上庸の地において起こる戦。
それは邂逅、即開戦というわけでは無かった。
魏側は遠方より迫って来て、一定の距離を置いて一時停止、表向き沈黙。その後、微速前進。
一方で蜀側は正体を徹底的に魏側に隠しつつ、微動だにしない。
その水面下では零と徐庶、二人の軍師の知恵比べが行われていた。
やがて、魏側にリミットがやってくる。
十分な態勢を整えられぬまま、零は己が知力と菖蒲の部隊の武力を最大の武器にして討伐のため部隊を進め始めた。
前準備から開戦に至るまでの段階。それは予め入念な準備を整えていた徐庶の勝利と言えるだろう。
さて、いざ進軍、討伐の段階となって、零は後方に相当数の斥候を放っていた。勿論、前方には今まで同様に対応しつつ、である。
あらゆる事態を想定し、罠である可能性を高く見積もり、その上で進軍せねばならない状況。
ならば第一とするのは安全な退路の確保だとしたためだった。
攻勢に出ねばならないと定めてから更に二日、敵陣との距離を詰めつつこれに努める。
ただ、その間も報告は部下に纏めさせ、零自身は前方に注意のほとんどを向けていた。
いつ敵部隊が動きを見せるか分からない。それを視認するや、即座に有効な策を講じ、それを部隊全体に通達して陣形を整えさせねばならないのだ。
負担は大きいだろうとは予想しつつも、事前に十分な情報を得られなかった今となっては仕方の無いことだと割り切って考えていた。
それは己の失態として反省点に挙げ、しかし今は脇に置いておく。
いかに相手が万全の態勢を整えていようとも、どのような罠が仕掛けられていようとも、それらを瞬時に見極め、対処して見せる。
そう意気込んでいた零だが、出来る限りの態勢を整えて進軍し、遂に視界に敵軍の姿を捉えたその時、頭を支配したのは疑問符の山であった。
敵軍はまるで何らの準備も整っていない――ようにしか見えない。
まだかなりの距離があるのだが、それでも明らかに陣形らしきものの欠片も見て取れない。
どころか、一部の敵兵に至っては車座に座り込んで談笑してすらいるようだ。
そんな敵部隊が、彼方に見えたこちらに気付いてようやく慌てだしたらしい。
動きが余りにも遅い。無視し得ないほど巨大な違和感がそこに存在している。
ともあれ、まずは敵の所属を見定めようと決める。そして、それは程なく為った。
「緑を地とした武具……蜀の部隊っ……!」
最外郭を構成する兵はカモフラージュのためか、てんでばらばらな武具に身を包んでいる。が、その奥、部隊に中心部に近づくにつれ、蜀の正規兵の武具が見て取れるようになっていた。
(報告の賊は蜀の部隊だった……ということは、やはり罠――にしてはおかしいわね。
罠なのだとすれば、こちらの攻勢に応じて重い反撃を加えて来るはず……
ならば、侵略の途上だった……?その可能性も無くは無い……けれど、それにしては反撃への手際がお粗末すぎる……
でも、それなら……そ、そうよっ!将!将はっ?!)
一刀や華琳、桂花は勿論のこと、零自身も蜀の頭脳、諸葛亮と龐統の実力は認めている。
故に、蜀の武具を目にした時から、いや、それ以前からも心のどこかでは、一筋縄ではいかないことは覚悟していた。
だが、それにしてもあまりにも意図が見えてこないことに零は焦りを覚える。
(将の旗が、見当たらない……?
どういうこと?旗の一つも掲げずに侵略――なんてことは……
なら、やっぱり罠……いや、そうか!
工作活動の途中で想定外の――――いやいや、それだったらこんな近くに大軍でいるわけが……)
思考の迷路に嵌まってしまったとも言える状況の零。
そんな彼女に、しかし開戦前にも関わらず刻々と変化する戦場は追い打ちを掛けてきた。
なんと、敵部隊の騎馬隊の一部が吶喊の動きを見せてきたのだ。
その部隊は敵最前線を越え前進を開始、しかし直後、速度に乗り切る前に急停止、そして転進と短時間で激しく動いて見せた。
それは零の思考を更なる深淵へと落とし込む。
意図不明の、まるで無秩序な動きの数々。そこにどうにかして繋がった意図を見出そうと頭をフル回転させ始める。
が、天の時は彼女に一向に味方をしようとしなかった。
「司馬懿様!敵軍が妙な動きを見せております!
