No.760248

真・恋姫†無双~外史書~

どうも!続き投稿です!
1月中に投稿するつもりだったのにごめんなさい!
本っ当に遅くなってしまいました!!m(__)m
蜀√だけど、どう考えても一刀はAIR…どうしよう?
よし!功績の水増しだ!記録の紛失とかで何とかなるだろ!!←ウォイィ!?

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2015-02-23 03:43:37 投稿 / 全18ページ    総閲覧数:2868   閲覧ユーザー数:2456

『蜀の賢王』編

 

 さて、最後は『蜀の賢王の世界』について考察してみよう。

 

 北郷一刀が蜀陣営に所属し、劉備と共に王として大陸をまとめた世界である。

 

 この世界は、もっとも史実に近いとされている。

 

 理由は極めて簡単である。『蜀の賢王の世界』の場合、三国は全て存続し、各国首脳は存命であり、北郷一刀は三国をまとめた象徴になる。三国時代の各国の資料に北郷一刀を称える記述があることに整合性が取れるのだ。

 

 しかし私個人から言わせていただくと、この世界もどうもおかしい。それは『蜀の賢王の世界』の根幹の部分にかかわる『ある事実』によるところなのだ。

 

 『蜀の君主は劉備と北郷一刀の二人である』

 

 皆さんも世界史などで聞いたことはないだろうか?

 

 「かつてローマの三頭政治は、その一角が崩れたことにより、残り二頭の熾烈な争いが勃発して崩れ去った。」

 

 お分かりいただけただろうか?

 

 一応蜀において、最高権力者は北郷一刀ということになっているが、それでも二頭政治なのだ。どう考えても壊れやすい政治体系である。

 

 たとえば有事の際、二人の君主が真逆の命令を下すこともありえる。こうなると、まともな行動が出来なくなってしまう。いかに人材の集まった優秀な組織でも、それぞれが真逆の行動をして足を引っ張り合えば、効率はほぼ0と言ってしまえるのだ。

 

 そもそもなぜ二人も君主がいるのか?それを紐解くためにも私はまた、この世界の北郷一刀の略歴を書き出そうと思う。

 

 

北郷一刀、出身地など一切不明

記録は残っていないが、劉備らと桃園の誓いを行っていることから、劉備らが各地で賊の討伐を行っている過程のどこかから行動を共にしていた。この過程のどこかで桃園の誓いを行い、劉備、関羽、張飛と義兄弟の契りを交わしている

幽州の公孫賛の客将となり、その後公孫賛の協力の下、義勇軍として独立

黄巾の乱の功により、平原の牧になる。朝廷から指名されたのは劉備だが、劉備らの主である北郷一刀が実質的な太守である

反董卓連合に参加。劉備軍が汜水関の先鋒を務め、汜水関を攻略。この汜水関攻略の作戦は北郷一刀と諸葛亮が練ったものだとされている

虎牢関で飛将軍、呂布と交戦。関羽、張飛、趙雲と共に4人がかりで辛うじて呂布を退けた

反董卓連合の功績で徐州の州牧となる

袁術・呂布連合の侵攻を撃退。このとき呂布を北郷一刀自ら説得し、配下にしたという

曹操軍の侵攻に対し、益州に逃走。長坂橋で呂布、張飛、陳宮らと共に殿を務め、曹操軍を撃退する

益州を平定し、国号を蜀に定め、仁徳王劉備、賢王北郷一刀として三大勢力の一角に並ぶ

南蛮を平定する

魏と呉の全面戦争の報を受け、北郷一刀は単身呉に赴き蜀呉同盟を締結する

赤壁の戦いで勝利する

蜀呉同盟と魏の最終決戦の際、五胡の大軍による侵攻の報を受け、『天下三分の計』を説き、素早く三国で同盟を締結。五胡の大軍を撃退する。

 

 

 少し長めになってしまったが、それだけこの世界の変遷が激しかったということだ。

 

 さて、北郷たちの辿った道程だが、平原の牧になるまでの記録はほとんどない。

 

 これは正規軍ではなく義勇軍であったため、仕方がないことだろう。従って、そこまでの行程の考察は憶測以外手段が無いため、平原統治時代から彼らの足跡をたどり始める。

 

 平原は彼らが赴任するまでの間、『そこまで悪くない』程度の治安状態だったという。

 

