穏やかな夜の空気を乱す事を厭うかのように、鞍馬は余り羽ばたく事無く、空を滑るように舞っていた。
緩やかにこうして飛んでいると、軍師としてはどうしても考えざるを得ない、諸々の悪しき事が風の中に溶け出して行くようで心地よい。
思考する事は楽しい、だが、それを実際に世間に対して実行し、結果を得る行為は、楽しさもあるが些かならぬ不快を伴うのもまた事実。
時々羽ばたいて高さだけ少し調整し、風に乗った体を仰向けにして風の中をたゆたう。
天に見えるのは星々と月と雲だけ。
術を操り、翼持つ者の特権とでもいうべき、ささやかな愉しみ。
月の光が徐々に弱くなり、変わって山の端がぼんやりと明るくなってきている。
ふぅ、と軽く息を吐いてから、鞍馬は目を閉じたまま、何処とも知れぬ空に声を投げた。
「そろそろ君の時間も終わりかな、吸血姫」
その声に応えるように、夜闇の一部が千切れたかのように、背に蝙蝠の翼を負った吸血姫がふっと姿を現す。
流石に、異国では夜の支配者とまで言われる存在の一人である、隠形術などという安い物では無く、彼女の本質は夜そのものなのだと思わせる姿。
「まだまだ面白い時間じゃが、確かにそろそろ終わりじゃの。 それにしても流石じゃな、妾の気配に気が付いて居ったか」
「まぁ……ね」
城主とのやり取りの間、途中から部屋の外で成り行きを見守っていた彼女の気配は、辛うじてだが感じていた。
「吸血姫こそ、どういう風の吹き回しだい? あの領主殿が君のお口に合うとは思わなかったが」
鞍馬の冗談口に、吸血姫は微苦笑を浮かべて肩を竦めた。
「主殿の式姫となりてよりこちら、血は断って居る。 というか、あの庭から得られる力が旨過ぎてのう、その辺の輩の血など口にする気にもなれぬ」
妾の本然としてはどうかとは思うがな、そう低く自嘲してから吸血姫は言葉を続けた。
「妾は単に、珍しい御仁が夜の散歩をしておるのを見かけて、行先と成り行きを眺めに来たまでよ」
夜の散歩は楽しかろう、仲間が増えるのは歓迎するぞ、そう口にしてから、吸血姫は空中でくるりとその優美な体を一回転させた。
長い銀髪が、月の銀光を孕み、刹那に宝石のように煌めく。
「生憎と優雅な夜の散歩らぬ、昼に片付かなかった野暮用の始末というのが我ながら悲しいね……何にせよ聞いててくれたなら説明の手間が省けて助かる……そういう訳だから明日から少し忙しくなる、覚悟しておいてくれ」
「ああ、お主は昼、妾は夜に、妖の出現に備える事になる訳じゃな、しかし珍しいのう」
鞍馬の上に、更に濃く吸血姫の影が落ちる。
うっすらと目を開けると、吸血姫の美しい顔がすぐ目の前にあった。
「何がだい?」
彼女が言いたい事は何となく判っている、鞍馬の口元に、珍しく悪戯っぽい微笑みが浮かぶ。
「お主にしては事を急ぐではないか、普段は迂遠な程に情報を掻き集めてから事を起こすというに」
此度の件、所詮他人事じゃで、考えるのが面倒にでもなったか?
そう笑う吸血姫に苦笑を返す。
「雑に見えて申し訳ないがね、この件、時を置いては、事を仕損じると思ったのさ」
拙速を貴ぶべき時と、巧遅を良しとする時を使い分けられないようなのは軍師とは言わない。
鞍馬の言葉に、吸血姫が一瞬だけ不思議そうな顔をしてから、何かに思い当たったように顔をしかめた。
「館の主が不在だった事か?」
「ご名答」
囁くような二人のやり取りが、風の中に消える。
「左様に気になったか?」
「そうだね、幾つかの可能性を考えてみたんだが……」
その女首領は、本当の統率者なのか、ただの看板なのか。 彼女は人か妖か。 その館は本当に居場所の役を果たしているのか、それとも本当の居場所を隠す為の欺瞞なのか。
「現状判っている事を元に検討した結果として、あの山砦を突ついて蛇を出してしまった方が、問題の解決に繋がると判断したのさ」
「懸念は判らぬでもないが、それほど急ぐ話か?」
吸血姫の言葉に、鞍馬は再び目を閉ざした。
闇の中で、己に再度問うように、言葉を紡ぐ。
「私はあの盗賊集団の首領は、間違いなく妖、もしくはそれを使役する存在だと考えていた……いや、今でもそう思っている」
実際に言葉を交わしてみても、あの領主は無能でも臆病でもなく、配下にはそれなりの武将と兵を揃えている、いかに吸血姫が偵察してきたような、万全の備えをしていた山砦だとしても、むざと盗賊如きに後れを取るような陣容では無い。
その戦力差をひっくり返す、何かがあったのだ。
自分達、式姫の力に準じる……何か。
「ふむ、じゃが、妾の偵察では妖気もその痕跡も何も感知できなかった……か」
鞍馬の知性も判断も、吸血姫は高く評価している、その彼女の予測と、完璧に食い違った自分の報告。
それはつまり。
「そう、故に私が今懸念しているのはね……」
静かにため息ともつかない息を吐き、鞍馬は気だるげに目を開けた。
「領主の軍を正面から打ち破り、今や山砦に立てこもり、その領国を脅かす、女性を頭に戴く大盗賊集団」
実にこう、面白いと言うか、芝居がかり過ぎないかな?
