日改めて情報を収集して整理してみて感じたことだが、やはり一刀の中にその危機を感知出来るような知識は無かった。
さてさて、ではこれが夢では無いのであれば一体、と考えてみて、思い当たることが一つ。
この世界――外史を作り上げる要素そのものの干渉。つまり、誰かしらの強い”想い”が本来外史外の存在である一刀を通じて実現を図ろうとした結果がこれなのではないか。
自分でも荒唐無稽な話の類だとは思う。が、それ以外に上手く説明出来る気がしなかった。
ただ、上記の仮説にも疑問点はいくつかある。
中でも一番大きなものは、そこまでしてどうして曖昧・不明瞭な情報のみを渡すのかということ。
二日目にしてこれだけ情報伝達の手段(と思しき現象)が劣化しているのだから、明日以降はまた何事も起こらない就寝へと戻るだろう。
加えて、今晩の現象では昨晩以上の情報を得られなどはしないだろう。
ならば、と一刀は考える。
後は自分が決断するだけだ。
どんな予測を立て、どう行動するかによって、それぞれに発生する利点と被害。
諸々を考慮し、全て己が責として受け入れる。
その覚悟をするだけだ。
そんな決意を胸に抱くとほぼ同時、二日目の奇妙な”夢”は、遂に何の意味も紡ぐ事無く終わりを迎えていた。
「…………よし……」
朝、静かに目を覚ました一刀は上体を起こしたままで少しの間黙考。その後、心を決めるべくただ一言だけ口に出した。
自らの取る行動を決めれば、後はそれを実現すべく行動を起こすのみ。
一刀は身支度をさっさと済ませると昨日に続いて執務室へと足を向けた。
「おはよう、桂花、華琳。早速で悪いが前置きなんかは全て省く。早急に出せる兵力は無いか?」
執務室の扉を開け放った一刀は挨拶もそこそこに用件を告げる。
これにはさすがの二人も面食らった様子であった。
「ちょっと待ちなさい、一刀。
確かに許昌にはまだ余剰兵力がいくらか残っているわ。
けれど、だからと言ってそれをポンと出すわけにいかないことは貴方もよく知っているでしょう?」
「全くよ、一刀。
それともなに?何か新しい情報が入ったとでも言うの?」
華琳も桂花も口を揃えて理由を問う。それも当然のことだろう。
「っと、それはそうだ。済まない。
とは言っても、どう説明したものか……」
何をどう伝えるのが良いのか、一刀はそれに悩む。
それから一刀は少々時間を掛けて一昨日の晩からの出来事とそれに付随して集めた情報についてを全て説明した。
始めこそ怪訝な顔をしていた二人も、徐々に別の理由から額に皺を作ることとなっていた。
「なるほど……一刀、これだけは聞いておくわ。
今回、菖蒲が危ない可能性に思い至ったという”それ”。”天の知識”、なのかしら?」
全てを聞き終えた華琳が発したのはただ一つの問い。
これに一刀は華琳の目を真っ直ぐに見つめ返し、真摯に答えた。
「断言は出来ないが、恐らく違うだろう。
何か別の、この世界よりももっと大きな枠組みから受けた影響、のようなものだと思っている」
「は?ちょっと一刀、あんた一体どうしたって言うのよ?
頭大丈夫?」
「何もおかしくはなっていないし、これ以上なく健康だ。
ただ、桂花の言いたいことも分かる、いや、分かっているつもりだ。
でも、悪い。どうあっても話せない内容の情報を俺は持っている。それに基づいた発言だと理解してくれ」
「あんたしか知らない情報ってこと?
