恋姫†夏祭り
「朱里の夏、ドキドキの夏」
夏。それは心躍る季節。
夏。それは浪漫。
夏。それは……
* * *
天高く積まれた紙束を崩さぬように、慎重に一枚手に取った青年が、その内容を軽く目で追って静かに印を押して呟いた。
「……暑い」
言ったところで涼しくなる訳でも無く、無駄だと分かっていても何度も口にしながら、彼は気怠そうに政務に勤しんでいた。
* * *
彼の名前は、北郷一刀。特筆するほど強い訳でも、賢い訳でもなく、東京浅草生まれの、至って健全な高校二年生だった。
そう、だったのである……。
目が覚めると、突然何もない荒野に放り出され、――聞けば、そこは三国志の時代ではないか。……しかも有名な登場人物が、ドキッっと心奪われる女の子!! まさに妄想と煩悩の塊のような物語の中に――えっ、それ何てエロゲ?
――こやつめ、ハハハ!
簡単に言ってしまうと、彼は突然パワレルワールドに飛ばされてしまったのだ。
そんな苦しい時代で、彼は『天の御使い』として活躍し、沢山の仲間に支えられ、皆が笑って暮らせる国を築こうと現在奮闘中なのである――。
* * *
――ドサッ
「ご主人様、至急の案件です……」
その艶やかな黒髪を、向かって右側の高い位置に束ねた美しい女性は、きびきびとした無駄のない動きで、一刀の目の前を塞ぐように書類を置いた。
暑い中でも平然を装い、涼しげな顔をしているこの人物の名は、関雲長。真名を『愛紗』という。
真名とは、文字通り真の名。相手を認め、絆を深め、真名で呼び合うことこそ、この世界では揺るぎない信頼の証。また許されてもいないのに、本人の前でうっかり口にしてしまうと、剣を向けられ、振り下ろされても文句は言えないという、少し変わった風習がこの世界にはある。
一刀の眼の前で愛紗の胸が揺れ、その存在を存分に主張する。彼は天に感謝するも、その案件の多さにすぐさま肩を落とした。
「あ、愛紗……、お、お願いだから、そこには置かないでくれ……」
愛紗の柳眉がピクピクッと動くと、一刀をジト眼で睨みながらその理由を問う。
「――どうしてです?」
「そ、それは……、唯一の風の通り道だし、そこに置かれると、その……。色々と困る訳でして……」
一刀がたじろきながらそう答えると、愛紗は『色々ですか?』っと、とびっきりの笑顔で首を傾げる。
だが次の瞬間、真面目な表情を取り繕い、『私、不機嫌です』と言葉に滲ませ、だらけきった彼を窘める。
「そのようなだらしのない恰好をされているから、余計に暑いと感じるのです! 気が緩んでいる証拠です! それから、ご主人様の目の前にしか置き場所がありませんので、残念でしょうけど諦めて下さい。……では宜しくお願いします、ご主人様」
心なしか語尾を強め、愛紗は一礼して政務室から出ていってしまった。
――愛紗、分かっていて置いていくんだもんなぁ~。
そんな溜息混じりの想いとは裏腹に、彼の表情には笑顔が零れ落ちていた。
……いつか必ず、あっと驚くサプライズでその胸一杯に幸せを満たして、あんなことやこんなことを彼女の口から言わせてやると、愛紗の深い愛を感じずにはいられない一刀であった。
「はわわ~、ご主人様~」
高く積まれた急ぎの案件が、寂しそうに甘えた声を発した。
――否。
「――朱里っ! 無事かーっ!」
愛紗が築いていった壁の向こう側に、取り残された子猫の安否を確認するかのように、一刀は叫んだ。
が、それは全くの逆――。竹簡、書簡の山に、ぐるりと囲まれた一刀の安否を確認する声であった。
「は、はい! と、取り敢えず愛紗さんが持ってきた、至急の案件を片付けてしまいましょう!」
「了解、すぐに片付けて、朱里に逢いに行くよ!」
「――はわわ~っ! 嬉しいです! 私もご主人様と逢うために頑張っちゃいます!」
急ぎの案件で隠れてしまった彼女の名は、諸葛孔明。真名を『朱里』という。その姿は小柄でとても愛らしく、一件頼りなさそうに見えるも、神算鬼謀で一刀や仲間達を支える、蜀を代表する人物の一人である。また愛紗に負けず劣らず、溺れるほどに彼を愛してしまっているどうしようもない内の一人である。
力強さが増した捺印、彼の走らせる筆の音を耳にして、よしっと一つ朱里が意気込み、筆先をトンッっと紙の上に落とす。次の瞬間、
――バササーッ!