 北郷一刀が平原を統治し始めてから、劇的とまでは言わずとも、堅実にかつ着実に治安改善に取り組んでいた。

 

 しかし、北郷一刀の平原統治時代に一つ、当時としては実に奇妙な、現代では実に当たり前なことが徹底して行われていた。

 

 『汲み上げた井戸水は、必ず一度火にかけて沸騰させてから使用すべし』

 

 そう、煮沸消毒である。水の中の細菌を消毒する技術だ。

 

 現代でこそ広く知られた技術であるが、当時としては誰の理解も得られず、やむを得ず規則として縛ったのだ。

 

 反感を持つものも少なくなかったが、北郷一刀自身が長老たちとの会談に赴き、説得したという。この出来事は有名な『三国志演義』にも書かれている。

 

 『長老たちの長々しい遠回しな拒絶にうんざりした北郷一刀は懐から二つの小瓶を取り出して机に置いた。「話を要約すると、汲み上げた井戸水が透き通っているから汚れているはずがない、ということに集約されるわけだな?ではこの小瓶を見よ、この二つ、清く透き通って見えるが、片方は水、もう片方は猛毒だ。これが見分けられるもののみ反論を述べよ。」この言葉に村々の有力者たちは沈黙した。』

 (○×出版、丸場 通 著『三国志演義』より抜粋)

 

 恐るべきことに、衛生の概念すらないこの時代に、既に水質について考えていたのだ。

 

 

 北郷一刀が細菌についてどこまで認識していたのかはわからない。ただ、この時代の人々にその概念は早すぎたのだろう。

 

 結果的に北郷一刀は、説明による理解と納得という最良の結末を、切り捨てざるを得なかったという事実のみが残っている。

 

 先の引用からも伝わることだが、「理解できないなら仕方がない。ならば理解できなくとも従え。決して悪いようにはしない。」という、北郷一刀に関する記録の中では実に珍しい暴言の記録がこれである。

 

 余談であるが、平原はその後曹操が占領することになる。占領当初、曹操にはこの煮沸消毒の意味がわからず、村人に聞いてもわからなかったため、すぐにこの決まりを取り止めてしまったのだが、その僅か数か月後、謎の疫病が平原全土に蔓延した。原因は当然水である。不衛生な水の接種が原因の疫病は少なくない上、当時の症状の記録がないため、何の病だったのかは今日まで解明されていない。しかし、その報せを受けた北郷一刀は、当時はまだ敵国の主である曹操に対して煮沸消毒の必要性を説いた文を送り、疫病に被害を最低限に抑えたという逸話がある。

 

 平原には他にもさまざまな意図不明な試みや、機材、建築物などがあったということだが、それらに関する記録は残っていない。

 

 これらのことから考えて、北郷一刀は平原で壮大な実験を行っていたのではないかと思われる。

 

 これはあくまで憶測だが、北郷一刀は幽州で公孫賛の客将をしているとき、その政治や治安を裏から学んでいたのではないだろうか?そして幽州で学んだことから、自身の案がどこまで通用し、どこまで理解されるかを平原で実験、その後蜀の建国時には洗練されたそれらが大陸の三大勢力たる強固な基盤として機能していたと考えられる。

 

 こう考えれば、後の時代の発展に大いに貢献してきた『北郷の書』にも納得がいく。

 

 『北郷の書』は現代でも解明できていない技術や知識が詰め込まれたオーバーテクノロジーの塊だ。歴史の名だたる偉人から「人類には早すぎた」とまで評価されている。

 

 

 話を戻そう。この後彼らを待っていたのは、この時代最大の転機、反董卓連合である。

 

 結成時にどれだけの人間がわかっていたのかはわからないが、反董卓連合は実質的にただの政争であり、どう控えめに見ても名前だけを美化した反乱軍である。

 

 反董卓連合を北郷一刀はどう思っていたのか?

