「失礼します。夏侯淵さま、北郷です」
扉の前でそう声をかけると、中から凛とした声が返って来た。
「あぁ、鍵は開いている」
その声を聞いてから俺は部屋に入った。
「失礼します」
部屋の中に入ると、夏侯淵さまが机で仕事をしていた。
「あ、あのお邪魔でしたら、また日を改めますけど……」
私用で仕事の邪魔をしてはいけないと思ったから、俺はそう言った。
「いや、いいんだ。これは明日の分の仕事だからな」
夏侯淵さまはそう言うと、先ほどまで開いていた書類をしまい始めた。
「さて、私の部屋に来たということは、韓非子は読み終わったということかな?」
書類をしまい終わると、夏侯淵さまは、俺を椅子に座るように促しながらそう言った。
「はい。昨日やっと読み終わりました」
俺が答えると、夏侯淵さまは軽くうなずいた。
「そうか。それで、次に読みたい本は決まっているのか?」
「いえ。まだ特には決めていません」
俺がそう答えると、夏侯淵さまは少し考え込んでから、俺に話しかけた。
「お前がこれまで読んできた本を教えてくれないか?」
今まで俺が読んできた本を答えると、夏侯淵さまはすっと立ち上がった。
「それでは……これなどはどうだ? 歴史に関するものには、まだ手をつけていないのだろう?」
俺が勉強しようと思ったきっかけが、仕事のための知識を補おうと思ったことだったから、確かに歴史系の書物は読んでいなかった。学校で習った歴史で、どうにか対応出来ていたから、読んでいなかったっていうのもあるけど。
「はい。歴史関係は読んでいませんでしたけど、それは?」
「これは孔子の書いた“春秋”だ。お前が読んできた本を聞いていると、すぐに実務に活かせるようなものを選んでいるように思えたのでな。その背景にある歴史上の出来事などを学んでおくのもいいだろう」
夏侯淵さまの説明を聞いて、俺は素直にうなずいた。
「そうですね。それじゃあ、“春秋”をお借りします」
そう言って頭を下げると、夏侯淵さまは優しく微笑んだ。
「うむ。慌てずともいいから、じっくり読むようにな」
「はい。ありがとうございます」
もう一度頭を下げてお礼を言った。
「……北郷、この後予定はあるか?」
ふと、夏侯淵さまがそう聞いてきた。
「あ、いえ。特には……。せっかくお借りしたので、家に帰ってさっそく読もうかと思っていたぐらいです」
そう答えると、夏侯淵さまは前に見たことがある表情をした。
「そうか……。それでは、お前の色恋についての話を聞けるかな?」
とても面白そうな表情でそう聞いてきた。
「あ、あの。今思いだしたんですけど、この後、警備隊のころの仲間と、会合が……」
「おや? 先ほど予定はないと言ったのは、誰だったかな?」
そう言って、ニヤニヤしながら俺の方を見る夏侯淵さまに、俺は冷や汗を流していた。
「ふふ、まぁいい。そのうち聞ければいいことだ。焦りはしないさ。会合があると言うのなら、なおさら、な」
「は、はい。それでは、失礼します……」
そう言う夏侯淵さまの目に、心の中まで見透かされてるんじゃないかという錯覚を思えながら、俺は席を立った。
「あぁ、そうだ」
俺が部屋を出ようとすると、夏侯淵さまが俺を呼びとめた。
「もし、まだ荀彧に手紙を届けているのであれば、私が届けるぞ?」
ふいに荀彧の名前が出たから驚いてしまったけど、よく考えたら、夏侯淵さまには一度、荀彧への手紙を持って行ってもらっているのだった。
「あ、えーと……」
「まぁ、無理にとは言わない。だが、他の方法を使うよりも早く届けることが出来ると思うぞ?」
「……考えておきます」
俺がそう答えると、夏侯淵さまはそうかと言ってうなずいた。そのうなずきを見てから、俺は部屋を出た。
荀彧視点
あれは、会議室に行くためにたまたま近道を通ろうと思った時だった。
――ガチャッ
ふいに秋蘭の部屋の扉が開いた。
(あら? 会議に秋蘭は参加しないはずだけど、どうかしたのかしら)
そんなことを思っていたけど、部屋の中から出てきたのは、秋蘭ではなかった。
(え? ほ、北郷!?)
