真恋姫無双 幻夢伝 第六章 1話 『戦鐘の唄』
春を迎えた汝南の状況は刻々と悪化していた。もたらされる報告に記された不吉な予兆に、詠は苦々しい表情を浮かべる。執務室の空気は冷たく重い。
「やっぱり孫権と劉備は同盟を組んだそうね」
「確証が得られたのですか?」
「ええ」
暗い表情の音々音にそう答えると、詠はふう、とため息をついた。彼女が机に投げ出した報告書には『劉備・孫権陣営に複数回の使者の往来有り。さらに北郷一刀と諸葛亮が呉に向かったことも確認』と記載されている。十分な証拠だ。
さらに悪い知らせは続く。凪が執務室に飛び込んできた。
「報告!華雄さまからです!」
「読みなさい」
「はっ!長江南岸に孫権軍結集の動き有り。さらに江夏にも劉備軍が集まりつつあるとのことです!」
「動きが速いのです!」
音々音が椅子から飛び上がる。詠はすぐに状況を分析し始めた。
「だけど、これだけ急速に軍備を整えているとなると、その兵数は限られるわ。孫軍主力のみと考えると、その数は2万ね。ねね、劉備軍はどうかしら」
「そちらの方が集められる数は少ないですね。曹操領と隣接している荊州北部の守りは解けませんし、最近では蜀に攻め入る動きがありますから、主力は西部に移動しているはずです。おそらく1万もいませんぞ」
「合わせて3万か、多くて4万。でも、こちらも田植えの時期だから、無理な徴兵は出来ないし……。凪、こちらはどのくらい集められる?」
「おそらく5千程度。それ以上は民の生活に差し障りが出ます」
「そうよね……」
4万と5千。籠城するにしても不利な戦いだ。さらに主戦場が長江になる以上、強力な水軍を持つ呉が主導権を握る。同等数の兵力がいても、厳しい戦いだ。
「さあて、どうするかね」
「アキラ!」
ふらりと部屋に入ってきたアキラに、一同が驚く。彼はのんびりした足取りで自分の席に座ると、こう続けた。
「こうなっていたことは分かっていたはずだろう。その時期が早かっただけだ。そんなに驚く事か?」
「何、のんきなことを言っているのよ!ボクたちが大変な状況であること分かっているの?!」
怒鳴り散らす詠に対して、彼は不敵な笑みを浮かべた。
「……何か策があるの?」
「悪いことは続かないさ。次に良いことが待っている。そういうものさ」
その時、部屋に恋が入ってきた。彼女もいつもと変わらない飄々とした態度のままだ。
「アキラ……来た…」
「おう、分かった」
さてと、と言って彼は立ち上がると、この部屋にいる者たちに号令をかけた。
「さあ!良い知らせを迎えに行くぞ!」
汝南の校外、アキラたちは小高い丘の上に簡単な陣を築いて彼らを待った。しばらくすると遠くから黒い筋が近づいて来た。
「こ、これは!」
延々と続く黒い筋。全て兵士の群れだ。その数の多さに、凪は驚きを隠せない。彼女にとって初めての光景だ。
やがてその先頭がこの丘に差しかかり、その内の数名がこちらに上ってきた。
「ようこそ、汝南へ」
「久しぶりね、アキラ」
春蘭と秋蘭、そして桂花を従えた華琳が、ニコリと笑いかけた。詠が納得したという表情を見せる。
「確かに、これは良い知らせね」
「ああ」
(それにしても、良く許してくれたこと)
心の内で感心する詠をよそに、アキラは華琳に近づいて感謝の言葉を伝える。
「華琳が直々に率いてくるとは思わなかった。援軍、感謝する」
「官渡で大きな借りを作ったからね。そのお返しよ。ただし……」
華琳はかかとの固い靴を大きく上げると、思いっきりアキラの足の甲を踏みつぶした。
「うぐっ!」
「まだ許したわけじゃないのよ」
悶絶してうずくまるアキラを見て、彼女は満面の笑みを浮かべる。彼女の後ろにいた秋蘭はため息をつき、春蘭と桂花は(当然だ)というように、フンと鼻を鳴らした。
華琳はつかつかと歩いて移動し、丘の南側を眺める。この向こうに長江、そして孫権の領土がある。
「それに、ただあなたたちを助けに来たわけじゃないの。私はもっと欲深いわ」
彼女は大きく宣言する。
「さあ!長江の龍を狩りに行くわよ!」
曹操軍到着の噂は、瞬く間に江南全土に広がった。その数は誇張されて伝わることもあったが、孫権軍は正確な情報を得ている。
「先発隊だけで5万。総勢20万か」
冥琳はそれを聞いても表情を変えない。曹操軍の援軍が来ることは織り込み済みであり、その数も予想していた通りだ。
ただし、まさか曹操自身が出陣して来るとは思わなかった。彼女がただの援軍で来るはずがない。その事実は、呉の征服を行うことを意味している。朝日に照らされた彼女の横顔が、かすかに曇った。
「面白くなりそうじゃのう、冥琳」
「祭殿か」
笑みを浮かべて部屋に入ってきた呉随一の猛将に、冥琳は苦笑いを浮かべた。
「今の呉でそんなに強気なのはあなたぐらいでしょう」
「なんじゃ、お主もおじけておるのか。呉の大督(前線総司令)が聞いてあきれるわい」
「私は冷静なだけです」
20万という軍勢は、人口が少ない江南では経験のない話だ。冥琳も汝南の討伐や董卓討伐軍で見たことがあるくらいだ。今度はそれを相手にしなければならない。国中に恐慌が走っているのは当たり前である。そして降伏も議論されたことがあったが、それは冥琳たちが心配するまでも無く消え去った。雪蓮を暗殺した敵に、降伏することはありえない。結局、怒りが恐怖に勝ったのだ。
祭はまだ笑みを浮かべながら、腕を組んで彼女に質問する。
「作戦はどうする?」
「水際で食い止めるしかありません。陸ではまず勝てませんから。幸いにも今の季節は南東の風が吹いていますので、水軍なら優勢に戦えるでしょう」
「おいおい、せっかく敵の君主が2人も揃っておるのじゃぞ?まとめてつぶす好機ではないか」
「……あなたは少々楽観的すぎます」
冥琳の指摘に、祭は高笑いを発する。その時、穏が部屋に訪れた。
「お話し中、申し訳ありません。冥琳さま、蓮華さまがお呼びですぅ」
「分かった。今行く」
部屋を出て行こうとする冥琳に、祭はずけりと指摘した。
「『策殿がおればなぁ』と思っておるのではないだろうな」
冥琳の足が止まる。こんな時に雪蓮がいてくれたら。ついついそう考えてしまう。
彼女は祭の方を向くと、こう言い返す。
「それはあなたもではありませんか」
「……まあのう」
だが、と祭は言い続ける。
「策殿はもういない」
「ええ、だから我々が呉を守るしかない」
「命に代えても、じゃな」
そう述べた祭は部屋を出て行った。そして振り返ることなく、背中を向けたまま手を振る。
「作戦は任せたぞ。大督殿」
「はい」
そう返事をした冥琳は、祭とは反対の方向へと歩いていく。
カツカツと廊下を歩く二人の影。彼らの頭の中で、孫家代々の戦鐘の音が鳴り響いた。
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