No.962862

うつろぶね 第二十六幕

野良さん

式姫プロジェクトの二次創作小説です。

前話:http://www.tinami.com/view/962528

2018-08-07 20:17:43 投稿 / 全4ページ    総閲覧数:601   閲覧ユーザー数:593

 荒れていた海が急に鎮まった。

 不思議な程の静寂が、辺りに訪れる。

「……何が?」

 恐る恐る開いた仙狸の目に、ぼやけてはいるが確かに世界の形と色が映る。

 ぱちぱちと目を何度かしばたたく度に、周囲の景色が明瞭さを取り戻す。

「これは」

 その、蘇った眼前の光景に、さしもの彼女が、絶句した。

 白い龍が天を睨んでいた。

 ヒメヨ……ヒメヨ。

 悲痛な叫びと共に、その目から、滂沱と、紅い涙が溢れ、海を染めていた。

 血涙。

 破れた心の傷から溢れた血が涙を染める。

 紅い海に、白い体をした幼龍が屹立し、泣き喚く。

 そこに、妖としての蜃の姿は既に無かった。

 ただ、泣き喚く……異形の人間がそこに居るだけ。

 その嘆きに応える様に、その体の周りで幾つもの竜巻が巻き起こり、紅く染まった海の水を巻き上げて行く。

 静かだった海が、再び荒れだす。

「何という光景じゃ」

 赤黒い竜巻に囲まれた、青白い龍の姿は、どこか地獄絵図のような……それでいて、どこか不思議な崇高さすら感じさせる、一幅の絵であった。

 歪だが、その姿に何がしかの美を感じさせるのは、どこかあの先代住職の生にも似ていた。

 ただ一心に……周囲を破壊し、他者を蹂躙しながらも、己の思いを貫き続けた、純粋さ。

 そして今、その貫く思いは、蜃の意識と体すら支配するに至った。

 

 その姿は、人には過剰すぎる力を得てしまった彼女の主にも、どこか似ている。

 ただ、彼女の主が持っていた、自身への懐疑や、他者を尊重する心が、この先代の住職には欠けていた。

 今の姿は、多分、それだけの差。

 人が、その身に過ぎた力を得た時、化け物になるか、人で居られるかは、その程度の薄皮一枚の。

 だが、厳として越えがたい差なのかもしれない。

「……強く、悲しき者よ」

 そう呟いて、仙狸は身を預けていた板切れの上に、身を引き上げ、その上に立った。

 足下で海が大きく上下する。

 龍と化してしまったあの存在は、もはや仙狸の、式姫の力でも到底及ばない程に強大。

 だが、放置しては、こやつの悪意は置いても、その嘆きが呼ぶ嵐と大波だけで、あの海辺の漁師町の全てが破壊されてしまうだろう。

 槍を構える。

 奴は幼き龍。

 そして今、天を仰いで嘆き悲しんでいる。

 今ならば、ほんの僅かだが、自分一人でも勝機はある。

「止めてやろう」

 その暴走を。

 その自他を悲しませるだけの生を。

 その身が、体重が無いかの様に、別の板に跳ぶ。

 たん、たんと、波間を漂う木切れや板を蹴って行く。

 竜巻に引き寄せられていく板を次々に。

 そして。

「南無三宝!」

 最後に彼女は大きめの板を蹴り、竜巻の中に飛び込んだ。

 たちまちに、その小柄な体が、水や板切れと共に、上に巻上げられる。

 渦に巻かれ、次々に入れ替わる上下左右の感覚に、気分が悪くなる。

 耐えろ……そして、見ろ。

 手足に力を籠めろ。

 機は一度だけ。

 竜巻の只中で、彼女の意識が細く鋭く研ぎ澄まされていく。

 音や上下感覚が徐々に薄れていく。

 感覚の麻痺では無い。

 彼女の全てを一点に収斂させる、凄まじいまでの集中力がなせる技。

 そして、その時が来た。

 時が止まる。

 奴の姿が、恐ろしい程に明瞭に映る。

 彼女の周囲を漂う、一緒に巻上げられた板切れが。

 海水が風の中を流れ、千切れた水が水滴になって浮かぶ様すら認識できる。

 そして、彼女が狙うべき、その場所も。

 はっきりと。

 