思いもよらない人物が出てきたから、私は思わず近くにあった柱の陰に隠れた。
(ど、どういうことよ! なんであいつが秋蘭の部屋から出てくるのよ!?)
動揺しながら、影から北郷の様子を窺っていると、北郷は軽く息をついてから、城門の方へと歩いて行った。
(あ、あいつはまだ下っ端なんだから、仕事で秋蘭の部屋に来る訳なんかないし。そ、それにもう一般の文官は仕事を終えてるはずだから……まさか私用!?)
柱の陰に隠れたまま、私は先ほどの光景が、何を意味していたのかを考えていた。
(もし私用であるとしたら、いったいどんな用事? ま、まさか秋蘭を好きになった?)
そう思うと、なぜだか無性に胸が締め付けられた。
(だ、誰を好きになろうと、あいつの勝手よね。……そ、それに私に付きまとわなくなるのなら、私にとっても好都合よね。そうよ、好都合よ……)
自分にそう言い聞かせると、余計に胸が苦しくなった。
――ガチャンッ
私がそんなことを思っていると、秋蘭の部屋の扉が開いた。
「……うん? そこにいるのは桂花か?」
秋蘭が私に気付いて、そう声をかけてきた。さすがに将軍と言うべきなのだろうか、北郷はまったく気が付かなかったのに、すぐに気付かれてしまった。
「……」
私は無言のまま柱の陰から出て、会議室に向かうために歩き始めた。
「桂花はこれから会議か?」
秋蘭の前を通り過ぎる時に、そう話しかけられた。なぜだか無性に腹が立った私は、つい語気を強めて言ってしまった。
「そうよ!」
私がそう言ったのに、秋蘭は少し驚いているようだった。私はそんな秋蘭を気に留めずに、足早に会議室へと向かった。
(まったく、なんなのよ! ついこの間まで、変な手紙を送り続けてたくせに!)
――ボスンッ
会議が終わった後も、先ほどのいら立ちが収まらず、私は自分の部屋で枕を殴っていた。
(なんなのよ! すぐに他の女に尻尾を振って! 盛りのついた犬じゃない! 女なら誰でもいいの!?)
――ボスンッ
(それに、なんでよりにもよって秋蘭なのよ! 何? 女はやっぱり胸の大きさなの!? これだから男は嫌なのよ!)
――ボスンッ
(いいわよ! 私には華琳さまがいるんだから! あんたなんか、こっちから願い下げよ!)
――ボスンッ
枕にめり込んだ拳を眺めながら、私は先ほどと同じ胸の痛みを感じていた。
(なんなのよ。なんであんたのことで、こんなにイライラしなきゃいけないのよ。男のくせに、北郷一刀のくせに)
ふと、あいつの顔が浮かんできた。私があいつの家に行った時に、私の声を聞いてうれしそうに笑うあいつの顔。
「……北郷、一刀のくせに……」
そう呟いてから、私はもう一度枕を殴った。
――ボスンッ
「うん? 秋蘭、どうしたのだ? 何やら最近楽しそうだが……」
「あぁ、姉者。確かに、楽しいと言えば楽しいな」
「やはりそうか。ここ最近、なんだかお前の顔がやけに明るかったからな」
「ほぅ。ということは、姉者はここ最近、ずっと私のことを気にしていくれたのか?」
「なっ、べ、別にそう言う訳では……。あ、姉として妹の変化に気づくのは当たり前のことだ!」
「ふふ。顔を赤くして言っていては、説得力がないぞ。姉者」
「う、うぅー」
「可愛いなぁ。姉者は……」
「わ、私のことはいいのだ。何があったのかぐらいは教えてくれてもいいだろう?」
「あぁ……なんというかだな」
「うん?」
「初心な二人を見ているのが楽しくてな」
「うぶな二人? 誰だそれは?」
「ふふ。それを教えると、片方が怒りそうな気がするのでな、内緒だ」
「しゅ、しゅうらーん」
「ふふ。さぁ、姉者。早く訓練に行かなければ、兵たちに示しがつかんぞ?」
「う、うむ……」
『 荀彧さまへ
こんにちは、元気でやっていますか?