二人に挟まれた案件が宙に舞う。
一番上にある案件を取ろうと、腰を上げた一刀は目を疑った。舞い上がった紙が、朱里の周りで静止しているではないか……。
その一枚を手に取り筆を落としては、また腕を伸ばす。物凄い速度でそれを繰り返す。
一刀は錯覚かと目を擦ると、今度は朱里から何本もの腕が生えていた。
――ヤバッ、俺も仕事しないと!
だが案件を取ろうとする彼の手がすぐに止まる。次々と舞い上がる案件を、どうやって取ろうかと、腕を伸ばしたり引っ込めたりするのであった。
朱里のおかげで、あっと言う間に急ぎの案件を片付けることができた一刀。だがまだまだ仕事は残っている。
「あぁぁ……、暑い」
ポリエステルでできた白い制服を脱ぎ、汗で濡れた黒いTシャツ一枚になって一刀は筆を動かす。
――さすがに裸になる訳にもいかないしな。
以前、愛紗が補佐についたときの話だ。もう我慢ならんと服を脱ぎ捨て上半身裸になると、愛紗が真っ赤になって、動かなくなってしまった苦い経験を持つ。
朱里も動かなくなっては大変だと彼は自重したのだが、一刀の制服を脱ぐ姿に、朱里の心は、はわわ、はわわの大乱舞だった。
* * *
朱里は愛紗からこんな事を聞かされていた。
「それにしても、ご主人様は困ったものだ……。いや、鈴々がだな、『お兄ちゃんが部屋で、すっぽんぽんで眠っていたのだ!』と、大声で報告しに来てだな、んっ、んっ!」
恥しそうに、愛紗が何度か咳払いをして続ける。
「まぁ、自室にいらっしゃるときまで、私も口煩く言うつもりはないのだが、今度は翠が、『ごごご、ご主人様が政務室で、すっすすす、すっぽんぽんぽん!』と、報告してきてだな……。はぁ……」
お二人とも何て羨ましい!! と、朱里は叫びたかったが我慢した。取り敢えず無難な相槌を打った。
さらに目の前の愛紗は話を続ける。
「私の場合は服を突然お脱ぎになられて、目の前で上半身を露わに……、けしからん」
と言いつつも、身体をもじもじさせて愛紗は顔を真っ赤に染めた。
――なっ、自慢ですか……!? 愛紗さんも自慢ですかーっ!!
実は、朱里は紫苑にも自慢されていた。
「ご主人様が下着一枚で政務に励まれていたの。お疲れだと思ったので、うふふっ」
妖艶に口元に触れる。ちなみに、そのとき一緒に居た星は……。
「ふむ、暑かろうと主を脱がせたまでは良かったのだが、興が高じて――、おっと、これ以上は言えんな」
こいつらご主人様の仕事中に何やってんだと、さすがに心の中で舌打ちした朱里であった。
* * *
――とうとう、私の番です!
朱里は心の中で拳を握り締める。
――この時を待っていました!
