海の上を漂いながら、仙狸は静かに息をひそめていた。
闇に閉ざされた眼に、徐々に白い靄が掛かってくる。
式姫の持つ、尋常ならざる回復の力が、彼女の目を再生させていく確かな感触。
目が、光を感じ始めた。
(もう少しじゃ……もう少し)
焦ったら負け。
ああいう、本来は水底に居る生き物は、往々にして鋭い感覚を有している。
水に落ちた何かの立てる波紋、微かな匂い、僅かな光。
そんな物を見出し、襲い掛かってくる。
転じてこちらは、視覚を奪われ、水中では自由も利かない
せめて、どちらかだけでも回復させねば、勝負も出来ぬ。
今はとにかく時が欲しい……仙狸は祈る様に息を詰めた。
わざわざ気配を探ろうとしなくても、何か巨大な代物が、怒りと嘆きの唸りを上げて、空に海にと荒れ狂っている様は、嫌でも判る。
荒れ狂っているが、その動きを追ってみて、仙狸は若干安堵した。
奴は姫の姿を求め、この辺りの海域を飛び回っている……この様子なら、逃げた筈の漁師達に危害が及ぶ事はあるまい。
海中に姫の姿を求め、奴が飛び込んだのか、轟音と共に、海が大きく揺れる。
(奴め、もはや正気では無いか……)
何が有ったかは不明だが、どうやら蜃と、あの先代の住職は、完全に一つの存在になってしまったようだ。
いや、本来ならば、彼の存在は、あの蜃に食われた数十年前に終わっているべきだったのだ。
ただ、蛭子珠と、あの僧の修業で得た力と、執念が、蜃に食われながらも、辛うじて自我を保って来ただけ。
その、彼が辛うじて保って来た自我を……姫への愛とも執念ともつかない感情を、仙狸が打ち砕いてしまった。
その結果、彼は己を失った。
そして、彼が持っていた力さら、彼の自我もまた、蜃に取り込まれてしまった。
今の状況は、その必然の結果というべきか。
(……これで良かったのじゃろうか)
戦場で抱くべき感情でないのは、百も承知だが、仙狸はそれでも胸が痛かった。
本来、いかに邪悪な相手であれ、あそこまで人を……人の心を傷つけ、追い詰めるのは、仙狸の本意では無い。
ただ、慈悲を掛け、相手の尊厳を思いやるには、余りに相手が強大過ぎた。
正気を失うまで相手の心やよりどころを破壊し、その隙を突くしか……自分たちがあの存在に対抗する術は無かった。
自身と仲間と漁師たちの命を守る為には、仕方ない事ではあったが。
それでも、仙狸は自身の行為に対して、安易に己を正当化しようという気にはなれなかった。
ヒメヨ……ヒメヨ……ドコジャ。
龍の吼える声の間に、悲痛な声が混じり、その嘆きに応える様に、海と空が荒れていく。
嵐すら呼ぶか……。
それは、この存在が龍としての完成に近づいている証。
「……何という事じゃ」
望んで得る事も出来なかった。
恐らく、姫は彼の事など何とも思っていなかっただろうに、ただ一方的な想いだけを抱えて……。
それでも、その僧侶としての修業も、命の終わりですらも、その執着を断つ事は出来ず。
ヒメヨ……コタエテクレ……
ワシニ……ワライカケテオクレ……
異形と成り果てても、幼子が母を求める様に、彼女を求め続ける。
人とは……どこまで哀しき生き物なのじゃ。
「私にとって、あのお御坊様は……敵にしか見えなかった」
余りにあの人は、その存在も物言いも、力と自信に満ち溢れすぎていた。
そして、疑問の一つも抱かずに、相手を己に従えようとする。
「だからね、貴方でも思うままに成らない事なんて、実はこの世界には一杯あるんだって……」
たかが小娘一人自由には出来ない。
貴方は全知全能でも何でもない、ただその辺の人間の一人でしか無いと。
「人生のどん底に……叩き付けてやりたくなったの」
「……そうだったんだ」
カクには何も言えなかった。
それは理不尽な話。
ただ、その姿が、彼女の敵に重なった見えたというだけで、そこまでされる理由は、彼には無かったろうに。
あの先代の住職は、ただ、この人に一目惚れしてしまっただけ。
だが、彼女は、彼に一目で憎悪を抱いてしまった。
何て不幸なめぐり合わせだったんだろう。
「それじゃ、蛭子珠を奪って逃げたのは、彼を破滅させる為だったのかい?」
寺宝中の寺宝を奪われたとなれば、僧侶として……いや人としてすら破滅は必定。
「そうとも言えるけど、違うとも言えるかしら」
「え?」
それは、どういう?
