「追撃戦に移るわよ!
火輪隊はそのまま、他は霞と菖蒲の部隊に追撃を指示しなさい!」
「工兵!合図を!短間隔五発、一発、三発!
火輪隊には伝令を送りなさい!詠にはそのまま追撃部隊の指揮を任せる、とも!」
桂花の決定、零の指示。それに従い、魏の本陣が動く。
連合軍が退き始め、それが欺瞞では無いと判断したが故であった。
事前に通達していた合図に沿って出された零の指示内容はこうだ。
短間隔五発、追撃戦に移行する合図。
五発の後の一発と三発、菖蒲の部隊と霞の部隊を選抜したことの通達。
合図に含まれなかった部隊はこの時点で本陣まで退いてくる手筈となっている。
但し、事前の打ち合わせで決めていたのは菖蒲、斗詩、霞、鶸、蒲公英の五部隊のみ。
従って、火輪隊への合図は無く、これだけは伝令の仕事となるのだった。
火輪隊には詠が同行しているため、その判断で動く可能性もある。
桂花も零も、詠ならば判断に大きな過ちは無いだろうとは思っている。
しかし、正式な指示はしっかりと出しておくべきだろう。そう考え、伝令による本陣からの指示の通達となった。
「ふぅ……一先ず、終わったわね」
「散々だったわね……火輪隊が動いていなかったらと思うと……」
「全くね……誰が動かしたのかしら?やっぱり、詠の判断かしら?」
桂花も零も、火輪隊には指示を出していない。
そもそも、本陣詰めの部隊に関してはこの戦で動かすつもりは無かったのだ。
それがあわや大惨事となり兼ねなかったこの結果は、多分に反省すべき点を含んでいると言えた。
さて、ではそんな魏軍のピンチを救った好判断を下したのは一体誰なのか。
少なくともこの場にはいない。二人がいくら頭を悩ませたところで、確信には決して至らない問題だ。
であれば、火輪隊が帰って来てから直接聞けばいいか、と思考を切り替えることにした。
「それにしても……詳細はまだ何とも言えないところだけれど、厳顔は以降の戦ではほぼ戦線離脱状態、と見ていいのかしら?」
「恐らく、そうね。火輪隊が帰って来てから相手が退いた時の状態を聞かなければならないけれど、概ねそのようになるでしょうね」
この戦で敵将の一人を封じた。それは当初の最大目標には至らないものの、十分な成果であったと言える。
追撃でもう一人くらい追い込められれば上等ではあるが、桂花も零もそれは厳しいだろうと予測していた。
諸葛亮に龐統、そして徐庶。呉には周瑜に陸遜がいる。
それだけの面子を揃えていながら、始めから決めていた撤退戦を無策で行うはずが無い、と。
そして、だからこその気掛かりが一つ。
それは、逆にこちらの将が討ち取られてしまうような事態にはならないか、ということ。
そのリスクを軽減させるための詠への指揮権委譲だ。
追撃の優勢を瞬時に引っくり返すような極悪な罠を簡単に仕掛けられるとも思い難いが、最悪は常に想定して動かねばならない。
僅かなりとも可能性があるのであれば、それは起こり得る未来図の一つなのだから。
「取り敢えず、こちらも諸々の準備は始めておきましょうか。
追撃部隊が帰ってきたら、軍議で情報を共有した後、すぐに出立にするわ」
今は手の届かぬ追撃部隊に想いを馳せているのでは時間の無駄となる。
桂花たちは次なる動きのための準備に入るのだった。
「き、桔梗さんっ!!大丈夫ですかっ?!」
「は、はは、桃香様、どうか落ち着いてくだされ。
これしきの傷で儂は死にはせんですよ」
蜀の本陣は撤退を進めながらも動揺に包まれていた。
但し、それは将が怪我を負ったからでは無い。”厳顔が””重傷を”負ったからであった。
元々、呉と共同で事に当たるとは言え、それなりの無茶を通す策ではあった。
その分、あらゆる事態を周瑜や陸遜と共に想定し、各場面でのリスクも考慮していたのだ。
連合軍が結論として出していたのは、関羽、孫策とその周囲の将は大きく傷付く可能性は高い、というもの。
当たり前と言えば当たり前ではあるが、逆に言えばそれ以外の戦に投入した将は重傷まで行く可能性は低いと見積もっていたのだ。
しかし、連合軍のその予想は想定外の一事によって覆される。
呂布の弓の腕。それは周泰の部隊の能力を以てしても片鱗さえ得られなかったもの。
それだけでは無い。馬岱の使用した兵器もまた、連合軍の予定を狂わせていた。
あれがあった所為で厳顔の部隊が殿を務めることとなり、結果、狙撃された。
厳顔は劉備に対して気丈に笑ってはいるが、傷が深いことは間違いない状態であったのだ。
「桃香様。今は撤退に集中することが先決です。
桔梗さんには申し訳ありませんが、暫し応急処置のみで耐えていただくしかありません」
そのような空気の中にあってもずっと冷静でいるのは徐庶だ。
劉備はその言葉にハッとした表情となる。
これは覚悟していたはずの事態の一つなのだから、と。
王たる劉備が歩みを鈍らせるわけには、況してや止めるわけにはいかない。
「……うん。ありがとう、雫ちゃん。
皆さん!このまま魏の追撃部隊をいなしながら朱里ちゃんが待ち受けている地まで退きます!
