『帝記・北郷:十七~忠烈汜水関~』
「……ふー」
軽くすぼめた唇から流れ出る紫煙が、風に溶かされ流れて行く。
手にした赤マルの先から、吸殻がポロリと落ちて城壁の上を転がっていった。
空は雲の少ない、それでいてその流れは異様に速い青空。
風はその雲が示すようにやや強め。点火の為の傍らの灯火も、置き場をかえれば風に吹き消されてしまうだろう。
久しぶりの煙草を肺腑に流し込みながら、龍志は城壁の上から地平の彼方を見つめている。
蜀の軍勢が刻一刻とこちらへ進撃をしているであろうその方向。それと調度垂直の向きに煙が流れた。
蒼亀から貰ったあのトランクに入っていた、この時代では間違いなくオーパーツであるマルボロの赤。
華龍のもとに飛ばされる前から愛飲していたそれだが、ここ二年程は吸っていなかった。
最後に吸ったのはやはりこの呉の地。曼珠と風炎が率いる呉の残党と一進一退の攻防を続けていた時だ。
龍志には喫煙の癖がある。難局を前にした時、精神的に疲れている時、彼は蒼亀に頼んで煙草を調達してもらっていた。
「そういえば昔は随分と吸っていたなぁ……」
華龍のもとに飛ばされるよりも少し前は、1カートンの煙草を五日で燃やしていた。
尤も、義姉に泣きつかれて禁煙していたが。
「……嫌な事を思い出した」
脳裏に浮かんだ懐かしい女の顔に、きゅっと龍志は眉を顰める。
それはまだ龍志が龍瑚翔ではなく、古城龍志郎と呼ばれていた頃の話……。
「…そんなことはいい」
頭を振って遠い日々への回顧を無理やり断ち切ると、龍志は再び地平の向こうを見つめる。
陸口が落とされたという報告が届いたのが三日前。それから蜀軍は怒涛の勢いでこの柴桑城に向かって来ている。
その数およそ十五万。荊州の守備などに人員を割いたとはいえ、その数は侮ることなど出来ない。
対して柴桑城の兵は三万。実際に龍志の指揮下にある総兵力はまだいるのだが、彼等は他の城の防備に回している。
柴桑が呉国西方の最重要拠点とは言え、他の城を疎かにしては本末転倒なのだ。
およそ五倍の兵力差をいかに埋めるか。そこが龍志の頭を悩ませているところだった。
「あら、こんな所にいたの」
不意に背後から声をかけられ、龍志は首だけでそちらに視線を回す。
といっても確認するまでもなく、龍志はそんな妖艶なハスキーボイスの持主は他に知らないのだが。
「どうした?曼珠」
後ろで束ねたまとまりのない白髪を風に靡かせ、かつて呉の程公と呼ばれ敬われた女が彼に微笑みかけていた。
「いえ、斥候が戻ってきてね。その報告を教えてあげようかと思って」
「それはかたじけない。して、敵の動きは?」
「蜀軍はここから約半日の距離をこちらへ向かってまっすぐに進撃してきているわ。先方は関羽直々。中軍は趙雲が指揮を執っているそうよ」
それだけで敵の気合の入りようがよく解る。
実質的な蜀軍の最高司令官である関羽自ら陣頭に立っているというのだ。
しかし、龍志にとっては逆にそこにこそ勝機がある。
「揚羽の言葉通り、どうやら敵は相当焦っているみたいだな。となると、兵站に無理が出てきている可能性もあるな」
ものの数ヶ月で荊州南郡を押さえ、孫呉に進攻しようというのだ。まともな者から言わせれば正気の沙汰ではない。
「ならば、まず敵の出鼻を挫き士気を下げるか……曼珠。琥炎の位置は?」
「報告では先陣と中陣で旗印は確認できなかったらしいが」
「そうか……」
再び難しい顔をして龍志は短くなったマルボロを灰皿に押し付けると、新しい一本を取り出して小さな灯火で火を点けた。
「随分とその琥炎とやらを気にするんだな…私も一本貰う」
女言葉がなりを潜めた曼珠に、武人の匂いを感じながら龍志はマルボロの箱を差し出した。
「どうぞ。まあ、付き合いが長いからな……」
「ありがと。ふふ、二年ぶりだな……で、どういう奴なんだ?」
「それは…あ、火はここだ」
傍らの灯火を指し示す龍志。
しかし、曼珠はふっと艶然とした笑みを浮かべて。
「もっと近くにあるじゃないか」
「ん?…ああ」
小さくそう言う龍志の煙草の先に、曼珠の咥えた煙草の先が押し当てられる。
そのままでいることほんの数秒。再びその身を離した曼珠の煙草の先には、昼間でも鮮やかなオレンジ色の光が灯されていた。
「では、琥炎とやらのことなんだが……」
煙を長く吹き、改めて龍志にそう尋ねる曼珠。
二年前に龍志が吸っているところを見て何度か吸わせてもらっただけだと言うのに、この妙に様になっている吸い方は一体何だろう。
「琥炎…か。簡単に言うと、あいつは手段が目的になっている男だな」
「……全然簡単じゃないんだが」
「……すまん」
苦笑を浮かべ、龍志はしばらく考えた後再び口を開き。
「例えば…武人や武将と呼ばれる存在が一般的に自己存在を示す方法とは何だ?」
考えた割にはまたややこしい言い方である。
とはいえここでまた文句を言うのも何なので、曼珠も煙草を握った右手を額に当てながら少し考えた後。
「戦場で功績を立てること…か?」
「正解だ」
いかなる大義、いかなる理想の下であれ、武人は戦場での功績無くして武人たることはできない。
言い替えるならばそれは、他者の命を奪うことなくして成立しえない存在である。
