No.187645

真・恋姫無双外史 ~昇龍伝、人(ジン)~ 第十四章 冀州終端、昇り竜

テスさん

○この作品は、真・恋姫†無双の二次著作物です。

○文字数の制限を超えてしまったので、分割致しました。終幕前までになります。

○注意

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2010-12-03 00:25:14 投稿 / 全27ページ    総閲覧数:18137   閲覧ユーザー数:14107

真・恋姫無双外史 ~昇龍伝、人(ジン)~

 

第十四章 冀州終端、昇り竜

 

(一)

 

 美味くて安い酒が村に運ばれた。官軍と義勇軍は何の疑いも持たず、飲めや歌えやと手元にある糧を急速に減らす。それが兵糧攻めだと気付かぬままに。

 

 逃げ場を奪われ、勝ち目の無い戦いだと劉備達を誘い、裏切らせた楽快。

 

 そして、止めだと言わんばかりに送り込んできた、食糧を積んだ商隊。

 

 ――それに、詰めよる人々。

 

 まさに楽快の筋書き通り。疑う余地もないほどに……。

 

 ならば俺達はその裏を掻く。思い通りに事が運んでいると。この一手で俺達は手の打ちようもなく、茫然と立ち尽くすしかないと思わせるために。

 

 * * *

 

「村人たちが封鎖部隊に接触! 始まりました。すぐに動ける準備を!」

 

 商隊から離れた位置で、俺と収拾部隊は機を窺う。

 

「相手に偵察されていないだろうな!」

 

 楽快に策を見破られては、また新たな一手を打たれてしまう。それに耐える余力なんて、もう残ってない――。

 

「三十人ほどからなる商隊はすべて村の中に! ただ見張りから連絡が来るまでは――」

 

「――伝令! 周囲に斥候の気配、ありません!」

 

 伝令と同時に、村人たちが官軍を乗り越える。荷台へと登り始めた村人を趙雲が突き落としたとき、彼等の動きが力強いものへと変わり――

 

「早く! 銅鑼を鳴らしてくれ!」

 

「どうされた、北郷殿。まだ銅鑼を鳴らすには――」

 

「――っ、退いてくれ!」

 

 俺は銅鑼の撥を奪い取り、勢い良く叩きつけた。

 

 

(二)

 

 人混みを掻き分けながら、商隊の最前列へと急ぐ。

 

「通してくれ! すまない!」

 

 一秒でも早く、趙雲の元へ!

 

 例えこれが芝居だとしても、皆の心は極限にまで達しているのだ。下手をすればそのまま暴動へと繋がる危険性を秘めていた。

 

 だから遠くに見える彼女の叫ぶような仕草に、不安に駆られた俺は必死で銅鑼を叩いた。何度も何度も叩いた。

 

 予定外の合図が功を奏したのか、その合図に皆が動きを止めて、こちらへと振り返った。

 

 ……大丈夫!

 

 俺を避けるように商隊への道ができていく。

 

「趙雲!」

 

 届いた。彼女が顔を上げる。

 

「――北郷!」

 

 彼女の辛そうな叫び声を聞いて、荷台へと駆け上がり、ぶつかるように彼女を抱きしめた。

 

「無事で良かった……。もう大丈夫。皆、大丈夫だから……」

 

 震えていた。背中がぎゅっと握られる。それを合図に強く抱きしめ、彼女を頬で撫でる。

 

「……これほど辛いものとは、思いませなんだ。本当に、すべてが終わってしまうのではないかと」

 

「……よく頑張ったね。趙雲」

 

「……はい。もっと褒めて下さいませ」

 

 胸の中で甘えてくる、彼女の髪をそっと撫でる。

 

「かぁちゃん。最後かもしんねーし、俺達も……」

 

「何が最後だい。馬鹿言ってんじゃないよ!」

 

 所々から甘い囁きが聴こえ、それとは別にいつまで抱き合ってるんだと、呆れた声が聴こえてくる。

 

 思えば周りに八百人近くいるってのに、そんな中でずっと趙雲を抱きしめて……。うぅ、さすがに恥しくなってきた。

 

「趙雲、そろそろ――」

 

 身体を離すと趙雲はゆっくりと顔を上げ、求めるような眼差しを俺に向けてくる。

 

 ――ぎゅ。

 

 胸にぐりぐりと、おでこを押しつけられてしまった……。

 

 そのくすぐったさを誤魔化すように、甘えてくる彼女をほんの少し強く抱きしめる。

 

「そ、そんなバッ!……かっ……なっ」

 

 突然の大声に視線を向けると……、捕縛された男の顔に黒い履物がめり込んでいた。

 

 そのまま後ろへと倒れていく。

 

「出た! 義姉さん必中の履物飛ばし!」

 

 義勇軍から拍手が起こる。

 

 すらりと伸ばした白い足がゆっくりと、余韻を残しながら戻っていくと、胸の中でもごもごする趙雲。

 

「ちっ、全く……。折角の雰囲気が台無しではないか、ん~っ♪」

 

 俺は一瞬耳を疑った。舌打ちして、まさかの空気読め発言である。さっきまでの弱々しい趙雲はどこへ!?

 

 趙雲こそ空気読もうなっと勢いよく剥がすと、彼女は寂しそうな声を漏らして、イヤイヤとくっ付こうとしてくる。

 

「――遊ばないのっ!」

 

「……むうぅぅぅっ!」

 

 白い足で俺の足を踏み、もう片方の履物まで倒れた男にぶつける。

 

「――お前の所為だ!」

 

 それは八つ当たりだと思った瞬間、彼女は小さな悲鳴を上げて倒れていく。

 

 咄嗟に彼女の腰に腕を回すと、帯の羽がくしゃりと崩れ……、脇腹に触れた手に彼女の温もりが伝わってくる。

 

 己の腰を恥しそうに眺めた後、腕の服を弱々しく掴んで、声を掠らせながら趙雲が抗議する。

 

「き、着崩れたらどうする! こんな……人前でっ」

 

 彼女の背中へと腕を滑らせると、彼女はきゅっと力を入れて身体を緊張させた。

 

「しっかり掴んでてくれよ?」

 

 ――力入んないけど、いける……よな?

 

 

(三)

 

「ほっ、……北郷!?」

 

 趙雲は突然の出来事に身体を小さく縮こませ、服を掴む反対側の手で胸元を隠しながら小さな悲鳴を上げた。

 

 お姫様抱っこされた彼女の、戸惑う可愛らしい顔がそこにはあった。頬を桜色にして息を飲み、覗き込んでくる深紅の瞳を見詰めていると……

 

 ――っ、ほんっと、ヤバイッ。

 

 いつも以上に意識してしまって……。戦いに集中しなきゃいけないのに、不謹慎にも程がある。

 

 彼女を抱き直し、荷台から降りて転がっている履物まで歩く。その前で屈み、ふとももを椅子のようにして彼女を乗せた途端――。

 

 拒む間もなく肩に手が回されて、彼女の柔らかさに包まれる。ふわりと香り、胸が強く締め付けられる。

 

「――っ」

 

 彼女に溺れるほど、好きになっていくほどに、――離れてしまう気がして。

 

 そう。この世界に彼女が主君と仰ぐ人物がいるはずなのだ。彼女が心奪われ、惚れこむほどの人物。――本物の劉玄徳。きっと素晴らしい人物に違いない。

 

 ――きっと耐えられない。

 

 今のままじゃ駄目だ。だから何も考えるな。静まれ、俺の鼓動……。

 

「ふむ、このような扱い、ふふっ……」

 

 俺の気持ちも知らないで、趙雲はふとももの上で小さなお尻をもぞもぞと動かす。

 

 ――くぅっ。駄目だっ、クラクラする!!

 

「おやっ? どうされましたかな、北郷殿?」

 

「……何にも!」

 

 ――絶対、こっち見てる。

 

 視線を逸らした俺を振り向かせようと、悪戯を始める趙雲。後ろ手に俺の太股をさわさわと擦り、首にまわされた手がねちっこく頬を撫でる。

 

「ほ、本気で止めて。お願いだから――」

 

 ――でないと取り返しのつかないことにっ。

 

「はっ、履物。早く履いて――!」

 

 趙雲のすらりとした足が履物へと伸びていき、器用に履物の緒を爪先で挟み……、

 

 ――カラン

 

 駄々をこねるように放り捨てた。

 

「子供かっ!」

 

 彼女が嬉しそうにニタリと笑って、――しまった!

 

「やっとこっちを……」

 

「趙雲、本当に――っ!」

 

 彼女に唇で耳をなぞられ……、不覚にも身体が跳ねてしまう。彼女は追い討ちをかけるように、耳元で撫でるように囁く。

 

「ふふっ、愛する男に至れり尽くせりされては、この子龍、全身が痺れてもう動けませぬ。ふぅ~~……。もひとつ、ふぅ~~……。せめて、優しく履かせ、て?」

 

 収拾部隊の兵士達が村人の間を駆け抜けて、荷台に積まれていた食糧を集め始めた。

 

「……ふむ。お遊びはここまでか」

 

 残っていた片方の履物を履くと、ぴょんぴょんと跳ねながら放り捨てた履物を拾いにいってしまう。

 

 ……玩ばれた。いや、今はそんなことを考えている場合じゃない。

 

 

(四)

 

 収拾部隊が剣を抜き、本格的に積荷から皆を遠ざけていく。

 

「積荷から離れるんだ! 手にした者はすぐ下へ置け! 決して口にするなよ!」

 

 踏ん切りのつかない者達も、剣をちらつかされては手にした物をしぶしぶと手放していく。それでも手放さない者は見せしめだと、皆が見える場所へと力づくで引っ張られていく。その場は瞬時に騒然となり、誰もが手にした物を捨てろと叫ぶ。

 

 ――規律を乱すこと、これを許さず。

 

 だが予め伝えていたとしても、空腹に耐えきれずつい手を出してしまう。それを放置すれば集団の乱れとなり暴動へと繋がるだろう。

 

 集団を保つことが生き残るための絶対条件。守らぬ者は見せしめにされても已む無しと、皆で決めた。

 

 ……良かった。

 

 兵士の手が、女性の腕から零れ落ちた食材へと移る。その人は村人達に連れ戻され、その間にも食材が次々と荷台に積まれていく。

 

 その光景を捕縛された男達がじっと見詰めていた。そこに官軍の兵士が近付き、威圧しながら問うた。

 

「この商隊はこれで全員か!? 答えろ!!」

 

 趙雲の履物を顔面に喰らった男が白を切った。

 

「くくくっ! さぁ、知らんな~。知っていても誰が教えるものか!」

 

 が、別の男が自嘲的な笑みを浮かべて、ぽつりと呟いた。

 

「全員だ。信じるか信じないかはお前達の勝手だがな……」

 

「貴様! ――楽快様を、裏切る気か!」

 

「楽快は扱いにくい俺達を始末するために、ここに送り込んだに決まっている。そうか、お前は捨てられたのも分からねぇか……。救いようのない阿呆だな」

 

「き、貴様!」

 

「黙れ、賊共!」

 

