光の一筋も差さぬ、厳に閉ざされた暗い部屋に、手燭の灯りが淡い光芒を投げかける。
ひやりとした空気が、そこに足を踏み入れた人の頬を一撫でする。
翳した手燭の橙色の光を僅かに弾く白壁は漆喰塗りか……このような、誰も見る事のないような闇の中に用いるには、余りにも滑らかに仕上げられた壁面。
その暁闇を僅かでも乱す事を怖れるように立つ、ひたりひたりという静かな足音は素足か、ごく薄手の足袋ぐらいしか履いて居ない故だろう。
やがてその足音が止まり、手燭の灯りが、卓の上にことりと置かれる音が立つ。
更に、もう一方の手にしていた何かを卓の上に置いてから、その人物はその場に跪いた。
「真祖(しんそ)様」
場に相応しい陰とした、だが恭しい呼び声。
その声に応え、何かが身じろぎをする、微かな音が響く。
「……もう、そんな時間?」
何かを隔てているような、くぐもった声が奥から上がる。
「は」
「そう……」
きぃ、と微かに木の擦れる音に続き、しゅる、さら、さりさりと、衣擦れの音が徐々に奥からこちらに近付いてくる。
艶めかしさすら感じさせる官能的な音は、木綿や麻の物ではない。
やがて、手燭の微かな灯りの中に、幻か幽鬼の如き白い姿が現れた。
長い白髪が闇の中に浮かぶ。
だが、白髪と言っても老婆のそれでは無い、艶やかで滑らかな光沢は、薄い灯火の下ですら、綺羅と輝き、その身に纏う艶めく上質な白の薄絹すら褪せた物に変える。
そして、その白髪に縁どられた顔もまた、蒼さすら感じさせる白く透き通る、美しい異国の女性の顔であった。
その全てが白い佇まいの中、一際目立ち、その姿をお互い引き立たせ合うかのように、彼女の頭上を、豪奢な金と真紅の宝冠が彩っていた。
「真祖様、お食事をお持ちしました」
「ご苦労」
気だるげに開かれた真紅の瞳が、卓上に置かれたそれを見やる。
赤く艶めくそれは、唐柿と言われていた物。
値を付けられるかも怪しい、この日本では珍奇な上流階級の鑑賞用と言われたそれが、笊に山と盛られている。
「この、東の果てで、トマトをこれ程用意するは、さぞ大変だったでしょう」
褒めてあげる、そう呟きながら、彼女は唐柿を手にして無造作にそれに歯を立てた。
その後に、じゅる、と中身を啜る音が立ち、暫し後に満足そうな声が上がる。
「甘みが足りないけど、味もまぁまぁね、この地ではこれだけ出来れば上出来じゃない」
「勿体なきお言葉、近在の農夫共に金を遣い、能う限り大量に作らせておる所にございます、この先は氷室にて貯蔵、あるいは汁を搾り、塩して後に火入れするなとして、何とか真祖様のお食事分は確保いたします」
場合によっては、最近一部の上つ方々に通年野菜を供する為に使われている、土蔵内に別室にて焚いた火の熱を満たし、室内を夏の日の如くして野菜を作るやり方も試してみる所存。
「そう、まぁ要り用以上の金をたんまりと稼いでやったのだから、後はそなたに任せる……」
苦労話を聞く気は無いと言いたげな様子で、真祖と呼ばれた女性は、吸い終えたトマトを机に戻した。
「此度の事は、お前の大望も掛かって居るのでしょう、恩着せがましい口上をべらべらしている暇が有ったら、せいぜい励む事ね」
「は、畏まりました……所で真祖様」
若干の逡巡の後にだが、何やら物問いたげな声が上がる。
ついぞ無い事に、無表情だった彼女の顔に、僅かに面白がるような色が真紅の瞳の中に浮かんだ。
「何?」
「無礼は承知でございますが、一つお尋ねしたき事が」
「ふぅん……ふふ、今の私は機嫌が良いの、気が向いたら答えてあげる」
二つ目に歯を立てる音と、汁を啜る音が続く。
「ありがたき幸せ……ではお言葉に甘えまして」
緊張の余りか、声が喉に詰まり、次いで上ずった声が上がる。
しばし、深く呼吸をする音が続いた後、ようやく多少平静を取り戻した声が、闇の中を不吉に震わせた。
「真祖様は何故、人の血を糧となさいませぬか?」
障子が朝日を受けて柔らかい金色の光を宿す。
その優しい光に誘われるように、男の瞼がふっと上がった。
ここ最近あまり無かった、柔らかい布団に包まれた目覚め。
その中で体を横たえている心地よさは格別で、まだまだ布団の中で微睡んで居たい、という欲が、一度開いた瞼を閉ざそうとする。
(やはり疲れてんな)
逆説的ではあるが、疲れをそれと自覚できるようになる程度には休めたという事なのだろう。 四肢が重い、軽い頭痛を訴える頭も、更なる眠りを欲している。
「でも……起きねぇとな」
あの榎の旦那の所には昼過ぎにでも着くように出たい、その前に片付けないといけない仕事がまだ……。
「すー」
天井を見上げながら、そんな事を思っていた男の胸元で、何とも平和な寝息が聞こえた。
慌ててそちらを向いた男の顔のすぐ近く、例の白まんじゅうが、全世界の睡眠の幸せを独占したかのような平和な顔ですぴょすぴょと寝ていた。
