睡眠薬を飲んでいる事が、リザ・ホークアイにばれた。帰りがけに羽織ろうとしたコートのポケットから落ちた薬の束を拾われたのだ。
毎日毎日、イシュヴァールの報告書作成が続いていた。錬金術のもたらした戦果と今後の展望について。また、『実験結果』。
なかったことにしたいと心の奥の汚い部分が叫ぶが、軍はそれを許してはくれなかった。自分がこの戦争で行ったことの全てを思い出し、紙に綴っていく。毎日が気が重く、夢にもうなされ、震える手で報告書を綴った。遺書を書き残して銃弾の飛び交う中臨む戦場独特の禍々しい高揚感の中で行う大量虐殺より、静かな室内で自分の行った行為を反芻しながら綴る罪の記録の方がよっぽど、気が狂いそうだった。
軍服の左胸のイシュヴァール参戦時の勲章と従軍記章の略綬すら、罪への烙印に思えてならない。自分への言い訳を必死で探し、見つけられずに、感情が溢れ出し、狂いそうになる。その繰り返しだったのだ。提出すれば、また次の課題が返ってくる。
副官である彼女はそれを確認して、誤字や漏れを訂正し、封筒に詰めて機密文書扱いでセントラルに送付していく。無表情で、粛々と。
もちろん仕事はそれだけではなくて、雑務まで含めなんだかんだと日付が変わる頃まで働いて、高ぶった神経を鎮めるために半ばやけになってアルコールで流し込む睡眠導入剤。前線帰りの軍人には何ら珍しいことではなかったけれど、弱い部分を見られたようで、恥ずかしかった。
そんな表情を察してか、実は私もなんですと、彼女は自分のポケットから抗不安薬を出してみせた。
「だめですね」
小首を傾げて、自嘲気味に笑った。
「この後、私服でご自宅に伺ってもいいですか?」
軍用車の運転席で、送迎役の彼女が、そう言うのを聞いた。
自宅までの道程の最後の信号待ちのために踏まれたブレーキの、少し後。
それは、彼女を部下として受け入れてからきっぱりと引いていた一線を曖昧にする、甘い告白。
「あなたに食べていただきたいものがあるんです」
声が少し、震えていた気がする。
「ちょうどいいワインが手に入ったところなんだ。待っているよ」
「はい」
運転席の彼女は短く答えた。お互い、表情が見えないのが救いだったに違いない。
それは彼女を部下として受け入れてからお互い牽制し合うように引いていた一線を緩ませる、怖くて自堕落な、甘美な約束。
ああ、酷く、緊張する。
「お邪魔します」
私服の彼女を見たのはなかなか新鮮で、少しどきりとした。白いコートにマフラーをぐるぐる巻きにして、耳と鼻を赤くして。
「よく来たね。寒かっただろう」
一度司令部まで車を戻し、帰宅し、身支度をした彼女が訪れたのは、2時間後。割と急いで来たんだと思う。少し、息を弾ませて。「いいえ、遅くなってすみませんでした。おなかすいてますよね。キッチンをお借りしていいですか?」
抱えていた買い物袋を持ち上げてみせた。
「もちろんだ。嬉しいよ」
照れたように、彼女が笑った。職場では決して見ない、幼ささえ残る表情。胸が痛くなるほど、愛しかった。
迎え入れて、ドアを閉める。二人きりの密室が生まれる。
マフラーを預かり、コートを脱ぐのを手伝ってやる。男に脱がせてもらう事に慣れていないのだろう、彼女の動きはとてもぎこちなくて、ずっと視線を下げていた。しかも相手は一線を引き続けていた彼女の上官で。
冷えた身体を抱き締めて暖めてやりたい衝動に駆られる。
彼女は軍人。彼女は部下。軍人になることを自ら選び、そして自分はそれを受け入れた。彼女は部下。
かつての短い恋人時代は、苦くて幼くて、そして少しだけ、甘かった。
夜に男の家に一人で訪れる事の意味が解らない程子供ではない。抱かれる為に来た女。
お互い、ろくに合わさない視線が緊張を孕む。
抱かれる為に来た女。
キッチンの隣の小さなダイニングテーブルに、彼女が、抱えてきたパンとチーズを並べていく。
「少し時間がかかりますので、先に食べ始めてください」
そうしてキッチンに立ち、水を入れた鍋を火にかけ、ほうれん草を洗い始めた。
「今日、同期のレベッカが」
「射撃訓練所の扉ってとても重いでしょう?」
「来週の士官学校の視察なんですけど」
「昨日実は遅刻しかけたんです」
茹でたほうれん草を切って玉ねぎをスライスして鶏肉と炒めていったん取り出して、バターと小麦粉と牛乳でホワイトソースを作って具材を戻して削ったハードチーズをたっぷり入れて塩胡椒する間、寡黙な筈の彼女はずっとしゃべり続けた。彼女にとっては一年分くらいの話をしていたのではないかと思う。気の利いた話の広げ方をしてやる事のできない自分の甲斐性のなさが少し、嫌になった。 沈黙が怖くて仕方ないのはお互い様なのに。
「お待たせしました」
カタンと目の前に置かれた皿が、湯気を立てる。ほうれん草と鶏肉の、シンプルなシチュー。
