童子切の傍らを離れ、青行灯の方に、ゆっくり歩いて行く小夜の背を、童子切はどこか茫然と見送っていた。
あの顔は。
(童子切……ごめんなさい)
その目が、小夜を引き留めようと伸ばそうとした童子切の手を止めた。
(小夜様……)
人は……何故。
青行灯を見上げるように小夜が立った。
すっと背筋を伸ばし、恐れげなく、卑屈さも見せず、青行灯に正対する姿は、ぼろぼろになった衣を纏って尚、高貴の風が有った。
「よう参られた」
「ええ、一族の悲願を思えば、当然の選択です」
「そうじゃなぁ、そなたは自身は難しいが、適当な夫を見つけてやろう程にな、そなたのややこに、官職を授ける位は、妾の力を使えばいと易い」
「そうですか……いと易い」
「おお、容易い事じゃ」
「そう……そうですよね、容易い事」
そう、何も難しい事なんてない。
小夜は青行灯に、にっこりと笑いかけた。
「……何?」
どっ。
小夜は、後ろ手に隠していた懐剣を、行灯に開いた一つ目に、突き入れた。
式姫である童子切と、この地で、青行灯を封じていた一族の末裔の血に濡れた鋭い刃を。
その目の中央に、束元まで懐剣が埋まる。
抉った小夜の手に、確かに何か、得体のしれない手応えが返ってきた。
やっぱり……こっちこそが、あなたの本体。
あの女の姿は、男たちという蛾を誘う為に、青白く輝く夜闇に浮かぶ幻。
わざと、怪我をしている童子切の攻撃を受け止めたりして見せて、自分は道具だと言わんばかりに振舞っていたけれど。
おじいさまが、厳重に木箱に入れて、ここに奉納した、あなたこそが。
ぐんにゃりとした感触をかき回す様に、小夜は手の内で懐剣を抉った。
ぎゃあ、と、獣のような叫びが上がった。
良かった。
手も震えなかった。
怖くなんて無かった。
ただ、彼女の事を助けてくれた人の事だけを考えて。
私は、自分が為すと決めた事を成し遂げた。
「童子切!」
「おのれっ!」
青行灯が、左手で小夜を突き飛ばす。
「きゃっ!」
咄嗟の事とて、力の籠もらぬ一撃であったが、小柄な少女の体が僅かに宙を飛び、地に転がった。
「おお、おのれ、おのれ!」
行灯の口から、男の声での叫びと共に、青白い炎が無差別に吹き出す。
「あああ、何故じゃ……何故妾を害す」
青行灯もまた、目の辺りを押さえて、苦鳴を上げる。
その炎を縫って、童子切が走り込んで来た。
式姫と主は、言葉なくとも、互いにその意を通じ合う。
あの時。
(……ごめんね、童子切)
後はお願い。
その主の決意を、覚悟を……私は確かに受け取った。
踏み込む足に、妖炎によって付けられた火傷から、発狂しそうな程の痛みが走る。
だが、まだこの足は付いている。
ならば前に踏み込め。
汝は、刀なり。
我が主に、戦う意思があるならば、貫く覚悟があるならば。
「寄るな!寄るなぁ!」
青行灯を取り巻くように放たれた炎が、童子切を阻むように壁となって立ち上る。
「笑止」
この一剣もて、我が主の道を切り開くために。
地鳴りを伴う程の踏み込みが、炎の壁を、障子紙か何かのように、容易く貫く。
「ひぃ」
青行灯が、おのれの体を盾にでもするように、行灯を後ろ手に隠した。
例え、この身が折れようと。
童子切の刃が、鞘内を滑る。
優美な曲線を描く、二尺六寸五分の鋼が、空気すら両断するかのように、刹那に閃いた。
我、敵の命を両断す。
いつ抜かれ、いつ納められたのか。
身を起こして、じっと童子切を見ていた小夜にも、辺りで息を詰めていた猿神も……。
いや、無心で刀を振るった童子切すら、判らなかった。
ああ。
どこか官能的ですらある吐息が、僅かに夜の中でささめく。
それが、童子切の物だったのか、青行灯の物だったのか……。
もしかしたら、二人の物だったのか。
かちゃん。
青行灯の後ろで、金属製の何かが地に落ちて跳ねる音がした。
「……見事だ、式姫」
地上で、青白い炎が、半分になった行灯からゆらゆらと燃える。
そして、青行灯の半身もまた、炎に包まれていた。
童子切の刃に両断された、その傷口から……内側に納めていた炎が溢れだす。。
「此度の百物語は……妾の滅びで締める事となったか」
それも一興。
男と女の声が、どこか愉快がるような響きを帯びて、しばし低い笑いを響かせる。
「さようなら……青行灯」
その、童子切の言葉に、頷くようにして……。
青行灯の体が、灰となって、ぱさりとそこに崩れ落ちた。
その身を包んでいた、青白い炎が千切れながら空に昇って行く。