一刀、あんただったら分かっているわよね?そんな状態が一番まずいってこと。
もしも万が一、あんたに何かがあった場合、その情報は失われて、場合によっては二度と手に入らないことになるのよ?」
「分かっている。だが、それに関してだけは2点だけ、確実に言えることがある。
1つ、もしもそれを皆に伝えた場合、半数近くは理解も出来ないだろう。残りの半数もきっと理性が拒否し、混乱に陥る。
もう1つ、それが例え失われても、世界の誰にも何ら影響は無い。これは保証する」
「は、はぁ??」
一刀の語る内容に戸惑いを隠せない桂花は素頓狂な声を上げる。
そのやり取りの間、華琳はと言うと顎に指を掛けて思案に耽っていた。そして、それは丁度一刀たちのやり取りが終わったくらいに次の行動へと移る。
「貴方の言い様からするに、貴方の中では比較的信憑性の高い何かがあり、先ほどの突然の要求へと至った。
そう言う事で合っているわよね?」
「ああ」
華琳の視線は相変わらず一刀を真っ直ぐ貫いていて、一刀を試しているように感じられる。
ここでのそれの意味は、要するに一刀自身がどれだけその情報に掛けられるのか。それを問うているのだろう。
だからこそ、一刀は間を空けず、しっかりとした頷きと共に答える。
余計な言葉はもう語らない。これ以上のそれはきっと言い訳に近いものにしか聞こえないだろうし、何より華琳ならば瞳から諸々を読み取ってくれるものと信じて。
「…………いいわ。一刀、出陣を許可する。
但し、それほど兵は出せないわよ?それに、将も。
今許昌にいる武将は春蘭、秋蘭に季衣、流琉、それと凪、梅と貴方だけなの。
ここのことも考慮に入れなければならないのだから、せいぜい貴方とあと一人だけよ」
それは尤もだと一刀も思った。
それでも、最悪、将は一刀一人だけの出陣も考えていたので、一人だけとは言え付けてくれるというのは何ともありがたい次第だった。
誰を連れていくべきか、少し考えた後、一刀は答える。
「それじゃあ、凪を連れて行かせてもらうよ」
「……はぁ。まあ、そうなるわよね。
仕方が無いわ。兵の手配なんかは私がやっといてあげるから、あんたはさっさと凪に伝えて来なさいよ。
どうせすぐに出たいんでしょう?」
桂花が諦めの溜め息と共に一刀に手助けを申し出てくれた。
諸々慣れた桂花の手助けは非常にありがたく、一刀は一も二も無く謝意を示す。
「一刀。ここまでしてあげるのだから、何もありませんでした、ならとにかく、失敗しました、だけは絶対に許さないわよ?」
「ああ、勿論だ。そうさせないために動くんだから。
すまない、二人とも。改めて感謝する。ありがとう」
改まって再び謝意を示した後、一刀は退室の許可を得て出陣に向けた準備へと走って行った。
「凪、ちょっといいか?」
「一刀殿?どうかされたのですか?」
朝一のこの時間、凪のことを知っていれば彼女を見つけるのに実は大した苦労は無い。
この時間にはいつも凪は站椿を行っているからである。
この日も数ヶ所ある場所候補を巡るうち、その二つ目の場所で彼女を見つけることが出来た。
早速声を掛けた一刀に、凪はすぐに応じる。
特に急ぎの用事もなさそうであることを確認して、一刀は凪に簡潔に用件を告げた。
「菖蒲の身に危険が迫っている可能性がある。これを回避するため、俺と凪で兵を率いて出ることになった。
突然で申し訳ないが、特急で準備出来るか?」
「え?えっと、その……すみません、一刀殿、それは一体どういうことなのでしょう?
菖蒲様の向かわれた先の情報が入ったということですか?」
「すまない。確定的な情報じゃないんだ。
敢えて言うなら、俺自身の勘、に近いものか」
「一刀殿の……」
さすがに凪もこれには考え込んでしまう。
凪としては別段出陣を厭う気持ちがあるわけでは無い。
ただ、現状許昌に残っている武官の数を考え、安易な出陣が正しいものかどうかを凪なりに考えているのだ。
「……一刀殿、ひとつだけよろしいでしょうか?」
「何だ?何でも聞いてくれ」
「華琳様は、このことを?」
「それならついさっき話を通して来た。
華琳に出陣の許可を取って、桂花から一人だけ将を連れていく許可ももらった。
今許昌に残っている将を考えたんだが、万が一防衛戦に突入した場合、防御に長けた梅は今や外せない存在だ。
季衣と流琉は華琳の側を守って貰わないといけない。
となると攻撃役が不足しがちに見えるが、そこは春蘭と秋蘭の姉妹がいれば百人力だろう。
そんなわけで消去法みたいな形になってしまって申し訳ないが、連れていく将には凪を選ばせてもらった。
いや、こっちが勝手を言っていることは理解している。嫌だったら拒否してくれて構わないからな」
凪の同行は決して強要するわけでは無い。飽くまで、より手厚い保険のためなのだ。
だからこそ、その旨を改めて凪に伝える。
