参考書に並ぶ文字列を目で追っていた深行は、「相楽くん。あのう、ちょっといい?」という声にシャーペンを置いた。
放課後の生徒会室。隣に座っている泉水子がおずおずと指差したページは、指数関数の最小値を求める問題だった。だいぶ格闘していたようで、ノートにはたくさんの解きかけの式が書かれている。
年末の試験ではずいぶん成績を伸ばした泉水子だけど、数学にはまだ苦手意識があるらしい。高2からは覚える公式がさらに増えてくるので、出だしでつまずかないよう、深行は泉水子にひたすら反復練習を勧めている。
「ああ、これはこの公式を使うんだ」
自身のノートにさらさら書きつけると、泉水子がひょっこり覗きこんできた。甘い香りが鼻孔をくすぐり、胸が一瞬にして高鳴る。
泉水子は至極真面目な顔つきで公式を書き写すと、解き方が見えたのか顔を輝かせた。ありがとう、とふんわり微笑み、再び問題を解き始める。
深行はそっと、深く息を吐いた。
あの日、「いつもどおりでいよう」と言ったのは深行だ。そう言ったものの、泉水子は顔に出てしまうのではないかと最初は気をもんだが、泉水子のポーカーフェイスは、それをおはことする深行から見ても恐れ入るものだった。
それでもふたりきりになれば少しは意識してしまうのでは、と思ったのは深行だけで(もちろん顔には出さないが)、泉水子は本当に何事もなかったかのような様子を貫いている。こちらは横浜で後ろからしがみつかれた衝撃や、星降る夜に重ねた唇の感触をことあるごとに思い出してしまうというのに。
窓の外は暦どおりの陽気で、うららかな陽の光が差し込みあたたかい。少し暑いくらいだった。
「相楽くん? どうしたの?」
深行をじっと見つめる黒い瞳には少しの曇りもなく、泉水子はただ真っすぐに深行を信じている。
あの約束をしたときからずっと。
(以前、信じないにもほどがあると言ってやったことがあったが・・・)
思い出して、小さく笑みが漏れた。泉水子がますます首をかしげる。
まったく意識をされないのも複雑な気持ちだけれど、約束を思えば、今はまあいいか、と自制できるものだ。
うかつに手を出して泉水子の顔が失望に歪むのは見たくない。それ以上に深行は自分を許せないだろう。
「手が止まってるぞ。試験までにとにかく慣れておかないと、後で苦労するのは鈴原なんだぞ」
泉水子の頭を指先でつつく。頭を手で押さえた泉水子は、上目で深行をにらんだ。
「先に休んでたのは、深行くんじゃない」
理性が一瞬揺らぎそうになってしまったのは、ふいに呼ばれた下の名のせいだろうか。尖らせた唇が幼くて、そのやわらかさをもう一度確かめてみたい衝動にかられた。
思わず息を詰めると、何か言われると思ったのか彼女は慌てて問題を解き始めた。
泉水子とずっと一緒にいるための第一関門は大学進学だ。今の深行にできることは、泉水子を無事に大学に合格させること。そして残りの高校生活、できるだけふつうの学園生活を送らせてやりたいと思う。余計なことなど考えている場合ではないのだ。
「あ、相楽くん。ここなんだけど・・・」
深行によく見えるよう、泉水子が机の上の問題集をこちらへすいっと滑らせる。互いの腕が軽く密着した。
あと2年。先はなげえな、と深行はこぼれ落ちそうになるため息を飲み込んだ。
* * * * *
3学期も変わらず深行の徹底指導を受けている泉水子は、こっそりと彼の手を見つめた。
大きな手。いつも泉水子を導いてくれる手だ。先ほど質問をした際軽く触れそうになったが、すぐに離れてしまった。それがなんとなく残念に思えてしまい、あわててその感情を振り払う。
深行とふたりで約束し、キスをした。それは泉水子にとって大切なしるしだ。
深行も同じ気持ちだったことがとても嬉しくて、もう何があっても大丈夫だと思えた。深行は一度言ったことを守る人だ。何もなかったふりをしようとも、泉水子はそれほど動揺せずにいられると思っていた。
それなのに。学校が始まってしまえば、やっぱり気になるのだった。男子であれ女子であれ深行が人当たりよく外交するのはいつものことなのに、女子に笑顔を向ければ胸がちくんと痛んだりする。身勝手な片思いをしているような自分にほとほと呆れてしまう。
でも、と泉水子は深行の横顔を盗み見た。そう思っても仕方がないと開き直りたくもなる。深行が女子から人気があるのは、彼の気持ちを信じていることとはまた別問題なのだから。
不安になった時、少しだけでも気持ちを確かめあえたなら・・・。
(真響さんは、深行くんがオオカミにもなるだろうと言っていたけど・・・)
実を言うと、『オオカミになる』という意味がよく分からなかった。けれども真響の言い方から良くない意味だと感じたので、すぐさま否定したのだが。
オオカミといえば童話でも悪役が多い。真響は泉水子のことを心配してくれて、あまり信じていると傷つけられるということが言いたかったのだろうか。
