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…。
秋月律子と女性プロデューサーの仲は良好ではなかった。
それは傍目から実にわかりにくいほど巧妙な偽装が施されており…一見する限りはとても仲睦まじく、まるで炬燵の布団のうちで互いの脚を蹴り合うような、徐々に、しかし確実に、みぞおちの辺りに、淀んで重たい、ゲル状の物質が溜まっていくのによく似た不快な感覚を覚えさせる関係であった。
――少なくとも秋月律子はそう思っていた。
「さすがは律子ね。いいスケジュールよ」
律子と女性プロデューサー、二人の一週間は概してこのような台詞でしめられる。
この台詞の意味するところは、律子が''次の一週間''における日程を組み、女性プロデューサーへ提出し、それを彼女が確認したことそのままなのであるが、
「いえ…。細部の詰めはまだまだだと思うので、いつも通りよろしくお願いいたします」
手渡された一週間の日程表を眺め満足そうに頷くプロデューサーとは対照的に、いつも通り四角四面な振る舞いでありながらも、どこか翳りを感じさせる表情で律子は答え、軽く頭を下げた。
―― 一方で。律子がこの言葉の意味すところは、提出したスケジュールの細部調整や詰め、決定などはやはり女性プロデューサーが担当するということで。つまりは律子の出したものはスケジュール案と言ったところだろうか。
少女の。垂れたこうべと共に僅かに下がった視界の端に、書類などが酷く散らかったデスクが映り、
「何言っているの。これだけできれば十分よ。お疲れ様」
と、デスクの主。年上が女性の柔らかな声と端整な顔立に浮かんだ優しい笑みがそこへ割り込んだ。
その姿勢は律子の顔を、下からやや覗き込むような感じで――。
不意の出現ではあったが、これも週末のお約束…最早習慣に近いもので、慣れた律子は特に驚くわけでもなく――変わらずの表情と僅かな翳りをもったまま、眉目好い女性を眼差しを受け入れた。
そして女性プロデューサーは。見つめる少女の、僅かな曇りに気づいていないのか、それとも敢えて流しているのか、はたまた翳りの意味を解らずにいるのか――目の前の少女の肩へそっと自身の手をおくと再び頷いて見せた。
――まるで。大丈夫、バッチリよとでもいいたそうな感じ、と律子は思った。
そうして乱雑なデスクへ向き直ると、キーボードの弾ける音と書類をめくる音をいつも通り奏ではじめるのだった。
それからしばらくして…。
身支度を終えた律子は、
「では…お疲れ様です。お先に失礼します」
「はい、お疲れ様。気をつけて帰ってね」
女性プロデューサーの軟らかい声を背に部屋から退出する。
微妙にくぐもった声と滑らかなブラインドタッチの音で、多分プロデューサーはこちらを''見ていない''と律子は察することができ――彼女に''背を向けたまま''律子は静かに、後ろ手で事務所のドアを閉めた…。
「…ふぅ…」
擬音すればまさに''カチャリ''とでも表現できる閂の音が、ドアノブの内で噛み合う音が耳へ響き、それと同時に律子はため息をついた。
そしてゆっくりと…。目の上にある、まぶたの重さを感じながら視界を回した。
事務所の廊下。リノリウムの床。
視界に真っ先に入ったものはどれも無機質で灰色で、
(ああ。まさに今のわたしの心境だな)
と律子は思う。
それは昨日今日で出来上がるような単純な色合いではなく、大分に前から積もり積もって形成された、「憂鬱色」ともいえるものであって。原因はともかく、いまや何時頃からのものかと、思い返すのさえ億劫になるほど、ずしりと重量のある色であり、感情であった。
そんな重たく鈍い思考と胸のうちを他所に。
律子の眼球は、まるでそこだけが独立しているような感覚さえ覚えるほど軽く、気分とともに視線は下がっていたものの、視界は光を求めて広がっていった。
不意に、ちくりと、視界の端に光が刺さった。
唐突な刺激。それに誘われて。気をやれば、それは目尻に挿した光――''眩しさ''であった。それは、律子の灰色とは程遠い、オレンジの色調をもって輝く窓からさしこむ西日で。それは、濃い黒い影がぴったりと寄り添い、直線的なコントラストを床に描いて…。そしてそれらは。現時は未だ日没に至っていないことを三つ編みおさげへなんとも気楽に教えてくれたのだった…。
再び。少女の口からため息が漏れた。
現(女性)プロデューサーが事務所に就く一昔前までは、日没の漆黒でこの廊下が冷え込むほど――ちょっと頼りない年上の女性事務員を叱咤しつつ――律子は就労していたものだ。が、今ではすっかり…この濃いコントラストと顔を合わせることが多くなってしまった。当時の秋月律子が背負っていた「アイドル(候補生)兼事務員」の役割のうち「事務員」「事務職」といった所謂デスクワーク類の殆どは女性プロデューサーがさらっていって…――というわけだ。
実に、喜ばしいことであろう。
しかし――。
「はぁ…」
三度目。律子はため息をついた。今度のは先ほどのよりも深く、重い。
律子の気持ちはどうしても晴れない。
そして視界の端にうつるは濃いオレンジ色。
言うまでもなく、いや繰言になるか。これまでの秋月律子は「アイドル(候補生)兼事務員」というプロダクションの中でも特異な存在で、それもどちらかと言えば建前上のものと言ってよく、実質は「事務員兼アイドル(候補生)」――つまりはアイドル業にあまり手出しできずにいた。
当時。業界最大手ならぬ弱小最大手の765プロダクションが、何をそんなに(律子の)手を煩わせることがあるのか、という疑問が外野から度々投げかけられるが、事務所には律子以外のアイドル候補生たちが当時からおり、(様々な面と意味において)彼女たちの面倒を見るには、そこから派生する仕事も手伝って、アイドル業などにとても手をかけていられないのが実情であった。
(それが今や…どうだろうか?)
と律子は思う。
オンボロの雑居ビルにあったプロダクション事務所は屋上のあるレンガタイルのビルへ移転し、自身に至ってはアイドル業に力を注げるようになり、どころか事務関連で夜遅くまで残ることは稀になるほどだった。さらに最近では、女性プロデューサーの''気遣い''からなのか、大まかなスケジュール管理は任されるまでに至っている。
――それほどに女性Pは優秀で…。
万事は、765プロダクションは、うまくまわりはじめていた。
――だというのに…。
「…はぁ」
秋月律子の気持ちは晴れなかった。晴れないでいた。
いや、むしろ月日ごとに、暗く、重く、鈍くなっていった――と言うほうが正しいか。
それは――年上の女性、プロデューサーの、ヒトとナリがわかればわかるほどつのって…。
…。
<つづく>
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モチベーション維持のため一部公開。本編は別の場所でいずれ~。モデルはゲームの1から。pixivで本編公開中。