 

 『北郷の書』の数少ない自身に関する記載の中に『それ』はあった。

 

 『我が生涯の最大の汚点。其は反董卓連合の参加なり。忌むべき過去。過去に戻る手段あらば、例え其が破滅の道であろうとも、我は突き進むであろう。かの献帝の苦渋の決断、推して量るべし。』

 

 何度も言うが、『北郷の書』は総数数万からなる『知識・技術書』である。数万もの書簡でありながら、北郷一刀自身に関する記載は僅か十数行。その僅か十数行の最も長い文章がこの一文である。北郷一刀は反董卓連合を嫌悪していたのだ。

 

 実際、当時の北郷一刀の立場で考えてみれば、胸糞の悪い政争だったことだろう。

 

 黄巾党の乱が終わり、ようやく最低限の平穏が訪れたというのに、それを打ちこわし、乱世に持ち込もうとする政争、それが反董卓連合である。

 

 群雄割拠の時代を北郷一刀は予見していただろうが、それでも胸糞が悪かったはずだ。

 

 反董卓連合の結成理由にしても、北郷一刀は納得していなかっただろう。現代まで残っている雍州州牧時代の董卓の記録からは、手堅く確実な善政を敷く善き為政者という印象を受ける。にもかかわらず、反董卓連合は「洛陽から情報が流れてこない上に碌でもない噂が流れている」から結成されたのだ。董卓という人間を調べなかったはずがないにもかかわらずだ。しかも「権力で豹変した」と言えば説明は付けられてしまうから性質が悪い。

 

 罪なきものを生贄に捧げる行為を、北郷一刀は気付いていながら参加したのだろうか?

 

 おそらくその答えこそが、この一文であるのではないかと私は考える。

 

 

 『我が生涯の最大の汚点。』

 

 北郷一刀の背負った重すぎる十字架だったのだろう。

 

 彼らは汜水関、虎牢関という当時大陸最強の関を突破して洛陽に辿り着いた。

 

 その時北郷一刀の瞳に、洛陽の姿はどのように映ったのだろうか?

 

 この時の洛陽がどのような姿をしていたか、という記録はない。

 

 董卓が暴政を働いていたはずの洛陽の惨状が記録に残っていない。

 

 ただこれだけで、反董卓連合が張りぼてであった証明になる。

 

 なぜなら諸侯にとって洛陽の惨状とは、「これほど酷いところを私は救った!」と言うだけでその人物は英雄になれる、自身を輝かせる最高の装飾品だったからだ。

 

 だが、事実でなければこれは使えない。

 

 洛陽は董卓側の情報統制で外の情報が出ない状態だったのだ。

 

 つまり董卓がいなくなった途端、洛陽の情報は大陸中に広まってしまう。

 

 連合解散後、袁紹が公孫賛を攻めた理由として最有力視されているのがこれである。

 

 反董卓連合の発起人である袁紹、暴政の敷かれていなかった洛陽、これだけで袁紹の立場は窮地に立たされる。

 

 そんな理由で滅ぼされた公孫賛としては、やりきれないだろうが、公孫賛自身が責められる可能性に気付いていなかったのかと問われれば、それは『否』である。

 

 なぜなら公孫賛はこの少し前、袁紹から『ある文』を受け取っていたからだ。文は当時に失われてしまっているが、内容だけは伝わっている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『我と共に、劉備を討とう。』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 公孫賛にとって、それは到底承服しかねる内容だった。

 

 共に盧植の下で学んだ良き学友であり、黄巾の乱で自分も苦しい中で六千の義勇軍の独立を支援し、反董卓連合で再会した善き為政者に成長していた劉備。なにより、いずれ大陸の未来に必要な大人物として大いに期待していた公孫賛の自慢の親友。

 

 公孫賛は昔から親友である劉備のことを、一つの自慢話としていたという。親友として、大陸の未来を憂える一人の人間として、いつか劉備が出世した時の布石として、公孫賛は洛陽で働いていたとき、たびたび劉備の話題を持ち出してその名前を広めていたのだ。

 

 公孫賛も袁紹に勝てないことはわかっていたはずだ。そもそも資金でも兵数でも劣り、援軍になりうるのはこの先敵となる可能性の高い諸侯。劉備との連携には時間がない。

 

 幽州を預かるものとして、袁紹と言う強大な力から民を守るために従うべきなのか?

 

 漢王朝の臣として、袁紹の行動を諌めるのか?

 

 劉備の親友として、仁義に生きる一人の人間として、強大な敵に立ち向かうか?

