『呉の大都督』編
さて、次は『呉の大都督の世界』について考察してみよう。
北郷一刀が呉陣営に所属し、文官として大成した世界である。
この世界に関する資料は、全てが偽りであると言われている。
理由はとても多いが、最たるものは北郷一刀が呉陣営に所属していた場合、赤壁の戦いにおいて魏は敗退し、大陸からその存在が消え失せることだ。
多くの資料から、後に『晋』の皇帝になる司馬懿が曹操の下にいたことは間違いない。だが北郷一刀が呉陣営に所属していた場合、司馬懿も赤壁の戦いに参加し、曹操同様戦死(未確認)していた可能性が高い。
もっとも、曹操は赤壁の戦いに大敗した後、東の海の向こう(当時の国名は倭、現在の日本)に落ち延びたとする資料もあるため、司馬懿が生き延びていた可能性もある。
それでも以降数年の歴史に魏陣営の人間がいないことで、多くの資料を否定することにつながってしまうため、北郷一刀が呉陣営に所属している可能性は極めて低いと言われているのだ。
だが北郷一刀が呉陣営に所属して生み出したとされる技術は多い。
その一つには既に伝説にもなっている世界最初の長距離通信技術『狼煙』である。
周王朝時代にも『狼煙』があったとする文献もあるのだが、北郷一刀が『狼煙』提案して周瑜の度肝を抜いたという資料もあるため、周王朝の文献は後の人間の作った童話であったと考えられている。
ではこの世界における北郷一刀はどのような人生を歩んだのか?その足跡を簡易に書き出そうと思う。
北郷一刀、出身地など一切不明
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記録は残っていないが、おそらく孫策が袁術の客将であったころに士官
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黄巾党本拠地の攻略作戦を立案。呉軍を勝利に導く
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汜水関・虎牢関攻略において、袁術の手勢を削る作戦を立案。虎牢関一番乗りを呉軍に齎し、兵を旅人に扮装させて風評を操る策で孫策の武功を大陸に広く広めるなど、情報戦で後の呉の基盤を作る
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主君、孫策と共に私用で外出しているところを曹操の部下により、北郷一刀は目の前で主君を暗殺される。この時の戦闘に関する記録はほとんど残っていないが、撤退する魏軍を呉軍は鬼神のごとく追撃、魏軍に多大な損害を与えた。おそらくこの時北郷一刀も最前線で戦っていたと推察される
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呂布の呉侵攻の際、文官から軍師に昇格。建業の援軍に向かう際、孫権の隣で周瑜の愛弟子である陸遜まで使って指揮を執る
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蜀の領地侵攻の際、諸葛亮の大水計に気付き、損害を最小に留める
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魏の南征を受け、当時戦闘中だった蜀の本営に自ら向かい同盟を結ぶ
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赤壁の戦いにおいて、病に侵されていた周瑜に代わり、実質的な次期大都督として呉軍の指揮の大部分を執る。なお、赤壁の戦いで有名な『苦肉の策』を実行段階で看破したのは策の実行者である周瑜、黄蓋を除くと陸遜、諸葛亮、そして北郷一刀のみであった
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劉蜀、孫呉による『天下二分の計』が成立する
この略歴で気付くことはないだろうか?
『呉の大都督の世界』では一つの戦場を除いて、細部に至るまで膨大な資料が現在まで残っているのだ。
これは後述する『蜀の賢王の世界』を超える質と量だ。『魏の警備隊隊長の世界』のようにぼやけた記録はほとんどない。
『呉の大都督の世界』を除くと、黄巾の乱における彼の活躍の記録はほとんどないことからも、それは容易にわかっていただけることだろう。
誰かが記録していたのだ。それも呉の成立前の初期幹部の誰かが。黄巾の乱の彼の活躍を事細かに。
この時代、戦闘に関する記録は双方の規模、戦闘のあった場所、被害や戦果と兵や将の個々人の報告書という形で記録されるものであった。
しかし、それらの記録の多くは失われている。これは別に保管方法や時代の変遷のせいではない。
当時は木簡や竹簡を使って記録を残していた。紙は高級品であったため、あまり使用されていない。
私がなぜ今このタイミングで木簡や竹簡、紙の話をしているのかと読者の皆様は思うことだろう。
理由は簡単だ。単純に木簡や竹簡は紙よりもずっと場所をとるのだ。当然だが倉庫の許容量にも限界がある。
ではどうするのか?数年で倉庫は一杯になってしまう。当時は保管年数を決めていたのだ。多くの資料は十年以上保管されない。後の世に残すべきと考えられる資料のみ、百年後も千年後も残るように保管されていく。
つまり黄巾党の乱風情の戦闘記録など、特に細々とした戦闘一つ一つの記録など残っている訳がないのだ。現に他の勢力の記録はほとんどない。
私はここである仮説を立てる。
北郷一刀の才覚に早くから気付き、それを後の世代に残そうとした者がいたのではないか?