朱里が心の中で鼻の息を荒くするも、一刀が上着を脱いで政務に戻ったことで、がっくしと肩を落とした。
「ど、どうしたの? 何だか残念そうだけど?」
「な、何でもありゅ!……はぅーっ」
「あぁぁっ、暑いぃっ」
「ほ、本当に暑いですね~、ご主人様」
一刀の真正面に陣取る朱里は、彼の止め処ない呟きを鬱陶しがることもなく、律儀に相槌を打ちながら筆を踊らせ、美しい文字を紙に刻んでいく。
「この暑さじゃ、さすがに集中力がもっ……」
黙々と仕事をする朱里を見た一刀は、さすがにだらしなかったと、気合を入れ直して再び筆を動かし始める。
――パタパタ
が、暑さに耐えかねて、シャツを摘まんで風を送り込む。勿論その間、筆は止まり彼の仕事は一向に進まない。
だがここに来て、朱里の筆もピタリと止まってしまった。
「……ん? あぁ、ごめん! 俺、邪魔してるよな」
「……い、いえっ! とんでもありません! どうぞ続けてくだしゃぃ!」
その一言に、朱里は慌てて否定すると、再び筆を動かし始めた。
「そう?」
――パタパタ
一刀は前のめりになりつつ、難しい案件に頭を悩ませる。
「(チラッ、チラッ)」
朱里がそわそわと浮足立つ。
――パタパタ
一刀が唸り始めた。
「(……ジーッ)」
その光景を心に刻もうと、朱里は何度か身体をずらして一点に集中する。
「(はわわっ、ドキドキします! ……もう少しで、はわわわわ……)」
「(……チラッ)」
「(――はわわーっ!!)」
一刀に見られて慌てふためき、視線を落とし物凄い速度で筆を動かし始める。が、その顔は真っ赤に染まっていた。
……筆を止めて、ぼーとこちらを見詰めていた朱里に、どうにも様子が変だと一刀が出した結論は……
「朱里、ちょっと待ってて!」
「えっ! ご、ご主人様~っ!?」
「はぅー、ご主人様に嫌われてしまったかも……。くすん……」
朱里は落ち込んでいた。
必死になって覗いていたのは、チラリチラリと見える彼の胸元。その胸に包まれたことのある朱里にとって、それはもう意識せずにはいられなかった。
「変な子だって、覗きが趣味だって思われたかも……」
一刀が部屋を飛び出してから、結構な時間が流れた。自分は主人に見捨てられたのかもしれないと、――普通に考えれば有り得ないのだが――、そんな不安に急に駆られる朱里。
「うぅぅ、ご主人様~、ご主人様~」
寂しさを紛らわす為に、朱里は一刀の制服を抱きしめる。
「はぅぅぅ~~~……」
気付けば、何と畏れ多いことを仕出かしているのか。天の御使いの服に顔を埋めているのだ。このことがご主人様や、他の子達にばれたら……。
――でもでもっ!
制服に袖を通す。愛する人に包まれている気分になり、彼の袖を頬へと擦りつける。
「――朱里? 何やってるの?」
「はぅぁーっ!!」
ピピーンッっと背筋を伸ばして叫ぶ。
――言い逃れのできない痴態を、よりにもよってご主人様に!
終わったと、朱里は思った。
北郷一刀はこの暑い中、服を着こんでいる朱里の行動が理解できないでいた。
「ごめんなさい! もうしません! 出来心なんです!」
早口で二回繰り返した彼女は、どんな罰でも受け入れますと言わんばかり。まさに俎上の魚そのものであった。
「……出来心? それよりも朱里、大丈夫?」
――ガガーン!