 剣を持った兵士が叫ぶと、言い争っていた二人は黙り込んだ。

 

「連れて行け!」

 

 力づくに賊を立たせて、乱暴に連れて行く兵士達。

 

「お、お待ちください!」

 

 今度は別の男が叫んだ。必死に身体を揺すり、この場に留まろうと抵抗する。

 

「私は昔、官軍にいた者でございます! 楽快に囚われ、賊に身を落としてしまいました。ここに居る者の多くは、楽快に怨みがある者ばかりなのです!」

 

 皆が訝しげに、その男を睨みつける。

 

「楽快の目的は賊を生み出し、仲間を増やすことなのです! この食糧は賊への招待状。賊に堕ちれば食欲を満せると、もう我慢する必要はないと錯覚させる物なのです!」

 

「下郎、身のほどを知れ! 官軍とは陛下の意志を受け、その使命に命を捧げる誇り高き軍! その兵士が賊に堕ちることなど、決してありえぬわ!」

 

 かつては官軍にいたという男に、容赦のない罵声が降り注ぐ。

 

「こいつを侮辱すんじゃねぇ! 儀式を最後まで拒んだ骨のある男なんだぞ!」

 

「そうだ。こいつはまだ生きた目をしている! 足を洗えるはずだ! どうか生かしてやってくれ!」

 

「――儀式、とは何だ?」

 

 誰かが問う――。

 

「へへっ、賊に突き落とすことを楽快は儀式と呼んでいるんだ。……襲った村の女を犯させる。悲鳴を上げて嫌がる若い女をな! 男が拒み続けても最後は楽快が作った媚薬で、無理やり二人一緒に天国だ! 滑稽だろ?」

 

 その男の近くにいた兵士が腰にある剣を引き抜いた。

 

「この下種共がーっ!」

 

「黙れぇぇぇ!」

 

 もうそこには自嘲じみた笑みは無い。その凄みに誰もが口を閉ざした。

 

「税を払えと俺達から搾るように取り立てて、いざ危なくなったら一目散に逃げ出しやがって! 民を見捨て、誇りも捨てて……、賊から尻尾を撒いて逃げるだけの能無し共が! 俺達を賊に突き堕としたのは、お前等官軍じゃねぇか! 返せ! 俺の大切な女を! 腹の中にいたっ、生まれてくるはずだった俺の子供を! 幸せな日々を! 官軍なんて、すべて……、すべてぶっ壊してやる!!」

 

 縛られた身体でも襲いかかろうと地を暴れ這う。顔を赤くして官軍を睨みつける。

 

 だが力尽き、動かなくなる。……男の悔しさが、地面に沁みる。

 

 引き抜かれた剣は行き場を失い、兵士は怒りを顕わにして連れて行けと叫ぶ。泣き崩れた男を引き摺りながら、商隊の面々を次々と連れていった。

 

 

(五)

 

「――ま、待ってくれ!」

 

「北郷?」

 

 俺の言葉は罵声に掻き消されて届かなかった。

 

 この人達は何かが違う。一生懸命に仲間を庇い、守ろうとするこの人達を賊という言葉で一括りにしてはいけない。

 

 賊になりきれないこの人達を、楽快は手に余ると見て捨て駒にしたのではないだろうか? そんな風に考えてしまう俺は甘いのかもしれない。いや、甘いんだろうな。

 

 でもハッキリしていることがある。この人達の敵は、俺達と同じ楽快だ。

 

 だから力の限り、俺は叫ぶ。

 

「――楽快が同じ敵なら、俺達と一緒に戦ってくれませんか!」

 

「北郷!?」

 

「一緒に楽快の呪縛から抜けだして、今度は苦しんでいる誰かを……。誰かを助けるために、生きてくれませんか!」

 

「……ふざけるな、北郷!!」

 

 趙雲だけが叫ぶ。

 

 突然俺の胸倉を掴み上げる。その瞳にはハッキリと怒りの色が滲んでいた。

 

「……俺は、ふざけてなんかない!」

 

 彼女の激昂した表情が迫る。

 

「ふざけているさ。罪滅ぼしのために、――弱き者に、弱き者を守れと言うのかっ、貴様は!」

 

 強く押され、荷台の上に背中を打ちつけるように倒れると、彼女は馬乗りになって胸倉を掴んで俺を揺する。

 

「弱き者は、弱き者なのだ! 立ち上がるべき者は、力持つ者! ――人の絆を力に変えて、この時代を切り開く者!」

 

 彼女が動きを止めて、強い視線を俺に向ける。

 

「その台詞が言えるのは、力無き者を守り、導き、慈しむ者だけだ。背負うことから逃げているお前に、言う資格は無い!」

 

 その深紅の瞳に俺を映して、声を震わせながら彼女は言った。

 

「――お前に、お前に我が主君となる資格など、無いっ!」

 

「俺に……、俺にその資格が無くても!」

 

 キッと、彼女に睨まれても、俺は――。

 

「……皆で生き残って! 前にぃいいいぃっ!」

 

 最後まで言えなかった。肩を握られ、信じられない痛みに何も言えなくなる。

 

「頭を冷せ!! このっ、裏切者――!!」

 

 

(六)

 

「まっ、どうして俺が裏切者何だよ!?」

 

 俺の問い掛けに一切答えてくれず――、縄で鮮やかに締め上げられると、牢の中へと放り捨てられてしまった。

 

 扉が閉められ、ガタガタと閂が差し込まれる音が聞こえる。

 

「趙雲! 待ってくれ! よりに選って何で亀甲縛り何だよ! おーい!」

 

 岩肌の冷たさが馴染む頃には、誰の足音も聴こえなくなっていた。俺の後ろでは必死に笑いを堪えている男達がいた。

 

 身体の自由を奪われて、一緒に牢へと入れられた商隊の男達だ。

 

「くくっ、いや、失礼」

 

 ――やめて! 同情なんかしないでっ!

 

「ぷぷっ。こういうのはな、笑ってやらなきゃ失礼だぞ! いひひっ、もう駄目だぁ――!!」

 

 笑い声を反響させて、イヒイヒと酸欠になる男達。

 

「そ、そこまで笑うこと無いだろ!?」

 

「はぁ、ヒィ。いや、それにしてもだな、あ~可笑しな奴だな。見たことのない輝く服に、有りえない考え方、そしてあの無謀な行動。今やっと納得できた。お前が何者なのか……。その縛り方が全てを物語っている。――変態だ!」

 

『変態だーっ!』と野郎共の声が牢の中に響き渡った。

 

 ――普通に縛ってくれれば良かったのに!

 

「まぁ、お前等の趣味に口出しするつもりはない。それよりも聞きたいことがある。……何を考えて、俺達に一緒に戦ってくれなんて言った?」

 

「それはその……、俺達の敵は楽快だろ? だから一緒にと思って……。それに貴方達を、賊っていう言葉で一括りにしたくなかったから」

 

「……あぁ、確かに楽快だ。だがもう少し考えて行動しねーか。いつ裏切るか分からねぇ奴等と一緒に戦えるわけねーだろ? それともお前は、そんな奴等に背中を預けられると、そう言うのか?」

 

 肯定……、できなかった。できるはずがない。それでも否定したくなかった。

 

 だから沈黙で答えるしかなかった。俺の答えに相手は呆れているのか、しばらくして男は重々しく口を開いた。

 

「……小僧、覚えておけ。大将ってのはな、色んなものを背負っているんだ。皆の命も背負ってるんだろ? 信頼されてなんぼなんだよ。……返事をしろ」

 

「……はい」

 

「お前のしたことは、決断ではなく暴走だ。分かったら反省しろ……」

 

「……はい」

 

「まだあるぞ。お前は賊の恐ろしさを、本当に分かっちゃいねぇ! 甘すぎる! それから人前でイチャイチャしすぎなんだよ!」

 

「エッ!? あ、いや、はい……」

 

 

(七)

 

 笑い声が聴こえ、私は足を止めた。

 

 ――何故、笑い声!? まさか、打ち解けたとでも言うのか?

 

 確かめるために、私は息を殺して扉へと忍び寄る。――北郷が『変態! 変態!』と連呼されていた。……私もそこに混じりたいと思ったのは内緒だ。

 

 静けさを取り戻すと、扉の向こう側から北郷の弱々しい返事が聴こえてくる。北郷に説教を始めた男は、私の言いたいことの多くを代弁してくれていた。

 

 大笑いをした後にどんな話をするかと思えば、まさか説教とは。

 

 賊という言葉で一括りしたくないという気持ち、今なら理解できる。

 

 こ奴等を例えるなら、そう。獣の皮を被った狩人だ。だがその目的を果しても、彼等が救われることはないだろう。

 

 だが我が主になろう貴方なら……。

 

 その皮を剥ぎ取り、この者達の道標にならんことを私は切に願っております。

 

 裏切られ、傷つき、虐げられてきたこの者達の想いをその背中に背負い、そして私を――。

 

「しかし、小僧があの趙子龍のなぁ……。確かに、昇り竜を侍らせる変わり者ではある」

 

 ――むむっ? この私を侍らすと変わり者扱いだと? 聞き捨てならんな。

 

「その縛り方一つでも、容赦ねぇ。いや、まさか、愛!?」

 

「あまり見ないでくれ……。恥しいと言うよりも情けないからさ。この縛り方だって、多分試したかっただけじゃないかなぁ」

 

 ――と言いつつも、試しに縛られてみたけど何だか……と思った北郷であった。

 

 それはもう呆れてますと言わんばかりの大きな溜息を吐くと、残念そうに言葉を紡ぐ。

 

「彼女の主人は俺じゃない。彼女の理想を叶えてやれる力なんて、俺にはないから……」

 

「……理想か。ならあの言葉は何だった? お前、好きな女だから真っ先に飛び込んで、趙子龍を助け出したんだろ?」

 

「えっ?」

 

「理想は叶えるもんじゃねぇ。目指すもんだ。……だから諦めればそこで終わりだ。だが、お前はあの状況をひっくり返した。諦めず、命をかけて、それを証明したじゃないか!」

 

 ……男が熱く語る。私の知らない北郷一刀を。

 

「……嘘だろ? あそこにいたのかよ」

 

「あぁ、いたぜ。お陰で死に掛けたがな! だが俺達は謝らねぇ。俺達は死ぬわけにはいかない……」

 

「何の話だ?」

 

 意味が分からないと、その一言に誰もが追従した。

 

「なんだぁ? お前等、気付いてないのか。服で誤魔化されるなよ? 囲まれて生け捕りにされそうな趙子龍を助けるために、その中に飛び込んで……。へへっ、叫んで俺達を動けなくした男だぜ?」

 

 ――叫んだだけで動けなく? ほ、北郷、いつの間にそのような覇気を!?

 

「……おぉ、言われてみれば! それにしても、あのときの台詞は最高だったな。なぁ、皆!」

 

「……台詞?」

 

 男達が楽しそうに北郷を追い詰める、そんな気配を感じる。

 

「た、頼むから絶対に言わないでくれよ!? 趙雲の前では絶対に!」

 

 ……ほぅ? この私に隠し事とは。後で絶対に問い質してやる。

 

「あぁ、安心しな。俺達の口からは絶対に言わんさ。だがあの熱い台詞をもう一度聞きたいだろ、なぁ?」

 

 男が同意を求めると、『勿論』と追従して声が上がる。

 

 ……この声の男、私が扉の前にいることに気付いている?

