ふたり分のダンボール箱を運びこんでも、まだ部屋は広々としていた。泉水子も深行もそう荷物は多くなく、お互い必要なものだけで生活をしてきたことが今になってよく分かる。
引越し業者が大型家具をてきぱきと設置してくれ、数少ない荷物を詰め終わると、がらんとしていた部屋にもそれなりに生活感が出てきた。
「なんだか、あっという間だったね」
引っ越しの準備で慌ただしかったせいか、これからはふたりで住むのだという実感より達成感の方が強かった。泉水子が一息ついていると、深行は部屋をぐるりと見渡した。
「そうだな。ふたり分だし、もう少し狭くなると思ってたんだが」
壁側にある小窓とベランダを開ければ、やわらかい日差しとともに気持ちのいい風が入ってくる。新居を決める際に泉水子が出した希望は、陽当たりのいいことと、なるべく静かな場所がいいということだった。
マンションの端に位置する2LDKのこの部屋は、他の部屋よりも窓が多く、射し込む陽光で部屋全体が明るい。公園に面していて、ベランダからその緑がよく見えた。
内覧一件目で泉水子はすでに気に入ってしまったのだが、部屋選びは2、3件見て回って決めるのがベストと聞いている。しかし深行は泉水子が気に入ったと知るやすぐに決めてしまった。
「でも、すぐに決めてしまって本当によかったの? 私には理想的でも、深行くんはもっと気に入るお部屋があったかも」
「別に俺はそんなにこだわりないし。家にいる時間が多いのは鈴・・・泉水子なんだから、お前が気に入ったならそれでいいよ」
深行はさらりと言ってのけたが、照れが生じたのか自然な様子で顔を背けた。結婚が決まってから、彼は普段も努めて泉水子を名前で呼ぶようになった。今の言い直した様子がとても微笑ましくて嬉しくて、泉水子は緩みそうになる口元を軽く引き締めた。こういうことは気づかないふりをしておいたほうがいいだろう。
「きっとこれからは、ふたりのものが増えていくね」
今はまだ始まったばかりだけど。恋人の時とはまた変わってくるのだろうか。
溢れる想いをそのままに微笑むと、穏やかな笑顔が返ってきた。頬に大きな手が触れ、そっと唇が重なる。泉水子は幸せを噛みしめた。
楽しいことも、辛いことも、全部ふたり分。この部屋で積み重ねる時間も全てふたり分になる。ひとりでは不安に押し潰されそうなことでも、深行が隣にいてくれたら、それだけできっと安心できる。
「・・・ん、」
いつの間にかキスがどんどん深くなり、泉水子はあわてて深行の肩を軽く叩いた。深行はやめるどころか、泉水子の二の腕を掴んでソファにぽすんと座らせた。
泉水子を閉じ込めるようにソファの背もたれに手をつき、頬に耳にと唇を落とす。首の弱いところをちゅっと吸われて、泉水子はぴくんと肩を震わせた。
「あ、あの・・・っ 深行くんっ」
「なに」
「買物・・・買物に行く約束でしょう」
できれば暗くなる前に済ませておきたい。泉水子が真っ赤になって深行の胸を押し返すと、目を眇めた深行は渋々といった感じで泉水子の腕を引いて立たせた。
近くにショッピングモールがあることも嬉しかった。
「深行くん、これどうかな。それともこっちにする?」
「ああ、・・・いいんじゃないか?」
「もう、さっきからそればっかり」
お茶碗を手に泉水子は唇を尖らせる。これから長く使ってゆくものだから、きちんと選んでほしいのに。
けれども深行にしてみれば興味のないものに対して評価や好みを聞かれても、答えようがないのは仕方のないことかもしれなかった。こういうことは女子同士のほうが断然楽しいことを泉水子は知っている。
「そう言えば、真響さんと真夏くんが来週遊びに来てくれるって」
「・・・早速かよ」
宗田きょうだいの近況についてあれこれ話しているうちに、電気売り場にたどり着いた。主な家電製品は深行が使っていたものをそのまま使うことにしたので、こちらには用がなかった。しかし、深行は違うようだった。
パソコンやスマートフォンの最新モデルに興味があるらしく、熱心に見て回っている。深行は新しいデジタル機器が好きなのだ。
泉水子はなんとなくバッグからケータイを取り出し、しみじみと眺めた。だいぶ古くなってしまった赤い携帯電話。それでも深行は泉水子のケータイは別なようで、持ち主と同じくらい大切に思ってくれている。
(でも不具合も増えてきたし、そろそろ変えた方がいいのかな)
しんみりしていると、家電売り場の隣のショップが目にとまった。インテリア雑貨と家具のお店だった。泉水子はちらりと深行の様子をうかがった。彼はまだ商品をチェックしている。言えばきっとついてきてくれることが想像できて、声をかけることはためらわれた。
