はぁ……。
私の耳元で、彼女が息をついた。
命の残りが少ない事を知らせるような、細く吹き抜ける虚ろな吐息だった。
力を失い、ぐにゃりと私に預けられた彼女の体を、支えるように抱きしめた。
小さい……その体は余りに華奢で。
私は、その弱々しさにたじろいだ。
これが……これがあの、鬼神も顔色を失う程の戦いを続けた、魔人なのか。
心臓を刺し通した刃から、血が伝い、私の手を濡らす。
はぁ……。
また、彼女の命が失われていく。
寄せられ、触れた頬から、熱が失われていく。
はぁ……。
その時私は、彼女の吐息の中に、微かな呪の気配を感じた。
まさか、これは。
その正体を悟った時、私は、覚えず泣いていた。
涙が止まらない。
酷い……余りに。
人は、かくも酷い事が出来るのか。
この少女が……一体、何をしたというんだ。
……はぁ。
彼女の脚が立っている力を失い、また、それを支える程の力も残っていなかった私と共に、倒れた。
倒れる拍子に、彼女の心臓を貫いていた刃がするりと抜け、地に落ちる。
とさりという、彼女の立てた、微かで軽い音が、刀の立てたかしゃりという音にかき消される。
余りに軽い、命の音。
傷口からも、もう、余り血が零れない。
君は……こんなに、空っぽになるまで、何故。
這うように、私は彼女の傍に近寄った。
「何か……言い残す事は?」
私のその言葉にも、彼女は無言だった。
話す価値も無いと思ったのか……そもそも話せなかったのか。
私の存在など一顧だにせず……その目は、ただ彼女の上にひらひらと舞い落ちる桜の花びらを映していた。
胸に舞い降りた、それを彼女は手に取った。
何故そうしたか、私にも判らなかったが、私は彼女の半身を支えて起こさせた。
はぁ……。
息を吐きながら、彼女はその桜の花弁を乗せた掌を、顔の前に上げて、それをじっと見ていた。
ややあって、指がピクリと動いた。
手を丸めるように。
その、掌に載せた命を握りつぶそうとするように。
もう、止せ。
そう言いたかった。
押しとどめたかった。
だが、私はどちらもしなかった。
彼女という、この数奇な運命に弄ばれた存在を、最後まで見届けようと……私は決めていた。
……はぁ。
だが結局、彼女は、その手を握る事は無かった。
傷つき、痩せさらばえた掌に載った、その可憐な花弁をじっと見つめたまま。
ふぅ……。
長く、最後の息を吐いた。
「……終わったな」
自ら器用に止血したらしい、布を肘の辺りできつく締めた左腕を胸より高く上げて、多少ふらつくようだが確かな足取りで、彼は私の傍に歩み寄って来た。
「いえ……」
私は彼女を抱いたまま、その掌から、桜の花弁を取り懐紙に包んで懐に入れた。
「此度の討伐の、本当の始まりですよ」
彼女と触れ、溢れる血にわが身を濡らした時。
彼女の吐息を感じた時。
私には、彼女の身を蝕んでいた物が何であるのか、その正体が理解できた。
物問いたげな彼の顔を見返して、私は首を振った。
「説明している時がありません……飯綱」
ぴぃと鳴きながら、嬉しそうに私の所に来た青い光を私は撫でた。
「さっきはありがとうな、飯綱。助かったよ」
ぴぃ!
誇らしそうに、私の掌に小さな頭をぐいぐいと擦りつける。
「良い子だ……さて、私からもう一つ頼みたい事があるんだけど聞いてくれるかい?」
ぴぃぴぃ。
ありがとうな、飯綱。
私が、君の主で居続けられるかは、判らないけど。
君が私の式で、本当によかったよ。
「彼が下山する、その足元を照らしてやってくれ」
ぴ?
「ヌシは?」
「私は、ここに、彼女を蝕んでいた呪を封じます」
その為に、私たち、陰陽師や法師は来ていた。
神ならば祀り、魔ならば封じる。
武士たる彼が務めを果たした上は、私は私の責務を果たすべきだろう。
ぴーぴー!
怒ったような声を立てる飯綱に、私は顔を向けた。
「頼むよ、飯綱……彼が無事に都に帰る事が、私にとっては大事な事なんだ」
ぴぃ!