俺の方は、相も変わらず仕事で大忙しだよ。それでも、最近はやっと仕事に慣れてきて、自分から色々と動けるようになってきたんだ。この前は、政策案も提出したしね。
再試験にもなんとか合格することが出来て、晴れてちゃんとした文官になれた、とまでは行かないけど、なんとか文官でいられてほっとしています。
再試験には合格できたんだけど、まだまだ知識が足りないと思うことが多かったから、俺はまだ勉強をしているんだ。ついこの間までは書庫に行って、管理している人たちがいなくなるまで、勉強させてもらっていたんだ。けど、さすがに書庫の人たちに迷惑がかかるし、かといって、俺は本を借りられないから、どうしようか悩んでた。
そうしたら、たまたま書庫で夏侯淵さまに会って、事情を話したら夏侯淵さまが持っている本を貸してくれるってことになったんだ。これで、書庫の人たちに迷惑をかけなくて済むし、時間を気にしないで勉強が出来ると思うと、夏侯淵さまにはいっぱい感謝をしなくちゃって思うよ。
そう言うわけで、夏侯淵さまのところに時々行くことになったんだけど、夏侯淵さまから、荀彧に手紙を送っているのなら、私が渡そうか? って言われたんだけど、どうすればいいだろう?
夏侯淵さまは曹操さまの腹心だし、人の手紙を盗み見たりするような人ではないと思うから、手紙がすぐ届くってことを考えると、夏侯淵さまに頼むのは悪くないと思うけど、荀彧の考えを聞いてからの方がいいと思ったから、まだその答えはしてないんだ。
荀彧はどうすべきだと思う?
さて、俺はこれから警備隊の同好会の会合に出席しなくちゃいけないから、とりあえず、これくらいにしておくよ。
それじゃあ、体に気をつけて
北郷一刀より 』
あいつからこんな手紙が届いたのは、それからしばらくしてからだった。
(本を借りに行っていたのね)
それがわかると、なぜだか気が楽になった。
(まったく紛らわしいことしてるんじゃないわよ)
ここ数日、なぜかずっとイライラしていけど、この手紙を読んでからはそのイライラも治まっていた。
(まぁ、そうよね。あいつはあれだけ変な手紙を送ってきたんだから、そうそう他の女に尻尾を振ったりなんてするわけないわよね……え?)
そこまで考えてから、私は自分が何を考えているかに気付いた。
(ちょ、ちょっと待ちなさいよ。私今何考えていたの? ほ、北郷が私以外の女に尻尾を振るわけがない? ど、どういうこと? 私、いったい何を……)
自分が今まで思っていたことに対する動揺が、私を大きく揺さぶった。
(どういうこと? あ、あいつは男なのに……)
『 北郷一刀へ
再試験のことは聞いているわ。一度やった問題と同じ問題なんだから、満点ぐらい普通に取りなさいよ。
まぁ、自分の不甲斐なさを理解して、それを補おうと勉強するのはいいことだと思うわ。勉強したからと言って、あんたの頭じゃどうにもならないだろうけど、せいぜい頑張りなさいよ。
手紙のことは、夏侯淵に頼まなくてもいいわ。今のままでも特に問題がないわけだし、もし夏侯淵に頼むような至急の連絡がある時だけ、私が頼むから。
そう言うことだから、せいぜい頑張って勉強しなさい。
それじゃあね。
荀文若より 』
一刀視点
夏侯淵さまのところに通うようになってから、数カ月が過ぎた。
その途中で、涼州攻めがあったから二カ月ほど間が空いたこともあったけど、その期間には、あらかじめ多めに本を借りていた。
通うと言っても、本が読み終わったら行くというペースだから、月に数回程度だけど、それでも文官になってから、一番よく会う有名人だった。
同好会で隊長たちとはよく会っていたけど、城内で一番よく会うのは夏侯淵さまだった。
