No.962528

うつろぶね 第二十五幕

野良さん

式姫プロジェクトの二次創作小説です。

前話:http://www.tinami.com/view/962044

2018-08-04 21:09:36 投稿 / 全2ページ    総閲覧数:690   閲覧ユーザー数:682

 海の上を漂いながら、仙狸は静かに息をひそめていた。

 闇に閉ざされた眼に、徐々に白い靄が掛かってくる。

 式姫の持つ、尋常ならざる回復の力が、彼女の目を再生させていく確かな感触。

 目が、光を感じ始めた。

(もう少しじゃ……もう少し)

 焦ったら負け。

 ああいう、本来は水底に居る生き物は、往々にして鋭い感覚を有している。

 水に落ちた何かの立てる波紋、微かな匂い、僅かな光。

 そんな物を見出し、襲い掛かってくる。

 転じてこちらは、視覚を奪われ、水中では自由も利かない

 せめて、どちらかだけでも回復させねば、勝負も出来ぬ。

 今はとにかく時が欲しい……仙狸は祈る様に息を詰めた。

 わざわざ気配を探ろうとしなくても、何か巨大な代物が、怒りと嘆きの唸りを上げて、空に海にと荒れ狂っている様は、嫌でも判る。

 荒れ狂っているが、その動きを追ってみて、仙狸は若干安堵した。

 奴は姫の姿を求め、この辺りの海域を飛び回っている……この様子なら、逃げた筈の漁師達に危害が及ぶ事はあるまい。

 海中に姫の姿を求め、奴が飛び込んだのか、轟音と共に、海が大きく揺れる。

(奴め、もはや正気では無いか……)

 

 何が有ったかは不明だが、どうやら蜃と、あの先代の住職は、完全に一つの存在になってしまったようだ。

 いや、本来ならば、彼の存在は、あの蜃に食われた数十年前に終わっているべきだったのだ。

 ただ、蛭子珠と、あの僧の修業で得た力と、執念が、蜃に食われながらも、辛うじて自我を保って来ただけ。

 その、彼が辛うじて保って来た自我を……姫への愛とも執念ともつかない感情を、仙狸が打ち砕いてしまった。

 その結果、彼は己を失った。

 そして、彼が持っていた力さら、彼の自我もまた、蜃に取り込まれてしまった。

 今の状況は、その必然の結果というべきか。

(……これで良かったのじゃろうか)

 戦場で抱くべき感情でないのは、百も承知だが、仙狸はそれでも胸が痛かった。

 本来、いかに邪悪な相手であれ、あそこまで人を……人の心を傷つけ、追い詰めるのは、仙狸の本意では無い。

 ただ、慈悲を掛け、相手の尊厳を思いやるには、余りに相手が強大過ぎた。

 正気を失うまで相手の心やよりどころを破壊し、その隙を突くしか……自分たちがあの存在に対抗する術は無かった。

 自身と仲間と漁師たちの命を守る為には、仕方ない事ではあったが。

 それでも、仙狸は自身の行為に対して、安易に己を正当化しようという気にはなれなかった。

 

 ヒメヨ……ヒメヨ……ドコジャ。

 

 龍の吼える声の間に、悲痛な声が混じり、その嘆きに応える様に、海と空が荒れていく。

 嵐すら呼ぶか……。

 それは、この存在が龍としての完成に近づいている証。

 

「……何という事じゃ」

 望んで得る事も出来なかった。

 恐らく、姫は彼の事など何とも思っていなかっただろうに、ただ一方的な想いだけを抱えて……。

 それでも、その僧侶としての修業も、命の終わりですらも、その執着を断つ事は出来ず。

 

 ヒメヨ……コタエテクレ……

 ワシニ……ワライカケテオクレ……

 

 異形と成り果てても、幼子が母を求める様に、彼女を求め続ける。

 人とは……どこまで哀しき生き物なのじゃ。

「私にとって、あのお御坊様は……敵にしか見えなかった」

 余りにあの人は、その存在も物言いも、力と自信に満ち溢れすぎていた。

 そして、疑問の一つも抱かずに、相手を己に従えようとする。

「だからね、貴方でも思うままに成らない事なんて、実はこの世界には一杯あるんだって……」

 たかが小娘一人自由には出来ない。

 貴方は全知全能でも何でもない、ただその辺の人間の一人でしか無いと。

「人生のどん底に……叩き付けてやりたくなったの」

「……そうだったんだ」

 カクには何も言えなかった。

 それは理不尽な話。

 ただ、その姿が、彼女の敵に重なった見えたというだけで、そこまでされる理由は、彼には無かったろうに。

 

 あの先代の住職は、ただ、この人に一目惚れしてしまっただけ。

 だが、彼女は、彼に一目で憎悪を抱いてしまった。

 何て不幸なめぐり合わせだったんだろう。

 

「それじゃ、蛭子珠を奪って逃げたのは、彼を破滅させる為だったのかい?」

 寺宝中の寺宝を奪われたとなれば、僧侶として……いや人としてすら破滅は必定。

「そうとも言えるけど、違うとも言えるかしら」

「え?」

 それは、どういう?