どういたしましょう?!」
まだまだ思考の纏まっていない今、零はどうしても冷静に返すことが出来なかった。
「ま、まままま待て!慌てるな!これは孔明の罠だ!」
誰が見ても、お前の方が慌てているだろう、と言われてしまうほどの動揺っぷり。それが逆に良い方向へと転じる。
あまりにどもった自らの声を耳にし、むしろ零は冷静になろうと努めることが出来たのだ。まさに怪我の功名である。
「ふぅ…………」
敢えて目を瞑り、大きく息を吐き出す。ゆっくりと三つ数え、心を落ち着けてから、零は静かに目を開けた。
落ち着いた状態で改めて状況を確認する。
彼我の距離はまだ十分な開きがある。しかし、以前として敵部隊の動きの意図は読めていない。
ならば、汎用性の高く、即応性も高い策複数で構成して事を進めればいいだけの話なのである。
「予定通り、鶴翼の陣を!加えて、右翼の菖蒲に伝令!
敵騎馬部隊に吶喊の可能性があるわ!それが来たなら、翼を閉じ、包囲して殲滅!決して逃さないように!
本隊各員!騎馬部隊の吶喊は受け流しでは無く正面から受け止め、動きを止めるわ!
真桜の部隊から配備された物を使えば、敵部隊の足並みは崩せるはずとのことだから、踏ん張って堪えなさい!
以後、敵軍に動きがあれば随時指示を出す!即時動けるようにして心掛けておきなさい!」
先程までの零は意気込み過ぎていた。ピンポイントで高効率な策に拘り過ぎていたのだ。
それを自覚して反省した今、零は冷静に今出来ることをこなしていこうと決めたのであった。
「こら、蒼!あんたはまた、勝手に先走って!」
「いった~~いっ!!ごめん!ごめんって、お母さんっ!!」
蜀側の本陣では馬母娘の賑やかな声(と盛大な拳骨の音)が響いていた。
その原因は先ほど零に追い打ちを掛けることになった吶喊もどきの件。
元々、馬鉄は蜀軍の側において遊撃の任を負っていた。
その馬一族の騎馬部隊、その機動力を活かして戦場を引っ掻き回して欲しいと頼まれていたのである。
その引っ掻き回し方は彼女に一任されていた。
馬騰曰く、馬鉄は自由にやらせた方がいい結果を産むことがよくあるとのことであったし、何より徐庶の手がそこまで回り切らずに遊撃の対応が遅れることになり兼ねなかったからだ。
それ故、馬鉄は予め部隊の準備を整えており、その機を伺っていた。
そして彼女が第一の機会だと判断したのは、平原の向こうに敵部隊が見えてほとんどすぐのことだった。
どうしてか、敵部隊の中央の動きが鈍く感じられた。今ならば、少ない危険で高い効果を得られるはず。
その考えからまずは一当て離脱を、と動き始めたその時、ギリギリで彼女を止めたのがその母、馬騰だったのである。
「蒼、待ちな!あんたの出番にはまだ早いだろうが!
雫の策の根幹を忘れるんじゃないよ!」
馬騰に叱咤され、馬鉄は部隊を急停止させてすごすごと戻っていくことになった。
それが零を最大まで悩ませた吶喊もどきの真相である。
蜀側から見れば失敗だったその行動が、実はかなりの効果を挙げていたことなど露知らず。
馬鉄は母に灸を据えられることとなったのであった。
「でもでも~!お姉ちゃんが私の立場だったら絶対あそこで突撃してたよ~!」
「ったく。そういうのは翠だけで十分なんだよ!