また皆さんを危険に晒すことになっちゃいますけど、よろしくお願いします!
桔梗さん、すみません。今しばらく、耐えて下さい」
曹操や孫堅が見れば、王としての言葉だろうか、と疑問を抱くだろうものも、蜀の者からすれば実に劉備らしいものである。
そして、彼女らはそれ故に劉備を王として認め、戴いているのだから。
それを色濃く体現しているのが、今最も厳しい立場にある厳顔が安堵したような笑みを浮かべて頷いていることだった。
「桃香様、御英断下さりありがとうございます。
たった今より、撤退戦を開始します!星さん!まずは殿をお願いします!」
「承った!」
龐統が趙雲に指示を出し、趙雲は即座にこれに応じる。
蜀の陣営はこうして想定外の事態にも素早い立ち直りを見せたのであった。
「ただいま~……う~ん、やっぱり撤退戦って疲れるねぇ~」
「お帰り、木春。いつになく張りの無い声を出しているな」
「そりゃあそうもなるわよ、冥琳~。
ただでさえ退きながら戦うのって難しいのに、相手があの張遼や徐晃なのよ?
いつもの倍は疲れたわ……」
殿部隊の交代で呉の本陣に太史慈が戻って来ていた。
そこで疲れ切った表情を軍師であり親友でもある周瑜に向ける。
今の太史慈は言うまでもなく素を曝け出しているわけだが、そんな真似は孫策と周瑜以外の前では決してしたことが無かった。
逆に言えば、それだけその二人には心を許しているのだ。
「にしても……雪蓮ってば、元気よねぇ。
初戦からあんなに張り切らせちゃって大丈夫なの、冥琳?」
まだまだ先があるのに、酷使してはいないか、と暗に問う。
それに対する周瑜の答えは苦笑であった。
「木春も薄々気付いているかも知れないが、今の雪蓮は血が滾っているようだ。
圧を逃がすためにも、今は好きに暴れさせておいた方がいいだろう。
それに、亞莎も付けているからいざという事にはならないさ」
「そうだったのね。ま、雪蓮らしいって言えばらしいわね。
ところで冥琳。諸葛孔明の罠の地ってどのくらいなの?」
「ふむ。進路がずれていなければそろそろの筈なのだが……」
そう言っている間に、部隊はその地へと接近していたようであった。
それは周瑜の下に帰還した斥候の報告によって明らかとなる。
「周瑜様、前方に自然のものでは無い石塁や土壁を視認致しました。
いかがいたしましょう?」
「ふむ。どうやらそれが孔明の張った罠のようだな。
こちらから視認出来たのであれば、時期に穏からの伝令が来るだろう。
伝令が来ればすぐにそちらに向かえるよう準備を整えさせておけ」
「はっ!」
周瑜が簡単に指示を飛ばす。
報告に来た兵が去った頃合いを見計らって太史慈が声を掛けた。
「伏龍と呼ばれた孔明の罠、か。どんなものなのかしらね?」
「さてな。その場に行ってこの目で見るまでは想像も付かんよ」
「ちなみに、もしも冥琳の推測が外れだった場合は?」
太史慈はお道化たように、しかし眼光は鋭く問う。
それはつまり、簡単な指示だけで致命的な失敗の可能性は無いのか、ということであった。
「先の戦場に至る前にも斥候を飛ばしながら進んではいた。
その時にはそのようなものは無かった。となれば、この短期間で何者かが築き上げたということだ。
もしも敵の一部が我等の警戒網を抜けてこっそり回り込んで作り上げた可能性があるとして、あまりに利が無い。
素直に我等の後背を突いていた方が効果的だっただろう。故に、敵の罠の可能性はまず無いと踏んでいる。
勿論、万が一ということもある。その警戒も怠ってはいないさ」