 

 結果として公孫賛は戦いに敗れ、賭けに勝った。

 

 この時公孫賛は曹操に文を送っていた。内容は簡潔に『後ろから袁紹討て。袁紹は幽州で息切れをしているはずだ。』という、自身の敗北まで盛り込んだものだった。

 

 この時曹操と同盟を結ばなかった理由は単純である。絶対に間に合わないからだ。

 

 この文は功を奏し、袁紹は幽州制圧の僅か2ヵ月後、官途の戦いで落日を迎えた。

 

 可能性の話でしかないが、もし公孫賛が袁紹の力に屈していた場合、劉備達は徐州の一州牧として生涯を閉じていた可能性が高い。

 

 現に、公孫賛が命を懸けて稼いだ時間で、劉備はほぼ同時期にせめて来た袁術・呂布連合を撃退している。最悪、袁術と袁紹が手を組んでいた可能性すらあったのだ。

 

 

 少々長めの脱線をしたが、反董卓連合解散後、劉備は徐州州牧となった。

 

 先程も触れたが、袁術・呂布連合を撃退し、呂布を味方に付けた北郷一刀らは、袁紹を倒した曹操と戦うことになったが、この段階で既に曹操軍の総兵力は五十万を超えており、劉備軍の総兵力三万では話にもならない状態だった。

 

 北郷一刀と劉備は徐州脱出を決意する。

 

 そして、有名な長坂橋の戦いとなる。

 

 長坂橋の戦いとは、もはや説明の必要もないだろうが、徐州を脱出する劉備らを追撃する曹操をたった数名で撃退したという、有名な戦いである。

 

 作戦自体はいたってシンプルで、少人数しか渡れない橋の前に猛将張飛、飛将軍呂布を布陣し、常に数人での戦闘を強いて常に撃退し続ける、シンプルだが効果的な策である。

 

 実際、曹操軍にとっては厄介極まりない策だったことだろう。

 

 張飛と呂布を抜くには物量に頼ってなお不安が残るにもかかわらず、地理的に少数での戦いを強いられ、じわじわと兵が削られていく。また張飛らの後ろには北郷一刀が控えており、どちらかが疲れたら交代できる状態。さらに後ろの茂みには伏兵の気配すらあるのだ。

 

 曹操ほどの天才なら、この状況で戦おうとは思わない。

 

 そして、無事益州を平定した劉備軍は蜀を建国することになった。

 

 蜀の建国は、大陸に一時的な平和をもたらした。

 

 弱小勢力は大勢力に飲まれて、勢力は三つの収束したために迂闊に動けなくなっただけとも言うが、それでも当時のどの国の人々にとっても貴重な時間だったはずだ。

 

 だがそれは当然長続きしなかった。呉の豪族の決起と、蜀の南蛮の略奪、そして大陸国境線の五胡の侵略である。

 

 

 これら三つの事象がほぼ同時に起こったのはただの偶然だった。しかし、蜀にとっては苦境に立たされたと言っていい。

 

 目の前に大国魏、足元にはゲリラ戦の小国南蛮、背後には得体のしれない異民族五胡。

 

 この時の五胡の目的は敵情の強行偵察である。

 

 五胡という異民族達からすれば、三国時代は敵同士が勝手に潰し合って弱っている状態に他ならない。動かない理由がないのだ。

 

 当時、漢王朝と五胡との交流はほとんどなく、潜入に行ったものは帰って来なかったため、漢王朝の下にいた人々は「五胡とは得体のしれない戦闘部族」という認識を持っていた。

 

 五胡の撃退に国主たる北郷一刀と劉備が率いる本隊が向かったのは、当時のこの認識に則ったものだったのだろうが、あくまで偵察に過ぎなかったため、この戦闘は比較的あっさり五胡の撤退で決着がついた。

 

 北郷らはこの決着後、そのまま南蛮に攻め入った。これが有名な『蜀の南征』である。

 

 しかし、五胡との戦闘の後、まるでオマケかのように攻めた南蛮で想定外の事態が発生した。優れた武人として名を馳せていた孟獲の武である。

 

 北郷一刀が供として連れていた趙雲は孟獲と幾度か切り結んでなお決着がつかず、関羽はその様を見て「自分では勝てない」と早々に戦闘を辞退したという。

 

 この時北郷一刀はこう考えたと記録されている。

 

 『武に頼った戦い、数に頼った戦い、財に頼った懐柔はせず、ただ心服させるが吉。』

 