大体、さっきも言ったろうが。あそこで出るのは、確かに戦術的には間違ってはいないだろうさ。だがね、雫の策を考えれば、こっちが見た目の態勢を整え終えるまでは大胆な動きは好ましくないんだよ」
「そうですよ、蒼さん。今はまだ我慢してください。
以前にも説明しましたように、今回の策はその目的のために、こちらに不利な状態から戦を始めることになります。
ですから、如何に被害を抑えて渡り切れるかに主眼を置く、非常に厳しい策となっています。
ですが、それも蒼さんとその部隊の働きがあれば、十分に達成出来ると計算しています。
直に自由に動けるようになりますから、蒼さん、その時は存分に暴れて下さい」
「はいは~い!この蒼ちゃんに任せといて~!」
「ったく、調子のいい……
うちのがすまないね、雫」
「いえ、蒼さんを大きな戦力として考え、期待しているのは事実ですから」
馬騰が叱り、徐庶が取り成し、少々慌ただしくなっていた本陣は一時の落ち着きを取り戻した。
その間も兵達は予め下知された動きに従って陣形を組んでいく。
これが整うまでは敵部隊がどう動いて来ようとも新たな指示は出しにくいのが現状で、徐庶の策の最大の弱点でもあった。
作戦行動中の新たな命令は混乱の原因となる。
元々の作戦がシンプルなものであれば問題はそれほど無いのだが、残念なことに徐庶が予め出していた指示はかなり複雑なものだった。
ではその予めの命令を比較的単純なレベルまで落としておけばよかったのでは、と思うかもしれない。
しかし、それでは肝心の策の本命部分に影響が出てしまいかねないのだ。
被害が大きくなるのは覚悟の上。その上で蜀の未来に繋がる実利を取りに行った。
傍から見れば非情とも取れるその判断は、決して劉備が許可する類のものでは無い。一刀や華琳に叩きのめされ、意識を新たにした今の劉備であっても、である。
故に、徐庶は自らの命を文字通り劉備がために捧げる覚悟を持ってこの策に臨んでいた。
その凄絶なまでの意志を感じ取っているからこそ、他の将たちの意気込みも目を見張るものがある。
唯一、孫尚香だけがその理由を知り得ず、微妙な意識の差を感じていた。
「ねえ、おばさん。それに徐庶さん。
二人の目から見て、相手の動きってどんなものなの?」
しかし、口を開いた孫尚香からは、そこに気後れを感じている様子は見られない。
どんな状況下にあっても己をそのままに。孫尚香もまたそのような人物の一人なのだろうと思われた。
「そうだねぇ。ちょいと初動が遅かったが、その後の動きはなかなかだね。
ただ、ありゃあこっちの策を見抜いた、って感じじゃあないねぇ」
「ふむ……多少なりの初動の遅れは、恐らくこちらの初期配置と初動があちらにとって想定外だったからでしょう。
少しくらいはこれで時間稼ぎを、と思っていたのですが、予想以上に時間が稼げたのは…………もしかすると、蒼さんのおかげかも知れません」
「蒼の?それってどういうこと、雫ちゃん?」
「私の策では、こちらは初め、慌てて陣を組み始める段取りになっています。
その中で蒼さんの部隊が揃った動きで吶喊の構えを見せ、しかしそれをせずに退いて行った。
そこに何等かの意味を見出そうとしてしまうと、混乱に陥るかと思います。
あちらは一時的にその状態となったのでしょう」
「ほう、なるほどねぇ。結果的に時間が稼げたんなら、まあ良かったじゃないか」
「えっへへ~――ぁ痛っ!」
調子に乗るんじゃない、との言葉と共に、馬鉄の頭頂に馬騰の拳骨が落とされる。
確かに軍としては怪我の功名を褒めるより先走りの叱責が優先されるだけに、馬鉄も素直に非を認めて謝っていた。
「え~っと……つまり、相手の指揮官の評価は優秀までは行かなくて、良?」
少々逸れ始めた話を孫尚香が纏めてみようとする。
これに概ね同意しつつも、徐庶は注釈を加えた。
「ここまでを見るならばそうかも知れませんね。
ですが、これはこちらの策にも無かった動きも込みでの、それもかなり短い時間のことです。
これからの敵軍の動き次第では評価の上方修正は常に考えておくべきでしょう。
旗を信ずるならば、相手の将は司馬仲達と徐公明です。頭脳が司馬仲達、刃が徐公明という組み合わせは、以前から魏で戦果を挙げている組み合わせです。
決して油断はなりませんね。
星さん。徐公明の抑え役は任せようと思います」
「う~む。私としては北郷殿と一度手合わせしてみたかったのだが。
だが、徐晃殿であれば、これもまた相手にとって不足無し!