 

「そうだ。もう一度あの時の台詞を叫べ! そうしたら俺はお前の力になってやる! この戦いが終わってもな。悪い話じゃねーだろ?」

 

「――その話俺も乗った。楽快より君といるほうが断然面白い。こんなに笑ったのはいつ以来だろうな……」

 

 考えているのか、ほんの少し静かな時間が流れたあと、北郷が恐る恐る呟いた。

 

「ほ、本当でしょうね?」

 

 ……どうしてそう、ホイホイと人を信じようとするのだ! そのような都合の良い話があるものか! 騙されていることが分からんのか、北郷!

 

「ほら。扉の向こうで、愛する女が立っていると思って大声で叫べ!」

 

 ――は? 今、何と?

 

 

(八)

 

「そうだ。もう一度あの時の台詞を叫べ! そうしたら俺はお前の力になってやる!」

 

 賊に囲まれた趙雲を助けるために、味方の矢雨が降り注ぐ中を無我夢中で駆け、そして叫んだ本気の言葉。

 

 下手をすれば彼女に斬り殺されていたかもしれない。でも彼女は覚えていなくて、ほっとしたんだっけ……。

 

 あの場所に彼等はいたのか。

 

 ――お前、好きな女だから真っ先に死地に飛び込んで、趙子龍を助け出したんだろ?

 

 確かにそうなんだけど……、嫌な予感がするんだよな。

 

 でも恥しいのを我慢して叫べば、彼等は力になってくれるという。あの台詞も聞かれないで済む、か。

 

「ほ、本当でしょうね?」

 

「ほら。扉の向こうで、愛する女が立っていると思って大声で叫べ!」

 

 皆が頷くのを確認してから、大きく息を吸い込み、あの恥しい台詞を叫んだ。

 

「お、俺の女に――」

 

「声が小せぇ!」

 

「俺の女に、手を出すなぁぁぁ!!」

 

 ――ガタタッ

 

「……え?」

 

 ……誰もいないはずの扉の向こうで、音?

 

 

(九)

 

 動揺して音を立ててしまうなど、趙子龍一生の不覚!!

 

 だが今更のこのこと北郷の前に姿を見せては可笑しなことに。どうすればっ!?

 

 北郷が俺の女と。……わ、私が北郷の女。いやいや、待たれよ。今は仲睦まじい者同士で通しているから、別に可笑しなことはそのっ、――そ、そうだ!

 

 コホン。……せ、戦場でなんて恥しい台詞を叫んでいる!

 

 他人事ならどれほど楽しかろうか。指を差して、腹を抱えて笑い転げているだろう。だが――、あぁっ。あぃ……、あっ、あの阿呆!

 

 今すぐ殴り飛ばしてやらねば、気が済まん!

 

 私は閂を外し、扉を開ける。

 

「キターッ!」

 

 私の登場に、声を上げて喜ぶ男達に舌打ちする。

 

 ――さぞ楽しかろうなっ!

 

「げぇっ!! 趙雲!!」

 

 一つ遅れて伏兵に出遭ったような声を上げた北郷。視線をやると……、

 

「――ぷぷっ!」

 

 迂闊にも噴いてしまった。――ふ、不覚!

 

「そのような恰好で……、愛を叫ばれたくないわ!!」

 

「怒りながら笑わないでくれよ!」

 

 足下に転がる北郷を殴ってやろうと思ったが、手で触れるのも憚る姿で、恥しそうに私を見上げているではないかっ……!

 

「――怒って、いるのだ!」

 

 踏んで、蹴ってやった。げしげしと。勿論、履物を脱いで……。

 

「ちょっ、汚い! 止めてーっ! 踏まれて喜ぶ趣味なんて、俺には無いから!」

 

「汚いだと? 聞き捨てならんな!」

 

 さきほどから、実に腹立たしい。

 

 顔を重点的に責め続ける。――苦しめ!

 

 ――ふみふみ。ぷにぷに。ふみふみ。

 

「やめっ、あぷ! ちょ、んんっぷ、く、口に入っ!」

 

 北郷が私を見上げつつ、苦しそうにして顔を捩らせる、が……。

 

「汚いものを押しつけられて、嬉しそうにどこを見ている? この変態め!」

 

「お、おい、趙子龍。そろそろ止めてやれ! 何だか本気で可哀想になってきた。俺達が悪かったから、な?」

 

 男の言葉を無視して、責めて、責めて、責め立てる。怒りが好奇心、そして喜びに変わるまで責め続けると、北郷は抵抗するのを諦めていた。

 

 ……もう少しで、この子龍に平伏す。想像するだけで胸が熱く、堪らない気持ちになる。

 

「な、何て酷い……。もう目も当てられねえぇ」

 

 その一言に我に帰る。興に乗って追い詰めすぎたか? だが北郷は私の匂いが堪らないと喜ぶ変態だから、きっと問題ないはず?

 

 彼の表情は薄暗くて余り分からない。だが息使いは荒く、身体をだらりと横たえて陶酔しているように見える。……舐めろと命令すれば、今なら舐めてくれるやもしれぬ。

 

「……っ、舐めろ」

 

 その加虐的な台詞を吐いたとき、ゾクゾクッと全身に何かが走った。

 

 ……この先に、何があるっ。

 

「――な、舐めろ!?」

 

 まるで否定を返すような口調っぷりで驚く北郷だが、私には分かる。心の奥底では求めているに違いないと。そう、勝手に思い込むことにした……。

 

「何を勘違いしふぇ……ふぇ?」

 

 最後まで言わしてなるものかと、無理やり口の中へと爪先を突っ込むと……。

 

 北郷のくぐもった悲鳴が、牢の中で響いた。

 

「――そうかそうか。そんなに嬉しいか。愛する女の爪先一つ舐められぬ男では、我が主は務まらぬからな」

 

 勿論、嘘である。爪先を舐めることと、我が理想を成す事に何の繋がりもない。

 

 だがこれを逃せば、もう二度とこのような機会は巡ってこない。そう思うと、心の奥底から込み上げてくる衝動に私は我慢できなかった。

 

 そして何よりも彼の愛の深さを確かめたい。心も身体も、二人溶け合ってしまえるほどにすべてを愛してほしい。……私のすべてを。

 

 だから私は爪先を北郷の舌へと押しつける。北郷がうぅーと、くぐもった泣き声を発した。

 

 ……ううっ。さすがに、やりすぎてしまっただろうか。

 

 同時に底が見えたような気がして、欲求は充たされぬまま寂しさだけが募って――

 

「――っ!!」

 

 咄嗟に息を飲んだ。余りの驚きで声が出そうになるのを、何とか堪えることができた。

 

 親指を包み込むように、彼の舌が動く。何度もっ。それが布一枚越しにっ、伝わってくる!

 

 その刹那、不安など弾け飛んだ。

 

 ――い、いかん! このようなこと、はっ、初めてで、落し所が掴めない!

 

 彼の舌使いに息ができぬほど戸惑う。それでもこの有り得ない非日常を味わおうと、私は全神経を爪先へと傾ける。

 

 何もしていないというのに鼓動は驚くほど速く、北郷のまさかの愛撫から目が離せない。

 

 ……あぁ、きっと私は彼に酔いしれ、溺れて、そして染めらてしまう。それが堪らなく、震えるほどに嬉しいと想えてしまう。

 

 確かにこれは負けだ。惚れたら負けなのだ。――なら二人惚れ合えば。

 

 ……何も考えられないほどに酔い合って、息ができぬほどに二人で溺れて、求めて合って、染め合って!

 

 いかんっ! 稟ではあるまいし何を考えている! ……しかし、このような辱めを受けても尚、彼は私を許して――痛っ!

 

 甘噛みされた刺激が、全身を震わせる。彼の息継ぎが私の耳を喜ばせ、この背徳的行為がさらに拍車をかける。

 

 ――きっと大丈夫。だから今はただ、この状況に流されていたい。

 

 そしてまた私を甘く噛んで、彼は私を刺激する。

 

 その痛みが徐々に増して……、増して?

 

「――痛い、痛い! 痛いーっ! 待て北郷! 私が悪かった! 謝る! 謝るぅぅうううぅ!」

 

 

(十)

 

「……すまねぇ。あんたの下につくこと、少し考えさせてくれねぇーか?」

 

 本当にすまなさそうに、縛られた男達に謝られた。――て、全員かよっ!

 

「懸命な判断だな。踏まれて喜ぶ【ド変態】の下に誰も付きたくはなかろうて……」

 

 何度も頷く趙雲を睨みつける。縄を解いてもらった後は、勿論正座だ。

 

「誰がド変態だって?」

 

 趙雲は至極真面目な表情で、腕をまっすぐ伸ばして俺を指した。

 

 その指先を退けるも、吸い寄せられるかのように、再び俺を指し示した。

 

「何で、俺を指差すんだよ!」

 

「事実、ド変態であろう?」

 

「俺は変態じゃない!」

 

「はっ、何をいまさら。私に踏まれて、息を荒くして喜んでいたでは――」

 

「――どこがだよ! もがき苦しんで、息切れしてたんだよ!」

 

「あのような形に縛られて、為すがままに足で顔をこねくり回されて、ふふっ。喜んでいないなどと――」

 

「――縛ったの趙雲だから! あと抵抗するのに疲れて、諦めたんだよっ!」

 

 それはもう勢い良く俺を指差す。

 

「ほれみろっ! 諦めたということは、認めたということではないかっ!」

 

「認めてない! 指を指すな!」

 

 その指を撥ね除けた。

 

 少しむっとする趙雲。すると今度は、自らの手首を勢いよく掴み、震える指先を抑えつけようとするも……。

 

「くっ……駄目だ!」

 

 もう疲れてきた。何となく彼女の人差し指を握り締めた。

 

 趙雲はまじましとそれを直視したあと、軽く指を抜こうとするが抜けないとみると、

 

「――は、放せ!」

 

「変態って言わないなら放してやる」

 

 指を動かし始めた。それも効果が薄いとみると、先ほどよりも強く引き抜こうと始める。

 

 が、その瞬間、彼女は動きを止めて何故か息を飲んだ。そして恐る恐る押し始めた。

 

「んん?」

 

 最初は弱々しいものだったが、徐々に突き押す強さが増していく。

 

 ……うん? 押しても抜けないって、さては押し通す気……でも無さそうだな。

 

 趙雲の瞳が俺を捉える。

 

 ――っ、何で恥しそうに上目遣い!?

 

 反則だった。何かを問うような眼差しを俺に向けてくる。

 

 ほんのりと甘いその視線から逃げるように顔を背けると、彼女は身体を傾けて俺の顔を覗き込んでくる。すると秘策を見つけたと言わんばかりに、不敵に笑みを浮かべた。

 

 反対側の腕をすぐさま掴んで逃げ場を奪うと、両膝で立ち上がりぐいぐいと指を押し込んでくる。

 

「そんなに私の指を必死に握って! ほれっ、ほれっ! ――うん、どうしたぁ?」

 

 ――やっぱり押し通す気だ!