 北郷一刀は、当時飛躍的な成長を見せていた馬岱を前面に押し出し、数多の策をもって孟獲を捕えた。しかし北郷一刀は孟獲のしつこい性格を見抜いており、孟獲が反抗の意思を見せ続ける限り攻めさせては捕えて放ち、攻めさせては捕えて放つ行為を繰り返した。これが後に『七縱七禽』と呼ばれる戦いである。

 

 

 『七縱七禽』の効果は今日に至るまでその効果を発揮している。孟獲の支配地とその周囲には今でも「北郷一刀は実に心の広い善き為政者であり、その子孫らの治める土地は攻めてはならない」といった言い伝えがあり、中華とミャンマー、その周囲の大小さまざまな国々との友好な関係を築けている大きな要因なのだ。

 

 北郷一刀は『七縱七禽』の効果をこう予測していた。

 

 『これで、孟獲が生きている限り大陸(現在の中華)へ敵することはあるまい。願わくばその孫の代、否…せめて子の代まではこの北郷の策、生きてもらいたいものだ。』

 (△□書籍、三核 鹿空 著『三国史書伝』より抜粋)

 

 結果から言って、北郷一刀の読みは大きく外れた。この策は二千年近くたった今日まで生き続けているからだ。

 

 南征後、来るべき決戦に備えて内政に力を入れていた北郷らは魏の呉への侵攻の報を受ける。

 

 北郷一刀は戦支度を劉備らに任せて単身呉に赴き、驚くべき速さで蜀と呉の同盟を結んだ。

 

 躊躇いなく同盟を決定した北郷一刀もそうだが、躊躇いなく単身に向かう北郷一刀を止めなかった劉備も十分胆力が座っている。

 

 そして、時代は遂に、三国時代最大の戦い、『赤壁の戦い』へ進んでいった。

 

 『赤壁の戦い』について、もはや説明の必要はないだろう。大半が『呉の大都督』編で語り尽くしてしまっている。

 

 せいぜい今回も北郷一刀は策を見抜いていた以上は書く必要もなさそうなので、ここで割愛させていただく。

 

 赤壁で敗走した魏軍に追いついた蜀呉連合は大陸最後の決戦に向けて舌戦の最中に『その報せ』は届いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『五胡、魏、呉、蜀領地に向け侵攻中。総数三百万。制圧地は虐殺されている模様。』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 この知らせを受けた北郷一刀は驚くべき行動に出た。蜀のみでなく、他国領地への救援を自軍の兵達に命じたのだ。

 

 蜀のみでも守り切れるかわからない現状で、北郷一刀は大陸全てを守るために絶望的な賭けに出たのだ。この時の北郷一刀の言葉は今でも多くの資料や民間伝承などによって残されている。

 

 『他国の民とて民は民。諸君、力なきものを守らんがため、悪から正義を貫かんがため、その手に力を望みし、去りしあの日の想い、あの想いを今想起せよ。その手を血に染め求めし明日に、蛮行一切必要なし。大陸全ての民のため、奮起せよ諸君よ。』

 (凸凹新書、出仔簿 巧 著『歴史考察新書~三国志編~』より抜粋)

 

 この言葉で北郷一刀は自軍だけでなく、絶望的な戦力差を前に立ちすくんでいた他国の兵にまで火をつけた。

 

 孫策も曹操も、領地を攻められ、自軍の兵に火をつけられればもう戦う以外の選択肢などあるわけがない。

 

 彼の言葉は、この場にいたすべての人々に『ある悲劇』の記憶を兵だけでなく、将、軍師、王の全員に否応なく思い出させた。

 

 もちろん北郷一刀はそれも狙ってこの言葉を発したのだろう。

 

 少なくとも『あの悲劇』を記憶していないものなど一人もいない。

 

 そこまでの世代交代がされたわけでもなく、傷が癒えたわけでもない。

 

 そもそも、それをきっかけに立ち上がったものも決して少なくないはずだ。むしろ兵の大半はそうだろう。

 

 特に劉備軍は。

 

 彼らはそもそも、『その悲劇』に抗うために立ち上がったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『黄巾の乱』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 この言葉に、かつて黄巾の乱を経験した者達が反応しないわけがないのだ。

 

 そして、三国同盟の前身となる五胡に対抗するために急遽作られた仮の同盟、後に大陸同盟と呼ばれるものが締結された。

 