「……どんだけ寝てりゃ気が済むんだ、このまんじゅうは」
幸せそうなツラしてまぁ。
手を伸ばして、頭を撫でる。
「うゆー」
むにゅむにゅと何か寝言を言うかのように口が動いた後に、小さな手が伸びて、撫でられた辺りを何度か擦ってから、顔を両手で隠すようにして、白まんじゅうは再び寝息を立てだした。
しばし、その愛くるしい様を目を細めて見ていた男は、白まんじゅうの眠りを妨げないように、それを傍らに降ろしてから静かに床を出た。
身仕舞して、部屋を出る前に、彼の寝床で寛ぐ白まんじゅうに目をやる。
「まるでこうめだな」
彼が庇護している元気な少女。
とにかく嬉しそうに食べる、楽しそうに遊んで、疲れたらすぐに寝る。
そして、日々健やかに、すくすくと育っていく。
「やれやれ、面白い連中ばかり良く来やがるな、この家は」
そう呟く声音は優しく、そんな来訪者たちを愛しむ響きがあった。
この白まんじゅうが何かは、まだ判らない……この、無力で平和な様を見ているとあまり想像できないが、もしかしたら、これが力を蓄えた時、彼の敵になる存在なのかもしれない。
妖や不思議の存在たちの相手をするというのは、えてしてそういう事がある。
だけど、この白まんじゅうは縁有って、この庭にやってきた存在。
慎重であらねばならぬ身だとは判っている、だが、異類の危険性を怖れるあまり、未知の存在を無闇に排除するような類の慎重さは、それ自体が自分やこうめの未来を閉ざしてしまう気がするから。
ふ、と、何とも言えない顔で笑った男が襖に手を掛けた。
「そんなに気分よく寝てられると、追い出す気にもなれやしねぇ……お前さんの気が済むまで、ここでのんびりしてけ」
「んゅー」
彼の声が聞こえたのか聞こえなかったのか、白まんじゅうは良く判らない声を上げながら一つ寝返りを打って、またすやすやと寝始めた。
おやすみ、白まんじゅう。
男は、静かに襖を閉ざした。
雪駄を突っ掛けて外に出た男の顔を、朝日が照らす。
その眩しさに目をしょぼつかせ、日差しを遮るように手を翳しながら、大欠伸をした男に、穏やかな声が掛かった。
「貴方様、おはようございます」
「おう、俺を堕落させた悪い鬼さんじゃねぇか。 おはようさん、今日も別嬪さんだな」
「もう、朝からからかわないで下さいな」
寝不足の跡も見せずに、鈴鹿が微笑みかける。
「いや、しかしお陰で頭が少しすっきりしたぜ、眠りの力は偉大だな」
起こしに来てくれたんだろ、ありがとな、そうにやりと笑う男に、鈴鹿は若干の憂いの籠もる顔を向けた。
「その大事さに気が付いたなら、もう少し寝て居て下さっても良いのですよ、貴方」
私達に少し仕事を任せて。
「済まねぇな、貧乏暇なしって奴だ」
そこで話しはお終いと言いたげに、男はもう一つ欠伸をしてから、うっすらと生えた無精ひげを撫でた。
「やれやれ、あんな野郎だが、会いに行くなら失礼の無いように剃らにゃならんか」
面倒そうな顔でぼやく男に、鈴鹿は苦笑気味の顔を向けた。
「でしたら、私たちの為にと思って、お顔を当たって下さいませ」
あんまりむさくるしくしていると、飯綱ちゃんや白兎ちゃんに嫌われますよ。
「成程、そいつは一大事だな。 とはいえ、今回みたいな事に対応する為にも、そろそろ貫禄付けに髭も悪くねぇと思うんだが」
どう思う?
「お髭を蓄えた貴方様も素敵だとは思いますが。 見苦しく無いように保つお手入れは、それは大変ですのよ」
生やしたい部分以外は綺麗に剃って、形よく刈って、椿油など塗って……。
「成程、俺にゃ向いて無さそうだな」
こいつを無精ひげとはよく言ったもんだ。
もう一度顎を一撫でしてから、男は肩を竦めた。
「そうなさいませ、毎日剃る方が楽ですわ」
「ご尤も、それじゃ髭を剃ってから朝餉に行くよ」
水を汲もうと、井戸の方に向かおうとする男の袖を、鈴鹿が軽く引く。
「あちらに、お湯と剃刀を用意してありますわ」
その言葉と共に、どうぞ、と手渡される清潔な手拭い。
「全てお前さんの掌の上か……俺なんぞ、お釈迦さんの掌の上で転がされてるお猿と変わらんな、いや、何から何までありがとな、鈴鹿」
「どういたしまして、それではお待ちしておりますわ、貴方」
広間の方にしゃなりと歩み去る美しい背中をぼんやりと見送り、男は軽く伸びをしてから鈴鹿に示された方に歩き出した。
「……成程悪い鬼さんだ、ありゃ」
あんな良く出来過ぎた美人に至れり尽くせりして貰う生活が続くとなると、少し気合を入れてねぇと、俺の方が甘やかされて駄目になっちまうな、こりゃ。
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式姫の庭の二次創作小説になります。
「唐柿に付いた虫」でタグ付けしておりますので、過去作に関してはそちらからご覧下さい。
原作知ってる人ほど困惑する回。