俺としては、こんな感じで荀彧にも会いに行きたいとかって思っていたけど、なかなかそんなこともできず、頑張って早く出世しようと思うばかりだった。
「北郷くん。君がこの前出した政策案、採用されたようですよ」
そんなある日、文官の先輩がそう俺に声をかけてきた。
「え? この前のって、町の治安向上のやつですか?」
「えぇ、それもですけど、なんて言いましたか、あの印刷機? の製作許可も下りたようですよ。これが完成すれば、写本の作業も少しは楽が出来そうですね」
印刷機は、文官の仕事の一つである写本の作業をやっている時に、俺が思いついたもので、コピー機のようなものがあればと思った俺が、上司に試作機の製作許可を申請していたものだった。まぁ、実際に作ってもらうのは李典隊長になりそうだけど、材料費などの経費が落ちるのと落ちないのでは大違いだ。
「本当ですか!? よかったです。これで李典隊長にお願いできますよ」
李典隊長なら、グーテンベルクの活版印刷をこの時代で作ってしまうような気がしていた。
「そう言えば、北郷くんは元警備隊でしたね。李典さまならきっといいもの作ってくださるでしょう。なんにせよ。写本の作業から解放されるのであれば、私も応援しますよ」
そう言って先輩は笑った。
「はい。ありがとうございます」
「……そうだ。印刷機のことで言い忘れるところでしたが、北郷くんの政策案を、実際に実行できるように手直しをするから、明日の会議には北郷くんも参加するようにって言うことですので、頑張ってくださいね」
「はい! わかりました!」
そう言ってから、俺は明日の会議に備えて、政策案を実行するために必要なことは何かについて、色々と考えをめぐらした。
「そうだ。今日は夏侯淵さまのところに寄って行かなきゃ」
明日の会議について色々と考えていたので、気が付くともう仕事が終わる時間を過ぎていた。
「いつもより、すこし遅くなりそうだけど……まだいるかな?」
そんなことに少し不安を感じながら、俺は夏侯淵さまの部屋に急いだ。
「失礼します。夏侯淵さま、北郷です」
「……」
部屋の前に立ってそう声をかけたが、中からは返事がなかった。
「やっぱりいないか。いつもの時間より遅いし、来ないと思ってどこかに行っちゃったのかなぁ。……まぁ、明日来ればいいか」
そう思ってから、俺は部屋の前を後にした。
次の日、なんとか会議を乗り切り、治安向上についての政策案も、実行出来るまであと少しというところまで持っていくことが出来た。
「さて、今日は夏侯淵さまのところに行かないとな」
会議を終わらせた俺は、借りていた本を持って、夏侯淵さまの部屋に向かった。
「失礼します。夏侯淵さま、北郷です」
「……」
昨日と同じように、部屋の前で声をかけたが、今日も返事がなかった。
「あれ? おかしいな、今日はいつもの時間だし、いると思ったんだけどなぁ」
(今日は兵の訓練に行っているのかな? だとすればもう少し待っていれば戻ってくるかも知れないけど……どうしようかな)
そう思っていると、ふと後ろから声をかけられた。
「あ、あんた。こんなところで何してるのよ」
その声がした方を振り向くと、俺が一番会いたかった人物が立っていた。
「荀彧! 久しぶりだな!」
うれしさからか、思わず声が大きくなってしまった。
「こ、声が大きいわよ。誰かに見られたらどうするのよ」
俺としては、誰に見られようと特に気にしないけど、荀彧からすると気にするとことなのだろう。
「あぁ、ごめん。……でも久しぶりに荀彧に会えたのがうれしくてさ」
久しぶりに聞く荀彧の声と、久しぶりに見る荀彧の姿に、俺は顔がゆるんでいた。
「ふ、ふん! なにニヤニヤしてるのよ。気持ち悪い……」