「お好きでしたよね」
そう、昔。
「きっと、あったまって、よく眠れますよ」
彼女があの家で作ってくれた、シチュー。
「ありがとう」
それ以上言うと、陳腐になりそうで言えなかった。
「うまいよ」
それ以上言うと、涙が出そうで言えなかった。
「よかったです」
彼女が、にっこりと、笑った。
そんな顔、最後に見たのはいつだっただろう。
「すごく、よかったです」
彼女の目の端に浮かんだ涙を見ないふりをして、無言のままシチューをかきこむ。
向かいに座った彼女は、ゆっくりとスプーンを口に運びながら、俯いていた。
黙々と続く、上官と部下の不思議な晩餐。決して冷たくはなく、少ししっとりとした熱を孕んだ、緊張感。
「おかわり、ありますから」
なんてやさしい、言葉なんだと思う。
「いいから座っていなさい」
食後のコーヒーは自分が淹れると言い張って、後片付けを済ませた彼女をリビングのソファーに追いやった。
コーヒーカップを並べて、あたためたミルクの入った小さなピッチャーも置いてやる。くすり、と彼女が笑った。ミルクたっぷりで少し冷めたのが好みの猫舌の彼女が。
「ありがとうございます」
少し顔を上げて、笑った。
目が合った。
どきりとして、逸らした。
彼女は軍人。彼女は部下。錬金術の師匠の娘で、焔の錬金術を託してくれた人で、そして、かつての恋人。
やわらかい、唇の感触を思い出す。あたたかな、肌の感触を思い出す。
「隣に座っても、いいかな」
最初にルールを破るのは、自分でいたかった。彼女に委ねる程、卑怯にはなりたくなかった。
こくりと彼女は頷いた。
小さく肩をすぼめて、ミルクをたっぷり入れたコーヒーカップを抱える彼女の横に、腰を下ろす。
肘が触れ合いそうな距離。体温が伝わりそうな距離。
「……おいしいです」
沈黙に耐えかねた彼女が呟いた。
「それは何よりだ」
「マスタング中佐に淹れていただけるなんて罰が当たりそうです」「あのね」
「イシュヴァールの英雄、焔の錬金術師、東方司令部の実質的な司令官」
「そういうこと言う?」
「こんなご立派な方に料理を食べていただけて、コーヒーを淹れていただけるなんて、なんて幸せなんでしょう」
「言い方が嘘くさいんだが」
「あら、そうでしょうか」
くすくす、二人で笑った。
痛々しくて、でも、幸せだと思った。
「……私は変わったかな、リザ」
絞り出すように発した、彼女のファーストネームを紡ぐ声帯の震えが、ひどく懐かしく、苦しかった。
彼女は優しい笑みを浮かべたまま、小さく首を振った。
「なにも、変わっていませんよ」
なあ、リザ。
「あなたはなにも」
いつから君は。
「一口分残したままおかわりするところも、食事の姿勢が悪いところも、まったく変わっていませんよ」
そんなにも、母性的に、なったのかな。
「お人好しすぎるところも、優しすぎるところも、なにもかも、昔のあなたのままですよ」
そっと手を伸ばす。
彼女もそっと、手を伸ばす。
そっと、指先が触れる。
焔を生み出す指先と、引鉄を引く指先が、そっと、絡む。
「きれいな指だ」
「あなたこそ」
「どこが?」
「こっちが聞きたいです」
くすくす。
「触れずに、人を殺せる指だから?」
視線が合った。
抱き合った。
とてもとても、あたたかかった。
とてもとても、やわらかかった。
とてもとても、いたかった。
「だめになりそうです……」
「なんで?」
「ルール違反です……」
「どこが?」
「あなたに甘えてしまいます」
「甘えればいい」
「だめです」
「どうして?」
「あなたは私の」
「上官だからか?」
「……そうです」
「関係ない。プライベートだ」
「切り分けられるほど、器用ではありません」
「私が切り分ける」
「あなたには無理です」
「断定する?」
「します」
「まったく、私は本当に君に信用されてないな」
「日頃からだらしないからです」
「あのね」
「今日はすみませんでした」
「なにが?」
「いきなり押し掛けてきてしまって」
「何が悪いのかまったく理解できないが」
「辛かったので、甘えてしまいました」
「私を心配して来てくれたんじゃなかったのか?」
「それは建て前です。辛かったのは私で、甘えたかったのは私です」
抱きしめあった耳元で囁き合う。
「申し訳ありません。もう二度と甘えたりはしませんから、あなたの部下で、いさせてください」
涙をこぼしながら、言うな。
「君はどこまで私を卑怯な男にすれば気がすむのかな、リザ」
こぼれる涙に口吻けを。
「君の背中の秘伝を受け入れたのは私だ。君を部下として受け入れたのも私だ。覚悟はできていた筈なんだ。なのに私は」
金色の短い髪に指先を絡ませて、頬を擦り寄せる。
「君と分かちあわなければ耐えられないものがたくさんあるようなんだ」
ぎゅっと、抱きしめる腕に力が入る。