 

 後ろに下がったら、『お前が私を立たせた』とか言って、きっと立ち上がってくる!

 

 それでは正座させた意味が無い。しかも何故か形勢逆転? それだけはプライドが許さない!

 

 負けじと彼女の指を押し返す。が、趙雲は余裕の笑みを浮かべる。

 

「――♪ まだまだ!」

 

 こうなったら全力で押し返そうと力を入れた瞬間、彼女は腕を引き、身体を後ろへと逸らした。

 

 ――嘘っ!?

 

 踏み止まることができなかった俺は、彼女と肩と肩を重ねて覆い被さる。逸らした彼女の形良い胸を押し潰して――。

 

 ――ううっ、ヤバイ。これはもうっ、だめっ……だ!

 

 きつい姿勢にも関わらず、膝を付いたまま上半身だけで俺を受け止めて――、弄ぶ。

 

「突然私に覆い被さり、そんなに息を荒くして……。北郷殿はやはり♪」

 

 耳元で囁いたあと、頬擦りしてきて吐息を漏らす。

 

「なっ、なにっ! 何やってんだよ!?」

 

「おっと、いかんいかん。さぁ、早く起き上がりなさいませ? そう長くは持ちませんぞ。まさか『ド変態でいいかも』、などと思っている訳ではありますまい?」

 

 ……ド変態でいいかも。

 

「――おや♪」

 

 ――いやっ! このまま覆い被さっているのは、いくら何でも失礼だ!

 

 彼女の指を放して起きあがろうと思った瞬間――。

 

「――言っておくと、指を放せば『ド変態』、押し倒せば『ド助平』とこれから呼ばれるのですが、……大丈夫ですかな?」

 

 とか言われたら、もう最終手段しかない。

 

「……少し反動をつけて起き上がるから、その、我慢してくれ」

 

 途端、両腕が強く引かれる。

 

「ちょっ! な、何で引っ張るの!? それじゃ起き上がれないし、ほっ、本気でまずいって!」

 

「そ、そんなに上で動かれては! ――んんっ♪」

 

「ちょっ、茶化さないでくれ!」

 

「いや、本当に上で暴れられては衣服が開けて、私の自慢の胸が……」

 

「――だから!! 人前で猫みたいに戯れ合うんじゃねぇよっ!」

 

 縛られた男の声に驚いて、趙雲の指を放してしまいそうになると――

 

「このド変態めっ♪」

 

 懲りずに俺を挑発するのだ。

 

「趙雲、しつこい!!」

 

「何を、言うかっ!」

 

 大声と同時に一気に俺を押し上げて、覆い被さる前の体勢に二人戻ると、趙雲は貫くように腕を強く突き出して、先ほどの続きだと言わんばかりに叫んだ。

 

「私の爪先を口の中に入れて、……しかも愛撫するように、舐めてくれたではないか!」

 

「あ、愛撫!? あ、あれは、趙雲を油断させるためにやったんだよっ!」

 

 気付けば、彼女は立ち上がっていた。

 

「白々しい! すべて私の思い上がりだというのか、お前は!」

 

 物凄い勢いで迫まって……、ち、近い!

 

「では、あの言葉は嘘だったのか!? お前は好きでも無い相手の爪先を舐め、私は舐められたと言うのか!」

 

 ――エッ!? あ、あれ!?

 

「嬉しかった! 賊の中に飛び込んで私を助けてくれたこと! そのとき叫んでくれた言葉! ……だがそれは、嘘だったのだな!?」

 

 ――って、話がすり替わってるし!

 

「ちょっと待って! それは嘘じゃ――!」

 

「――ならばもう一度、私の前で言ってみろ! 嘘でないなら言ってみろ!」

 

 反響する彼女の声が消えると、静寂に包まれた。

 

 そんな中、遠くの入り口で音が聞こえる。がちゃがちゃと音を立ててこちらに誰かが近付いてくる。

 

 しばらして姿を見せたのは、官軍の大将だった。

 

「うん、どうされた? このような場所で見詰め合うように二人向かい合って……」

 

 趙雲が舌打ちして視線を逸らした。

 

「い、いえ。何でもありません。何か用ですか?」

 

 彼女の重圧から解放された俺は、やってきた官軍の大将に向き直る。

 

「うむ、賊が運んできた食糧の件と、其奴等の処遇を決めねばと思いましてな」

 

 その問題に、趙雲はさも当り前のように言い放つ。

 

「ふむ。概ね毒味役をさせて、それから士気向上のために皆の前で斬首と言ったところですかな?」

 

 そしてその答えに、当然のように頷く官軍の大将。

 

「なっ! 待ってくれ! そんな公開処刑のようなこと、許せるはずないだろ!?」

 

 すかさず反論した。だが彼女から信じられない一言が返ってきた。

 

「戦の前に捕えた賊の首を刎ね、兵の士気を上げて敵に挑む。……何か?」

 

 くっ、まさか俺に対して、嫌がらせのつもりで言ってるんじゃないだろうな!

 

「やれやれ。官軍、義勇軍の長たる者の意見が一致しているのですぞ、北郷殿。情が移り殺したくないからと、駄々を捏ねられては困りますな。賊をただ牢に閉じ込めておくだけなど愚策。我々に何の利益も生みださぬのですからな」

 

「っ、趙雲!」

 

「北郷、勘違いしてもらっては困る。私はお前の臣下ではないのだ。それに私は今、義勇軍の、皆の命を背負っている。――分かるな?」

 

 ……本気だというのか。

 

「毒味役は……」

 

 捕縛された男達に目で問い掛けると、大丈夫だと首を縦に振る。

 

「毒味役は構わない。だが斬首は絶対に反対だ。だからそれに変わる策を考える時間がほしい」

 

「ふむ、ならば夕刻までにお願いしますぞ?」

 

 ……あまり時間がない。部屋に戻って対策を練らないと。視界の隅で男達がニカリと笑った。

 

「へへっ、趙子龍を助けたみたいに一丁頼むぜ、北郷の旦那!」

 

 旦那って……。でも――。

 

「あぁ、必ず」

 

 ――絶対に、斬首なんてさせない!

 

 俺は作戦を練るために、急いで部屋へと戻ることにした。

 

 

(十一)

 

 その日の夕刻、北郷から新たな提案を受ける。寝返った賊と共に正面から砦へと侵入。内側から門を開けるというのだ。

 

 それを聞いた官軍の将は、大喜びでその案を採用した。上手く行けば多くの官兵を救うことができる。例え失敗しても、寝返った賊とたった一人の犠牲で済む。

 

 斬首にならないと知った途端、彼は安堵の息を吐き、満面の笑顔を私に向ける。

 

 戦いを有利に進めるために、そして村を救うために。――己の命を危険に晒してでも先頭に立つ。

 

 それはまさしく、私が探し求めた王の姿。

 

 だが彼は、たった今知り合った者達にその背中を預け、死地へと向かう。

 

 有り得ない。寝返った賊を信じ、皆を守るためにその身を犠牲にしようとするなんて。

 

 でも……、私が想い描く理想の王よりも、理想的で、魅力的だと。そう、想えてしまった。

 

 私の、すべてを捧げたい。そう想えるほどの人物が目の前にいる。――守らねば、いとも容易く失ってしまう!

 

 例え多くの命が散ることになろうとも! もっと多くの救いとなれるこの人を守らねばならないというのに! ――それが理想なのだろうと天はそれを許さない。許さず、愛する者の命を危険に晒せと言う!

 

 理想が……、私の大切な人を奪おうとしていた。

 

 * * *

 

 その日の晩、北郷が私の部屋の扉を叩いた。

 

 ずっと考え事をしていた。返事もせずに窓の外をずっと眺めていると、彼は勝手に入ってきては椅子に座って私を眺め始めた。

 

「うん。やっぱり良い女だよ、趙雲は……」

 

 そして突然何を言うのかと思いきや……。当り前のことを口走るのだ。

 

 だが嬉しかった。

 

「だから趙雲の主人になる人は、放っておかない。君を放っておく男なんていない――」

 

 私の主になる者に彼は嫉妬している。それが少し可笑くて、心の中でクスリと笑う。

 

 彼が動く。そして嬉し恥しの台詞で私の心を震わせた。

 

「俺、そんなのやっぱり耐えられない。君のことが好きだ。必ず、君の主人になってみせる。約束する。愛している、趙雲――」

 

 武人として信頼され、女として愛されるのだ。気高き理想を目指さんと、その命を燃やそうと……、共に歩もうと言ってくれた。

 

 ――想いが、溢れてしまいそうだ。

 

 近付いてくる。どのような顔をして、彼を見れば良いのだろう?

 

 だが突然押しつけられた物を目にして一転、恐怖に震えた。

 

「――待って!」

 

 私らしくない言葉使いに、咄嗟に口を塞ぐ。もう一度呼び止めようとも、彼の背中は足早に遠退いていく。

 

「官軍や賊の恰好をしなきゃいけないからさ! 俺の荷物一式預かっててくれ! それじゃ、おやすみ!」

 

 走り去った彼の足音が完全に消える。……手にしたそれは彼の愛剣、胡蝶ノ舞。己の愚かさを噛みしめる。

 

 ――愛する女に、己の剣を預けるなどっ。

 

 この大陸でそのようなことをする者はいない。何故なら、愛する者に剣を預ける行為は、その人との別れを意味すると伝えられているからだ。

 

「……所詮言い伝えだ。そのような根拠のない言い伝え、私は信じぬ!」

 

 北郷が死地へと赴く。――別れ。

 

「――有り得ぬ! 何を考えている、趙子龍! 我が主となる人は、共に理想を歩むのだ! 約束してくれた。このような場所で倒れる御人ではない!」

 

 底知れぬ不安が私を包みこむ。それを吹き飛ばそうと、無数に散りばめられた星に誓う。

 

 ――共に、乗り越えてみせる! ――誓おう! 趙子龍の真名にかけて!