「天下太平、国家統一…忠義、仁義、情愛……どのような理由があれども、武人である以上は他者の命を奪うことなくして武人たりえない。それは俺もそうだし、美琉や藤璃、関羽や張遼もそうだ。つまり、他者の命を奪う事は武人がその生き様を貫く手段なんだよ。例外もあるだろうが大概はな」
だが。と龍志はここで一度言葉を切る。
重いものを吐き出すかのように。
「元からなのか何か理由があったのかは知らないが、琥炎にはその手段を持って貫くべき生き様がない。かと言って全く無為に戦場に立っているわけじゃない。俺達は戦場で人を殺すという手段によって自分を自分たらしめている何かを誇示することで自己存在を提示する。だがあいつはその手段そのものが自己存在の確認になっているのさ」
戦場で誰かを斬り功績を立てることによって、龍志達はその忠義を示し、理想へと歩みを進める。
今の龍志の場合は一刀への友義の為。関羽や趙雲なら劉備への忠義の為。華琳や雪蓮、霞達ならば一刀への忠愛の為。そしてそれぞれの主の天下の為。
しかし琥炎にとってそのようなものはない。ただ、武人としての生き方だけが彼を捕えている。
「結果、あいつはその類まれな軍才と武芸によって屍の山を気付くことでしか自己存在を確立できなくなってしまっているんだ……まあ、さっきも言ったがそれが元からなのかは知らないがね」
ふーーー。
と煙草の煙を吐く龍志。
長く…どこまでも長く。
「………」
曼珠はそれを無言で見詰めている。
勿論。時折、煙草を口元に運びながら、だが。
「……解る気がするな」
「え?」
「その琥炎という男の気持ち、少し解る気がするよ。私も三国が鼎立した時、信条も理想も失ってしまったからな。亡き大蓮様への忠義…孫呉による天下統一……もしもあの時自分の前に戦場が広がっていたなら、私もただ闘う事でしか私であることができなくなっていたかもしれない」
すっと曼珠の目が細まる。
その視線の先にあるのは地平の果てか、はたまた亡き先主と駆け抜け、その理想を受け継ぎ戦った日々なのか。
「……だが、そうはならなかった」
煙草を灰皿に押し付け、龍志が言う。
まだ半ばまでしか燃えていなかったそれは、ぐにゃりと歪な形に折れて潰れていく。
「どうしてかは知らないが、それで良いじゃないか。少なくともお前は今こうしてここにいる…まさか、死に場所を求めて山を下りたわけじゃないだろう?」
「…さて、どうかな」
肩を竦め、同じように煙草を灰皿に押し付けて曼珠は笑う。
「まあ、少なくともこんな状況じゃあおちおち死んでもいられんさ。大蓮様が愛し、今は亡き戦友達が護ったこの地を侵す奴等がいる限りは……」
『なにより。お前がいる限りは』
とは言わないでおく。
きっと曼珠の目の前の男は思ってもいないのだろう。絶望の中、かつて激しく争い刃を交えた好敵手という名の戦友が持つ『乱』の気が彼女を生かしたなど。
そしてその男が持つ『乱』とは正反対の『安』の気に彼女が心惹かれていることなど。
「……さて、そろそろ最終準備を始めようか。城めがけてやって来る敵の出鼻を叩く。寡兵の相手が城から出て来るはずはないという侮りを、出撃してきた相手の愚を笑う驕りを、そして大切な者の為に勝負を急ぐその焦りを叩く!!」
傍らの灯火を消し、灰皿と纏めて右手に持った龍志は、左手でこの戦に備えて風炎に譲ってもらった太刀のような長刀を握り風の中に立つ。
ああ、灰皿がなければもっと格好良かったのに……。
「琥炎が連環馬を使って来た時の備えも一応させておくか……よし、行こうか曼珠」
「ええ、了解」
さっそうと城壁から降りて行く二人の将。
その信条の為に、忠義の為に、生き様の為に。
護りたいものの為に。
孫呉での戦が今、始まろうとしていた。
~続く~
後書き
どうも、タタリ大佐です。
いや~腰痛めるわ不眠症になるわお腹壊すわで凄まじい日々でした。うん。何だろう、これは恋姫ユーザーの呪いだろうか……。
何はともあれ十七話。予告では汜水関でしたが、さしあたり今回の導入部を書かないことには以降の内容が薄くなりますので、今回は龍志さんに出てもらいました。
というのも、今話のキーパーソンはただいま自己存在の確立の問題に直面しているあの方なので……。
こう書くともうお分かりの方もいらっしゃいそうですね。
ちなみにマルボロは自分が二十の始めに吸っていた銘柄です。といっても、1カートン五日とか無理です。1週間に5本くらいのペースでした。
さてさて、次回は十七話の肝其の一でございます。気長にお待ちくださいませませ。
追伸
一身上の都合と更新ペースの都合から、これからは二、三頁ずつくらいをこまめにあげて行こうかと思います。その分、一本は短くなるので読みやすくはなるでしょうか?
では、次作でお会いいたしましょう
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最近色々あって更新が遅くなっていましたが、帝記・北郷の続きです。
タイトルは汜水関ですが、始めは呉からです。
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