ふふ、良いでしょう。我が華麗なる槍捌き、ご覧に入れましょうぞ」
流れの会話から滑らかに次の指示に移り始める徐庶。
彼女に配置を振られた趙雲も拒否などするはずも無く。
「では星さんは左翼側へゆっくりと動き始めてください。
まだ速い部隊展開は出来ませんので、そこには気を付けてください」
「承知した」
徐庶の指示に素直に従って、指定された場所へと向かって行った。
「紫苑さん、桔梗さん。
お二人には申し訳ないのですが、孫尚香さんの護衛も兼ね、本陣に残って頂きます。
建前を守るためにも、孫尚香さんには一切の傷を負わせないよう注意をお願いします」
「はい、分かりましたわ」
「ふむ、まあ仕方ないのう」
黄忠、厳顔もまた否は言わない。
飛び道具持ちの将を二人とも最後方に配置してしまうのは通常良策とは言えないが、徐庶は今回に限りこれが最善だと結論付けていた。
前線の弓部隊の戦力低下は避けられないが、それを馬鉄の機動力で補っていく。そんな策である。
「孫尚香さん。貴女はこちらの本陣の方に。
ただ、部隊の方共々、いつでも逃走可能であるよう準備をお願いします。
ここまで抜かせはしないつもりですが、万が一ということもありますので」
「うん、分かった。頼りにしてるね、徐庶さんっ」
蜀の軍勢の中に混じる呉の一部隊は本陣に留め置く。これは初めから決まっていた、というよりも策の前提であっただけに何も問題は無い。
と、大方の将の配置を終え、残る一人に徐庶は向き直る。
「最後に、碧さんですが――」
「ちょっといいかい、雫?」
徐庶から馬騰の配置が語られようとした刹那、馬騰が待ったを掛ける。
指示を遮られた徐庶は、しかし嫌な顔一つせずに馬騰の先を促した。
「どうかしましたか?」
「いやね。もしあたいの役目ってのがそれほど重要でも無いってんなら、ちょいと今回は自由に動かせてもらおうと思ってね」
「それは…………目的を聞いても?」
「ああ。ま、そんなに深いもんでも無いんだがね。
良く聞こえる耳を持っているあんたのことだ、あたいが蜀に来た理由も何となく察しているんじゃないかい?
その目的のための観察に絶好の機会だからってのが一つ。
それと、若い連中だけで事に当たってどのくらい出来るのかに興味があるからってのが二つ目だね」
「……………………分かりました。
碧さんには星さん、蒼さん双方の後詰めになっていただこうと思っていたのですが。
代替策に切り替えておきますので碧さんはご自由になさってくださって構いません。
ただ、動き時は一報をお願いします」
「そりゃ当然だね。ま、暫くは動くつもりはないんだけどね」
淡々と話していた馬騰だったが、その瞳の奥に何かもっと深い理由が潜んでいると徐庶は直感で感じ取っていた。
故に、馬騰の奔放を認めた。
馬騰はほとんど部下も連れずに本陣を離れていく。自由に動き中でも速度と動きには注意して、徐庶の策を崩さないように気配りは怠っていなかった。
徐庶は状況の変遷に加速が掛かり始めた戦場を本陣から改めて見渡す。
「さあ……ここからが本番です……」
静かな呟きで闘志を燃やす徐庶の姿がそこにはあるのだった。
慌てた様子から脱却し、少しずつ動き始めた敵軍の様子を零は瞳を凝らして観察し続けていた。
その甲斐あって、そこに微かな違和感を覚えるに至る。
あまりにも微かで、今回のように余程注意していなければ見逃してしまうのが当たり前であるようなそれ。
そこに零はこの不可解な状況の打開の可能性を感じ取った。
(敵は慌てている……それは確かだと思えるのに、どうして陣組みがああも……
確かに、一部で組み損ねは見られる……けれど、その失態が全て容易に修正出来るというのは、少し不自然じゃない?)