 

(十二)

 

「――砂塵確認! 賊が攻めてくるぞ!」

 

 翌朝、見張りの兵士が声を上げた。いよいよ戦いが始まる。

 

 俺は官軍の鎧を身につけ、官軍の部隊で整列していた。

 

 趙雲を盗み見る。背筋を伸ばして胸を張る彼女、何を恐れることがあると笑みすらも浮かべている。頼もしい武人の姿だ。彼女を信じ、その背中を追いかければきっと大丈夫だと、その存在だけで戦場に赴く者の支えとなれる。

 

 彼女が高らかに叫ぶ。槍を突き上げ何度も叫ぶ。その手に愛する者を、大切な想いを……込めて、込めて。村人達は手にした武器を天に掲げる。

 

「さすが趙子龍と言ったところか」

 

 義勇兵や村人達を鼓舞する姿に、周りからはそんな声が聞こえてくる。嬉しかった。

 

「……へへっ、何ニヤニヤしてんだよ! 嫁が褒められて嬉しいのか?」

 

「なっ! ニヤニヤなんかしてないって!」

 

 ……嫁は否定しないでいた。否定すると絶対にからかわれると思ったからだ。

 

「よっ! 常山の夫婦竜!」

 

 皆がニヤニヤし始めた。

 

 ――くっ。結局どっちも同じか。

 

 俺の周りだけ緊張の欠片もありゃしない。これが俺の部隊。別名、決死隊。そんな馬鹿なことをしていると、今度は官軍の鼓舞が始まる。

 

「我等官軍は外に討って出る! 我等が左翼、右翼に展開するときに、義勇軍は中央に駆けつける。義勇軍が到着した次第、後方に位置する部隊は例の台詞を叫べ! そして手筈通りに相手の後方へと抜けていくぞ! 抜けた後は砦の前で一旦部隊を編成。北郷殿はその間、例の作戦を。我等は準備できしだい砦を攻める! 行くぞ!」

 

 戦場へ向かう途中で、皆に質問される。

 

「それにしても官軍に『ひぃ~逃げろ~』なんて台詞、よく言わせましたね」

 

「嘘で言うか本気で言うか、どっちがいいですかってね」

 

「だが、背中を見せた時に襲われるんじゃ……」

 

 予想できる当然の質問だった。

 

「それも大丈夫。楽快は官軍を追いかけないはずだ。部隊を割けば、それだけ自分に危機が迫るからね。反転なんかすれば、後ろから義勇軍に追撃される。だからここで楽快が取る行動は――、戦意を無くした官軍を後回しにして、まずは正面の義勇軍を相手にするはず」

 

 何故か皆が驚いた顔をする。

 

「へへっ、だが案外追いかけてくるかもしれねぇぜ? 獣は逃げる相手を追うもんだ。それが本能ってやつだからな」

 

「もしそうなら、楽快はきっと後悔するさ!」

 

「しかし傑作だな! 楽快が自分の策に溺れるとか、今から楽しみで仕方がねぇ」

 

「――整列!」

 

 どうやら待機する場所に到着したようだ。見事に隊列を整えると、誰もが口を閉ざし腰にある剣の柄を握り締めている。

 

 この時代の剣はずっしり重いのだ。勿論俺も佩いている。

 

「こんな重たい剣を持って走り回ってるんだから、皆凄いよな……。俺、完璧に足手まといだ」

 

 特に相手と対峙したときが絶望的だ。だからと言って装飾された胡蝶ノ舞を持ち出すわけにはいかない。この後、官軍の鎧を脱ぎ捨てて賊の恰好もするのだ。目立って疑われては元も子もない

 

「そんなに心配せずとも俺達が守ってみせますよ!」

 

 頼りがいのある一言に頷く。少しだけ気分が楽になった。

 

「さぁ、選ばれし官軍の勇士達! 共に戦場を駆け、格の違いを賊に見せ付けようではないか! 錦の御旗の下に!」

 

 その掛け声で錦の御旗が揚げられ、剣を引き抜いた官軍の大将が叫ぶ。

 

「抜刀せよ!――突撃!」

 

 

(十三)

 

 官軍も賊軍も数は八百ほど。それが真正面からぶつかる。

 

 砂埃が舞うあの中に、北郷がいる。

 

「義姉さん。いつでも銅鑼の準備、できてますぜ!」

 

 ――今すぐにでも鳴らせ!

 

 その台詞を必死で飲み込む。

 

 官軍の部隊が二つに崩れるときこそが、我等義勇軍の出番。

 

 ……機を逃す訳にはいかない。

 

「か、官軍が崩れ始めた! 二つに割かれていく!」

 

 ――ここだ。義勇軍が賊と中央でぶつかるとき、官軍が右翼と左翼となろう!

 

 合図を出すと、けたたましく銅鑼の音が響き渡る。

 

 私は天高く龍牙を翳す。

 

「我、常山の昇り竜なり! 我が槍は悪の魂を砕く龍の牙!! 義に集いし勇士達よ! 悪の魄を斬り裂く龍の爪となれ!! さぁ、微睡む時は終わりだ! ――全員抜刀せよ!」

 

 ……覚悟しろ、楽快!!

 

「突撃――ッ!!」

 

 

(十四)

 

「くけけけけけけ……」

 

 ドロドロと含み笑いを戦場で零しながら、巨大な十字斧を振りまわす大男がいた。

 

「ささぁ、……待ちに待ったお楽しみだ! この戦いの先には……」

 

 その男の名は楽快。その知謀で賊軍と化し、官軍を何度も敗走させ冀州で名を轟かせていた。

 

「虚勢を張る趙子龍に、少しずつ、少しずつ刻み込む。くけけ……。欲しい欲しいとアンアン鳴かせて、ああっ……、クへへッ! クへへへッ!」

 

 まさに欲望に生きる獣。

 

「この戦いの先に俺達の求めるモノがあるぅぅぅ!! けぇーぃ!」

 

 その号令に賊兵が一斉に駆け、官軍と真正面からぶつかった。

 

「んあぁ、何だぁ?」

 

 その瞬間、楽快は不可思議な手応えを感じ取る。地の利を生かし、幾度となく官軍を敗走させてきた策だ。状況も他の時と対して変わらない。だというのに、今回は違った。

 

「官軍が堪えるだと? 馬鹿な。俺の策は完璧なはずなのに……」

 

 ――何か間違いがあった?

 

 心配そうに様子を見ていた楽快の口元が、ゆっくりと釣り上がっていく。どうやら心配事は杞憂に終わったようだ。

 

「官軍の意地か? くけけけ……、笑わせてくれる!」

 

 官軍の中央があっさりと抉られていく。

 

「前進だぁ! 官軍の腸を喰い破れ! 撒き散らせ! そして招待してやろう! 俺達の理想郷に!!」

 

 楽快が号令を出したとき、銅鑼がなった。村から出てきたのは……。

 

「な、何だとぅ?」

 

 ――忌ま忌ましき趙の文字。

 

 その両隣には義の旗が掲げられている。楽快は驚愕し、己の策とかけ離れたこの状況に怒り狂う。

 

「――ああっ!? 何だよ、あれはよ!!」

 

 だが楽快は知っていた。怒りが判断を鈍らせると……。その怒りを静めようとするも、思わぬ邪魔が入る。

 

「何が、義勇軍のようですね、だよ! ――んなこた、見りゃ分かるんだよっ!! どうして官軍がいるのに、義勇軍が一緒に出てくるんだってことだよ!!」

 

 楽快の傍にいた男の悲鳴に、楽快は気に入らないと巨大な斧を躊躇なく振り下ろす。

 

 ――まさか、あの方が嘘を吐いた? 裏世界を渡り歩く伝説の詐欺師が?

 

 己の為なら一瞬で切り捨てる男。良心の呵責すらないのかと、この楽快でも思うほどの大盗賊。だが裏を返せば、こちらが優勢なら裏切る真似はしないはず――。

 

「支えにしていた者に裏切られ、飢餓で追い詰められている。暴動が起こらないはずがない! どうして奴等は集団を保っていられる?」

 

 楽快の思考は深く落ちていく。――罠か? そう思った時だった。

 

 官軍から聴こえる悲鳴を耳にして、己の策は間違っていないと、楽快は再び自信を取り戻す。

 

「くけけ、中身はしっかり腐ってるじゃねぇか。――なら義勇軍も大したことはねぇ。そのまま蹴散らして、趙子龍を捕えろ!!」

 

 

(十五)

 

「もう駄目だ! た、助けてくれーっ!!」

 

 後方から発せられた悲鳴は瞬く間に伝播し、官軍は恐慌状態となり後方から崩れていく。

 

「――俺達はまだ耐えるんだ! 皆、頑張ってくれ!」

 

『――応!!』

 

 後方から官軍の部隊が逃げてくると、中軍にいる俺達を追い抜き、最前線の部隊と合流。賊の脇腹にぶつかり抑えつける。――それを繰り返し、賊の後方へと俺達は抜ける。

 

「だ、旦那! そろそろ後方じゃないのか!? 速く逃げねぇと前からも横からも喰われちまうぞ!!」

 

 ……周りを見渡すも、皆に囲まれて何が何だかわからない。これでは逃げる機を失ってしまう!

 

「高い所で状況を確認したい! ――誰か担いでくれ!」

 

「狙い撃ちにされるなよ!」

 

 両足を抱きしめられると、勢い良く持ち上げられる。

 

 ――あれが賊将の楽快!

 

 巨大な斧を持った大きな男がよく目立った。担がれているのか、遠くでも分かる。斧をこちら側に向けて何やら叫んでいる。

 

 その方向に視線を向けると……

 

「――この先に薄くなってる場所がある! 楽快がそこに指示を出してる!」

 

「……まずいな。そこから後ろが孤立しちまう!」

 

 楽快がこちらを向いた気がした。構わず周りを見渡した途端、俺に狙いを定めている賊が笑った。

 

「……やばい! ヤバイ、ヤバイ、ヤバイ!! 下ろしてーッ!」

 

 持ち上げている男の腕を必死に叩く。が、その手に持っている矢が消えた。

 

 ――ヒュッ

 

 細く高い音が俺の横を通り過ぎていく。

 

 地面に着地した途端、真上を十数本の矢が音を立てて飛んでいく。

 

 ――ち、ちびるっつーの!

 

「――で? どうすんだ?」

 

「み、見捨てられないだろ!? ここを離れて薄い部分の助っ人にいく!」

 

「うわっ。言うと思ったぜ……」

 

 皆からがっかり感が漂ってくる。

 

 ……本当にごめんなさい。心の中で謝る。

 

「よし、行こう……」

 

 大きく息を吸い込んで、俺は叫んだ。

 

「うわぁーっ! もう駄目だーっ! 逃げろー!」

 

 

(十六)

 

『そして俺達にとって一番好ましい状況は、逃げる官軍を追いかけようとする賊兵と、義勇軍へ向かってくる賊兵とが入り混じるときだ』

 

 北郷が自信有り気に私達に説明した策だ。確かに正面を攻めるよりも、角を攻めたほうが相手は混乱するだろう。

 

 ……しかしそれだけでは話にならん。何故将は存在する?

 

 そう。常に状況を把握し、不測の事態が起こり得たなら、それに対処するために指示を出し部隊を動かす。

 

 ――故に、相手はその部分を厚く守るように指示を出すだろう。

 

 刻一刻と状況が変化する。それが戦場なのだ。

 

 地図の上に石を打つだけでは勝利は掴めない。だがもし……、目の前の状況までも見越していたのなら、褒めてやっても良いだろう。

 

 それとも……。把握していても、私を想う気持ちが強すぎて命令することができなかったか? もしそうだとしたら、武人に対する侮辱というものだが……。

 

 読みの甘い北郷のことだ。きっと偶然――。

 

 思考を打切るように、私は大きく息を吸い込む。

 

 感覚を極限にまで研ぎ澄まし、進むべき道を見極め、そして己が武で斬り拓く。

 

 ――薄くなった中央。そここそが楽快へと通ずる道だ!

