『魏の警備隊隊長』編
さて、まず私は『魏の警備隊隊長の世界』について考察しようと思う。
北郷一刀が魏陣営に所属し、武将にも軍師にもなっていない世界である。
この世界についての資料は、実はその多くが失われているようなのだ。
序文でも少し触れたことであるが、北郷一刀という人物は恐ろしく有能で、視野が広く、武に秀で、発想力に長けた大人物であったとされている。
それほどの大人物を、有能な人材を重用し、愛した曹操が『たかが』警備隊の隊長などに留めるはずがない。
警備隊隊長という地位に留めおく理由が存在するわけがないのだ。
そしてなにより、この世界においてのみ、彼の足跡に関する記録がほとんど残っていない。
他の世界では膨大な彼の偉業がほとんど記録に残っていない、この不自然な事実こそが『魏の警備隊隊長の世界』の存在すらも危うくしているのだ。
ここで、私の仮説の通りに考えた上で、この世界で彼の行動に不自然がないように彼の足跡を簡易にではあるが、書き出してみようと思う。
北郷一刀、出身地など一切不明
↓
記録は残っていないが、おそらく曹操が陳留の刺史であったころに士官
↓
後に『北郷治安計画』と呼ばれる治安計画の前身『北郷警備計画』を立案。北郷警備隊、通称『北郷隊』初代総隊長として計画の指揮を取る(後に李典、于禁、楽進の三名の武将を傘下に加える)
↓
劉備軍が曹操のいる城に攻撃をかけた際、あくまで野戦での決着を主張する主君、曹操を殴って諌め、援軍到着まで籠城させた
↓
自身は重い病を患いながらも、荀彧、郭嘉、程昱などの名だたる軍師達が気付けなかった定軍山の諸葛亮の罠を看破。病床にて曹操に定軍山への主力の派遣を進言。夏侯淵、典韋らの窮地を救っている
↓
赤壁の戦いにて、諸葛亮、鳳統、周瑜らの策を看破。対抗策を練り上げ、曹操軍を勝利に導く
↓
蜀の首都、成都の決戦において落命(戦死であったか病死であったかは不明)
さて、この略歴からも十分『魏の警備隊隊長の世界』の異質性がわかるだろう。
まず、彼の出自がわかっていないことは全ての世界において共通のことであるので、これはまだいい。
しかし北郷隊設立後、定軍山の戦いまで彼の動きがほとんどない。
反董卓連合や官途の戦いなど、歴史的な戦いがあったにもかかわらず、彼の名前はそこに現れないのだ。
これはあまりに奇妙過ぎる。
彼の能力の高さはいまさら語るまでもない、にもかかわらずこの二つの歴史的な戦いにおいて彼の名前は一切出てこない。
定軍山までで彼の名前が出てくるのは、劉備の侵攻の時の話であるのだが、これは一つの逸話として語り継がれているものでしかなく、彼の能力に一切関係のない内容なのだ。
極論、忠臣であれば夏候惇や典韋がやっていたとしてもおかしくない出来事だ。
ではこの世界の場合のみ、彼の能力が低かったのではないか?
その疑問を私は一瞬抱いたが、その刹那に私は疑問を抱いた私自身を全否定した。
ならなぜ定軍山の罠を、赤壁の策略を見抜けたのか?
彼の能力を生かし切れない理由を、原因たり得るだけの仮説を考えてみた時、私は一つの可能性に辿り着いた。
この世界の北郷一刀は早い段階で重い病を患っていたのではないか?
定軍山の段階で彼が病床にあったことは間違いない。
彼が患っていた病が何であったかまでは記録に残っていないものの、この推測が正しければ、反董卓連合や官途の戦いの際、参戦できなかったと考えることもできる。
この仮説でいくと、定軍山では病床にいながらも曹操に進言することができるまでに回復していたと考えることも、逆に病状が悪化し、死期を悟って彼が立ち上がったと考えることもできるのだ。
しかしいずれにせよ、彼が病を患っていたとすれば『魏の警備隊隊長の世界』に一定の説明をつけられる。
赤壁の戦いにおいて、類い稀なるその才能を示しながらも、『魏の警備隊隊長の世界』において彼が一切武功を上げていないことも、この仮説を後押ししている。
この仮説通りだと、彼の成都での死はただの病死である可能性が非常に高い。
なぜなら戦死しうるほど前線に病人を配置せねばならないほど曹操軍は人手不足ではなかったからだ。
ではここで、ある疑問に取り掛かるとしよう。
『なぜ曹操は北郷一刀を警備隊隊長という地位に留めたのか?』
これは病だけでは説明できない『ある事実』が存在するのだ。
『彼は警備隊隊長という地位で曹操に多くの治安計画を提出している』
警備隊隊長が主君である曹操に治安計画を意見するなどあり得ない。
彼の立ち位置から意見することがどういう意味を持つのか?