見果てぬ雅を追い求めながら、ついにこの山里を離れる事叶わなかった魂が。
「……綺麗ね、まるで蝶みたい」
「そうですねー」
今自由を得て、飛び去って行った。
それを、童子切と小夜は静かに見上げていた。
「平安の御代より続いた百物語が、終わっちゃいましたねー」
どこか寂しそうに、童子切の呟きが空に溶けていく。
敵ではあったが、また一つ、自分の知っていた存在が消えた。
この、何とも言えない寂寥感には、慣れる事が無い。
最後まで、童子切は青行灯に告げられない事が有った。
今はもう、都に雅など残っていないのだと。
青行灯を呼べるような……そんな、腐敗とも熟成とも付かない、濃く、甘い香りを纏う……そんな爛熟した文化の時代は、とうに終わってしまっていたのだと。
また、あのような妖が産まれる時代は来るのだろうか。
それとも……。
ぎゃーぎゃーと喚く猿の声で、童子切は、ふと我に返った。
木々を揺らし、猿たちが逃げ去っていく。
「……ねぇ童子切、あの猿たちはどうなるのかしら?」
「妖気の源が無くなった以上、あの程度なら、放っておけばだんだん正気に戻ると思いますよー」
「そう、良かった」
まぁ、消えていく妖気を己の体内に納め、増幅し、いずれ猿神になる者が現れる可能性が無いでもないが……それは、小夜に告げてどうこういう話でもあるまい。
それより……だ。
「小夜様は、これからどうされます?」
「あら、面白い事を言うのね、童子切」
くすっと笑って、小夜は童子切の傍らに立った。
「貴女と酒盛りをする約束でしょ」
「……そうでしたねー」
童子切の唇が、既に美酒をその口に含んでいるかのように、自然に綻んだ。
よっと、刀を杖に、脚を引きずって歩き出す。
「大丈夫、歩ける?」
「大丈夫とは言いませんが、私、お酒呑んだ方が傷の治りは良いんですよ」
呑ませてくれるんですよね?
「お酒は百薬の長?」
「うーん、その言葉の使い方としては違うと思いますが、まぁ、私に関しては、間違ってはいませんねー」
二人が歩き出す。
ゆっくりと森を抜け、街道に出る。
人の世界に帰って来た……そんな実感を込めて、二人は同時に深呼吸して……お互い苦笑した。
じいやの隠れ小屋はこっちよ、と村と反対の方に小夜が歩き出す。
一年前に亡くなってるから……今では私だけの小屋かしら。
そう寂しそうに、小夜は笑った。
落人の住まう村には、こんな風にいざと言う時に逃げ込める隠し田や、隠れ家が有る物だ。
それは、村人にも誰にも知らせずに、作る物。
何かの時に敵に村が襲われた時、知らなければ、お互いの隠れ家に関して、口の割りようも無いから。
大変よね……人間って。
歳に似ない、どこかほろ苦い表情で、小夜はそう呟いて、思ったよりしっかりした小屋の入り口を引いた。
「火傷に効く薬草、取ってくるわ、童子切は鎧を脱いで休んでて」
「助かりますよー、さすがにしんどかったです……所でですね」
「判ってるわよ、ちょっと掛かると思うから、その間はお酒でも呑んでてね」
「いやー、持つべきは物わかりの良い主ですねー」
「童子切ったら……ちょっと待っててね」
ふふっと、小夜が笑う。
童子切はその笑顔にどこか安堵した。
それは、年相応の、まだ、あどけない物で。
この、過酷な生を突きつけられた少女の中に、まだ笑みが残ってくれていた事に。
童子切の前に、五合徳利と、木をくり抜いて作られた茶碗、そして大根と胡瓜の漬物が並んだ。
「ごめんなさいね、こんな器しかないの、でもお酒は絶品の筈よ」
「それはそれは」
さっそく頂戴します、と注いだ徳利からは、思っていたより濁りの無い、見るからに旨そうな酒が零れだした。
馥郁と立ち上る香りに、思わず童子切の喉がごくりと鳴る。
「……これはこれは、実に美味しそうな」
「じいやはお酒好きでね、よく山の幸を下の村と交換してたのよ」
しかも、氷室まで用意してお酒集めてたのよ、凄いわよね。
「では、頂戴します」
くっと口に含んで、童子切は、世にも幸せそうな笑みを浮かべた。
「よもや、山奥でこんな美酒にありつけると思っていませんでしたよ、いや、怪我の痛みも疲れも吹っ飛びますねー」
そう言いながら、大根の漬物を齧って、ぱりっという良い音を響かせる。
「これは……なんとも」
塩加減も出汁も絶妙な糠漬け。
「小夜様、これは酒屋でも開かないと勿体ないですねー」
「喜んでくれて嬉しいわ、この位しか、私には出来ないから」
暫し童子切の飲みっぷりをニコニコと眺めていた小夜が、土間の方に立った。