 

 義勇軍を押し返そうと、賊が襲いかかってくる。

 

 ――退け!

 

 大きな半円を描くように薙いだ。

 

 その一振りで私を襲った五人が血を流し崩れ落ちる。さらに一振りで、その後ろで立ち止まった六人が、喉元を裂かれて血を撒き散らす。

 

 たった二振りで、眼に焼き付けられた死という恐怖。

 

「な、舐めるなっ、小娘!」

 

 飛び出してきた賊に、天高く掲げた槍を叩き落した。……血を迸ながら、二つの塊が地面にぐにゃりと転がった。

 

「我、常山の趙子龍なり!! 我が前に立ち塞がったことは褒めてやろう! ……どうした? 最早怖じ気付いたか?」

 

 赤く彩られた世界。――生きたい。だから恐怖する。人も獣もそれは同じ。

 

「恥じることは無い。竜に睨まれては腰を抜かして動けぬものよ。だが……、退かねば死ぬぞ?」

 

 血泥を振り落とし、槍を真っ直ぐ突きつけながら歩み寄る。

 

 私を囲むように、一定の距離を保ちながら後ずさる賊共。そして……。

 

「た、たった一人の相手に、何をしている!! 数で――!!」

 

 ――聞き飽きた台詞だった。故に、先手必勝!!

 

 どこぞの空けが言いきる前に、私は相手の懐深く飛び込み、全力で薙いだ。

 

 ……それを合図に、竜は牙と爪で血飛沫を上げながら人海の中を突き進んでいく。

 

 虚を突かれた相手は慌てふためき、混乱をきたした。

 

 

(十七)

 

 隙を見て賊の後ろ側へ回り込んだ官軍は、奮闘する義勇軍を見捨てて砦に続く道を全力で駆ける。

 

 ……後ろは絶対に振り返らない。それが彼女に対する信頼の証だと信じて。そして俺達は予定通り作戦を遂行する。

 

 失敗することは許されない。彼女が楽快を討ち取ったとしても、こちらが失敗してはすべてが無に帰してしまう。

 

 賊の恰好に着替え、丸腰の姿で砦へと向かう。その最中……。

 

「今頃、趙雲は楽快を討ち取ってるから、この砦さえ落とせば俺達の勝ちだ! ――大変だー!」

 

「どうだかな。肉壁の中を掻き分けて楽快まで辿りつけるか。その隙に逃げられるかも知れねぇ。――楽快様が、楽快様が!」

 

 周りは頷く。

 

「だな。例え辿りついたとしても、必ず討ち取れるという根拠を教えてほしいものだ。助けてくれー!」

 

「根拠? そんなの決まってるじゃないか。彼女は趙子龍なんだぞ? てなわけで、楽快が討たれたぞー!」

 

「は? ……けっ! ここでも嫁自慢かよ? おぉ熱い熱い。そら見えてきたぜ! 大変、大変だーっ!!」

 

 賊の攻撃を受けないまま、俺達は門の前まで辿りつくことができた。砦から見張りの男が顔を出す。

 

「どうした!? 何があった!」

 

 両手を必死にバタバタさせて、村の方角を指差しながら叫ぶ。

 

「大変だ! 楽快様が討ち取られちまった! 俺達はもう終わりだ!」

 

「ば、馬鹿な!」

 

「う、嘘じゃねぇよ! あいつ等、楽快様が前に出るのを狙っていたんだ! ほんの一瞬だったんだよ!」

 

「こ、こりゃ大変だ!」

 

 見張りの兵士が姿を消し、入れ違いに姿を見せた男が叫ぶ。

 

「逃げ帰ってきた奴等は、お前たちだけのようだな? まさか戦場が怖くて、逃げ帰ってきた訳じゃないだろうな!」

 

 ――げっ、劉備!?

 

 ……わ、忘れてた。

 

 嘲笑うかのように俺達を見下していた。以前浮かべていた温和そうな表情はどこにも無い。

 

「……ヤバイ。俺、劉備に顔が割れてる」

 

「まっ……目立つなよ。じっとしとけ」

 

「ほとんどが兗州側に逃げたんだ! 俺達は先に知らせに来てやったんだよ! もうすぐ仲間も逃げてくるはずだ!」

 

 劉備の視線が移り、俺を捉えた……。バレて無いよね? ね?

 

 薄汚れた顔をして、頭には布を巻いてはいるものの……

 

「おい、そこの布を巻いてる男、顔をみせろ!」

 

 ……ほんと、ごめんなさい!

 

「お前……。くくっ、あーはっはっは! 必至だな、北郷!!」

 

 事情を知らない皆が驚いた目で俺を見る。

 

 ――あぁ、やっぱり覚えてるよな。

 

「ど、どういうことだ? お前、あの男と知り合いなのか?」

 

「うん。アイツが楽快に降る前に、一悶着あってさ……」

 

 ――劉備が笑いながら問う。

 

「おいおい! お前等はどうしてそいつと一緒にいる? まさか寝返った訳じゃないだろうな?」

 

「エッ!? いや、知らねぇ奴だな。俺もいちいち全員の顔なんて覚えちゃいねぇし。一緒に逃げてきたから味方だと思ってたぜ。なぁ?」

 

「あぁ。俺も味方だと思っていた。どさくさで紛れこんだんだろ?」

 

 皆が必死に口裏を合わせるも……。

 

「……ふむ。なら、そいつを殺せ!」

 

 ――息を飲む音が聞こえる。

 

「へへっ、万事休すだ。悪く思うなよ!」

 

 突然腹に一撃を喰らい、抱え込むようにして倒れると、やれという号令に袋叩きにされる。

 

 俺は丸まりながら、歯を喰いしばり必死に耐える。

 

「このまま嬲殺しにしても良いんだが……、おい! お前自身でコイツを殺さなくても構わないのか?」

 

「ふむ、それもそうだな……」

 

 劉備は気を良くしたのか、俺達を入れるように指示を出すと、巨大な門が重々しく開いていく。

 

 動けない俺は担がれて、入城を果すのであった。

 

 

(十八)

 

 門を潜れば、遠くに町が見えた。

 

 ありえねぇ。目と鼻の距離じゃないか。助けにこいよ、隣町!

 

「……くそっ」

 

 心の中で愚痴っても助けはこない。だから意識を周囲に向ける。この状況を打開するために。

 

「おい、楽快様が死んだって本当かよ?」

 

「あぁ。周りの賊には目もくれず、趙子龍が楽快様だけを狙ってな。あっと言う間だったぜ……」

 

 砦の中では、楽快が死んだという話で持ち切りだった。

 

「楽快様が討たれちまったら最後、皆バラバラになっちまった。誰かが兗州側の部隊に合流しようって……、ほとんどそっちに走っていった」

 

「確かに、砦の入り口に殺到した所を攻められてもまずいか。それに道を封鎖するためにと、兗州には戦力の半分以上を待機させているからな……」

 

 砦の上部へと続く階段、その中腹で劉備は立ち止まる。

 

「くそっ、そうか。弟分の楽快は死んでしまったのか。……辛い。だが悲しみに暮れる時間はない。お前達俺についてこい!」

 

 劉備が身振り手振りで力強い演説を始めた。

 

「なんて野郎だ。この状況を利用して楽快の戦力を吸収する気かよ。この狡猾さ、あの楽快が弟分ってのも頷けるぜ……」

 

 歓声が上がる中、劉備は満足げな表情で宣告する。

 

「景気付けに、そこにいる北郷一刀を処刑するぞ!」

 

 早足に一段一段下りてくると、マントを翻してこちらに迫る。

 

「もたもたするなよ、三下!」

 

 仲間の舌打ちが聞こえると、両脇を抱えられて身体を起こされる。

 

「北郷……、貴様が俺の軍に来てからというもの、趙雲が周りを警戒し始めた。……心も身体も利用して、俺の玩具にする計画が台無しだ!」

 

「黙れよ、超絶勘違い最低残念、家畜の糞尿より遥かに劣る大馬鹿害虫、クソ虫野郎!! 彼女の真名を言う前に、お前の存在だけで彼女が穢れるだろう!」

 

 仲間達が口元に手を押さえ、必死に笑いを堪えていた。

 

「――おい、お前っ!」

 

 突然、劉備の近くにいた賊が叫んだ。

 

「害虫クソ虫野郎は良いが、糞尿を馬鹿にするな!」

 

 適当に悪い言葉を並べて時間稼ぎをしようとしたら、違う場所から藪蛇が出てきてしまった。……どうしよう?

 

「……すいません」

 

「いいや! 分かっちゃいねぇ! ……糞尿は臭くて、汚くて、お前みたいに嫌がる奴がいるが――」

 

 作物にどれほどの恩恵をもたらすか、と。言われてみれば貴重な肥料。その恩恵を受けている俺達が、決して馬鹿にして良いものではない。

 

 だが、急に話の雲行が怪しくなり始めた。……恥じらいがどうのこうの、これからは聖水と呼べだの、――話は違う方向へ、違う方向へと流れていく。

 

 趙雲がここにいなくて、本当に良かった!!

 

「――分かったかっ!」

 

「は、はい! とても大切なのだと、心改めたいと思います!」

 

 男が頷いて、元いた場所へと戻って行く。

 

「……あっ、話は~、もういいか?」

 

「へぇ、劉備さん。すいませんでした」

 

「……いや、気にするな。……大陸は広いからな」

 

 その一言に誰もが頷き、長い沈黙を噛みしめた。

 

 さて。という言葉に、劉備は目を見張るほどの輝かしい剣を引き抜く。

 

「無駄口叩けぬように、永遠に黙らせてやる!」

 

 ――そして銅鑼の音と同時に駆けた。

 

 突き刺そうと走ってくる劉備から目を離さず、俺達は会話する。

 

「旦那、長かったな。待ちに待った官軍の合図だ」

 

「それよりも、前!」

 

「心配しなさんな。せーので跳ぶんだ、行くぞ!」

 

「せー、のっ!」

 

 その瞬間、浮き上がった俺の下を劉備が通過していく。着地して振り向けば、背中に足跡を付けられた劉備が地面に打っ伏していた。仲間達が群がり腰から鞘を引き抜いて、剣を奪い取る。

 

「旦那、持ってろ!」

 

 無理やり宝剣を押しつけられる。抜け出した劉備が赤く濡れた手で鼻を押さえながら叫ぶ。

 

「くっ、俺の宝剣が! 貴様等、絶対に許さんぞ! 裏切者を殺せ! 宝剣を奪い返した者には、それ以上の価値ある褒美を与えてやる!」

 

 一斉に襲ってくる賊に、仲間達が次々と斬りつけられていく。

 

 血を流しながらも相手から武器を奪い取ろうと、相手の腕に纏わりつく。

 

「――死ね!」

 

 仲間の一人を狙って、剣が振り下ろされる。

 

「させるかっ!」

 

 無我夢中でその軌道に割り込んで、宝剣で真正面から受け止める。

 

 ……くそっ! 力が!

 

 重い一撃。力負けする訳には絶対にいかないのに!