いかに強力であれ、盗賊集団がこれ見よがしに山に立てこもるなど、本来は正気の沙汰では無い。
闇に潜み、自在にねぐらを変え、追われれば逃げる。
せしめた宝や食料を保管する場所は必要だろうが、煎じ詰めれば、移動の自由こそが、彼らのような集団の強み。
それが、山砦の堅守に依るとはいえ、こうも公然と姿をさらしている理由。
確かに盗賊の一形態としての山賊というのも居ないでもないが、あれはあくまで近在の権力者が軍を派遣し辛い辺境で利の有る盗賊の在り様である。
そこまで考えた場合に導かれる結論。
彼らは捨て駒。
吸血姫が見た、彼らの生気が乏しかったというのは、薬か術で誑かされているからではなかろうか。
本当の意味で操り人形にする類の術は大変だが、ぼんやりと判断力を奪い、命じた事を繰り返させるだけなら、それなりの術者なら、あれだけの人数相手でも難しい話でも無い。
鞍馬の言葉に、吸血姫の顔が強張る。
「傀儡の術か……成程、じゃからこそ、些か乱暴でも、先ずは奴の化けの皮を一枚でも引き剥がそうという事か?」
その言葉に鞍馬は一つ頷き、高度を下げ始めた。
「そういう事、奴らの思惑が何かは知らないが、時間稼ぎが目的なら、これで少なくとも奴らの首領殿が取れる手筋は、一手分狭められる筈だ」
その為に領主殿に助力を確約し、有利な状況を提示する事で事を急かせた。
「これで一手か……人間どもは良いとして、妾達としては意外に長丁場になる可能性もある、という事か?」
吸血姫の言葉に、鞍馬は小さく、さて、と呟いて肩を竦めた。
「まぁ、とりあえずは事態を動かしてどうなるか様子見だね。 その前に、一休みさせて貰うのが先決かな」
流石に眠い、そう呟きながら鞍馬が眠そうに目を細める。
「そうじゃな、そろそろ妾も寝る時間じゃ……あの領主殿が兵を集め、ここに進軍して来るのは明後日頃かの?」
「いや、あの御仁は中々に食えないよ、部隊の中核を解散せずに城下に留めてあったからね、展開は君が思ってるより早いと思う」
休んでいる時間は余り無いと思うよ。
「やれやれ、人とは忙しい生き物じゃの」
「今回はそれが助かるという事、文句は無しさ」
本隊到着から、鞍馬の提案した布陣を行い、攻撃に掛かりだすのは明日の夕刻になるだろうと鞍馬は見ている……だが、夜が近い時間に攻撃を仕掛ける度胸が、前回敗北した領主殿始め、兵士や将に有るかは……。
「正直読めないがね、この辺が指揮権が無く人任せなのが辛い所さ」
どれだけ頭を使ってお膳立てしても、最後には指揮官殿任せだ、軍師なんてのは損な仕事だよ。
ぼやくような鞍馬の声に、吸血姫は低く笑った。
「何をしおらしい事を言うておる、夜中にいきなり押しかけて、あの絵図面で散々領主殿の鼻面を引っ張りまわしたのは、事を急かせるためじゃろうがよ」
人を完全に自分の意のままにする事は難しいが、意識を誘導する事は可能。
そして、鞍馬はその達人……伊達に大軍師の名を得ている訳では無いのだ。
彼女の言葉に、鞍馬は静かな笑みを浮かべただけで直接は答えず、代わりに小さく欠伸をした。
「まぁ、多少は前後のぶれがあるだろうが、いずれにせよ、今日、明日の内に、事態は動くとだけ思っていてくれれば良いよ」
「左様か……ま、何があるにせよ、また明日の夜、じゃな」
「そうだね、では吸血姫、また明日」
夜明けの近い空の中、二つの影が、頷き交わし、別方向に飛び去った。
「……ま、そんな筋書きで何とかなろうよ、これで駄目なら開き直るか、別の手を考えるか、いずれにせよ先方次第じゃ」
それと、お主の演技力かの。
主との想定問答を一しきり終えた仙狸が、疲れたように大きく息をついて、自分の首を揉みだす。
頭を使うと、覿面にこの辺が凝るのは、やれ、年かのう。
「演技ね……この大根的には、そこが一番不安がある話だな」