凪が自ら考え、結果として防衛のために残る方が重要だと結論したのであれば、一刀にそれを否定する気は一切無かった。
「そうですか。華琳様、それに桂花様の許可が下りているのでしたら問題無いのでしょう。
分かりました、すぐに準備いたします。出立はいつ頃に?」
凪は一刀の言葉を聞くや、ほとんど間を置かずにそう答えた。
戦況判断は詳しい者に任せ、武官たる自身はその指示に従って動くというスタイル。これもまた武官の正しい形の一つだと一刀は考えている。
むしろ、基本的には武官はその方向である方が良いとすら。
司令部から距離のある時、部隊を引き連れて単独作戦を遂行中の時、そんな個々人での判断の方が圧倒的に早くなる場合くらいに留めておくのが一刀的にはベストなのだった。
従って、一刀は凪のこの切り替えと判断も歓迎する。
「すまない、ありがとう、凪。
桂花が兵を手配してくれたらすぐに出ようと思っている。だから、いつでも出られるようにしておいてくれ」
「分かりました」
首肯一つで答えた凪は、早速準備のために走っていく。
そして一刀もまた自身の準備を進めるべく、自室へと足を向けた。
今回の出陣には明確な策が無い。
目的の外枠はあれど、肝心の中身、細かいところは現地における情報収集の結果次第となってしまっているからである。
では一刀が準備するべきは一体何なのか。
大枠となる策は先述の理由から予め用意することは出来ない。
兵の準備は桂花に任せている。
黒衣隊員をどの程度連れて行くかに関しても、桂花が部隊の中に適当な人数を潜り込ませるだろう。
渋々と言った様子ではあったが、いざ段取りに入れば桂花も手を抜くようなことはしない。
両者が適当と思う人数に目立った差は生じないだろうから、これも桂花に任せることになる。
こうして列挙していくと、いよいよ一刀が用意するものが今回は無いことが分かって来る。
敢えて挙げるとすれば、自身の武器、いざと言う時の暗器、後は今まで真桜に製作してもらった数々の発明から役に立ちそうなものを選別する程度。
当然ながら、そのような仕事はすぐに終えてしまう。
この大量に余った時間をどうするか。
その問題にかち合った時、一刀は迷わず自身の行動を定めた。
それは『瞑想』である。
蜀から呉へと向かう道中、華佗と様々意見を交わした中で掴みかけた気がした氣の本質。
これを今の内に確認しておこうという魂胆であった。
(…………)
さっさと鍛錬場に移動すると、いつものごとく心を無にし、精神を集中させる。
そこに、氣を覚えてから取り入れているルーチンも加えていく。
即ち、自身の氣の流れを把握し、整え、そしてそれを一部に集めていくイメージ。
凪から教わり、自身でも色々と試し、ようやく運用にこぎ着けた一刀なりの”練氣”法だ。
(…………これを、足に……)
全身の膂力強化を鍛錬してはいるが、一刀が実戦で用いるのは主に足か腕の一部膂力強化。
ちなみに、腕の膂力強化時は大概半ば無意識下で他の筋肉も瞬間的に強化している。
数度の実戦と無数の仕合を経て一刀が辿り着いた現段階での結論がそこだった。
これをより発展させるためには何よりもまず練氣の速度が重要。
凪のそれは長年実戦で扱っているだけあって、一刀のそれとは比べものにならないくらいに速い。
手甲や脚甲に氣を纏い、時にこれを飛ばして攻撃に用いる凪の戦闘スタイルはまさしくユニークな戦闘法。
それを実現させるための練氣の速度を、凪は二段階に分けることで得ているらしい。
曰く、まずは毎朝の站椿で全身の氣を余すところなく整えておく。整えてさえおけば、集めるのは簡単だと凪は言う。
実際、いざ戦闘となった時には凪はその集中の段階を戦いの激しい動きの合間に行っているのだ。
凪が言うには、氣を整える段階が最も時間を食うとのこと。だからこその二段階練氣。
これは一刀も取り入れている。事実、これが無ければとても実戦投入などいつまで発っても出来はしなかっただろう。
一刀は専ら、氣の集中の短縮を試行錯誤し続けていた。
(…………氣を脚部に集中。成功はした……が、まだまだ遅すぎる、か。
さて、それじゃあ……)
一刀は今集めた氣を離散させ、再び集中を試みる。
しかし、今度のそれは先ほどの方法とは何もかもが大きく異なっていた。
瞑想を解き、徐に立ち上がる。そして、自らの愛刀を自然体にて構え、目を瞑る。
この態勢で行おうとしているのだ。
(現代の武術。そこに至るまでに蓄積された技術、戦闘のノウハウ。
様々な武器、そしてそれらに誂えられた、奥義とも呼ばれることのある武技の数々。
未来の世界で武術を学んでいた人間ある俺が、今この大陸で望まれている行動とは何か。
逆の立場になって考えてみる。俺がこの物語の観客だとして、そんな人間がどんな活躍をすれば物語をより楽しめる?)