(すぐ隣だもの。少しくらい、いいよね)
素敵なインテリア小物がたくさんあり、気がつけばけっこう買いこんでしまった。紙袋を両手で抱えていると、いきなり見知らぬ男性に声をかけられた。
「重そうだね。持ってあげるよ」
「えっ、大丈夫です。大きくても軽いものばかりなので」
泉水子はびっくりして急いで首を振った。そんなに危なっかしく見えたのだろうか、固辞しているにもかかわらず、親切な人は引き下がらなかった。
「まあ、そう言わずに。お茶でも飲んで休まない?」
相手が手を伸ばしてきた瞬間、泉水子の荷物が消えた。片手で荷物を抱えた深行は相手に鋭い視線を投げつける。声をかけてきた男性が肩をすくめて立ち去ると、今度は泉水子をじろりと見下ろした。
「お前な、勝手にいなくなるなよ」
「だって、深行くん、パソコンを見ていたし。隣だからすぐ済むと思ったの」
深行は小さくため息をつき、泉水子の手を取って歩き出した。
「気づいてなかったと思うが、今のはナンパだ」
目を丸くした泉水子は、深行から懇々と注意を受けたのだった。
手をつないで歩く帰り道、部屋のベランダから見えた公園を通り抜けながら、泉水子はひときわ大きな木を見上げた。あと2週間もすれば満開になった桜が見られるだろうか。淡い桃色の花びらが風に揺られる光景を思い浮かべて、泉水子の胸があたたかくなる。
「部屋からでも花見ができそうだな」
ふいに向けられたやわらかい眼差しに胸が高鳴った。考えていたことを言い当てられたことも。
つながれた指先はとてもあたたかくて。帰る場所はもう同じだというのに、残り少ない帰り道を惜しむようにゆっくりと歩いた。
夕食やお風呂を済ませた後は、深行とソファに座ってテレビを見ていた。
これからは週末だけでなく、毎日同じ時間を過ごすことになる。こうして一緒にテレビを見たり、深行がパソコンをする傍らで泉水子は本を読んだり、うたた寝したり。他愛ない話がすぐにできることも嬉しかった。
朝は見送って、帰ってくる彼を出迎えること。そんな小さなことがとても楽しみだった。
もちろん楽しいことばかりではないことも分かっている。もともと些細なことでケンカが絶えない自分たちだ。それでも今まで通りちゃんと向き合って、お互いに納得するまで話をしよう。自己完結しがちな泉水子だけど、結論を出す前にだいぶ自分の考えが言えるようになっていた。
そんなことを考えていると、いきなり立て続けにくしゃみが出た。
「風邪か?」
「ううん、特に調子は悪くないのだけど」
深行は気遣わしげに泉水子の頬に触れた。前髪をそっと払い、額をこつんとくっつける。
「少し熱いぞ。最近引っ越しだなんだで慌ただしかったし、疲れが出たんじゃないか?」
「大丈夫。疲れてないよ」
否定しても、深行は納得しなかった。自分も眠いからと言ってテレビと部屋の明かりを消し、泉水子を寝室に連れていく。そしてベッドの中に押し込めると、泉水子の首の下に腕を差し入れ抱き寄せた。
「おやすみ」
「・・・おやすみなさい」
一緒に暮らし始める初日。まだ起きていたかったのに、と少し寂しく思う。けれどもこれからはこの愛しい日常がずっと続いてゆくのだからと思い直した。
泉水子を包むぬくもりはとてもあたたかく、とくとくと聞こえる深行の心音がとても心地いい。
疲れるどころか、まるで夢みたいな気持ちだった。大好きなひとと一緒に暮らすこと、結婚できること。このささやかな幸せが怖いくらいだった。
今でも時々姫神の夢を見ることがある。夢の中で、自分が誰だか分からなくなることも。だけど、彼は何度でも泉水子の名を呼び、手を差し伸べてくれるから。
大切にしたいと思う。ふたりでひとつの揃いの日々を。めぐる季節、積み重ねていく時間を。
起きていることがばれているのか、もう寝ろとばかりに頭を撫でられる。優しい指先だった。ベランダから見る満開の桜を想像しながら目を閉じれば、存外疲れていたのか急に眠気が訪れた。
まどろみながら深行の胸元に頬を寄せると、泉水子の背中に触れる手に力がこもった。眠いと言っていたくせに、先ほどから寝つけないようだった。
(新しい寝具のせいかな。でもそんなに繊細ではないはずだけど・・・)
聞いてみようにも、眠くて口が開かなかった。明日でいいかと意識を手放す寸前、額にやわらかい感触がした。
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