口笛の音。
灰色の街を見下ろす小高い岡の公園。
夕暮れが縦鉱跡を朱に染める。
「…」
切り立った崖の手前の芝生で、両の手をポケットに突っ込んだまま、一人の少年が空を見上げていた。
仰向けに寝転がった真新しい学生服は一般的な中学のものだ。まだ暑い夏だというのに長袖のカッターシャツを着ている。
ぼうっと、呆けたように空を見上げる。
何を考えているのか、何も考えていないのか、もうかれこれ一時間以上こうしていた。
移り行く空のカーテンと風に揺れる木のざわめきだけが、静かな時間の流れを装っている。
「…?」
少年がふと目を凝らす、左手をポケットから取り出し、両方の目をこする。
「…?」
星空の一点が揺らいで見えた。手をついて体を起こす。
「ひゃ!」
「げこ」
少年の腹の上に大きなリュックサックが降ってきた。いや、大きなリュックを背負った女性だ。
咄嗟に力を入れていなければ内臓破裂していたかもしれない。
「あれ?どこ?ここ?」
「…」
女性は少年の上に座ったまま、手にしていた紙とコンパスのような機械を見比べていた。
「…転送位置がずれてる。何でだろ?」
少年は呆然と喋るリュックを見ていた。
中空から染み出すように現れ、自分の上に降ってきたリュックは不思議そうに首を傾げていた。
「座りにく…い!」
女性は人の上に座っている事に気づき、振り返りながら飛び退く。
「わ!」
異口同音。振り返った後ろは崖だ。すでに後ろに跳んだ足の下に地面は無い。
十数メートル下は岩場だ。
「!」
少年は咄嗟に体を起こし、右手で女性の左手を掴む。
「うぉ!」
リュックサックが予想以上に重たく、少年の体まで引っ張られる。
「痛!」
「ぐぇ!」
少年が崖の淵に腹ばいになり、右手一本で女性を支えていた。
崖は逆方向に反っていて、足場になるところは無い、少年はその事も熟知していた。
「リュック、ワレモノ、入ってる?」
「う、うん…」
少年は大きくため息をつく。
ついで歯を食いしばり、左手を崖の淵に持ってくる。
「…く…ぐ…く!」
右腕のすさまじいまでの力で女性を引き上げ、左手で自分の体を支える。
女性の右手が崖の淵にたどり着き、体を引き上げようとすると、余った力がぐいと二人を芝生に引き倒す。
「げこ」
少年は再び女性に押しつぶされた。
「ごめん!」
「…っか!」
女性が飛びのくのとほぼ同時に、少年は右手を抱えてうずくまる。
食いしばった歯を剥き出しに、左手で右手首を掴み、顔を歪ませる。
「ぐ…ぅぅぅ…く…」
女性は訳がわからないといった様子で、少年の右手を見る。
夕暮れや状況が重なって気にならなかったが、いびつに歪み、人間の肌の色をしていない。
「!…それ…」
「…ぐ…!」
ビキと小さな音がして、少年の食いしばる歯が欠ける。
「がぁあああああ!」
少年は右手を抱え、絶叫のままのた打ち回る。
「ちょっと!ちょっと待って!」
女性はリュックを下ろし、奥のほうから小さなビンに入った液体を取り出す。
「右手!貸しなさい!」
女性は体を使って少年の体を押さえつけ、小ビンの中の液体を右手に塗りたくる。
『我が手に掴みし結い堅き意思を解き放たん!』
少年には聞き取れない言語を叫び、中空に淡く光る模様を描く。
『エラ・マース・ハルマ・ドーナ!』
締めの言葉を唱えると、少年の右腕全体から赤い靄が立ちあがり、液体の入っていた小ビンの中に吸い込まれていく。
「ふぅ…」
女性は少年の上で脱力する。
「…」
少年は再び女性を呆然と見ていた。
「右手、まだ、痛む?」
「…いや」
少年からは女性の体が邪魔をして、自分の手を見る事ができない。
「…何があったか知らないけどさ…自分を憎むの、もう止めなよ…」
女性は少年の顔を見ないまま、ぽつぽつと言葉を発する。
「…」
少年は痛みの無くなった右手を持ち上げ、女性の体越しに視界に入れる。
じっと眺める。すでに暗くなっていて、よく見えない。
「…」
女性は少年の上に倒れたまま、すぐそばに落ちていたリュックからランタンを取り出し、火を入れる。
「…なおってる…」
ランタンの優しい明かりに照らされた少年の手は昔の、きれいな少年の手に戻っていた。
はだけたシャツ袖の下には日に焼けていない人間の腕がある。
「あんたは…なんなの?魔法使いか何か?」
「…」
女性のランタンを持つ手が倒れる。衝撃でランタンの火が消える。
「大丈夫?」
女性は既に寝入っていた。
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小説というよりは随筆とか、駄文とか、原案とか言うのが正しいもの。1-1。 2000年ごろに書いたものを直しつつ投稿中。