「それじゃ、火傷の薬取ってくるから……」
草鞋を履き直して、小夜が童子切の方を向いた。
「ね、童子切」
「なんですかー?」
「本当にありがとう、私を助けてくれて」
「いえ……」
救われたのは、果たして、どっちだったんだろう。
「それじゃ、行ってくるわね……きゃ」
歩き出そうとした、小夜の足が少しもつれた。
「小夜様!」
「……大丈夫、ちょっと立ちくらみしただけだから」
流石に一晩中動いてたから、ちょっと疲れているみたいね。
そう笑って、戸口の向うに歩いて行った小夜の背を、童子切は、どこか寂しそうに見送った。
(……ああ……やはり)
童子切は、脚の包帯を外した。
そこには、爛れも無く、淡い薄紅の肉が、すでに再生してきていた。
痛みも、とうに無い。
やはりそうなのだ。
式姫と主の縁深い時、主の力は、式姫の力を支え、そして高めてくれる。
青行灯に放った最後の一撃は、間違いなく、童子切一人の力では放つ事が出来る物では無かった。
だが、それが意味するものは……。
童子切は、手にしていた酒を干すと、徳利と椀を手に、立ち上がった。
「……約束ですから、このお酒とお漬物は頂戴していきますねー」
つ……と。
目の端から零れた雫が、窓から差し込んできた朝の光を弾いて床に散った。
「さようなら、小夜様」
終幕
「……別れも言えず、か」
「はい」
私は、あの少女を。
父も、村も、何もかもを失った少女を放り出して……また、旅の中に戻って行ってしまった。
「仕方ない事だったが……辛ぇな」
「ええ」
式姫の主たる者には、絶大な力が要求される。
その為に、陰陽師は己を鍛え、ある者は自身の霊力で、またある者は、天地自然の力を味方につけ、それを借りて、彼女たちを支えた。
現に彼もそう……。
この庭に満たされた巨大な力によって、彼は、彼の下に集った式姫達の戦いを支えている。
だが、その小夜という少女には、陰陽道の心得も、霊地の加護が有るでも無い。
人の体一つで式姫を支えようと言うのは、凡そ、不可能な話なのだ。
童子切は、小夜の為にも、彼女と別れねばならなかった。
男は、黙って童子切の杯に、最後の酒を注いだ。
こくり……。
音さえ凍るような夜の中、童子切の喉の音が微かに響く。
「ご主人様」
「……何だ?」
「言って詮無き事は理解してるんですが」
「ああ」
「私は……どうすればよかったんでしょう?」
「そうさな……」
男は、杯に残った僅かな酒に視線を落とした。
どこか、そこに映る自身に問うように。
童子切の手にした杯の中の酒が、半分ほどなくなった頃、男が口を開いた。
「なぁ、童子切よ」
「何でしょう?」
「俺には童子切の行動の良し悪しは言えねぇ……けどな。」
俺の見も知らぬ、彼女の主だった人よ。
だけど、君も、多分俺と同じ。
陰陽師でも無いのに、いきなり彼女たちの主という立場に立ち……そして共に戦う事を選んだ。
「小夜さんは、気が付いていたんじゃねぇかな」
「……え?」
自分が童子切とは一緒に居られないと。
式姫と心を通じ合わせたその時。
童子切という存在の大きさと、それを納めるだけの器が、己に有るや無しやを。
「小夜様……が」
「本来なら、傷の治療を優先するもんじゃねぇかな……でも、彼女は酒とあてを準備してから、薬を取りに行くって童子切を一人にした」
「……あ」
あの時の彼女の表情が、時を隔てて、今、鮮明に思い出せる。
(本当にありがとう、私を助けてくれて)
もう、多分二度と会えない貴女に。
お別れは、私からは言えないから。
だから、せめて感謝だけは伝えたい。
ありがとう、そして、さよなら、童子切。
私の……式姫。
「小夜……様」
俯いた童子切の背に、羽織がふわりと掛けられた。
「……ご主人様」
「風邪ひくなよ」
それじゃお寝み、童子切。
それだけ言って、足音が遠ざかっていく。
それが聞こえなくなった頃、童子切は顔を上げた。
上げた目に映る月が滲んでいる。
百の時を隔てて、今ようやく、私は貴女にちゃんとお別れとお礼が言えそうです。
「私こそ、ありがとうございました、小夜様……」
貴女に出会えたあの日から……私は孤剣ではなくなった。
だから、私は、ここまで旅を続けることが出来ました。
そして、これからも。
きっと……。
式姫プロジェクト二次創作小説 孤剣 了
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式姫プロジェクトの二次創作小説です。
童子切の昔語り、これにて完結です。