8
フルートをしっかりと握った悠里は、無造作に。そして、美しく私の前に背筋を伸ばして立った。
身長の低い彼女だけど、背が高く感じられる。その理由は、存在感の大きさだ。
演奏の態勢に入った彼女はもう、いつもの不思議な雰囲気をまとった女の子じゃない。誇りを持ったフルート奏者で。そして、ありがたいことに、私のためだけに演奏することにも満足を感じてくれていた。
すぅ、という息を吸い込む音が聞こえた。それほど静まり返った空間で、彼女の演奏が始まる。
私は残念ながら、クラシック音楽を楽しむような、高尚な趣味は持ち合わせていない。だから、彼女が普段から演奏している曲のタイトルも知らないし、悠里の演奏がどれぐらい上手いのかも、いまひとつピンとは来なかった。
ただ少なくとも、おかしな音が鳴るということはない。素早い指の動きを要求される部分でも、細く短い指が的確に穴を塞いで、正しい音を奏でていく。
普段から、儚げなイメージに反してよく喋るし、声も大きくはないけど、よく通るからそのアンバランスさが少し不思議に感じていた。
でも、悠里の演奏は彼女の話し方に似ていた。おっとりしているようで、機敏。大きく息を吹き込んでいる訳ではないのに、音色はきりっと引き締まっていて、よく通る。話し方が演奏に影響されているのか、その逆なのかはわからないけど、なんとなく疑問が氷解していく気がした。
それにしても、それまで私が認識していたフルートという楽器は、オーケストラを構成する一要素でしかなく、ピアノとは違って、それだけで演奏が完成する楽器だとは思っていなかった。だから、どれだけ見事な演奏でも、どうしても演奏には“厚み”のようなものが足りないんじゃないか、と思っていた。
ところが、悠里の演奏は時に火のように激しく盛り上がり、時に水のように涼やかに流れていく。北風の荒々しさが顔を見せたかと思えば、南風のように優しく暖かく吹き抜ける。
たった一本の横笛が、ここまで豊かな世界を表現できるんだ、と感動させるだけの力を発揮していて、私はすっかりその世界に魅了され、同時に他の悠里のファンだという人の気持ちを理解できた。
――いつしか、これが悠里の演奏するフルートの音色だということを忘れている。
あまりにも力を持った音楽は、演奏者や演奏している曲目、その他一切の情報が吹き飛び、忘れ去られ、ただただ、耳を楽しませるものとして認識させられる。
作業に集中している時、BGMとして流している曲やラジオが、段々と耳に入らなくなってくることがある。それとは真逆の、音楽しか耳に入らなくなる。世界にはただ、その音色だけが響いている。そう錯覚させられる現象――本当に優れた演奏者にだけ起こすことができる、奇跡とでも言うんだろうか。ライブの時の会場の熱狂も、これには近いんだろう。ただ、その時の観客はきちんとアーティストを認識できている。そのアーティストのライブだからこそ、熱狂する。ところが、今の私の頭からは悠里のことが抜け落ちてしまっている。ただ、流れているこの音楽を貪るように聞き入る。
“聴く”が“聞く”へと変質していっている。意識して聴いていたものが、何も考えなくとも聞くことだけに集中できるようになっていく。場の空気に溶かされ、音色と一体化していくような、奇妙な浮遊感……もしも私に音楽の心得があって、手に楽器を持っているというのなら、一緒になって演奏していたんだろうか。それとも、よりこの奇妙な感覚に呑み込まれていたのだろうか。
気が付くと、全曲の演奏が終わっている。悠里がフルートから口を離した瞬間、一気に周囲の時間が流れ始めて、それまで遠ざかっていた部屋の中の景色が戻ってくる気がする。
暑くも寒くもないのに、どっと汗が噴き出してきた。鳥肌にもならない、すさまじい衝撃のため……かもしれない。
「……歌姫、か」
本来それは、歌唱をする人に与えられるべき称号なんだろう。別に彼女の公式な異名などではなく、学校側から与えられた、冗談みたいなネーミングだ。それは私のあの酷い称号の時点でわかりきっている。
だけれども、彼女にその称号が与えられたことには……すごく納得ができる。
悠里の歌声もすごくよかった。あの清水のような歌声は、一般にはちょっといない。だけれども、やっぱりその分野での彼女は、人より少し優秀な程度の秀才だ。
彼女が唄う歌は、声帯ではなく、銀のフルートによって表現される。フルートを持っているからこそ、悠里という歌姫は完成する。だから誰もが彼女のフルートの演奏に期待をして、呑まれてしまう。悠里の演奏だというのに、悠里自身のことも忘れて。奏でられる圧倒的な音楽に圧倒されてしまうのだろう。
――だからこそ、悠里は今まで孤独だったんだ。