こちらも疲れた様子で、男が自分の肩を揉みながら、首を回す。
「貴方は正直ですからね」
鈴鹿御前が二人に、お疲れ様と微笑む。
「それが美徳でだけ通る世界なら、わっちらが苦労する事も無いんじゃがな」
ふにゃりと猫よろしく欠伸をして、仙狸が伸びをしてから、主に眠そうな目を向けた。
「さてと、わっちはひと眠りさせて貰おうか、夜明けも近そうじゃが、お主も少し寝た方が良いぞ、眠いと演技も雑になるでな」
仙狸が柔らかい身ごなしで立ち上がる、それに向かって男が軽く頭を下げた。
「長々と付き合わせて悪かったな、ゆっくり休んでくれ」
「休むとは心外じゃな、猫が寝るのは仕事の内じゃ」
それだからお主ら人間はいかんのじゃ、寝るのは仕事と心得よ、さて、もう一仕事もう一仕事。
そんな冗談とも本気ともつかない事を呟きながら、仙狸はすたすたと自分の寝所に帰って行った。
「猫様は良いご身分だ」
苦笑しながら見送った男が、お茶を淹れ替えたり、茶菓子を持って来たりしながら、結局最後まで二人の相談に付き合っていた鈴鹿御前に顔を戻した。
「鈴鹿も付き合って貰って悪かったな、こんな時間からだが一休みしてくれ、家事は狗賓に交代して貰うように、俺から……」
そう言いかけた男の口を、鈴鹿の人差し指が塞ぐ。
「鬼神を侮っては駄目ですわよ、貴方」
眠気の欠片も見えない澄んだ瞳が、彼を見返す。
「戦に臨んで、数日程度の夜明かしでどうこうなるようでは、戦するお方の妻は務まりませんし……ね」
「そ……そうか」
その声音と指先の柔らかさに、どうしても動悸が高鳴る。
それに気づいているのかいないのか、彼女は肩をお揉みしますと言って、男の後ろに回り、肩に手を掛けた。
しなやかな指が、的確に肩の凝りを解していく。
「力加減はいかがですか?」
「最高に気持ち良い」
彼女が微かに纏う白檀の香りと共に、夢見心地に包まれる。
今の自分が、極楽は何処に有りやと問われれば、間違いなくここに有ると答えるだろう。
「良かった、では目を閉じて、体をお楽に」
凝っていた肩と首に血の気が戻って来たのか、心地よい温みが頭と意識を包む。
「こんないい気分で目なんか閉じたら、寝ちまうよ」
ありがとう鈴鹿、俺はもう一仕事しねぇと。
そう口にして、立とうとした男の目の上に、ひんやりした鈴鹿の手が翳され、その視界が心地よい闇に閉ざされる。
「寝て欲しいんですよ」
低く落ち着いた鈴鹿の声、心地よい掌の感触、もう一方の手で首の後ろを優しくもみほぐしてくれる指の動き。
「ありがたいが、あんまり甘やかさんでくれ」
基本、俺は仕事や社交が嫌いな、駄目人間なんだ。
今の俺を緩めた時、元に戻れるか不安な……凡人なんだよ
「張ったままの弓は、いざという時の物の役に立たなくなるの喩えもありますけど」
視覚が無い状態で聞くと、彼女の声が更に心地よく感じるのは何でだろう。
「貴方様が弓なら、共に戦う私たちは弦であり矢……弓に休んで頂かないと、弦も矢も休めませんわ」
仙狸の言葉ではありませんが、人の上に立つ者は、上手に休める人でないと駄目ですよ。
「上手い事を……いう」
「ええ、ですから、貴方を甘やかして誑かす、悪い鬼に屈して下さいな」
ちょっと頑張り過ぎな貴方。
今は御休み愛し子よ。
鳥たちが、山の木の葉を数えるまでは。
獣らが、山の恵みを食べきるまでは。
魚らが、海の真砂を数えるまでは。
ゆるりと眠れ、愛し子よ。
鳥もお前をおこしゃせぬ。
獣もお前をおこしゃせぬ。
魚もお前をおこしゃせぬ。
首筋をもみほぐしていた鈴鹿の手に、心地よい重みが掛かる。
静かな寝息を立てだした男の顔、薄く、だが拭い難い疲労の色を宿すその顔を、暫し何ともいえない顔で見つめてから、鈴鹿はひょいとその体を抱き上げた。
鬼神として戦場では百斤(約60kg)の戦斧を軽々と舞わせ、妖を撃砕する彼女にしてみれば、人の体など鴻毛も同じである。