「後で極上の油揚げをご馳走するからさ」
その言葉よりは、私の気持ちが変わらない事を察したのだろう、どこか悄然とした様子で、飯綱は武者の前で青白い光の球となった。
「俺に出来る事は無いという事か?」
「……いいえ、ここから生還する事こそ、彼女と切結び、生き延びた、貴方にしか出来ない事です。ここで死んだ多くの人たちの為にも、生きて帰ってください、そして、私が帰らなかった時、朝廷とわが師に、こう伝えてください」
人に使われてしまった禁呪、それが溢れそうだ、と。
私の切迫した顔で、何かを感じてくれたのだろう、彼は低く、呻くような声を私に向けた。
「……それで通じるのだな?」
「……はい、わが師なれば、あらましは察して下さると思います」
お願いします、戦友よ……もし、運あって都に戻れたら、ゆるりと酒など酌みましょう。
「判った、だがな、俺は面倒な説明は好かぬのだ」
彼は、私に背を向けて。
「死ぬなよ……戦友」
最後にそう口にして、山道を下って行った。
何が有ったかは知らない。
彼女に記憶という物が残っていたとしても、もう覚えてもおるまい。
いや……何が有ったにせよ、忘れた方が良いのだ、こんな事は。
父親か母親か……彼女は肉親から、その存在を禁じられた。
お前が居なければ。
お前が産まれてこなければ。
お前さえ……お前さえ……お前さえ。
無い話では無い。
酷い話だが我が子に向かって、こんな心無い事を言う親は、いくらでも居る。
自分の再婚の邪魔になる。
貧しく食い扶持が確保できない。
そして、望まずして授かってしまった子に。
彼らはこう言う……お前さえ居なければ、と。
己を責めたくない、弱さを、醜さを認めたくない時、人は弱い者に全てを負いかぶせて、そう言うのだ。
世の暗い部分に目を向ける必要が有る陰陽師である私は、そんな例を幾つも見て来た。
だが……彼女の場合は、余りに不幸が重なりすぎた。
その、親の発した言葉には、呪が込められていた。
お前さえ、この世に存在しなければ。
意図してか、せずか。
そも、彼女の親がどういう人だったのかすら、私には判らないが。
親という、血縁があり、彼女の真名を知る、最も呪を強くかける事が出来る存在から、彼女は、その存在を。
人であることを、禁じられてしまったのだ。
そして、不運は更に連鎖する。
彼女自身もまた、類まれな術者の資質を持っていた。
その彼女自身が……その言葉を受け。
私など居なければ良いのですね。
そう思い込まされて。
己に呪を掛け、己を禁じてしまった。
本質を禁じる術と言うのは、本来は、最前の自分がやったように、途方も無い力を要する上に、僅かな時間しか影響を及ぼせない。
だが、親と自身の二重の力で彼女はそれを永続的に為して来たのだ……
禁じられた彼女の心は、元に戻ろうという力とせめぎあい、途方も無い力持つ「何か」に変わっていった。
そして今。
彼女が辛うじてその体内に納めていたそれが解放されようとしていた。
「人」を禁じ、否定した呪その物が世に放たれる。
本当の意味で、これこそが、破壊神と呼ばれるに相応しいのかもしれない。
宇宙を破壊すると言われる神々は確かに存在するが、それは再生を前提とした、たとい、如何に人にとって残忍であっても、自然な神なのだ。
だが、こいつは違う。
こいつは、全ての物に、存在する事を禁じるために生み出された呪の力そのもの。
どうすれば、こんな危険な物を鎮められるか判らない……であれば、今はただ、封じるしかあるまい。
「詫びて済む話ではありませんが……」
ずっとこの呪を押し込めて来た彼女の体は、ある意味、この呪の器として出来ていると言っても良い。
そこに、今ひとたび、この呪を封じる。
本来ならば、土に還るべき屍を使って。
我ながらなんと、酷い仕打ちか。
(でも……)
私には一つ、これから行う事に、成算とも言えぬ、微かな期待があった。
だから、躊躇いは無かった。
後ろから彼女を抱いたまま、私は呪を……いや、どちらかというと祈りに似た言葉を紡ぎ出した。
我が力を、この哀しい生を終えた器と魂に捧げます。
だから……今ひと時。
この中で眠れ、悲し過ぎる力よ。
「……封」
「私が居た……から」
頷く私を否定するように、さくらは強く頭を振った。
「私は……私はご主人様が封じた、敵でしょう」
「違うよ、さくら」
それは違う。
「私はね、君とここで出会った時から、君に心奪われた」
「……血塗れの殺人鬼に……ですか」
「私は変わり者なのさ」
何故とは聞かれても判らない。
ただ、君に惹かれた。
だから。
「君に生きて欲しかったんだ」
虚無を抱えて、その生を終えてしまった君に。
だから、たとえそれが、式という存在だったとしても。
「あんな呪いを抱えてではなく……普通に」
この世界には、美も醜も、善も悪も、楽しみも苦しみも、愛も憎しみも……全ての物には色々な面があり、それらが巡り、世界を紡ぐのだと。
この世界が素晴らしいなんて口が裂けても言えないけど、素晴らしいと思える瞬間は確かにあって……。
「生きて、それを知り、実感して欲しかった」
俯いて肩を震わせるさくらに。
「だからこそ、私の式姫では無い、君が紡ぐ、君だけの生を……今こそ、返して上げたいんだ」
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式姫草子の二次創作小説になります。
普通のイチャコラ書く予定だったんですよ……いやホント。