「見えた」

 

 畳んでいた体を伸ばし、一緒に巻き上げられていた木切れを蹴って、仙狸は槍を突き出した。

 その身が、一筋の矢となって、竜巻から飛び出す。

 風の力に乗った仙狸の前に、ぐんぐんと奴の頭が迫る。

 だが、奴は気が付かない。

 そもそも、ここまで巨大になった自分を襲う者などあるまいと思っているのか……それとも、そんな事に心を割く余裕すら無くなっているのか。

 ただ、天を睨み、己の悲しみに浸っている。

 その天を見上げ、がら空きになった顎の下。

 

 逆鱗。

 

 いずれ、この龍が相応しく育った時、そう呼ばれる鱗が生えて来る場所。

 その鱗を触られる事を、龍が嫌い、怒り狂うと伝承されるが、それは事実の全てでは無い。

 龍がそこに触れられるのを厭うのは、それが龍の急所だから。

 その場所を、ほんの小さく狭い部分を、槍先が確かに捉えた。

 があっと、痛みと衝撃に、それは吼えた。

 だが、流石は巨龍である。

 鱗こそないが、分厚い脂肪と筋肉に鎧われた巨体そのものが、彼女の前に壁となって立ちふさがり、槍先を止めた。

 弾き返そうとする力と、それを貫こうとする仙狸の力が拮抗する。

 ここまで休みなしに戦い続けて来た仙狸の腕の力が萎えそうになる。

 それに反して、奴の押し戻そうとする力が更に増す。

(まだだ……まだ!)

 自分はもう、限界だが……。

 まだ、彼女たち式姫には、その背を押してくれる、支えてくれる、彼女たちと共に在る力が。

(主殿……頼む)

 相手を倒すのでは無い。

 この悲しみの連鎖を断つ力を。

(わっちに貸してくれ)

 

「進め、仙狸」

 その思いの先へ。

 

 その声が、確かに聞こえた。

 彼女は、ぎゅっと槍を握った手に、残る力のありったけを込めて、手の内を締めた。

 ずぶり。

 その槍先に加わった僅かな捻りが、穂先を肉に食い込ませた。

 

 均衡が崩れた。

 

 一点に全ての力が掛かった鋭い槍先が傷口を広げ、血管や筋肉を引き裂きながら貫き、その刃を、するりと、呆気ない程簡単に、脳へと届かせた。

 それと同時に、龍が仙狸を排除せんと振るった前足が彼女を強かに打ち据えた。

「ぐっ!」

 捨て身の攻撃を放ち、隙だらけだった彼女の体が、握りしめた槍さら、遥か眼下の海面に叩き付けられ、高い水しぶきを上げた。

 

 この間、仙狸が竜巻から飛び出してから、瞬きをするほどの、刹那の時。

 一瞬の、生死を掛けた攻防であった。

 

 ぐるるる。

 蜃が低く唸る。

 どこか、不思議そうに。

 確かにそれが致命の一撃だと悟りつつ、納得いかないとでも言うように。

 一拍おいて、槍が貫いた傷から、鮮血が迸った。

 頭に繋がる血管を存分に切り裂かれ、脳にまで刃が通ったのだ……例え龍なりとて、その強靭な命を保つ術は無い。

 その長大な身を屹立させる力を失ったか、ぐらりと、大きくその体が揺れる様を、仙狸は海面にあおむけに浮かびながら見ていた。

 全身が痛い。

 力が入らない

 目がかすむ。

 愛用の霊槍も握りしめる力を失い、海中に没した。

 もう、戦えない。

 だが、その手には、確かに奴の命を捉えた感触が残っている。

 これで終わった。

 竜巻が、奴の力によって生じていた暴風と高波が止んでいた。

 巻き上げられていた海水が、時ならぬ驟雨となって海に……そして漂う仙狸の上に降り注ぐ。

 雨の帳の中、くねる龍の体が、徐々に海中に没していく。

 海面を覆う血溜りが拡がる様を見てから、仙狸は目を閉じた。

「ふぅ……」

 静かに息を吐く。

 悲劇の連鎖は断った、漁師たちも、幾人かの犠牲は出してしまったが守れた。

 だが、一体この戦いは何だったのだろう。

 結局、当事者たちの心は、誰も救えないまま。

 あの姫も、先代の住職も……その魂は行き場を失って彷徨い続けるのだろう。

(わっちは無力じゃな……)