久しぶりに会った荀彧は、前よりも毒舌に歯切れがないように感じたけど、具合が悪そうというわけではなかったから、とりあえずは安心した。
「……あんたがこんなところにいるってことは、秋蘭、いえ夏侯淵にでも会いに来たのね?」
なぜだか少し不機嫌そうな顔をして、荀彧がそう聞いてきた。
「あぁ、借りていた本を読み終わったから、次の本を借りようかと思ってね。でも留守みたいなんだ。荀彧は夏侯淵さまがどこにいるか知らないか? ここで待っていた方がいいのか、出なおした方がいいのか迷っていたんだ」
俺がそう聞くと、荀彧は先ほどと同じ、少し不機嫌そうな顔で答えた。
「夏侯淵なら昨日の朝、定軍山に向かったわ。だから、ここで待っていても無駄よ」
「そうなのか。遠征に行っているのなら、待っていても仕方ないな……」
そう言ってから、俺の中で何かが引っかかった。
(夏侯淵……、定軍山……、定軍山?……)
「な、なぁ。定軍山ってどこにある山なんだ?」
どことなく嫌な予感がしながら、俺は荀彧に聞いた。
「どこって、蜀との国境よ。少し前に不審な部隊らしきものを見たっていう報告が来てたから、秋蘭たちに偵察に行ってもらったの」
(夏侯淵、定軍山、蜀……!)
引っかかっていた言葉が、すべて線でつながった。
「夏侯淵さまが危ない!」
「ちょ、ちょっとどうしたのよ!?」
俺が大きな声を出したことに驚いたのか、荀彧がそう聞き返してした。
(昨日の朝に洛陽を出たってことは、まだ定軍山には着いていないはずだ。急がな、くちゃ……)
そこまで思ったところで、急に体の力が抜けていくような感覚が俺を襲った。
――バタンッ
「あ、あんた! いきなり倒れるんじゃないわよ! 秋蘭が危ないってどういうことよ!」
荀彧の声がどこか遠くから聞こえてきた。
(は、早く伝えなくちゃ……早く……)
そう思ったのを最後に、俺の意識が途切れた。
「北郷!? どうしたのよ? しっかりなさいよ! ちょっと、一刀!?」
目を開けると、見慣れない天井が見えた。
「……ここは?」
「起きたようね。ここは城の医務室よ。ちょっと待っていなさい。事情が事情だから医者には部屋を出てもらうわ……」
「……分かった」
荀彧が席を離れたあと、俺はなぜ自分がここにいるのかを考えていた。
(なんだっけな……会議を終えて、借りてた本を返そうと思って、夏侯淵さまの部屋に……)
「ふぅ。とりあえず、この部屋にはあんたと私しかいないわ。夏侯淵の話を聞かせてもらうわよ」
「俺が倒れてからどれくらい経った!?」
ここにいる理由を思い出して、俺は荀彧に聞いた。
「ま、まる一日よ」
「まる一日!? それじゃあ今から出ても、先に定軍山についてしまうかも……」
俺がそう考えていると、荀彧が不安そうな顔で聞いてきた。
「夏侯淵が定軍山に行くことが、そんなに危ないの?」
「荀彧から、赤壁のことばかり聞かれていたから、伝えていなかったけど」
なぜだかわからないけど、俺の存在自体を握り潰そうとしているような、ひどく気持ち悪い感覚に襲われた。
「……けど、定軍山の戦いは……くっ!」
得体の知らない苦しみが俺の全身を襲った。
「ちょっと、大丈夫なの? もう少し休んでから……」
そう言う荀彧を手で制して、俺は話を続けた。
「定軍山の戦いは、蜀の黄忠が夏侯淵を打ち取る戦いだ。……でも、俺の世界では、赤壁の戦いの後の出来ごとだから、こんなに早く起きるとは思ってなかった」
「なんですって!?」
驚いている荀彧に、俺は続けた。
「たぶん、夏侯淵さまは蜀の罠にはめられている。急がないと、あの人の命が……」
先ほどの気持ち悪い感覚が一段と強くなった。その感覚がとても苦しくて、俺はそのまま意識を手放した。
荀彧視点
「――急がないと、あの人の命が……」