 

 迫る男の顔が苦痛に歪み、口から鮮血を噴き出す。男の脇腹には剣が刺さっており、引き抜かれるとそのまま崩れ落ちた。

 

 助けた男が落ちた武器を手に取り、俺の横に並んで残念そうに呟く。

 

「あ~あっ、折角の宝剣に傷が……」

 

 

「自分の命の心配しろよ! 宝剣なんてどうでも良いだろ!?」

 

 ――助かったぜ! とか感謝の言葉を期待していただけに、まさかの台詞に全力で突っ込んでしまう。

 

「二十人程度に何を手古摺っている!」

 

「こいつ等、訓練されている! かなりの手練だ!」

 

 二十人程度でも俺達は決死隊だ! そう易々と殺されて堪るものか!

 

「――りゅ、劉備様!! 大変です! 官軍が攻めてきました!」

 

 突然上から、悲痛な叫び声が聞こえる。

 

「ちっ、絶対に門を死守しろ! 俺が戻ってくる前に皆殺しにしておけ!」

 

 そう言い残して階段を駆け上がって行く。

 

 猛攻に必死に耐える。背後から徐々に光が差す。閂が外れたんだ!

 

 でもこのままだと押し出されてしまう! そうなれば最後。上から矢を放たれて……。

 

「――旦那! 何か策はねぇのかよ!?」

 

 仲間たちが助けを求めてくる。何とかこの状況を――!

 

 ……こうなったら、一か八かだ!

「良く聞けよ、あんた達! 劉備は俺達の味方だ! 賊に降ったのは劉備達の策だ!」

 

「抜かせ、小僧!」

 

 俺の言葉を無視して襲い掛かってくる奴もいれば、逆に耳を傾ける慎重な奴等もいる。

 

 完全に門が開く。向こう側に見えるのは官軍が舞上げる砂塵。

 

「な、なら! 官軍が劉備の姿を見つけたとき、どんな反応をすると思う!?」

 

「そんなの決まってるだろう! そらそら死ね死ねっ、裏切者は死ねーっ!」

 

「――旦那、限界だ! 押し出されちまう!」

 

 だが次の瞬間、天は俺達に味方した。

 

「劉備殿がいるぞ! 劉備殿! よくやってくれたぁぁっ!」

 

 官兵達が一斉に歓声を上げたのだ。

 

 賊に降った振りをして、内部から隙を窺う。これこそが劉備達の起死回生の策。それが成功したのだと官軍は思っているのだろう。

 

 賊達に動揺が走る。村を裏切った劉備が称賛されるという、この有り得ない状況に動きを止める。

 

「ば、馬鹿な!? 裏切った劉備と楽快様は知り合いで、仲間のはず。何故俺達を裏切る!?」

 

「ならあの官軍の喜びを、どう説明する! ……絶対にありえない!」

 

「もしや楽快様が知らずに追い詰めた、その報復では!?」

 

 ほんの少しで良い。議論させて、彼等が答えを導き出す前に……!

 

「――裏切者が称えられるものか! 逃げろ! 早く逃げろ! 官軍が突入してくるぞ!」

 

 この一押しで誰かが逃げていく。そしてまた一人、自ら決断を下した賊が逃げていく。

 

 その姿を見て、己も逃げねばと走りだす。

 

 恐怖が、連鎖する。

 

「……旦那、何をしている!?」

 

「えっ? 何って……」

 

 強引に俺の腕を掴んで走り出す。そこに勢い良く官軍が雪崩れ込んだ。

 

 逃げ惑う賊に、さらには味方であるはずの俺達にまで、官軍はその刃を振り下ろした。

 

 

(十九)

 

「ま、まさか官軍が囮なのか!? 前方両側に戦力を集中させたところで、薄くなった中央に捻じ込んでくるだとぉっ! くそくそくそっ、全力で止めろ! 動きさえ……、動きさえ封じてしまえば!」

 

 だが、止まらない。趙子龍から刳り出される一撃に何人もの賊兵が血を流し、宙を舞っては地面へと叩きつけられていく。

 

 また一人、地に落ちた。……気付けば、昇り竜が目の前に迫っているではないか。

 

 賊兵達は無意識に、避けるように下がる。……無理もない。本能が身体を動かすのだ。命を惜しむ者ばかりなのだから。

 

 打って変わって義勇軍と距離のある者達は、彼女の流れるような槍捌きに目を奪われる。荒々しい戦場の中で時折見せる、ふわりと宙に舞いながらの槍撃。――その美しさに身惚れて、一人、また一人と足を止める。

 

 故に、自ずと楽快の道が出来ていく。

 

 ……そして。

 

「――楽快だな。その首、貰い受ける!」

 

 息を切らし不敵な笑みを浮かべた趙子龍と、賊将楽快との一騎打ちが始まる。

 

 

(二十)

 

 龍牙を下段に構え、駆ける――。

 

「てーぃ!」

 

 生け捕りにしようと足元に放たれた矢は、すべてが地面に突き刺さる。

 

 槍の柄を地面に突き刺し、跳んで矢を避けると速度をそのままに、いや、加速する。彼女の重圧に耐えられず、震える男の手から第二矢が零れ落ちた。

 

 擦れ違いざまに斬り捨て、一気に距離を詰める。そうはさせまいと立ち塞がった賊の顔を踏み台にして、楽快目掛けて大きく跳躍した。

 

 が、楽快を目の前にして、彼女はふらりと崩れ落ちた。

 

 義勇兵からは悲鳴が上がり、賊兵が鼻息を荒くして楽快の名を叫ぶ。

 

「くっ、肝心なときに立ち眩みだと……!? くそっ!」

 

「無理が祟ったようだな――。くけけ……」

 

 膝をつき、苦しそうに肩を上下させる子龍を見て、楽快は打って変わって自信に満ち溢れた。

 

 中央から懐に入られるとは、全く予期していなかった楽快。逃げようとした矢先、獲物が目の前で膝を付いた。――最後の最後で俺の策が勝ったのだと心の中で喜ぶ。

 

 腹を空かせ、弱りきった敵将を何度も一撃で叩き潰してきた楽快が、今回もまた同じように、その巨大な斧を天高く振り翳した。

 

 ――趙子龍さえ潰してしまえば、目的は果したようなものだぁ。

 

「くけけっ、身体は正直だぜぇ? 腹を空かせた小娘に、我が渾身の一撃は耐えられまい! 吹き飛べぇぇっ!」

 

 受け止めようと頭上に掲げた龍牙に、巨大な斧が振り下ろされた。

 

 

「楽快、敗れたり……」

 

 

 振り下ろされた斧が火花を散らしながら、龍牙の上を滑り落ちた。

 

 と、同時に爆音が響き土埃が二人を覆い隠す。

 

 固唾を飲んで見守る義勇兵。

 

 仕留めたと胸躍らせ、力を溜める賊兵。

 

 徐々に視界が晴れ……、二人が姿を現した。

 

「ば、……馬鹿な!?」

 

 振り下ろしたままの姿勢で動けずにいる楽快。それはまるで趙子龍に首を差し出すような姿で、その瞳は驚愕と恐怖で震えていた。

 

「ま、まさか! あ、有り得ねぇ。全てが有り得ねぇ!」

 

「確かに。本来ならばあの一撃を受け流すことができず、言葉通りに吹き飛んでいた。……だが私には、愛する人が分けてくれた命の糧があった」

 

「ぐげっ、どこで計画が狂ったのだ!」

 

「狂う? 我等の常識など、いとも容易く覆すあの御方を量り知ろうなどと、おこがましいことを言う……」

 

「その非常識に、この俺様が後れを取っただと……、非常識? まさか……。くけけけ、まさかまさか、くけけけっ!!」

 

「話は済んだ。……死ね」

 

 首を刎ねようと、彼女が力を溜めた瞬間だった。

 

「そういや、頭を出して狙撃された馬鹿が官軍に一人いたなぁ~」

 

 微かに眉を動かした趙子龍を見て、楽快の唇元が嫌らしく釣り上がる。

 

「――くけけっ、俺は知っているぞぉ。……北郷という男だ! 死んだぁ~! 例え運良く生きていても、仲間に踏まれて助からない! あぁ~、もう会えないなぁ~。愛する男の声も、温もりもぉ~、優しさも! 全て消えちまった!! くけけけけっ!」

 

 浴びせるように言い放ち、何度も笑う。

 

「そう、その顔だぁ~。勝ち誇った相手の顔が歪み、そして血の気が引いていくのが堪らねぇ~。 ……もう会えない、げひひ! もう会えない。もう会えない! 残念だった――」

 

「黙れ……。黙れ、黙れッ!」

 

「なあああああぁーっ!!!」

 

 最後の言葉を紡いだ楽快の首が転がると、胴体から血飛沫が噴き出した。

 

「賊将楽快、常山の趙子龍が討ち取ったりーっ!」

 

 歓声と悲鳴が入り混じる中、首だけになっても楽快は卑猥な笑みを浮かべて、天高く槍を掲げる趙子龍をじっと見詰めていた。

 

 楽快を失うと賊は一瞬にして崩れ、敗走を始める。

 

 ――モタモタしている場合ではない。

 

 目的は果したと、追撃の指揮を部下に任せて村へと戻る。そして馬に跨り村の外へと跳び出した。

 

 ――馬を潰してでも、早くあの御方の下へ参らねば!

 

 彼女は思う。まるであの悪夢を見ているようだと……。

 

 すべてを覆い隠すような暗雲が、立ち込めていた。

 

 

(二十一)

 

 ――皆は無事だろうか。

 

 必死で逃げた。官軍から。そして宝剣を狙う追手から。

 

 俺を守ろうと、仲間達が一人、また一人と傷ついていく。

 

 ――この剣さえ捨ててしまえば!

 

 だがそれを仲間達は許さなかった。そして傷ついていくのだ。この宝剣一つのために。

 

 ……耐えられなかった。捨てられないならと、俺は単独で薄暗い森の中へと逃げ込んだ。

 

 俺一人だけなら、仲間が襲われる心配は無くなる……。

 

 死に物狂いで逃げてきて、俺は倒れるように一本の木に凭れ掛った。

 

 もう動けそうにない……。

 

 辺りを見渡すと誰もいないようで、そこでやっと息を整えることができた。

 

 それにしても……。

 

「何で味方の俺達が逃げなきゃいけない?」

 

 興奮した官軍は見境なく賊を斬り殺していった。

 

『殺せ、殺せ、殺せ! 賊の姿をしている奴等は――皆殺しだ!』

 

 味方である俺達が賊の恰好をしていることを知っているのに……。

 

 そしてそのまま隣町へと向かっていった。

 

 きっと近いうちに援軍が来て、食糧も運ばれて……、皆が助かると良いんだけど。

 

 ――取り敢えず、これからどうしよう?

 

 隣町に逃げ込んだり、援軍を待つのは難しいか。賊の恰好してるし……。

 

 やっぱり趙雲と合流かな。そのためにはこの森から出て、村に戻る必要があるんだけど……。

 

 賊に見つかずに、どうやって?

