白く細長い布の上に、漆黒の墨が躍る。
文字を書いているというより、布の上に生き物を生み出しているのではないかと錯覚するような生き生きとした線。
感嘆してその様を見ていた仙狸に、筆を置いた天仙が振り向いた。
「はい、出来上がり、これで良いのかしら?」
「どれどれ」
天仙の傍らに立って、それを見た仙狸が、ふむと感嘆の息を吐いて大きく頷いた。
「わっちの道楽に供するには勿体ない程じゃな……忝い」
「せっかくなら、木の板にでも書いた方が良くない?」
そう問うてきた天仙に、仙狸は曖昧に微笑んで頭を振った。
「それほど大層な店でも無いでな」
「そう?仙狸さん……店主さんが納得してるならそれで良いけど、看板作りたくなったら何時でも言ってね」
「ふふ、では、その気になったらお願いするとしようか」
「そうね、気が向いたらそう言ってね」
それじゃあね、と軽やかに立って、夕暮れの中を歩き出した天仙の背に、仙狸は声を掛けた。
「一度返礼に馳走したい、気が向いたら寄ってくれぬか」
「ええ、それじゃ近いうちに」
楽しみにしてますねと、手を振って歩み去る天仙を戸口で見送ってから、仙狸はまだ真新しい木の香りのする室内を見渡した。
簡単な厨房、そこから直接料理が手渡せる位置に三人ほど掛けられる長机が一つ、四人掛けの卓と椅子が二組み。
それと、四人がゆったりくつろげる程度の広さの座敷が一つ。
柱には小さな花活けが下がり、今はそこに可憐な野菊や薊が飾られていた。
小体で飾らないが、ちょっとしゃれた感じのある店。
「わっちの店……か」
この庭を単なる庭園では無く、人の営みの巡る場所にしたい。
そんな主の思いから、取り敢えず有志の手で始められた、未だままごとのような試み。
白兎のお花屋さんに、狛犬の果物屋、織姫と天女の薬種店に雪女の氷菓子の店。
斉天大聖は、何やら大陸の珍味を提供する店を開こうとして、主と金銭や仕入れの問題で、どこか楽しそうに喧々諤々の議論をしていたが……さて、あれはどうなるやら。
そんな中で、仙狸が求めた店。
気楽に夕刻から夜中に掛けて酒を楽しめる店をな、外れにでも建ててくれぬか?
夜中にふいと呑みたくなった場合、厨房の司たる鈴鹿御前や春姫に酒のアテをせがむわけにもいかず、塩か味噌を舐めて、となる訳だが、もう少し凝った物で一杯やりたいというのは酔客の性という物である。
簡単な厨房に、数席と小さな卓に、ゆっくりしたい客の為の小さな入れ込み、その程度の小体(こてい)な店。
「そいつは……」
言葉を切って、顎に手を当てた主が、しばし考え込む。
「予算超過かのう?」
ならば、屋台程度でも……。
そう言いかけた仙狸の言葉が、ひょいと出されて、横に振られた主の手で止まる。
「俺が土下座してでもお願いしてぇ話しだ、是非やってくれ」
そうにやりと笑った主の顔を思い出し、仙狸は苦笑した。
「さて、いかなる酔客が来るか……」
そう言いながら、仙狸は、天仙に書いて貰った暖簾に竹竿を通して、戸口に掲げた。
萩。
軽やかな一文字に、そっと描き添えられた萩の花一叢(ひとむら)。
墨一色にも関わらず、少し紫がかった赤い可憐な花が咲き匂うような。
それを満足そうに見て、仙狸は笑みを浮かべた。
「暖簾に恥じぬ店にせねばな」
仙狸が戸を閉め、店内に明かりを灯す。
柔らかい橙色の火と藍色の闇が、戸障子と白暖簾を柔らかい色で染める。
仙狸が式姫の庭の中を流れる小川沿いに構えた、小料理屋「萩」。
秋の草の間で、虫達が歓迎の楽を奏でる中、本日開店。
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式姫の庭の二次創作小説です。
仙狸の運営する呑み屋さんの小話集です。