しかし、泉水子のオオカミの印象は違った。昔読んだ動物記の印象が強く、オオカミとはとても一途な動物だと認識していた。一度伴侶を決めると、絶対に裏切らないのだと。
ふいにその気持ちを伝えたくなったとき、下校を促すチャイムが鳴った。
深行が腕時計を見て帰り仕度をはじめてしまったので、泉水子ものろのろと問題集とノートをかばんにしまった。
「鈴原、今日やったところをしっかり復習しておけよ。・・・鈴原?」
入口に突っ立ったままドアを開けない泉水子に、深行が首をかしげる。早く足を動かさなければ。そう思うのに、まるで根っこが生えているようだった。このもやもやした感情をそのままにしておいてはいけない気がするのだ。
泉水子は音を遮断するような術を使えない。本当はできるのかもしれないけれど、やり方が分からない。震える指先で鍵のつまみに触れた。
かちゃり、と鳴った音は小さかった。それでも耳にしっかりと響いた。閉めたはずなのに、何かを開いてしまったような感覚がした。何かは分からないけれど。
「・・・鈴原?」
鍵の音は深行にも届いた。その声には困惑の色が混ざっていて、泉水子はうつむいた。指先の震えが止まった代わりに、心臓がうるさいくらいに暴れている。
「真響さんが・・・その、相楽くんとオオカミの話をしていて」
どうにか切りだすと、深行はそんなことかというように軽く息を吐いた。それから苦笑して、泉水子の頭に手を乗せた。
「宗田の言いそうなことだな。心配しなくても、」
「でも、私は・・・相楽くんがオオカミみたいだったらいいと思っている」
泉水子は勢い余って深行の言葉を遮った。深行はしばらく固まり、
「え・・・っ」
ひどく驚いた様子で見つめてきたので、泉水子の顔がかっと熱くなった。沸騰しそうな頭が、だけど冷静に「間違えた」とそう告げている。
「あのね、違うの。相楽くんを信じてないわけではないの。だけど・・・」
急いで言い訳をしてみても、震える声は床に向かってでしか発することができなかった。
やはりやめておけばよかった。時々気持ちを確かめたくなるなんて思わずに、大人しく帰っていればよかった。
恥ずかしい。情けない。沈黙が重くて泣きたくなった。
深行は何も言ってくれない。羞恥と後悔でごちゃごちゃになりながらも恐る恐る見上げると、深行は疑問符を浮かべた顔で泉水子を凝視していた。
「鈴原の言うオオカミって、なんのことだ」
どうやら伝わらなかっただけで、引かれたわけではないらしい。よくよく考えてみれば、言葉が足りなすぎたのだった。
「オオカミは相手を騙して食べちゃう印象が強いけど、本当はすごく誠実な動物らしいの」
両手の指を組み、しどろもどろに詳細を伝えた。伴侶に対してどうの、というのは言えなかった。あらためて説明するのは少々気恥ずかしいものがある。
「・・・・・・鍵をかけたのは?」
「ええと、誰かに聞かれたら困ると思ったから」
深行は何度か瞬いた後、片手で顔を覆って長いため息をついた。
言い直したところで、結局呆れられてしまったのだ。にわかに落ち込んでいると、くつくつおかしそうな笑い声が聞こえた。
他の人には見せない、泉水子の好きな笑顔だった。
「深行くん?」
「つまり、あれから俺が考えてることを知りたかったんだろ? 同じだよ、俺も」
やわらかい眼差しに胸がどきんと高鳴った。と同時に、いろいろなことがよみがえってくる。深行も同じだったのか、ふたりで視線を合わせてどちらからともなく微笑んだ。
以前、深行が何を考えているのか知りたいと言ったこと。思っていることをもっとしゃべれと言われたこと。
せっかく気持ちが通じ合ったのに、あの頃からあまり成長できていなくて笑ってしまう。
これからも幾度となく様々な困難に直面するだろう。だけど深行と同じ気持ちなのだと分かっていれば、この先も一緒にいられる方法があるのなら、きっと乗り越えられると信じたい。
深行は背をかがめて、泉水子の額に唇を寄せた。すぐにふいっと顔を背けてしまう。それからドアの鍵をかちゃりと回した。
その音を聞くと、今度は心の鍵が開いたように楽な気持ちになった。泉水子は一瞬のぬくもりを確かめるように額に触れ、嬉しさを胸にそっとしまったのだった。
終わり
『手を出す』の意味が分からなかった泉水子ちゃんはオオカミの意味を果たして分かっていたのだろうかと(笑)
なんだかかなりまとまりのない話でスミマセン。迷走中・・・。
スピンオフの、「何もなかったこと」にとか「いつもどおりでいよう」とか、これまでの泉水子ちゃんの性格を考えると無理があるし辛い気がして・・・(;;)
ただでさえすれ違いが多いみゆみこなので(そこが萌えなのですが)、ちょこちょこ気持ちを確かめあっていたらいいなと思いました。
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高1・3学期設定。
妄想捏造が本当に激しいので、原作の素敵なイメージを大切にされたい方は閲覧にご注意ください。
※スピンオフのネタバレを含みます。