華佗との話の中、鶸から聞いた話を思い出す。
五胡の連中は妖術を習得する過程で想像力を鍛えるらしいと言っていた。
一刀はこの想像力という部分を、外史を形作る正史の人々の”想い”と似たような働きを持つのでは無いか、と考えた。
そう、つまり。
正史の世界でよく知られた事柄は、氣という理外の力で補助され、より分かりやすい形でこの大陸に顕現する。
『神医』と讃えられた華佗が、氣を以て数々の病人怪我人を救い続けているように。
『魏の五将軍』に数えられる凪が、氣による戦闘力強化でその名に恥じぬ猛将振りを発揮しつつあるように。
一刀にもまた”氣が使える”のであれば、そこに”何等かの求められる結果”があるはずだ。
それが先日の議論で一刀の得た結論であった。
(武術を学んだ人間がタイムスリップする物語……だったら、望むものは限られてくるだろう。
だったら、あとはそのイメージに沿って……)
単に脚部の膂力アップを求めて氣を集中するイメージでは無い。
今から繰り出そうとする技をイメージし、これをよりスムーズに、スピーディーに、そしてパワフルにこなすにはどの部分にどれだけの力が必要か。
今まで何千何万と繰り返した技の鍛錬を思い出し、そこに掛かる力を思い浮かべ。
技を出す寸前に氣を集中。但し、意識は自身の身体操作に大半を向ける。すると。
脚部にいつもより弱めの氣による光が、そしてその他体の各所により淡い光がホワッと灯り。その光が尾を引いて動き出した一刀を追随した。
(雲耀の太刀……からの……)
「比翼、斬りっ!!」
瞬間、ブワッと風が吹き抜けた。それはまさしく一刀の移動が起こしたもの。
一刀が選んだのは示現流から派生した北郷流の基本の技。そして、祖父が最も得意とするそこからの繋ぎの連続技であった。
結果は――――刀を振り抜いた態勢のまま呆けている一刀を見れば、口にするまでも無いだろう。
雲耀の太刀は、かつて霞との仕合の中で氣を覚えたての一刀が力任せに彼女を破るために使っている。
単純な力で言えば、今回のそれはあの時のものには及んでいないだろう。
しかし、準備段階から含め、途中の身体動作は明らかに今回の方が早く、滑らか。
それは一刀の仮説が正しい可能性を高めると同時、より実戦的な氣の運用が可能となったことを示していた。
「…………こんなにも変わるのか……ほんと、氣って奴は奥が深い……」
未だ呆然としながらも、しみじみと呟かれたのは紛れも無く一刀の本音なのであった。
それから僅か二日後の午後には、一刀は凪と共に許昌を発つこととなった。
桂花の仕事の速さに改めて驚かされつつ、一刀の予想通り決して手抜きで無いその仕事振りに深く感謝しながら門を潜り出る。
「皆!事情あって今回の行軍速度は多少速めなものとなる!
なので、想定外の問題も発生し得る!小さなものであれ、それは必ず報告してくれ!
速さを求めつつも、部隊の態勢は万全にして行軍する!それが今回の要求だ!頼む!」
『はっ!!』
桂花によって選ばれた、鍛え上げられた魏の精兵。
彼らの頼もしい返答を聞き、一刀は満足した。これで少なくとも出だし直後に躓くようなことは無いと。
「よし!では……出陣!!」
急遽編成された部隊は一刀の号令と共に門から出ていくのであった。
場所は移り、上庸を目前にして露営を行う部隊が一つ。
その兵たちは皆髑髏を模した武具に身を包んでいる。そう、今や誰もが知る大国・魏の第二軍師、零こと司馬仲達が率いる部隊だ。
その中心となる本陣には勿論ながら零がおり、その前には一人の伝令兵の姿もあった。
上庸で目撃されたという賊の情報を得んがため派遣されていた間諜たちの情報を纏め、この地に討伐行に来た零に届けに来たところなのである。
しかし、その空気はお世辞にも良いとは言えない。
それが証拠に、直後、零の呆れ成分が多分に含まれた怒声が陣に響いた。
「はぁ?!ちょっと、それ本気で言っているの?