北郷はそこまで言うと、また意識を失った。
「ちょっと、一刀!? しっかりしなさいよ!」
私の呼びかけには答えなかったけど、確かに息はしていた。
(と、とにかく、急いで秋蘭たちへの援軍を出さないと)
私は医務室を出て、外にいた医者に北郷のことを頼み、華琳さまがいるであろう執務室に急いだ。
(でも、あいつの言っていたことに確証はない。あくまであいつの知識での話しだし、赤壁の後に起こることなのだとすれば、今回の遠征で蜀と戦いになっていない可能性もある)
華琳さまの執務室に急ぎながら、私はどうやって説明するかについて考えていた。
(いや。あいつの話した歴史では、赤壁は劉備が蜀に入る前に起きている。そのことを考えれば今回の遠征が、その発端になった不審な部隊自体が、蜀の罠である可能性は高い)
秋蘭が出て行ったのが今から3日前の朝、だとするとすぐに援軍を送っても、秋蘭たちは定軍山に到着してしまう。
(とにかく、罠である可能性が高い以上、援軍は承諾してくださるはず……秋蘭と流琉を失う訳にはいかない!)
どうにか考えをまとめた辺りで、私は華琳さまの執務室に着いた。
「華琳さま! 桂花です。至急お聞きしていただきたいことがございます!」
華琳さまの部屋の前でそう声をかけると、中から華琳さまの声が聞こえてきた。
「桂花? 入りなさい」
――ガチャンッ
「華琳さま! 大変です。秋蘭の遠征が蜀の罠である可能性があります!」
部屋に入るなり、私は華琳さまに事の次第を伝えた。
「な、なんですって!?」
「今回の、定軍山での不審な部隊は、恐らく蜀軍がわが陣営の武将を偵察に来させるために行った罠です! そして、不審な部隊の確認に来た武将を打ち取り、わが軍に打撃を与えるのが目的だと思われます!」
私がそう言うと、華琳さまは少し考え込んだ。
「桂花。今回のことが罠である確証は?」
「……残念ながら、確証はありません。……しかし、可能性が非常に高いというのは事実です!」
確証があるわけではない。未来の知識などという、ひどくあやふやなものが私の論拠なのだから。けれど、諸条件を考えれば、可能性が高いことは明白だった。
華琳さまは私の目をじっと見つめた。私も、目をそらさずにじっと華琳さまの瞳を見続けた。
「桂花。今すぐ春蘭と季衣、それから霞を呼んで出陣の準備をさせて! 今すぐ出せる兵数は?」
「はっ! 今夜中となれば五千。明日の朝になればもう一万五千程です」
「なら、初めの五千を春蘭たちに、明日の朝に出る部隊は私が率いるわ。留守は風と稟、それから凪たちに任せる。早さが勝負よ、急ぎなさい!」
「はっ!」
私は華琳さまの言葉を聞いてから、急いで城の中を走った。
あとがき
どうもkomanariです。
前回から少しづつ始まっている桂花さんの心境変化が、今回は結構進んだんですが、どうだったでしょうか?僕としては、少し性急すぎたかな?って言う思いもありますが、でも、まぁこれくらいでいいだろうと思っています。
さて、物語が進んできました。涼州攻略がたった一行で終わってしまいましたが、戦いに関してはあまり多く書かない方針なので、その辺はすみません。なんていうか、桂花さんと一刀くんのやり取りメインなので、どうしても戦闘は省略しちゃうんですよね。
そんな感じのお話でしたが、少しでも皆さんのご期待に添えていればと思います。
それでは、今回も閲覧していただきありがとうございました。
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9話目です。
今回は、桂花さんの心境の変化と、物語を進めることを目指して書きました。
そんな感じですが、誤字・脱字などありましたらよろしくお願いします。