 勝利を無邪気に喜ぶ類の単純さの持ち合わせが無くなって久しい我が身だが、今回の勝利は一際彼女に苦かった。

 だが、それでも……。

 彼女とカクが無事に、あの庭に戻った時。

(お帰り、仙狸、カク、無事で良かったよ)

 主が笑顔で出迎えてくれる。

 あの瞬間の為だけでも……自分たちが勝利し生きてある事に、多少の意味は有るのだと。

「帰るか」

 カクを探し、自分たちの居るべき場所に。

 その仙狸の体が、大きく波に揺られた。

「……何じゃ、これは?」

 まさか……まさか、まだ。

 ごぼり。

 血溜りの真ん中にごぼごぼと、地獄の底で滾る溶岩のように泡が立つ。

 その中央から白い顔が覗いた。

 海坊主ででもあるかのように、白く大きな顔が。

 血の涙を流した、先代住職の顔が。

「ナゼわしの邪魔ヲするのじゃ……」

 口がぎこちなく蠢く。

 それは、蜃の残る命と体をかき集めて作り上げた、最後の魂の残り火か。

「ワシは……姫を……アイしただけじゃァ」 

 一言発する度に、顔がぐにゃぐにゃと動き、どこか滑稽な顔を作る。

「そのナニが……ワルイと言うかぁ……」

「悪くは無い」

 悲しげに仙狸はそう呟いた。

 もう、戦う力も、逃げる力も……そして、憎いと思う心も残っていなかった。

 ただただ、目の前の存在が哀れだった。

「それが善悪の問題では無いと……気が付けなかった事が、そなたの悪なのじゃ」

「ワシに……アクなど……なぁい!」

 その巨大な顔が口を大きく開く。

「貴様をクッテ……ワシはイキル……姫をサガス」

「く……」

 無念じゃ。

 迫る顔を見る……その仙狸と、先代住職の顔の間に、唐突に光が差した。

「……何じゃ?」

 それは不思議な……万華鏡のような光が海中から差す。

 そして、それが海中から浮かび上がって来た。

赤子の頭ほどもあろうかという、真珠。

「これが……そうなのか」

 さしもの仙狸が、一瞬だが魂を奪われた。

 美しい。

 この眩めく光は、創世の力。

 何にでもなれる……まだ何物でも無い力の持つ万色の光。

「蛭子珠」

 

「もう、お止しになって……御坊様」

 

 その蛭子珠から声が発せられた。

「オ……おォ?」

 その声を聴いた顔が動きを止める。

 顔がぐにゃぐにゃと動く。

 歓喜、猜疑、怒り、悲しみ……ありとあらゆる表情が浮かんでは消える。

 その眼前で、蛭子珠が、人の形を取り出した。

「ヒメ……ヒメよ!」

 巨大な顔が、歓喜の声を上げた。

 滂沱と溢れる涙で滲む視界の中、いとしい姿が形を取っていく。

 光が収まった時、そこに彼女はいた。

 男を蕩かす蠱惑的な顔が、にこりと笑みを浮かべた。

「そうですよ、御坊様……お久しぶりですね」

 本当にお久しぶり。

「ヒメが……声を発してオル……ワシニ……語りカケテ」

「ええ、私、どうしても貴方にお伝えしないといけない事があったの」

「おお……オオ、ヒメよ、何を言うてくれるのジャ、儂にイカナル言葉をカケテ……」

 歓喜に震える僧の顔を、姫が艶然と見やる。

「御坊様……私、貴方の事が」

「……ワシノ事が?」

 

 期待に震える大きな顔に、姫はにこりと微笑んで、ふっくり豊かな唇を開いた。

 

「大っ嫌い」


 
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