現代日本で例えるなら、警視総監が国政に意見し、防衛庁長官を差し置いて戦略に意見を出している状態である。そんなことあり得るわけがない。
現代日本は三権分立などにより、違った意味で意見の通り難さはあるが、当時は身分というもっととてつもなく高い壁があったのだ。
そう考えると彼我の距離はもっと恐ろしいものだったはずだ。いかにその相手が有為な人材を愛する曹操であったとしても、斬首すらあり得る所業だ。
ここまでの段階で、警備隊隊長である彼のコネクションは異常なものだということに歴史家たちは気付く。
彼は魏の主要人物全員とコネクションを持っていたばかりでなく、陳留の住民ほぼ全員とコネクションを持っていたのだ。それはある記録による逸話から読み取れるのだ。
曹操が陳留の刺史であった当時、世界的に初となる『戸籍』の作成を行っていた荀彧の資料整理を北郷一刀が手伝っていたときのことである。「東町の鄧栄さんと張礼さんの記録が漏れている」と個人名で指摘して見せたのだ。
そもそもこの『戸籍』も北郷一刀が発案したものであるが、それにしても当時の陳留の住民全員分の資料を整理しながら、『誰が記録から抜けている』と指摘できる人類がはたして他にいたのだろうか?
つまり、彼は街の人間の名前をほぼ全員記憶しておけるほどに友好な関係を築いていたということは、つまるところそれだけの関係を築く時間(おそらく警邏をしている時間)が有ったということに他ならないのだ。これはこの段階で、彼が病を患っていなかった証拠にもなってしまう。
ではなぜ、反董卓連合に彼の名が現れないのか?
私はこう考えた。
北郷一刀は表向きの役職として警備隊隊長を務めながら、裏では表に出せない『何かしらの役割』を持っていたのではないか?
たとえば諜報部、たとえば兵器開発、たとえば我々後の時代の人類にさえ知られたくない何かしらの『特殊な役割』を持っていたという風に考えれば、納得がいくのだ。そしてこれにも裏付けとなる資料がある。
赤壁の戦いにおいて偽装投降してきた黄蓋に対して、北郷一刀を『警備隊隊長』ではなく『客将』と紹介したのだ。
彼の公的な身分を曹操自身が隠したのだ。覇王として正々堂々としていた、かの曹操が『なぜか』隠したのだ。
これらの仮説が正しかった場合の彼の足跡を辿ってみよう。
北郷一刀は『魏の警備隊隊長の世界』で表向きは警備隊隊長として動き、裏では何かしらの役割をこなしながら、反董卓連合、官途の戦いではおそらく名を隠して暗躍。病床で定軍山の罠を見抜き、曹操に主力の派遣を進言。赤壁の戦いで周瑜らの策を看破、策を逆手に取り魏を勝利に導き、成都にておそらく病死したと考えられる。
凄まじいほど壮絶な人生だ。
だがむしろ、北郷一刀の生涯としてはこのぐらいの方が逆に信憑性が高いのだ。
もっとも、推測がいささか多すぎることは認めざるを得ないものの、一つの仮説としては一考の余地がある内容ではなかろうか?
あとがき
どもども~心は永遠の中学二年生です。
今回は魏√でした!
想像より皆さんから良い反応をいただけているようで、感謝感激です!
コメントってどうやって返事を返せばいいんだろう・・・?
使い方がわからず、すごく四苦八苦しておりますはい・・・
正直すぐに投稿したかったのですが、仕事が忙しくて・・・
あと数日書けない見通しでした(^^;)
次の投稿はいつになるやら・・・
ところで・・・序文より文章力が下がってる気がするのは私だけでしょうか?
情けない話、今回は書き直しする日が来るかもしれません・・・
改訂版としてどこかで出すかも・・・くらいに留めて、今回は終了します
次は呉√予定です!
ではではまたの時に~~~
内緒話
い、言えない・・・。実は序文もその前のアレも投稿方法や改ページに時間かかっただけで、実質5分、10分くらいで書いたものなんて言えない・・・。
Tweet |
|
|
18
|
3
|
追加するフォルダを選択
どうも!続き投稿です!
意外と早く書けた・・・
あと数日は書く時間が取れないと思ってました(^^;)
このひとつ前にあった序文、誰かがコレクションにしてくださったようでマジで嬉しいです!!
本音を言うと、誰も反応してくれないんじゃないかな?皆きつい指摘とかたくさんされるんじゃないかな?とか、内心ビクビクでした・・・
続きを表示