「なるほど。既に戦が始まる前から準備は万全、か。
さすがは冥琳ね」
周瑜の言葉に太史慈は疑うことなく素直に賞賛を送る。
長い付き合いが彼女の言葉に偽りが無いことを悟らせていたからであった。
ならば今しばらくはこのままか、となったところで。
それから大して時間も置かず、周瑜の予想通りに陸遜からの伝令が陣へとやってきたのであった。
陸遜からの伝令を迎え、連合軍は新造の壁が屹立する地へと足を運んでいた。
横に長く続く壁の、口が開いた部分には二つの人影。諸葛亮と陸遜。
周瑜と他数人の呉の上層部はそこへと向かって足を進める。近付けば近づくほど、壁は急造と思えなくなった。
後ろからは魏の追撃部隊が追ってきており、時間的な猶予はあまり無い。が、それでも感嘆が口を突いて出るほどであった。
「ほぉ、これは……時間が無かった割に随分と立派なものを作ったのだな。
これを防柵代わりとするのか?」
「いいえ、違います」
周瑜の問いに短く否定の言葉を入れたのは諸葛亮だった。
蜀の上層部が直に来るため、説明は纏めて、と言われはしたが、その間だけでも周瑜は頭を回す。
諸葛亮がこれを使って何を企んでいるのかを読み切ろうとしていた。
さすがに短時間でそれは叶わず、タイムアップとなる。
「朱里ちゃん、お待たせ!
えっと、策の説明があるって聞いたんだけれど……?」
劉備が到着したことでようやく諸葛亮は説明に入る。
但し、時間が無いと彼女も分かっているために、それは簡略化したものであった。
「お疲れ様です、桃香様、それに呉の皆さんも。
陸遜さんの部隊の手も借りて何とかこちらの手は完成致しました。
今から全部隊でこの中を通過して頂きます。
簡単に説明しますと、この中は迷路となっております。
ですから、この中に入ってしまえば、一度追撃をいなせばそれで逃げ切ることが出来ます」
「ほう?なるほど。
だが孔明よ、一つ問いたい。
敵がはなからその迷路に入り込まず、出口まで回り込んだ場合はどうするつもりなのだ?」
「我々がここを抜けるよりも早く回り込まれることはまず無いでしょう。
正面のみかなり横に広く壁を作ったことに加え、簡単にではありますが、迂回路には罠も仕掛けてあります」
周瑜の指摘にも淀みなく諸葛亮は答える。
隣の陸遜も満足気に頷いていることから、それはどうやら疑う必要は無いようであった。
「えっと、朱里ちゃん?
迷路の経路ってどうするの?」
続いて声を上げたのが劉備であった。
それは誰もが抱く疑問であり、この策を実行する上で肝ともなるものであった。
「はい、そちらに関しては、基本的に部隊がはぐれないことを前提としております。
ですが、どうしても離れねばならなかった場合にも備え、迷路内のいくらかの場所に暗号によって進むべき道を示しております。
敵にとって利するものではありますが、暗号の解読に時間を掛けることを考えれば、今回限りのこの策では問題無しと判断しました」
「こちらの損害を抑えて逃げるためのものですので~。
他にも使い道はありそうですが、本命を前に無駄に戦力を削るのは愚策かと~」
狙うは敵の足止め。ただそれのみ。二人はそう言い切ったも同然だった。
損害を与えようと思えば、やり方次第では出来るかも知れないが、即席では連合側にも無視し得ない損害が出る可能性は高いだろう。
ならばこそ、ここは諸葛亮に従って撤退に全力を注ぐのが最良である、とこの場の誰もが判断した。
「他に異論はありませんか?