それは誰か?その疑問には私の出せる答えは一つしかない。
孫呉の偉才、大都督周瑜。
赤壁の戦いの苦肉の策の一端を担い、孫呉の勝利を見届けながら病で息を引き取った偉才として有名である。
かの偉才ならそのくらいやってのけるだろう。むしろそう考えると納得のいく点が多いのだ。
まず北郷一刀の活躍の記録として、内政や情報統制などの内部でしか知り得ないような裏側の活動が記録として残っているのだ。
そして、赤壁の戦い以前と以後で記録者が変わっているようなのだ。筆跡や言い回しなどからしても、別人が書いたものと現在では考えられている。
考えられる人物は、北郷一刀の腹心の部下、呂蒙。
呂蒙は元々武官であったところを軍師としてスカウトされてきた人物だ。その詳しい経緯は不明だが、北郷一刀がいなかった場合、次期大都督は呂蒙だった。現に他の世界の周瑜の後継者は呂蒙だ。
赤壁の戦い以前の記録を周瑜、それ以降を呂蒙が記録したとするととても分かりやすい。
さて、話を元に戻そう。
黄巾党の乱で小さいながらも少しずつ戦果を齎した北郷一刀は、反董卓連合においても才能を発揮し、虎牢関の一番乗りを孫呉に齎した。しかし、彼はそれだけでこの戦いを終わらせなかったのだ。
当時としては最速となる風評操作、兵を旅人に扮させて孫呉の戦いぶりを各地の主要都市に喧伝させたのだ。あくまで彼らには旅人として嘘偽りのない噂を流すように徹底して。
これは実に効果的な策だった。
結果として袁術は反董卓連合で何もしていない無能と民に噂され、後の孫呉復興の際に役立つ大きな布石となった。
反董卓連合の戦いでの彼の策はそれだけではない。袁術の戦力を削らなければ、孫呉の復興の大きな妨げとなってしまう。だから彼は、袁紹・曹操戦っている前線へ自軍を突入させ、わざと前線を攪乱、敗走しているように見せかけて董卓軍を袁術の陣にまで引っ張っていくなどという大胆な、それでいて緻密な計画を立て、成功させたのだ。
おそらくはこの時、周瑜は彼を己の後継者として考え始めたのではないだろうかと推察できる。現にこの時のことを、周瑜の愛弟子、陸遜は己の生涯を書き綴った書にこう書き記している。
「舞台に踊るは無様な役者。愚かな笛吹きは舞台に上がらず、笛吹き観に徹し座する。師曰く、『笛吹き座らば二度と舞台に上がらず。』されど天曰く、『笛吹き座るもまた舞台。役者を供にいざ踊らん。』天の言、師も主も一同驚愕せり。」
拙い和訳であるが、役者とは戦闘中の部隊(主に袁紹)のことを、笛吹きとは袁術のことを、舞台とは戦場のことを指している。『笛吹き観に徹し座する』とはすなわち、『虎牢関の戦いは袁術の掌の上であり、自分は傷付かず甘い蜜をすする位置にいる』と言っている。
これに師である周瑜は『袁術のように無傷で甘い蜜をすする位置にいる者は前に出てこない。』と言い、袁術に打つ手なしと頭を悩ませていることが窺える。
対して天、すなわち北郷一刀は『袁術のいるところも戦場である。(敵の)兵を引っ張って行って戦わせればいい。』と言っている。陸遜の記述によれば、この発言に周瑜も、この時の主君孫策も驚愕したということだ。かの巨人たちをも驚かせる彼の才覚は末恐ろしいものだったに違いない。
詳細は先程書いた通りである。結果、袁術は碌な迎撃準備もできないまま董卓軍の攻撃を受け、甚大な被害を被ったのだ。
この策の優秀さは、後の時代にも幾度か形を変えて出現していることからも明らかである。
反董卓連合の後、北郷一刀は裏方に回り、孫呉の復興のために暗躍していたようだ。
しかし孫呉復興が一段落したところで悲劇が起こる。
曹操の南征とそれに伴う曹操の部下による孫策暗殺である。
曹操の部下と言っても、実質的には孫策に制圧された地方豪族の部下だった者達が、功を焦って勝手に暗殺を実行したものらしい。
当時、私用で部下も連れずにいた孫策と北郷一刀。彼らの間でどのような会話が成され、どのような目的で外出していたのかはわからない。これは日本でいうところの本能寺の変に似ている。