いくら蜀が兵を高度に訓練しているだろうとは言え、あれほどまでに慌てた様子の中で一般兵が皆突然降ってきた指示をこうまでピタリとこなせるものだろうか。
仮に出来るのだとして、ならば何故こうも見た目の失態が多いのか。
小さな失態は数あれど、大きな失態が起きる気配も無い。
零はここで、この状況を魏の兵に置き換えて考えてみる。
想定された戦であれば、そも小さな失態ですらほとんど犯さないだろう。魏はそれを言い切れる程度には兵の鍛錬に力を入れている。
では奇襲を受けた場合はどうか。
そのような演習は実施するのも困難で、実際の対応能力は不明なところだ。
が、持てる限りの情報から推測するに、部隊によっては今の敵軍のような状況にはなるだろうとは思う。
しかし、その場合、同じであるのは大きな失態だけは犯さないだろうと言う点のみだ。小さな失態はもっと数を減らせているはず。
今の敵軍ほどの数の失態を犯す可能性の高い部隊を想定してみた場合、大きな失態は十分に起こり得るのだ。
(蜀の部隊が魏以上の精鋭である可能性は……ほぼ無いわね。
間諜からの報告では、最も訓練された部隊が関羽の部隊。そこだけを抜き出して見たとしても、兵の質が魏を遥かに上回ることは無い。
桂花は確信を持って報告を上げていたのだから、そこは間違い無いわ。
だとすれば…………)
狙いは相変わらず見えない。が、9割方罠であると考えて敵軍を見直す。
伏兵を用いない罠。ならば、部隊の動きで攪乱を企てるはず。その動きを見逃すまいと再び目を凝らし始めた。
ここで零にとって幸いだったのは、身内に火輪隊という特殊な部隊があったことだ。
あの部隊は一刀の先導の下、様々な真桜の発明品を主軸にした戦術を訓練している。
それが少数部隊でありながらも一定の条件下で数倍の敵を相手取れたり、非常に優秀な攪乱部隊として働いたりする力の源となっているのだった。
あれほどまでに特殊な部隊は蜀には無いだろうと考えていても、同等程度の警戒は怠らない。
もしもあのレベルまであるとするならば、攪乱や陽動、強攻、堅守とあらゆる作戦を執られ得るのだ。
それぞれがごく短時間で良しとするならば、少人数でさえ。
故に、零はどんなに小さな隊であろうとも、怪しく思える動きを捕捉しようとする。
更に更に、零にとって幸運であり蜀側にとって想定外の不幸であったのは、真桜特製の望遠鏡だった。
これがあることで、零は敵軍のかなり細かいところまで遠距離から見て取ることが出来るのだ。
過剰気味とも言える警戒が功を奏したか、零は敵部隊内の大多数の兵の流れとは異なる動きを見せる一隊に気付いた。
その指揮を執る者は誰か。一層集中し、零は遂にその姿を捉える。
周囲の兵とは得物も服も数段上のその人物は明らかに将の位かそれに準ずる者。
白い服、青い髪、得物は槍。遠目には大雑把にその程度しか分からないが、しかしそれで十分であった。
それは一刀が予てより警戒対象に挙げていた蜀の将の特徴に合致していたのだから。
(趙雲っ……!向かってるのは右翼……菖蒲がいると分かってのこと?
いえ、どちらでもいいわね。菖蒲で趙雲に対処出来るのなら……
待って、左翼側は……………………今のところ、向かう部隊は無し。
既に将が行ってしまった可能性もあるけれど、それならば今はどうしようもないわね)
だから、と零は脳内を整理し、すぐに伝令を飛ばした。
「右翼の菖蒲に通達!趙雲が来るわ!
先行して部隊を動かし、敵に押し込まれないように!」
「はっ!!」
指示を出す間も零は敵軍から視線を外さない。
拾える情報は全て拾い、その動きの先を、真の目的を、暴き出そうとしていた。
(趙雲の移動も遅い……将も少ない……?その割には兵数だけは多い……けれど伏兵はいない…………
およそ策らしい策が立てられていないようで、その実複雑な罠が初めから張られていたようで…………一体、何が目的なの?)