その一言に朱里は一瞬傷つくも、すぐに早合点だと気付く。
朱里の足下に水と手拭いが入った桶が置かれ、一刀が心配そうな表情で朱里に手を伸ばす。
緊張からか、朱里の身体が強張る。
一刀は構うこと無く制服を脱がせ、鈴の首飾りから伸びる赤い紐を緩めて襟を広げた。
彼女の白い首筋が見え、鎖骨が露わになっていく。
――はぅぅ~~、ご主人様ぁ、ご主人様ぁ……。
朱里の両肩が露わになり、されるがままに朱里は服を脱ぎ落とす。真昼間から大胆そのもの。だがその彼の優しさを拒むことなど誰ができようか。
――嬉しいです、ご主人様。
彼の行動は、熱中症の症状を少しでも和らげようと気遣ってのこと。朱里もそのことを理解し、状況に流されることにした。彼にすべてを委ねる。
小さな胸を上下させ、頬を上気させて、愛する主人の優しさに、満たされていく少女がそこにいた。
一刀が手拭いを水に浸し、絞りながら朱里に語りかける。
「井戸から汲んで来たから、冷たくて気持ち良いよ」
手拭いが頬に触れると、想像以上の冷たさで朱里は少し驚いた。
「んっ、気持ち良いです……」
その言葉を聞いた一刀は、朱里の顔を万遍なく拭く。
「ご、主人、様ぁぷ。その……、一人で大丈夫、ですから~~っ!」
喋る朱里に、問答無用で顔を拭き続ける一刀。
「そう? それじゃ、朱里は――」
「あ、お待ちください!」
朱里は手拭いを水に浸してから絞ると、一刀の額に浮かんだ汗を拭き取っていく。次は腕を丁寧に拭いて行く。
「し、失礼します!!」
「朱里!?」
顔を真っ赤にさせて、シャツの中に手を入れて動かす。
「ちょ、朱里、手拭いが汚れて――」
「えへへ、構いません♪ 涼しくなりましたか?」
「あぁ、ありがとう。それじゃ朱里は休んでて!」
一刀は椅子に座って、仕事を再開した。
朱里は上半身を手拭いで押さえ、丁寧に汗を拭き取っていく。
先程までの幼さを残す表情とは違い、頬を上気させ、気持ち良さそうに吐息を漏らす朱里が余りにも色っぽく、一刀の心は激しく掻き乱されていた。
「(――チラッ)」
一刀がまた朱里を盗み見た。彼のその行為を朱里は心の中で素直に喜ぶ。
――ご主人様、意識してくれているのかな♪
「ふぅ、気持ち良いです~」
――パタパタ。
一刀の動きが固まった。
――わ、私の胸元に、ご主人様の視線が!
その一刀の行為が、朱里の悪戯心をむくむくと肥大化させていく。
――はわわっ、下着が見えちゃうかも。でも喜んでくれるかなぁ?
座っている椅子に片足を乗せ、膝上まである靴下の留め具を外し、指を掛けてゆっくりと下ろしていく。
一刀が息を飲み、覗きこんだ瞬間、
「失礼します、ご――」
時が止まった。
愛紗監視の下、黙々と仕事を終わらせた二人は、中庭へと向かった。風通しが良く、夕涼みをするには絶好の場所なのだ。
「し、失礼します!」
朱里が一刀の隣に寄り添うと、遠慮がちに小さな足を水の張った桶の中に入れた。
「はぅ~、冷たくて気持ち良いです~」
ほんわかと、朱里の顔が弛む。
そこにはいつもの朱里の、可愛らしい笑顔があった。
「さ、さきほどは申し訳ありませんでした、ご主人様……」
「いや、朱里は何も悪くないよ。むしろ良かった。びっくりするくらい色っぽかった。うん」
はぅぅと照れて俯いてしまう朱里。――可愛いなぁ!
「ご主人様……」
目を閉じて、身体を預け合う。
「朱里、今日はありがとう」
「……はい♪」
二人の仲の良さは蜀でも有名である。例えるならそう、魚が水から離れては生きていけないそんな関係。
たまーに水面から跳ねて、陸へと打ち上がってしまう、困ったちゃんでもある。
……くぅ~。
「はぅぅぅ……」
お腹の音を響かせ雰囲気を台無にしてしまい、俯いてしまった彼女。だがしっかりと一刀は彼女を連れ戻す。
「良し! お腹空いたし、ご飯食べに行こっか?」
「――は、はい!」
あとがき
夏をイメージした作品ということで、暑い日をネタにしてみました。
9月にこのネタを思い立って、〆切りギリギリになってしまいました。もっと早くネタを思い付いていればと、少し残念な思いです。
楽しんで頂ければ幸いなのですが……。はわわわ……。
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