誰もが彼女の演奏を愛するがゆえに、誰も彼女を見てはくれない。そして、残念ながら彼女はフルート以外では目立てない子だった。見た目はめちゃくちゃ可愛いのに、ただそれだけの子でしかなかった。現代の歌姫――アイドルになる素質はあるんだろう。でも、彼女の最大の武器が、彼女を演奏の添え物に。フルートを吹くただの女の子にしてしまっている。生み出される音楽があまりにも美しすぎるから。彼女自身の美しさは霞み、霧の中に隠れ潜んでしまう。それに気づくことは、彼女の友達を自負する私でもできなかった。
私が彼女に正しく称号を付け直すならば、こうだ。
『銀笛の魔性歌姫(セイレーン)』
海の怪物、セイレーンは歌で人を狂わせ、船を沈める。そのため、セイレーンの歌を聞いて生き残った者はおらず、彼女の歌を記憶する者はいない。
ただ一人、オデュッセウスだけは自分を船員に縄で縛らせ、その歌を聞き届けた。しかし、セイレーンには自分の歌を聞いて生き残った人間がいれば、今度は自分が死ぬという取り決めがあった。そのため、セイレーンは自ら命を断った。
狂いながらもセイレーンの歌を最後まで聞いたオデュッセウスは、何を思ったんだろう。その歌声は美しいものだったんだろうか。穏やかなものだったんだろうか。それとも、悲しいものだったんだろうか。
――私はまだ、悠里にとってのオデュッセウスにはなれない。彼女の演奏に呑まれ、狂ってしまう側だ。もしも耐え切りたいならば、オデュッセウスがそうさせたように、蝋の耳栓をしておかないといけない。
でも、いつかは悠里の演奏を最後まで聞き届けたいと思った。彼女の「魔性」は、何も聴衆だけに向けられるものではない。自分自身に目を向けてもらえないという、自身にも向いた呪いなのだから。
「……ゆたか、どうでした?」
「なんだろう、上手く言葉では言い表せない、かな。すごすぎて。でも、うん……本当によくわからなくって。他の人は、どう言うものなの?」
「同じ、です」
「えっ……?」
「演奏技術は秀でている。それは間違いない。抑揚の付け方も素晴らしい。まるで機械演奏のように狂いがない。しかし、なぜこんなにも心惹かれるのか。それを理解できない。……同じことを、その世界の専門家が。本当に飽きるほどフルートの音色を聴き続けてきた鑑賞の達人が、言うんです。ボクの演奏はなぜ、人を魅了するのかわからないんです。もちろん、ボク自身にもわからなくて……」
私は反射的にやべ、と思ってしまう。思ったことを、貧弱な語彙力でそのまま表現しただけだったから、そんなトラウマめいたところを突くとは思わなかった。
でも、どんな有識者をしても、悠里はそうなんだ。誰もまだ、その演奏を最後まで完全に聴いたことがない。その前に演奏を聞かされている。
「あっ、別にそれがイヤとかじゃないんです。七十歳や八十歳の人だって、ボクと似た演奏を聴いたことはないから、百年に一人の逸材だ、とか言われるんですよ。そう言ってもらえるのは、でもやっぱり……嬉しいです。でも、ゆたか」
悠里は、少しだけ潤んだような目を私に向けた。
「ボクは、ゆたかに褒めてもらえるのが一番嬉しいです。練習はしましたが、アニメソングをしっかりと演奏するのは初めてなので……どうでした?ちゃんとゆたかの思い出を、再現できていましたか?」
「…………………………」
私は、思わず黙りこくってしまっていた。
素晴らしい演奏だった。それはそうなんだけど、なんだかそれを言うのはウソになる気がした。だって私はきっと、本当の意味で彼女の演奏を聴いていないのだから。
「……悠里」
「はい?」
「それを言うのはね、もっと親しくなってからでいいかな?」
「え、ええっ……?そ、その、ボクとしてはもう、ゆたかとはなんかもう、最高の友達のつもりなんですけどっ……!」
「じゃあ、限界突破のためにはもう一枚同名カードが必要だから、それを引いて、限界突破した上で親愛度をマックスにしてからね」
「ど、同名カードってなんですか!?あれですか、最近流行ってる、続きはwebで!ってやつですか!?」
「……あなたの時間の流れはいつから止まってるんですか」
「でも、なんで今じゃダメなんですか?そんなに、酷い演奏でした……?」
「ううん。少なくとも、否定的な感想は抱いてないよ。それだけは言っておく。……でも、今はまだ、待ってて。だからね、悠里」
「これからも、よろしくね」
かつてお姫様に憧れた私は、自分のお姫様を見つけた。
だけどもそのお姫様は、ただ奇麗で可愛いだけではなく、誰にも。王子様のキスでも解くことのできない呪いにかかっていた。
彼女の呪いを解ける人を探そうにも、お姫様は悪気はないのに、その魔法で近づく人々を惑わしてしまう。
私もまた、彼女の魔法に惑わされた、落第した王子様候補の内の一人。
でも、王子様にはなれなくても、悲劇のヒロインには魔法使いのお婆さんがつきもの。
……私は、お婆さんにはなりたくないけど、たまには魔女のお姉さんが現れてもいいはずだ。だから、どれだけ惑わされ見失っても、彼女の傍にいる。
だって私は、悠里のことが好きだから。
一部 魔女と歌姫 完
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