おそらく、敵部隊に待ち伏せされた孫策たちは武を振るって迎撃するも、孫策は毒矢を受けてしまったのではないかと思われる。
通常、この場合なら北郷一刀は主君を守れなかった無能な家臣というレッテルを張られたはずなのだが、そのような記録は一切ない。もみ消しにしても完璧すぎる。
彼の名前に傷がついていない事実から、待ち伏せの部隊がよほどの大部隊だったのではないかと推測できる。つまり、責めるに責められないほどの状況だったとすれば説明がつくのだ。
そこから先の記録はほとんどない。ただ、曹操は孫策暗殺の事実を知るや、実行に加担した者すべての首を刎ね、呉に弔問の使者を出して撤退したという事実と、呉が鬼神のごとく怒りの追撃戦を行ったことだけがわかっている。この時の両軍の被害は不明である。
孫策死後、呉領地内で次々に豪族たちが蜂起した。この時、劉備から同盟の一方的な破棄が言い渡されている。理由として、『同盟はあくまで孫策と結んだものであり、孫権と結んだものではない』という主張であるが、つまりは『孫権は信用できない』という外交的に見れば絶縁状に等しいものであり、人の上に立つ人間として不相応な判断であったと後の歴史家たちからは酷評されている。
この後すぐに呂布が攻め入ってくる。この時北郷一刀はようやく軍師に昇格し、初めての行軍指揮であったにもかかわらず、最速で建業まで自軍を進めている。
北郷一刀が『呉の大都督の世界』で最も活躍するのは呂布を撃退した後からである。
呉から撤退した呂布は劉備の下に降った。孫呉はあくまで外交手段のみを用いて呂布の身柄引き渡しを要求していたわけだが、なんと劉備は孫呉側の使者の服を剥ぎ取り、髪を剃って放り出したのだ。これに激怒した孫権は劉備に宣戦布告した。
劉備との戦闘は大都督周瑜を連れていたものの、実質的には北郷一刀が筆頭軍師として孫権の補佐についていたものと考えられる。劉蜀側の大水計に気付き、全軍の足を速めたという事実もそれだけの権限が与えられていた証左である。
孫呉と劉蜀の戦闘は一時膠着状態に陥るも、曹操の両軍への侵攻の報せを受ける。
この時の北郷一刀の判断は素早かったようだ。周瑜の供として劉備軍本陣へたった二人で出向き、北郷一刀は劉備に『天下二分の計』を説いたのだ。
たった今しがた、つい先程まで戦闘中だった敵軍と曹操撃退のために同盟を締結してきた。この素早さには流石の孫呉の将たちも舌を巻いた。
さて、遂に赤壁の戦いである。
既に略歴で軽く触れたことであるが、赤壁の戦いで曹操軍にそのまま立ち向かっても敗北が見えていた周瑜と黄蓋は、苦肉の策で黄蓋を曹操の下へ投降させることに成功した。
資料によると、赤壁の戦いの布石となった連環の計は、どうも陸遜か呂蒙、あるいは北郷一刀の手によるものではないかという疑惑の声が専門家たちの間で上がっている。周瑜によるものだと多くの資料では記録されているのだが、そもそもこの頃周瑜は重い病を患っており、とてもそこまでの時間が取れたとは思えないのだ。
残念ながら、真実を追求する術は既になく、この疑惑は疑惑のまま闇に葬られるのだろう。
それはさておき、赤壁の戦いの後の資料が、『呉の大都督の世界』が偽史であると言われている所以なのである。
赤壁の戦いの後、魏の領地を二分割した蜀と呉はそれぞれの土地を守っていたわけだが、この後に関する資料がないのだ。まるで打ち切りとなった連載漫画のように。
『呉の大都督の世界』の資料は『天下二分の計』が成って数年間何もなかった、というところまでしか資料がない。
理解できるだろうか?ここまで正確に記録を残してきた呉が、その後の歴史に関して極めて重大な時代の記録を消失させているのだ。
たとえ何者かが歴史の抹消を試みたとしても、いや改竄程度であったとしても、それがいつの時代のどこの誰であろうとも、それこそ北郷一刀であったとしても、そんなことは絶対に不可能なのだ。そもそも資料どころか口伝ですらも、ここから先の歴史に関する伝承がない。ここまでの歴史の抹消はいくらなんでもおかしいし、できるわけがないと断言できる。