…………でしたら、すぐに行動に移りたいと思います。
魏の別働隊などを警戒して既に斥候は放っておりますが――――」
「軍議中、失礼致します!
諸葛亮様、斥候の者たちが帰って参りました!」
「分かりました、すぐに聞きます。連れて来てください」
上位者の集う場所へ割り込むことは本来無礼に当たるはずだが、今は緊急事態。それをこの場の皆が理解している。
そして、斥候の情報は何よりも先に聞くべきものであった。
故に、誰も眉を顰めず、諸葛亮もまた即座に対応の矛先をそちらへと変えたのであった。
諸葛亮が放っていた斥候は、迷路入口から正面方向に放射状に五人。方位を八分割しての探索を任せていた。
距離は各々の可能な限りとなるが、帰還のタイミングだけは厳守させる。
それを本隊の到着に合わせられたのは、諸葛亮の情報処理能力が両国合わせても最高レベルにあることの表れであった。
「只今戻りました、諸葛亮様。前方に伏兵は発見されませんでした。
また、敵の草の影なども見受けられず、当方面には現状問題は無いと思われます」
斥候の五人の内、リーダー格の者が最初の報告を行う。
それを皮切りに残る者も口を開き始めた。
「右方も同様であります」
「右前方も同じく」
「左前方、同じく異常は発見されておりません」
「さ、左方、問題ありません」
「……?どうかしたのですか?
些細な事であっても報告して頂けるとありがたいのですが?」
三人の斥候が即座に続いたのに対し、最後の一人だけは少しだけ反応が遅れたように見えた。
そこに違和感を覚えたのだろう、諸葛亮が最後の一人に視線を固定して問う。
これは軍師の皆が同じものを感じたようで、皆の視線が諸葛亮の勘違いでは無いことを示していた。
「い、いえ、すみません。何でもありません」
だが、その斥候は頑なに何でもないと言い張る。
よく見てみればその斥候のみ、他に比べて息が若干荒いことも分かり、より訝し気な雰囲気を醸し始める首脳陣。
その変化を感じ取り、不味いと思ったリーダー格の斥候が慌てて口を開いた。
「申し訳ありません、諸葛亮様。
実はこの者、帰還の途中にて窪みに馬の足を取られ、落馬したようでして。
その失態故に少し反応が遅れてしまったようなのです。
探るべき情報は探った後の事のようですので、諸葛亮様、どうか平にご容赦を……」
言い淀んだ斥候の肩がビクッと震える。
その言を受けて改めて見てみれば、確かに汚れは落としたようではあるが、所々に真新しい傷が見える。
それが原因での態度であったのならば、確かに納得ではある。ただ、失態を隠そうとしたことには顔を顰めてしまうのだが。
それでも、今この場は一先ず流しておくのが良策であった。
「そうでしたか。分かりました。皆さん、お疲れさまでした。
これで敵部隊はあの追撃部隊のみと判明しましたので、すぐに策を実行に移します。
桃香様、周瑜さん、部隊の幅の人数を整えて迷路を抜けて下さい。
先導はこちらで製作に当たっていた工兵の方にお任せします」
「うん!分かったよ、朱里ちゃん!」
「承知した。すぐに取り掛かろう」
両国とも異論は無し。即座に行動に移そうと振り返れば、目に入ったのはゆったりと近寄って来る孫堅の姿であった。
今更ではあるが、この場には両国とも最年長陣はいなかった。
蜀は怪我人とその看病のため、そして呉は戦闘にならないだろうから、との理由だった。
であるのに、孫堅が姿を現した。しかし、その姿には緊急性は感じられない。
その証拠とでも言うように、孫堅の呼びかける声は非常にのんびりとしたものであった。
「よ~、冥琳。どんな感じなんだい?さっき蜀のとこの斥候を見かけたんだが、ありゃ誰にやられたんだい?」
「誰、ですか?