「焔の錬金術を背負った君と、イシュヴァールで共に虐殺をした君と、なによりも、一時とはいえ恋人同士だった君と」
乗り越えていかなければならない、壁があるんだ。
「甘えてすまない。ずっと、愛していた」
ずっとずっと、愛していた。
「君を抱きたい、リザ」
痛くて辛くて、愛しくて。
「これは逃げなのかな?」
小さく彼女は首を振った。
「逃げなんかじゃありません。逃げかもしれませんが、もしそうでも、逃げればいいんです。結果的に、あなたの夢が叶えられれば、それでいいんです。私個人的には、あなたが幸せであれば、それでいいんです」
どうして君は、そんなに優しいのかな。
「こんな事、一生言うつもりはなかったんですが」
肩に顔を埋めて、震える声で。
「ずっとあなたが好きでした。愚かな判断だったかもしれませんが、あなたに会いたくて、戦場に行きました。あなたの側にいれて幸せです。これが最後でいいです。明日には忘れますから、どうか」 愛しい、彼女が言う。
「抱いてください」
最愛の、彼女が言う。
「こっちを向いて、リザ」
涙で濡れる頬を両手で包み込む。
濡れた目が、見上げてくる。なんて、きれいなんだろう。
「おそらく君は私がどれだけ弱い人間か知っているだろうから理解してくれると思うが、君以外の誰が一緒に乗り越えてくれるというんだろう。非常に自分本位で不謹慎な事を言うが、リザ、君がイシュヴァールに来てくれて、良かった。私の下に来てくれて良かった。君で良かった。リザ、君のおかげで、なんとかやれている」
ああ、それともうひとつ。
「伝え方を間違ったみたいだから、もう一度チャンスをくれないか」
君はそういう事にはとてもとても理解力が乏しいから、きちんと、伝えなくてはいけないな。
「リザ、君を愛している。もう一度、ちゃんとした恋人になってほしい。これから先もずっと。プロポーズは、時期を見て改めてきちんとするから、ずっと、一緒にいてほしい」
潤んだ目が愛しい。濡れた睫が、腫れた瞼が、愛しくて。
本当に、好きで。大好きで。
「……でも」
……ああ、もう、本当に、君ってやつは。
「私はあなたの部下で……」
……どうしようもないというかなんというか。
「そういうのは、いけないと思うんです……」
ぐったりと、力が抜ける。なんだったんだろう、今までの一連の告白は。いろんなものを、返せ。
「ああもう解ったこうしよう。今日は君を抱かない。泣きながら我慢する。そして改めて君をデートに誘う。そこから始めよう」
きょとんとした顔をする。
「手順を踏ませてくれ、今更で申し訳ないが。まずはデートに誘うから、君は少しでいいから色気のある服でも準備していたまえ。念のために言っておくがデートの際はスカートが常識だ。わかったね。日時はこちらから連絡する。それでいいかな?」
なんだかとても事務的な言い方になってしまったが、彼女にはこちらの方が効きそうだ。
「返事は?」
「……はい」
とりあえず、はい、と言わせた。
とりあえず、これは成功なんだろう。
とりあえず、両想い(おそらく)の女性をデートに誘うことには成功した。
たぶん、これでいい筈だ。たぶん。そう、たぶん。
相手がリザ・ホークアイなのが懸念点ではあるのだが。
「じゃあ、今日はもう遅いから、送るよ」
気が変わらないうちに。理性が言う事をきくうちに。
「だめです」
「……送らせてくれないのか?」
「送ってくださった帰りはどうするんですか? こんな深夜にあなたを一人歩きさせられません」
「それはこっちのセリフなんだが」
「とにかくダメです。護衛官として許可できません」
「だーかーらー」
「だからもなにもありません。一人で帰れますから!」
「君ってやつは本当になんていうか私の男としてのなんだかんだはいったいどうすればいいんだまったく!」
そんな散々な押し問答の末、右手に発火布をはめていることと銃を携帯することを条件に、彼女が住む軍の独身寮との中間地点まで送ることで合意が為された。それはそれは非常に難航した交渉だった。
「じゃあ、ここで」
「ああ」
ちょうど中間地点あたりの、川べりのT字路。
街灯が一つ、煉瓦舗装の道を照らしだしていた。静かな川のせせらぎと、彼女の白い息。
そっと繋がれた手を引きよせて、初々しく絡んだ視線。ゆっくりと瞳を閉じて、触れるだけの、キスをした。
「おやすみ、リザ。また、明日」
おでこをこつんと。
「おやすみなさい。あなたがゆっくりと眠れますように」
もう一度。
少しかさついた唇で、少しだけ長い、キスを。
「おやすみなさい、よい夢を」
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ロイ×ホークアイ 全年齢向け 中佐×少尉時代
焔を生み出す指先と、引鉄を引く指先が、そっと、絡む。