『呉の大都督の世界』が偽史である。これは別にかまわない。そのくらい、世界中でよくあることである。
だがそれでも、誰かが適当にこの先の歴史をでっち上げて、適当な伝承を残したとしてもおかしくないにもかかわらず、それすらもない。本当に、まるでここから先の歴史がないかのように、何の手がかりもないのはおかしいのだ。
ここで私は一つの可能性に思い当たった。恐ろしく古すぎて、専門家でもごく少数しか知らない異端思想だ。
世界終幕思想≪サイレントクロックソート≫
この言葉が一体何を指すのか、読者の皆様にはわからないことだと思う。なぜなら、これは紀元前250年頃に、異端思想家アルサントセレスが唱えた思想だからだ。
アルサントセレスの資料自体ほとんど残っていない。そもそも、少数でも残っていることの方が驚愕に値するのだが、今回はアルサントセレスのことは割愛させていただこう。資料が少ないために、当時の理論と現代に伝わっている理論は違うかもしれないが、現代の理論として簡単に説明しよう。
『この世は我々も気付かないうちに静かに何度も時の歩みを止めている。そして時はいずれ動き出さなくなる。いずれ時の歩みを望むものがいなくなってしまうからだ。動かなくなった時は凍結されて二度と動かない。』
かつて私はこの思想を「くだらない」の一言で片づけた。だがこの思想は『呉の大都督の世界』の説明には通用するのだ。
『天下二分の計』を成し遂げ、何事もなく平穏に暮らしていた彼らが時の歩みを望んでいなかったのではないか?
私も理論が飛躍しすぎだと思う。
だがなんと言っても、『呉の大都督の世界』の歴史は『天下二分の計』成立後数年で終了している。時の歩みを止めているのだ。
『我々がいる世界』の『正しい歴史』では三国時代の最後に『晋』という国家ができて、司馬懿が初代皇帝になったところからしか、確定情報として認められていない。
資料不足もさることながら、『呉の大都督の世界』はやはり『司馬懿が晋の皇帝になった世界』に辿り着けないのだ。
『天下二分の計』で大陸が安定したなら、今更新しく国家を築く必要などあるわけがないのだから。
『呉の大都督の世界』が存在した可能性として、私の理論はいささか力不足であるが、一考にも値しないほどではないと信じたい。
なぜならここまで後の世代に資料を遺そうとした多くの先人たちの想いが、歴史の闇にただ放り込まれてしまうのはあまりに惜しいからだ。
あとがき
どもども~心は永遠の中学二年生です。
今回は呉√でした!
今回遅くなってマジですいません!!!!
m(____)m
お分かりかとは思われますが、今回歴史には存在しないオリジナル人物にオリジナル理論を展開してもらっちゃいました^^;
お、怒らないでください(涙)
天文学者、アリスタルコスのいる時代に合わせてみました。
『この世は我々も気付かないうちに静かに何度も時の歩みを止めている。そして時は、いずれ動き出さなくなる。いずれ時の歩みを望むものがいなくなってしまうからだ。動かなくなった時は凍結されて二度と動かない。』
恋姫の思想で解説すると、正史の人間が外史を望まなくなると外史は終わる、っぽく仕上げてみました!
これを引用した架空の著者さんはそんなことは一切考えていませんよ?
あ、漢文の和訳もどき、どうでしたか?
「あの時の出来事を漢文にして残して和訳したら多分こんな感じ・・・?」と考えて書いてみました!
うん、漢文が一番疲れた・・・
さて、次はいつの投稿となることやら・・・
次は蜀√です!
お楽しみに!・・・なってほしいな~・・・
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どうも!続き投稿です!
か、書けた・・・!
本当に遅くなってしまいました!ごめんなさい!!!!
今回は相当難産でした・・・
だって呉√いろいろであんまり好きじゃ・・・ゲフンッゲフンッ!!
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