「あの大きな真珠の中には、私の夢見た世界があったの」

 幼い日に母に聞いた。

 海の向こうにあると聞かされた、毎日市が立っていて、お祭りのような賑やかさがずっと続くという。

「私の大事な世界を、あの人たちには渡したくなかった」

 彼女が視線を転じると、再び二人の周囲に、賑やかな市が現れた。

 子供が駆けまわり、大人も互いに笑い交わし、良い匂いが辺りに満ち、色とりどりの品が目を楽しませる。

「……だから、逃げた?」

 この世界を。

 彼女の心の最後の拠り所を。

 魂が安息を得られる、彼女の聖地を。

「ええ」

 無謀なのは判っていた。

 貴族の姫君として扱われるようになってから、自分の足で出歩くなんて出来なくなったし……第一私は外で一人で生活できる力なんて無かった。

 そんな事、知っていた。

 でも。

「ははさまを踏みにじられ、今また、幼い日の夢まで、交渉材料に使われるなんて……」

 それだけは、私には、許せなかった。

 だから、逃げた。

 これは、元は私の居場所。

 だけど。

 

「わたし……ここに来て、やっとわかったの」

 

 そう口にした、そこに姫君は既に居らず。

 最初にカクに声を掛けて来た、あどけない少女が、にっこりと笑っていた。

「何が……わかったの?」

「おねえちゃんは、このかいしにきた、はじめてのおきゃくさま」

 その笑みが、あんまりにも透明で。

 カクにはその後に続く言葉が何となく判ってしまった。

 いやだよ、私、こんなの嫌だ。

 

 俯いたカクの手がぎゅっと、血が滲むほどにに握られた。

 カクには判った……判ってしまった。

 判りたくなど無かったけど。

 これこそが、自分がここに来た意味なのだと。

「ここに、私が望んだ景色は無かった」

「……うん」

「一緒に歩いて、同じ物食べて、美味しいねって笑いあって、周りの景色を綺麗だねって言える」

 言葉にならず、カクはただ頷いた。

「ははさまが……何処にも居ないの」

「そう……だね」

 ここは閉じた世界。

 貴女の夢を無限に紡ぎ続ける……貴女だけの世界。

 そこに他人(ひと)は居ない。

 貴女が心から憎める人も、心から愛せる人も居ないんだ。

「だから、おねえちゃん」

 この世界に初めて訪れた、客人神よ、蛭子(えびす)の神よ。

 

「この世界を……壊して」

 

 その言葉に、カクは強く頭を振った。

 違うよ、私がしたかったのは、こんな事じゃない。

 私は確かに海市の幕引きを望んださ。

 だけど、こんな悲しいのは。

 こんな、辛いのは……嫌だよ。

 俯いたカクは、いつの間にか自分の手に、真紅の、愛用の棍が握られているのを見た。

 自分の理性は、自分が果たすべき役割を既に悟っている。

 でも、私の感情は。

 一人の、悲しい人生を送った人が夢見た、魂の底で、ずっと大事に守って来た、こんな綺麗な世界を壊すなんて。

 そんなの、私には。

 手が震える。

 そこに、小さな手が添えられた。

「お願い、おねえちゃん」

「……良いの?」

 ここは、貴女が守ろうとした、ほんのささやかな夢の世界じゃないか。

 それを。

 うん、と……小さな頭が振られた。

 綺麗な髪がふわりと拡がる。

 ここは楽しさしかない、私のきらきらした宝物だけど。

 私の一番の場所では無かったの。

 少女は顔を上げてにっこりほほ笑んだ。

 

「私、いっぱい遊んで疲れちゃった」

 だから。

「もう、ははさまの居る、おうちに帰りたいな」

「……そっか、そうだよね」

 帰ろうか……。

 貴女の望んだ、魂の奥津城へ。

 

 涙と共に、真紅の光が、海市を一閃した。


 
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