 

「趙雲、迎えに来てくれないかなぁ……」

 

 俺は天を仰いだ。

 

 

(二十二)

 

 何処にいる。……何処にいる!!

 

 砦の門を抜けた先には、背中から斬り殺された賊の死体、死体、死体。

 

 死体でできた道が隣町へと続いていた。

 

 ――官軍は隣町に向かったか。

 

 今頃、たらふく飯を食らって安堵していることだろう。

 

 ……だが今は官軍などどうでも良い。

 

 黒く焼け焦げ、骨組みだけになった砦を後目に、愛する者の名を叫ぶ。

 

 返事は無い。逆に賊が行く手を阻むように、私の前に現れては立ち塞がる。

 

「おい、止まれ! 女――!!」

 

 擦れ違いざまに首を飛ばし、そのまま隣町へと続く道を駆ける。

 

「し、子龍殿! 趙子龍殿ぉぉー!!」

 

 突然私の名を呼んで、必死に近付いてくる男が視界に入った。

 

 手綱を強く引くと馬が苦しそうに嘶き、これ以上は付き合ってられないと言わんばかりに、私を振り落とそうと後ろ脚で立ち上がる。

 

「――すまない! だが分かってくれ! 良い子だから!」

 

 馬を必死になって宥めていると、青ざめた男が私に向かい、すまぬ、すまぬと必死に謝罪してくるではないか。

 

「謝ってばかりでは分からぬ!」

 

「だ、旦那が俺達を守ろうと、一人で山に逃げ込んじまった!」

 

「――なっ!」

 

「旦那は劉備の宝剣を持って逃げているんだ! 劉備達がそれを血眼になって探し回っている! ――旦那が殺されちまう!」

 

「劉備の宝剣!? この状況で何て厄介な物を――!」

 

 思い浮かべる。その持ち主が高貴の出だと言われれば、納得してしまいそうなほどの美しい剣。北郷がそれを持って逃げている。――劉備のような悪党の手に渡ればどうなるか……。捨てるに捨てられないのだ。

 

「頼む、旦那を!」

 

「――言われずとも!」

 

 私は馬を乗り捨て、木々が生い茂る山中を駆ける。

 

 ……まだ生きている。信じている! 必ず助ける、北郷!

 

 だがその願いも虚しく……。

 

 

「いたぞぉぉぉー!」

 

 

 声が山中に響き渡る。……北郷が見つかってしまった。

 

 息が上がる。苦しくても、立ち止まる訳にはいかぬのだ。

 

 生い茂る草木が、私に無数の傷を付けていく。

 

 何としても……、何としても!

 

「――北郷!」

 

 私の声が届きさえすれば……!

 

 今そちらに向かっているからと、彼を勇気付けられるのに。

 

 声がした方へ直走る。私だけでは無い。左右から草木を掻き分けて進む音が聞こえてくる。

 

「げっ! やっぱり趙子龍だ! 趙子龍がいるぞーっ!」

 

 賊が仲間を呼ぶ。目の前に弓を持った三匹の賊が立ち塞がる。

 

 ――相手にしている暇など無い!

 

「押し通るっ!」

 

 放たれた三本の矢。その一本が肩を掠め、服を切り裂いた。向かってくる私を恐れ、悲鳴を上げた男を吹き飛ばし、両側にいた賊の弓を潰して先へと急ぐ。

 

「そっちは崖だ。追え! これで奴は袋の鼠だ!」

 

 騒がしい。かなり近い!

 

「北郷――!!」

 

「趙雲!? ――趙雲!!」

 

 彼に届いた!

 

「今そちらに行く!」

 

「合流させるな! 早く北郷を死止めろ! 趙子龍を足止めしろ!」

 

 またしても、私の前に立ち塞がる賊!

 

 何かが、何かが私の身体の自由を奪う……。思うように相手を往なせない!

 

 ――焦っているのか。

 

「行かせるかよっ!」

 

 ――疲れているのか。

 

「駄目だ! 俺達じゃ手が出ねぇ!」

 

 数人では敵わないと、仲間の下へと逃げていく。

 

「そうだ。良いことを思い付いた。お前を生け捕りにして、目の前で趙子龍を這い蹲らせてやるぞ。ふはははは!」

 

「劉備、貴様ぁっ!」

 

「北郷、構うなっ!」

 

 徐々に視界が開けていく。茂みを抜ければ、河が見下ろせる見渡しの良い場所に出る。

 

 ――見つけた! すぐさま彼の下へと走る。

 

「くそっ、もう少しで――。宝剣はもう良い! そいつを崖から突き落とせっ! 長安の城壁なんて目じゃない! この高さから落ちれば、例え下が河でも絶対に助からん!」

 

 ――間に合えっ!

 

 追い詰められた北郷に剣が振り下ろされる。

 

 北郷がそれを宝剣で受け止め、力が均衡したその瞬間……。

 

「あばよっ!」

 

 彼の両足が地面から離れ、宙に浮いて――

 

「――北郷ぉぉぉっ!」

 

 

(二十三)

 

「貴様等ぁぁぁぁ!!」

 

 近付けば私を避けるように、散らばりながら距離を取る。

 

 ――おのれっおのれっおのれぇぇぇぇっ!

 

 槍が空を斬る。斬る。

 

 声にならない悲鳴を上げて、武器を振り回す。

 

「……はぁ、はぁ、っ。あぁぁぁっ!! ……許さんぞ! どこまでも追いかけて、皆殺しにしてっ――!?」

 

 賊の一人が私では無く、崖下に矢を向けた。

 

 ――まさか!

 

 すぐさま地面に落ちていた石を投げつけた。男の手元が狂い、あらぬ方向へと矢が飛んでいく。

 

 私と眼が合うと、男はすぐさま距離を取った。

 

 追わずに崖の下を見る。まるで城壁のように垂直な斜面。

 

 そこに、そこに彼が張り付いているではないか!!

 

「北郷! すぐ助ける!」

 

 生きていた! 手を伸ばすも、届かない! ならばと槍を目一杯伸ばそうとしたとき……。

 

「――今だ!」

 

 ――くそっ!

 

 立ち上がり、すぐさま槍を構える。私から距離を取った賊が戻ってきて、襲いかかってくる。

 

「――邪魔を、するなぁぁっ!」

 

 振り下ろされた剣を弾く。私から距離を取ろうとするが、させない。その背中に槍を振り下ろし、倒れた相手を突き刺して絶命させる。

 

 ……先にこちらを片付けねば!

 

「――北郷!! もう少しの辛抱だ!! 必ず助ける! だから絶対に諦めるな!!」

 

 私は敵目掛けて駆ける。――が、相手は散り散りになって逃げていく。一人一人追いかけている時間など、もう無いのにっ――!

 

 ならば少しでも遠くに追い払って、その間に北郷を引き上げる!!

 

 槍を何度も振るって賊を追い払ったあと、私は彼の下へと急ぐ。そして崖下へと槍を伸ばして彼の名を……。

 

「ほんっ」

 

 それ以上、言えなかった。

 

 届かない。彼に届かない。……何故だ。何故、届かない! あとほんの少しなのに!

 

 北郷が苦しそうに声を上げる。手を伸ばす。……届かない。

 

 ……嫌だ。

 

「くそっ、こうなったら趙子龍も突き落とすんだ!」

 

 次々と賊が私目掛けて襲いかかってくる。

 

「くっ、何度も何度も!」

 

 突き出される剣をあしらい、身を翻して逆に崖から突き落とす。

 

「北郷、待ってろ。すぐに縄を探して――っ!」

 

 北郷のすぐ傍を矢が掠めていく。

 

「――貴様ぁぁぁっ!」

 

 弓を手にした男が、悲鳴を上げて一目散に逃げていく。

 

「趙雲! 俺を置いて逃げてくれっ!」

 

「な、何を馬鹿なことを!」

 

「ごめん。もう……」

 

「な、何を弱気なことを! 諦めるな! 二人で――っ!」

 

「死ねぇ、趙子龍!」

 

「――くぅっ!」

 

「趙雲!」

 

「――私のことなど心配するな!」

 

「俺を置いて逃げてくれ! でないと趙雲が! ――お願いだから!」

 

「断る! 私は北郷に助けられたのだ! 今度は私が貴方を助ける!」

 

「……ありがとう」

 

 ――何だ、その言葉は。

 

 一瞬でも余所見をすれば、賊が襲いかかってくる。このままでは……。

 

「……今まで、本当にありがとう。一緒にいれて、楽しかった」

 

「まだだ! 私はまだお前にちゃんと謝っていない!」

 

 一歩踏み出した途端、相手が一目散に逃げ散っていく。

 

「皆の為にと献策し! ――あの男に渡した書簡を艶文などと、くそっ! お前を信じてやれず、真名を返せと酷いことを!」

 

「……構わない、って」

 

「貴方は、愛していると言ったくせに、まだ一度も私の真名を呼んでくれていない!」

 

「……再会した夜に、呼んだじゃないか」

 

「あれは無効だ! 初めての真名が、さよならだなんて……、私は認めない!」

 

「……勝手っ、すぎ!」

 

「北郷! お前は私を置いて逝くつもりなのか!」

 

「……」

 

「一刀! ……主!」

 

「……っ」

 

「嫌だ! ……嫌だ! お願いだ、北郷! 諦めないでくれ! ――諦めないでっ、主!!」

 

 ――彼が私の前から居なくなってしまう! 一生! そんなの認めない! 絶対に嫌だ!

 

「私の傍にいてくれ! 私の傍で、傍で真名を呼んでくれ!」

 

「北郷の小僧、聞こえるかぁ~? お前が早く落ちなきゃ、趙子龍が矢の的になるぞぉ?」

 

「劉備、貴様ぁぁぁっ!」

 

 劉備が笑っていた。まるで喜劇でも観ているかのように。

 

「――何かな? くっ、ふははははっ! 後始末は任せる。あぁ、そうだ。貴様が必死になって守ろうとした村は、俺が責任を持って潰してやる。……苦しんで死ね!」

 

 あの男が、――逃げていく!

 

「い、行ってくれ。村を、守らないと……」

 

「なっ、馬鹿なことを言うな! お前を置いて――!?」

 

 ……どうして、どうしてそんな顔をするっ!

 

「おかげで、踏ん切りがついた。守らなきゃ……、趙雲の主なら村も、君も」

 

「……置いて逝かないで、主」

 

 彼が宝剣を天高く掲げて……。

 

 彼は、彼は自ら……。

 

「……北郷?」

 

 私の呼び掛けに、答える人はもう……、いない。

 

「うぅ……、あぁぁぁぁっ!」

 

 やっと気付いたのだ。……心に、決めたのに。

 

 失ってしまった! 光を! 希望を!

 

 助けられなかった! ……愛する人を。……全てを捧げるはずだった、あの人を!

 

「死ねっ、趙しっ――!!」

 

 ――守れなかった!

 

 闇に包まれていく。夢のように。何も聞こえない。

 

 熱い。身体が赤く染まっていく。何も、考えられなくなっていく。

 

 守らねば……。

 

 あの人が守ろうとした村を、仲間を。あの人の命を無駄にする訳には、いかない。


 
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