愛しそうに抱き上げた主の姿を見ていた鈴鹿の目が、懐の辺りが少し盛り上がっている事に気が付き、一瞬だけ怪訝そうに細められたが、直ぐにその正体に思い当たったように頷いた。
「懐いちゃって……まぁ」
そのまま、彼の寝所に足を向ける。
既に用意してあった床に彼の体を降ろし、少しその着物を寛げると、件の白まんじゅうがすよすよと寝息を立てていた。
「潰しちゃったらこの人が悲しむし、少し退いて居なさいな」
柔らかく小さな体を優しく抱き上げ、座布団に降ろし、手拭いを軽く畳んで布団代わりに掛ける。
その後、鈴鹿は彼の着物を直し、夏布団を掛けた。
その間、かなりの武術の修練を積んできた彼が、目覚める気配も見せないのは、式姫への信頼か、それともここまで蓄積した疲労の故か。
無理も無い、彼が式姫の助力があるとはいえ、人の身で妖との戦の最前線に立ち続けて、どれ程経つか。
「朝餉の支度が出来ましたら、お起こしますわ」
短い時間ではありますが……今はゆるりとお休みを、愛しいお方。
深い眠りに就いた彼の静かで長い寝息が、微かに寝間を満たす。
緩やかに上下する胸の動きが、布団越しにも判る。
それを確認してから、彼の眠りを妨げぬように、鈴鹿もまた、静かにその場を去った。
彼女が外に出ると、庭は朝靄に包まれていた。
この庭は、中央にある大池もそうだが、あちこちに小川や用水が走っており、水量が豊富な故か、早朝などには良く見られる光景。
主の住まう小さな離れが、その朝靄の中に静かに沈んでいる。
目を転じると、空はまだ暗いが、徐々に世界は光を宿しだしていた。
鳥のさえずりや木々の目覚める微かな音、それらが夜のしじまを駆逐しだす。
だが、そんな音も曙光も、霧の帳は全てを柔らかく包みこむ。
お願いね、もう少しだけあの人を休ませて上げて。
静かな寝間に、男の呼吸音だけが微かに響く。
その静寂に満ちた空間の中、小さな何かが動く気配があった。
「ふぁ」
可愛い声を上げながら、あの白まんじゅうが、鈴鹿の掛けてくれた手拭いの下から這い出して来た。
起きだして来たばかりの子猫宜しく、ふるふると体を震わせてから、小さく欠伸する。
可愛らしいその口の中に、小さな、だが確かに鋭い牙が覗く。
「うー……」
しばし、ぼーっとあちこちを見回していた白まんじゅうが、なにやら一つ唸ると、何と後足で立ち上がった。
よちよちといった様子で、ゆっくりと彼の方に歩き出す。
時折、睡魔に襲われるのか、つぶらな瞳が瞼の重さに負けて半眼になりかかるが、その度にうーと唸りながら顔を振って、何とか再度目を開く。
小さな手足を総動員し、よじよじと彼の体に上る。
「んふー」
富士の山頂にたどり着いた人のような満足げな息を一つ吐いて、白まんじゅうは彼の胸の上にちょこんと腰掛け、男の顔に目を向けた。
ぼんやりした物ではあるが、紛れも無い知性の輝きを宿す目が、じっと静かに眠るその顔を見つめる。
白い小さな手が上がり、彼の頬に添えられる。
ぺたぺた。
すんすん。
何度か感触を確かめた後、その匂いを嗅ぐように鼻と思しき部分が微かに動く。
はぁ、とどこか艶を感じるため息のあと、白まんじゅうの口が確かに言葉を発する形に動いた。
「おーいーしーそー」
■吸血姫
ゲームとしては刀系として一括りでしたが、レイピアとマントを操り戦う剣士というのは、式姫の中でも一際異彩を放ったと思います。
■鈴鹿御前
鈴鹿御前みたいな人が居たら、人はやはりそのよく出来た姿を当初喜んでも、何れ逃げたくなるのかもしれないですね。
Tweet |
|
|
7
|
1
|
追加するフォルダを選択
式姫の庭の二次創作小説になります。
「唐柿に付いた虫」でタグ付けしておりますので、過去作に関してはそちらからご覧下さい。
そろそろ夜明け。