「あの大きな真珠の中には、私の夢見た世界があったの」
幼い日に母に聞いた。
海の向こうにあると聞かされた、毎日市が立っていて、お祭りのような賑やかさがずっと続くという。
「私の大事な世界を、あの人たちには渡したくなかった」
彼女が視線を転じると、再び二人の周囲に、賑やかな市が現れた。
子供が駆けまわり、大人も互いに笑い交わし、良い匂いが辺りに満ち、色とりどりの品が目を楽しませる。
「……だから、逃げた?」
この世界を。
彼女の心の最後の拠り所を。
魂が安息を得られる、彼女の聖地を。
「ええ」
無謀なのは判っていた。
貴族の姫君として扱われるようになってから、自分の足で出歩くなんて出来なくなったし……第一私は外で一人で生活できる力なんて無かった。
そんな事、知っていた。
でも。
「ははさまを踏みにじられ、今また、幼い日の夢まで、交渉材料に使われるなんて……」
それだけは、私には、許せなかった。
だから、逃げた。
これは、元は私の居場所。
だけど。
「わたし……ここに来て、やっとわかったの」
そう口にした、そこに姫君は既に居らず。
最初にカクに声を掛けて来た、あどけない少女が、にっこりと笑っていた。
「何が……わかったの?」
「おねえちゃんは、このかいしにきた、はじめてのおきゃくさま」
その笑みが、あんまりにも透明で。
カクにはその後に続く言葉が何となく判ってしまった。
いやだよ、私、こんなの嫌だ。
俯いたカクの手がぎゅっと、血が滲むほどにに握られた。
カクには判った……判ってしまった。
判りたくなど無かったけど。
これこそが、自分がここに来た意味なのだと。
「ここに、私が望んだ景色は無かった」
「……うん」
「一緒に歩いて、同じ物食べて、美味しいねって笑いあって、周りの景色を綺麗だねって言える」
言葉にならず、カクはただ頷いた。
「ははさまが……何処にも居ないの」
「そう……だね」
ここは閉じた世界。
貴女の夢を無限に紡ぎ続ける……貴女だけの世界。
そこに他人(ひと)は居ない。
貴女が心から憎める人も、心から愛せる人も居ないんだ。
「だから、おねえちゃん」
この世界に初めて訪れた、客人神よ、蛭子(えびす)の神よ。
「この世界を……壊して」
その言葉に、カクは強く頭を振った。
違うよ、私がしたかったのは、こんな事じゃない。
私は確かに海市の幕引きを望んださ。
だけど、こんな悲しいのは。
こんな、辛いのは……嫌だよ。
俯いたカクは、いつの間にか自分の手に、真紅の、愛用の棍が握られているのを見た。
自分の理性は、自分が果たすべき役割を既に悟っている。
でも、私の感情は。
一人の、悲しい人生を送った人が夢見た、魂の底で、ずっと大事に守って来た、こんな綺麗な世界を壊すなんて。
そんなの、私には。
手が震える。
そこに、小さな手が添えられた。
「お願い、おねえちゃん」
「……良いの?」
ここは、貴女が守ろうとした、ほんのささやかな夢の世界じゃないか。
それを。
うん、と……小さな頭が振られた。
綺麗な髪がふわりと拡がる。
ここは楽しさしかない、私のきらきらした宝物だけど。
私の一番の場所では無かったの。
少女は顔を上げてにっこりほほ笑んだ。
「私、いっぱい遊んで疲れちゃった」
だから。
「もう、ははさまの居る、おうちに帰りたいな」
「……そっか、そうだよね」
帰ろうか……。
貴女の望んだ、魂の奥津城へ。
涙と共に、真紅の光が、海市を一閃した。
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式姫プロジェクトの二次創作小説です。
前話:http://www.tinami.com/view/962044