いくら私でもそんな情報だけで規模も居場所も分からない賊を押さえろだなんて無理に決まっているでしょう?!」
「申し訳ありません、司馬懿様。ですが、こればかりは……
我々に分かったことは、ただの賊では無いということだけです」
伝令が持って来た情報は、零でなくとも愕然とする内容だった。
曰く、地平の彼方に極小規模の騎馬集団を見つけたと思いきや、それらは即座に踵を返して逃走していく。
逃げ込む先は大概近場にある山林で、元々の距離も相まってそこで完全に撒かれてしまうのだ。
その動きはどう見ても高度に組織化された偵察部隊。
複数の逃走経路から敵本拠地の位置の割り出しをしようにも、この状況では初期の逃走経路はほぼ確実に意味が無い。
分かっているのはただ二点。
上庸付近にいること。そして、確かな鍛錬を積んでいるのであろうこと。
幸いにと言うべきか不幸にもと言うべきか、いずれ見つかった集団とも、身に着けた防具はバラバラ。
たった一つだけでもいい。決定的な情報が欲しい。
そう零が思い始めた頃、零の下に再び、しかし今度は異なる伝令がやってきた。
「司馬懿様!徐晃様がご到着されました!」
「やっと来たのね、菖蒲。
分かったわ。すぐにここまで案内なさい」
「はっ!」
やっと、とは言ってみたが、零の部隊には実質不安のあった攻撃面を担ってくれる菖蒲が到着したとて、動くべき指針の策が立てられない現状では結局足踏みすることになるのだが。
そんな忸怩たる思いを抱え、溜め息を吐いて憂いていると、菖蒲がやってきた。
「お久しぶりです、零さん。
あら?どうかされましたか?」
「久しぶり、菖蒲。えぇ、ちょっとね。
さっき伝令が来て情報を得たのだけれど、それが余りにも、ね」
再び溜め息を吐く零。
そんな彼女を見て、まず菖蒲は状況を尋ねる。
「今はどのようになっているのですか?賊の情報は?」
「隊の者にはいつでも出られるよう準備はさせているのよ。でも、策が無い。だから動けない。
賊の情報もほとんど無いも同じ。
この辺に本拠地がありそうだってことと練度が高そうってことだけよ」
「え?本拠地が分かっていないのですか?」
零の言葉を聞いて菖蒲は驚いたように声を上げた。
そう言ったはずだ、と言おうとして零は僅かな違和感を覚える。
それは意識するよりも早く口を突いて出ていた。
「菖蒲、あなた何か知っているの?」
「ええ、はい。
実は既にこちらに到着する前に私の方の部隊にも伝令が届いておりまして。
その方に依れば、本拠地だけはどうにか割り出せた、と。ただ――――」
「それは本当なのっ?!
だったら、ようやく動くことが出来るわ!っと、ごめんなさい、菖蒲。まだ話の途中だったわね」
「いえ、大丈夫ですよ。ただ、先ほどの情報には続きがありまして。
どうにも、その本拠地に西涼の騎馬部隊らしき姿が見えた――かも知れない、とのことです」
「西涼の……?そう…………」
先程のテンションとは打って変わって真剣な表情で思考に沈む零。
その姿を見て菖蒲は逆に安堵していた。
零と付き合いの長い彼女にはよく分かっている。
零がこうして思考の海に沈んだ時、それは彼女の能力が十二分に発揮されている時なのだ。
菖蒲が物音一つ立てず見守る中、零は暫しの黙考。そして。
「一先ず、部隊を進めましょう。但し、出立は明日。
それと、本拠地らしき方面に間諜の網を放るわ。
菖蒲。あなたには先鋒を務めてもらうわね。ただ、危険な匂いもするから、退くとなったらすぐに退いて。
その判断は極力私が行うけれど、戦端が開かれた後はあなたに託すわ。いいかしら?」
「はい、お任せください、零さん」
にっこりと笑みで応えた菖蒲に零も微笑をもって礼とした。
この時、一刀は部隊を引き連れ、凪と共に平原を疾駆している最中だった。
杞憂であれば万々歳。祈りか願いのようなその想いと胸に、一刀は愛馬の腹を蹴るのであった。
Tweet |
|
|
16
|
2
|
追加するフォルダを選択
遅くなりました、第百十三話の投稿です。
一刀、出立。