 この戦いで、大陸同盟はそれぞれの領地に援軍を送りつつ自分の領地も守りきり、五胡を撃退した。

 

 当時の大陸同盟の総兵数は百万以下であったとされている。実質的に、三倍以上もの兵力差に勝ったのだ。

 

 しかし、真に恐ろしきは北郷一刀の外交手腕であろう。『魏の警備隊隊長の世界』を除いて、彼は類い稀な外交手腕で多くの問題を解決している。今回の五胡との戦いにおける戦力差もそうだが、呉だけではなく魏までも味方に引きずり込むために、彼は『外堀を埋める』という交渉の基礎を、大胆にも忠実に実践してみせたのだ。

 

 これほど大きな外堀も歴史的に見て稀であるが、その外堀を埋めきったことなど歴史的に見てもなお、成功例はこの一例だけだ。

 

 大陸最後の決戦の舞台に立っていた魏軍、蜀呉連合の百万近い兵達の闘争意欲を五胡へ向け、自分達が争っている場合ではないと信じ込ませれば、その上に立つ王たちは必然同盟が締結せざるを得ない。

 

 王たちにとっても、この状況で争っている場合ではないと気付いていたはずだが、せいぜい停戦が関の山だっただろう。それを同盟という形に即決した北郷一刀は本当に何者なのか、私は首をひねらざるを得ない。

 

 北郷一刀が高めた士気だけで三倍の兵力差を覆したわけではないが、ここまで士気を高揚させなければ絶対に起こせなかった奇跡である。

 

 これは余談であるが、この『兵達が体験した悲劇を想起させて、その悲劇を繰り返させないための戦い』と感じさせる鼓舞の手法は、世界中の後の歴史で何度も形を変えて出現している。例えば、源義経が平家との決戦の前に行った演説が有名なところである。

 

 

 五胡との決戦の後、曹操、孫策、劉備、そして北郷一刀の四人で会談する機会を設けた。

 

 彼らの前で劉備はかねてから考えていた『天下三分の計』を説き、その象徴として北郷一刀が大陸の象徴(現在のアメリカ大統領のようなもの)として大まかな方針を決める形でこの乱世は終止符を打った。

 

 この後のことが、特にこの世界を正史とする所以なのだが、このあと何年間か三国が協力して大陸を治めていたものの、北郷一刀が自身の死期を悟り、また自身の死が三国同盟の終焉を意味することに気付いていた北郷一刀は、司馬懿を次期皇帝に指名することにした。

 

 国号を晋に改め、大陸を統一したのは名もない元魏の軍師だった。

 

 ここまでの流れに矛盾がないところが、この世界が正史であると主張する歴史家たちの言い分である。

 

 しかし私はこれに一つの疑問を呈する。

 

 それは三国時代の根幹に関わりかねないほど重要な疑問だ。

 

 民間伝承として最も根深く、そして現在の中華王国のどこの伝承でも必ず言われている出所不明な『ある戦場』のことだ。

 

 三国時代最大の激戦地だと言われ、あの北郷一刀の最期の戦場だったとも言われている『ある戦場』だ。

 

 これまで私が語った『魏の警備隊隊長の世界』、『呉の大都督の世界』、『蜀の賢王の世界』のどこでも戦場としての描写がなく、どこの勢力とどれほどの戦力同士で戦い、なぜあそこまでの事態に陥ったのか誰にも分からない『あの戦場』のことだ。

 

 ここまで語っていれば読者の皆様は流石にお察しくださるだろう。

 

 世界でも五指に数えられるほどの歴史の謎。歴代の権力者に愛された『あの場所』を。原型を失う程の激戦地、その名は・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

泰山。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あとがき

 

どもども~心は永遠の中学二年生です。

 

今回は蜀√でした!

 

今回遅くなってマジですいませんでした本当に!!!!

 

m(____)m

 

長く書きすぎですね・・・↓↓

 

お、怒らないでください(涙)

 

あ、各出版社名と著者名、気付いていただけました?

 

無駄に考えてみましたww

 

さて、次はいつの投稿となることやら・・・

 

次はまとめか、もしくは新時代か萌将伝か・・・です!

 

お楽しみに!・・・していてほしいですぅ~・・・

 


 
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