傷のことを仰っているのでしたら、帰りに落馬した、との話でしたが……?」
「落馬?落馬ねぇ……そうかい。
ってことは、やっぱり迎撃はしないで撤退だってのかい?」
「はい、月蓮様。
この壁の向こうに迷路を作り上げたようなのですが、これを用いて完全に魏を撒く算段とのことです」
周瑜の言葉に改めてと言った様子で孫堅は眼前の壁を見上げた。
左右に視線を振り、その規模を確認して口を開く。
「ほぉ~?こりゃまた、随分と手際がいいじゃないか。
伏龍、こいつは随分と前からあんたの腹案にあったもんじゃないのかい?」
「御明察の通りです、孫堅さん。
本来であれば、中で迷った敵に被害を与える仕掛けも施しておきたかったのですが、さすがにそこまでは叶いませんでした」
言い当てられていたとしても、諸葛亮に動揺は無い。
例え随所が突貫で作られたものであろうとも、大規模な罠の構想と建造がこれだけ早ければ最早お察しというものなのだから。
ただ、それ以上の興味は既に失ったようだった。
どうしてか、少しばかりがっかりした様子が見受けられるのは謎であったが。
「皆さん、あまり時間に余裕はありません。
すぐに行動に移りましょう!」
諸葛亮が声を上げ、両国の面々とも行動を再開した。
その騒がしさの中にあって、孫堅がポツリと漏らした声は誰の耳にも届かなかったのだった。
「仕掛けて来るのかと思いきや……少し拍子抜け――――いや、より警戒すべき、かねぇ……」
「お~お~、これはまた……主体となったのは諸葛亮かな?」
諸葛亮の築いた迷路の入り口から左、暫くいったところに、孫堅の呟きの答えとなる者がいた。
その視線はしっかりと迷路を捉え、どういうものであるかまでもその”知識”から予想出来ている。
それは、現在魏の本隊とは別行動を取っている北郷一刀、その人であった。
「北郷様、どうして諸葛亮だとお考えに?」
「うん、まあいつものだと思ってくれたらいいよ」
ぞんざいな説明ではあるが、古参の兵にはそれで十分に通じる。通じてしまう。
それほどに一刀の”天の知識”は魏国内で有名になっていた。
そして、その能力の高さも。
「ところで北郷様。先ほどの者はあのまま帰してしまって本当によろしかったのですか?」
兵の一人が不安を隠し切れない様子で問う。
それはついさっきの出来事であった。
一刀たちの部隊が本隊との合流に向けて歩を進めていると、蜀の兵と鉢合わせてしまったのである。
平原であるが、少し窪んだ辺りだったため、双方ともノーマークのまま邂逅してしまい、ほとんどの者に空白の時間が生まれる。
「射て!」
鋭い号令と共にすぐさま数本の矢が飛ぶ。
それは反応に遅れた蜀兵を我に返させた。が、それだけ。
蜀兵は一目散に逃げ出すも、矢に射抜かれまいと馬を蛇行させる。が、この時点で既に蜀兵の運命は決まったようなものだった。
普通の馬に乗った上にそのような動きをしていて、一刀の愛馬を撒けるはずなど無いのだから。
間を置かず、蜀兵は一刀とその愛馬・アルの力によって地に引き摺り下ろされる。
その後、蜀兵から『お話を聞いて』あげたところ、連合の本隊とは別の部隊の斥候らしいことまでは判明した。
下手に時間を掛けさせてもあまり意味が無いと判断し、一刀は蜀兵を解放することにする。
ただし、勿論条件付きであった。
「お前を解放してやろう。ただし、一つだけこちらの言うことを聞いてもらう。
この方角には何事も無かった、と報告しろ。
なに、安心しろ。俺たちはここらで静観するのみ。危害は加えない。ただし……」
おもむろに殺気を叩き付けられ、恐怖に思わず肩を竦めた蜀兵の様子を見てから一刀は低い声で続けた。
「余計なことは一切喋るな。
もしも、お前が余計なことを喋ったと判明すれば、お前のところの大将は数日後の朝も迎えられないものと思え。その時はもちろん、お前の命も無いぞ?
