「着地するとき、何を考えてる?」
コーチに問われて、少しだけ考える振りをした。
「何も、考えてないです」
僕の答えを聞いても、コーチの顔は相変わらずの表情で、何を思っているのか把握できない。僕とコーチは暫く無言で向き合ったままだった。
「そうかぁ……」
コーチは自分の顎を指先で掻きながら、空気と一緒に言葉を吐き出した。
コーチが現役で体操競技をしていたのは今から三十年以上も前だけれど、筋肉質で色黒のコーチの顎周りは、まるで一斤の焦げた食パンのようだ。当然のことながら、齧り付きたいとは一寸も思わない。齧ったところで、苦いその食パンを喰いちぎることはできず、僕の歯が欠けてしまうだけだろう。
「いろいろ極まってくるとな、着地の瞬間の周りの景色が、よく見えてくるんだよ。あの二階席の観客、鼻くそほじってる、とかな。どうでもいいこと考えるんだよ。いや、ちょっと違うな。なんていうのか、心が戻ってくる感じだ。演技前にすっ飛ばした心が帰ってくるんだ。演技がうまくいったときほど、着地の瞬間にどうでもいいことを考える」
コーチは一言一言ゆっくりと話したけれど、僕には殆ど理解できなかった。現役時代にオリンピックの控え選手に選ばれたことのある優秀なコーチの話は、丁寧に説明されても理解できないことがある。これ以上考えても無駄かもしれない、と感じてしまった。
そんな僕の感情が表情に出てしまったのか、コーチは僕を気遣うようにほんの少し笑った。
「分かりづらいな。うん。俺もようやく最近気付いたことだからな、すまん」
コーチが、僕の肩を力強く叩く。
「とりあえず、着地がカエルみたいに地面にへばり付いてるぞ。着地かえらず、心がえる、ってか。うーん、ますます分からんな、すまんすまん」
それから半年間、コーチは僕以外の選手にも時々ココロガエルの話をしていた。ココロガエルの話を聞いたどの選手も例外なく「よく分かんね」という感想を呟いた。そんな選手たちの反応を知っていたのか、コーチはココロガエルの話を同じ選手に二度言うことはなかった。
※
コーチが、自分の胃癌をみんなの前で発表して、長期休暇に入ることを告げたのは本当に突然で、しかも切迫感や悲壮感無く飄々と「じゃあ、生きてたら、またよろしく」と笑顔混じりで冗談のように話した。そんなコーチの様子を見た僕ら選手は全員、きっと数ヶ月後には再びコーチの癖のある指導を受けることになるのだろうと考えていた。
数ヶ月後にコーチの訃報を聞くまでは。
数ヶ月間、どの選手もコーチに会っていなかった。おそらく、コーチはそれを望んでいたのだろう。コーチのその遺志を理解しても、しかし、僕らの後悔が消えることはなかった。
コーチの通夜には多くの人が来ていた。僕も参列者の一人として、他の選手たちと一緒に通夜会場に入る。
程なくして、僅かな違和感を感じた。
焼香台の前に参列し、僕の順番になり、コーチの親族の方々に頭を下げる。そのときに違和感の正体に気付いた。
親族の表情が、穏やかだ。
勿論、どの親族も悲しみを湛えている。しかし、その悲しみは、心の内側で凍えて氷柱のように痛々しく尖ったものではなく、地面を覆う春の残雪のように、微かな息吹を感じるものだった。翌日の告別式でも、その印象は変わらなかった。
※
告別式から一週間後、コーチの奥様が来校し、僕たち選手は全員、御礼の品を受け取った。コーチのメッセージが付いた御礼の品。泣くまいと決めていた僕の涙腺の閾値を容易く超えたコーチのメッセージは、生前のコーチの人柄が凝縮されており、笑えるほどだった。
「あの人、最期になんて言ったと思います?」
コーチの奥様がハンカチで目元を拭いながら話す。
「『おい、お前、鼻毛出てるぞ。ああ、結婚おめでとう』って言ったんですよ」
ハンカチを目元から口元に移動させた奥様の笑い声が一瞬漏れる。
「もうほんと信じられないでしょ? その場にいた全員、ぽかんとして、娘は泣きながら笑って『お母さん、鼻毛出てる』って言うし。あと、結婚なんて誰もしてないから、最期はそういうもんなんだね、記憶が混乱するんだねってみんなで話してたら、看護婦さんの一人が『私、昨日プロポーズされて、今、婚約指輪つけてるんです』って言うもんだから驚いちゃって」
僕は背筋に寒気を感じ、鳥肌が立ち、そして唐突に理解した。
ココロガエル。
コーチは着地したのだ。
これ以上無い完璧な演技のあとで。
お悔やみなんて必要なかった。
拍手喝采を、コーチに。
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とある着地の、お話。