それからも零は思考の蟻地獄に絡め取られ続けていた。
両軍の先頭が激突し、戦端が開かれてすぐ、蜀側の態勢がようやく整う。
そこからの戦場は目まぐるしく動き出すことなった。
それは無駄な制約がほとんど無くなり、徐庶がその持てる力を遺憾なく発揮出来るようになったからに他ならない。
が、それは何も蜀側にばかりメリットがあるわけでは無かった。
この段になると蜀側にはもう自ら不利を招くような采配は必要無い。
逆に言えば、その不条理な行動が零の思考を千々に乱れさせていた訳で、それが無くなった頃から零の対応もまた敏なるものとなっていった。
蜀側より早く陣を組み始められたことは魏に大きな利を齎す。
組み上がり始めた蜀の陣形を見て、それが完成を見る前に零は両翼に指示を出す。
開戦から暫くは魏側有利のまま状況が推移していた。
魏はその将と兵の構成の都合上、右翼の兵よりも左翼の兵を厚くして両翼のバランスを取っていた。
それでも、左翼には将がいない。それが魏にとってのネックとなった。
開戦から暫く経った頃、戦場を吹き抜けた一陣の風が趨勢を崩しにかかる。
その風の正体は、馬鉄の騎馬部隊。
彼女は蜀の部隊最後方から自軍右翼の更に外側に回り込み、魏軍の左翼を中央に向けて突き破るべく吶喊を行ったのである。
敵軍が壁となって動きの察知に遅れた零の指示は馬鉄率いる騎馬部隊の速度に追いつけず、左翼が一時混乱状態に叩き落された。
魏にとって馬鉄が嫌らしかったのは、それ以上の戦果をその時点で求めようとせず、魏の部隊の翼が閉じる暇も与えずに蜀軍の中へと引っ込んでいってしまったことだった。
数居る蜀兵のその後方にまでまた回り込まれれば、部隊の察知は困難になる。
かと言って、そちらにばかり気を取られていては戦場全体での主導権を簡単に奪われてしまう。
幸い、吶喊後の立て直しには成功したが、魏がここまでキープしてきた利は吹っ飛んでしまい、今は五分五分と見える。
早く対応を定め、しかもそのバランスが取れていなければ、現状で既にジリ貧が見えるという状況となってしまった。
零は寸秒の悩みの末、騎馬部隊に対しては暫定策で乗り切る方向に決めた。
「吶喊対応部隊各員!隊と兵器を三つに分け、それぞれ左翼、右翼、本隊に散りなさい!
両翼に向かう部隊は兵器使用の可能性を通達!絶対に忘れないように!
また吶喊に対して指示が間に合わない可能性がある!対応部隊員は各個敵騎馬隊の動きに注意しておきなさい!」
「はっ!!」
真桜の隊から配備された兵器の効果が如何程のものか、零自身は目にしたことが無い。
しかし、ここは真桜の力と報告を信じ、騎馬隊の足止め効果に期待した。誇大報告だったら絶対に許さない、とも考えながら。
幸いにも、零のこの采配は見事に的中する。
二度目の吶喊の際、兵の自己判断で兵器が使用された。
戦場に鳴り響く大きな音。
兵器の正体はかつて真桜が連絡用兵器として開発し、後に攪乱用にも用いられるようになった兵器『花火』。
普段これほどまで大きな音を聞きなれていない馬たちは、これに驚き、恐怖を覚え、その足が鈍ってしまう。
騎馬部隊の速度は攻撃力そのもの。これが低下したことで、魏軍の兵は対処が可能になった。
加え、零の指示到達までの時間稼ぎにもなり、魏にとって一石二鳥の効果となる。
これを機に、その後の吶喊もほぼ混乱無く対応可能となっていた。
この局所的な動きのみならず、戦場全体は常に動き続けている。
零が、徐庶が、互いの部隊の両翼を巧みに動かし、優位な位置取りを試みる。
菖蒲が、趙雲が、互いに相手を敵軍の武の核と見て、これを破ろうと奮起する。
互いに戦場に出ている者たちの力が拮抗し、戦場は膠着状態に陥ろうとしていた。
そんな折、魏の本陣に一人の兵が飛び込んでくる。
それは零が後方の安全確保のために放っていた斥候であった。
息せき切ったまま報告する様子だけでも、事は大事だと分かる。が、その上――――
それはこの戦に対する魏軍の皆の意識を一新させるような情報なのであった。
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第百十五話の投稿です。
いざ、開戦。