無謀な脅しだと、思うならば勝手に思えばいい。だが、こちらが手段を選ばなければそれは容易いことだと理解していれば……お前の取るべき行動は自ずと一つになるだろうな」
蜀兵は声も出せず、ただ首を縦に振るのみ。
恐怖に支配されたこの兵は、最早一刀の言いなりに動く以外の行動は頭に浮かばなくなっていたのだった。
そんなやり取りを経て、一刀は蜀の斥候を返していたのである。
「まあ、あれだけ怯えていれば下手な行動は取らないだろう。
それに、いつまでもここに俺たちがいたことを隠し通せるとは思っていないし、そのつもりも無いよ。
魏の部隊に合流するまでの時間を稼げたら、それで十分なわけだしな」
一刀の言葉にも表れているのだが、一刀が脅しを用いた理由はいくつかある。
その一つが、今この場に向けて敵部隊を送られないようにするためであった。
いくら一刀がいるとは言え、兵数は非常に少ない。
そこに将付きで部隊など送り込まれようものなら、活躍の機会を待たずしてこの部隊は壊滅してしまうだろう。
その他にも理由はあるが、その中に少々の賭け要素の混ざったものがある。
それが、一刀の不可解な行動を察知させることで連合軍に不安の種を植え付けること、だった。
これに関しては上手く事が運んでくれれば儲けもの程度の、所謂思いつきであったが、場合によっては後々に効果を発揮するだろう。
と、諸々の事情はあるのだが、一先ず今、一刀たちが取っている行動は連合軍の観察である。
諸葛亮の築いたモノを観察している内、連合軍の本隊が撤退してきて、その建造物の前まで来る。
やがて、首脳陣と思われる幾人かが集まった後、部隊をいくつかに分けて建造物内へと入って行った。
その間も、連合軍の後方では魏の追撃部隊と思われる部隊との小競り合いがちょくちょく発生している。
ただ……
「このままでは誘い込まれかねない、か」
誰が追撃に出て来ているのか、一刀は把握していない。
しかし、誰が出て来ていようとも、無為に将を欠けさせることにメリットなどありはしない。
「皆、移動準備を。
連合軍の大半が建造物内に入ったら、俺たちも向かう。
目的は追撃部隊と合流し、本隊まで退くこととする」
『はっ!!』
この場に軍師がいなければ、将も一刀しかいない。
故に、誰も一刀の決定に異を唱える者はいなかった。
「ちぃっ!!ちょろちょろとよう逃げよる!」
「……戦いにくい」
「どなたが指揮を執っているのかは分かりませんが、流石は大陸の動乱をここまで生き残った大国の軍師、といったところですね……」
追撃の成果は芳しいものでは無かった。
霞、恋、菖蒲と揃えていてこれである。
余程上手く攻撃をいなされているのだろうということが伺えた。
「ってか、さっきから気になっとんやけど……なんや、あれ?」
「……壁」
「それは分かっとるわ!せやから、なんでこないなとこにそんなもんがあんねん、って話や!」
「……?」
「……うん、まあせやんな。分かるわけあらへんわな」
「真っ直ぐここまで逃げて来たことから考えても、あまり歓迎出来るようなものでは無さそうですね……」
三人の目は既に諸葛亮の迷路を捉えている。
ただ、だからと言って何かが出来るわけでも無かった。
「あ~、もうっ!馬家の連中は味方にすれば心強いけど、敵に回すと厄介なことこの上ないわね!」
「まあまあ、詠ちゃん。それはお互い様じゃないかな?」
「それだけではありません。
恐らく太史慈だと思われますが、あの者も非常に守りが堅いです」
詠、月、梅の三人も別箇所への攻撃をいなされたようで、三人のところへとやってきていた。
理由はまさに今三人が話題にしていたことについて。
「あんた達ももう見てるでしょうけど、あれは余りにも怪しいわ。
場合によっては追撃はここまでにするつもりよ。
それで構わないかしら?」
「うん。詠ちゃんの考えは私も正しいと思うよ」
月が真っ先に詠の意見に支持を表明し、他の者もまたすぐに続いた。
この場にいるのはほぼ元董卓軍であるが故に、意思決定は非常に早いのだ。
ただ、そうは決まっても、このまま逃げ込まれるまでただ黙って見ているだけというわけでは無い。
せめてもう一撃、手痛い攻撃を、と更なる追撃を試みた。
しかし、無情にもそれは成果を見せず――――
やがて連合軍はその姿の全てを壁の向こうへと隠してしまった。
ここまでか、と迷路前で立ち竦む皆の耳に、どこからか馬蹄の音が近づいてくる。
その方向に目を向ければ、その先にいた人物は誰あろう、一刀であった。
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第百三十四話の投稿です。
最近投稿ペースがかなり落ちてますが、申し訳ありません。