一
守矢国の貧民街に、朝が来る。きれいに整った表通りと同じように。
鉛筆みたいな建物がすき間なく並び建って、互いが互いを支え合うみたいだ。実際それらの多くは欠陥建築もいいところで、少し大きな地震でも起ころうものなら砂の城みたいに崩れてたくさんの人死にが出るのは間違いないのだった。
わずかな反射光がごみ屑にまみれた路面にまで届くころに、そこかしこの扉から住人たちがゆるゆると顔を出し、朝の支度を始める。ある者は不法に敷かれた水道から水をくんで、またある者はまな板と生魚を持ち出して朝食をさばき始める。いろいろな匂いで路地がいっぱいになるが、そんなことを気にしていたらここらで生きちゃいられない。
「お芋、お芋はいらんかね。大地の恵みをしっかりいただき、今日も一日頑張ろう」
コンクリートの向こう側から豊穣神が引く焼き芋屋台の呼び声が甘い香りとともに聞こえてくると、早くも良心的な値段で振る舞われる主食を求めて子供らがコンクリートの洞窟に姿を消した。そうして貧民街の賑やかしが一段落ついたころに、ようやく顔を出した影がある。
髪はばさばさ、寝間着みたいなぼろっきれを無造作に羽織った、小柄でみすぼらしい女だ。鳥の巣頭の裏っ側にはどんより濁った右目と眼帯に覆われた左目とが見える。
そいつの登場に気がついた連中の様子ときたら、一様にけんのんだ。あからさまにそっぽを向いたり物陰に身を隠したり、ひどいのになると手にえんがちょのサインを作って、そいつに向けたりもする。身のやり場がここ以外にない連中からも、そいつは嫌われているのだった。
その女は、古明地さとりは人々に目もくれず、うつろな空に向けてつぶやいた。
「ああ、ああ、お構いなく。いちいち読んだことに切り返していたら、この界隈じゃあきりがありませんので。何、お前が構わなくても俺らは構う? ごもっともで。一本取られました」
一人芝居みたく「心の声」に受け答えする様子は、悪い電波でも受信したみたいだ。当然、人間ウケは非常に悪い。さとりは相手にしないそぶりで歯磨きを始めた。彼女の動きはどこかぎこちなく、瓦礫が作る段差にコップを置くのも歯ブラシを手に取るのもみんな右手だ。左腕は肘のあたりから包帯がぐるぐる巻きになっていて、さらによく見りゃ手の形をしていない。
そんなピリピリした雰囲気の中に、新たなゲストがやって来た。そいつに最初に気がついたのは、路傍に七輪を出して魚の干物を焼いていたシャツ一枚の中年男だった。
男は団扇を振り回し、七輪にすり寄ってきた猫を追い払う。そいつは大した抵抗もできず、追われるがままに男から離れていった。次に近づいていったのは、さとりの足元だ。
すると彼女は手早くそっぽに唾を吐き出し、猫の前にしゃがみ込んだ。
「なるほど、ここ数日は残飯にもありつけずじまいですか。ここの住人はみなその日暮らしでいっぱいいっぱいですから、あなたに分け前をよこす余裕もないのでしょうよ」
さとりの言葉にそうですと言わんばかりに、猫はか細い声でにぃと鳴いた。
「あなたは運がいい。うちに戻ればちょいとばかし干し肉が残っています。水で戻せばあなたでも食べられないことはないでしょう。なぁに心配はいりません、ちょっとやそっと食べないくらいじゃ、死なないようにできておりますもので」
遠巻きに眺める住民たちの目は、どいつもこいつもいぶかしげだった。行きずりの野良猫に慈悲をくれる変てこな振る舞いも去ることながら、その目はまるで赤子をあやす母親みたいだ。
さとりはそんな住人の不審も気にしない。
「だけど残念ながら、あなたを飼ってあげるわけにはいかないのですよ。手元にペットを置いておくと、怖い仙人が奪いにやってきて」
「てめぇふざけるな、この野郎! とっとと出すもの出しやがれ!」
怒号と悲鳴が路地の暗闇から押し寄せてきた。住民たちは一斉に建物の奥へと引きこもる。
「待って、待ってくれ! 話が、話が違う!」
最初に現れたのは顔を真っ赤に腫らした上鼻血を垂れ流す、細柳みたいな体つきの男だった。続いて現れたのは、筋骨隆々とした腕に龍の鱗の入れ墨をほどこした大男だ。
「何が違うってんだ細山田さんよ。地代を払えねえってんなら、てめえもてめんとこのしけた連中も、全員身ぐるみ引き剥がして引き払わせるまでよ」
獰猛な声に怯えて、猫が走り出す。さとりは猫をあやす姿勢のまま固まっていた。
「払っているじゃありませんか! 先月分まで、耳を揃えて!」
「今月から倍になったんだよ!」
「そんな馬鹿な! 聞いてないよそんな話!」
あわれ細山田さんは、大男に襟首を掴み上げられてしまった。
「大親分からじきじきに下知のあった話だ、聞いてねえで済むか! さあ払え、今すぐ払え! 払えねえってんなら腎臓片方売り払ってでも」
「と、言うことにして凌ぎから上前をいただこうと、そういうことでよろしいですかね?」
大男が声をあげようとしたそのときだ。鼻の穴に何かが突っ込まれ、えぐり返された!
「ぎゃあああああ!?」
穴を両方無理やり広げられた男が、おびただしい量の血を吹き出し細山田さんを投げ出してのけぞった。そこへ女が片目をらんらんと輝かせて歩み寄る。右手の指に血をしたたらせて。
「よりによって最悪のタイミングで取り立てに現れやがりましたねあなた。本来だったら人間のいざこざなんぞに手を出すつもりはありませんが、今の私は非常に機嫌が悪い」
男は怒りに肩を震わせながら鼻血を左手でおさえ、右手に拳を作る。
「てめえ、サトリ妖怪! 心読めるだけの化け物が、人間様の稼業に口を出してんじゃねぇー」
「出すつもりがないって言ってんでしょうが。脳みそに筋肉詰まってんですか」
問答無用で男は力任せの右拳を振り下ろす。さとりはその前に、左腕を突き出した。男の拳は空を切り、みぞおちに左手が文字通り突き刺さる。
身体をくの字に曲げた男の頭が、さとりの目の前にやってきた。
「非常に機嫌が悪いので、最初っから本気でやらせていただきます」
男の顎を、力任せに蹴り上げた。
§
「し、失礼しましたおみそれしました!」
「少し前にも、似たようなフレーズを聞いた気がしますね」
鉛筆ビルのベランダから住人が顔を出し、目を見開いて下界の様子を眺めている。顔をボコボコに腫らして地面に這いつくばった大男と、その頭を踏みつけるサトリ妖怪を。
「一時の感情に身を任せてついついやってしまいましたが、近隣の住人にご迷惑をかけるわけにはまいりません。ちょっとあいさつしに行きましょうか?」
「ど、どこへ」
さとりは無表情のまま、言い放つ。
「親分さんのお名前は?」
「ヒッ」
「三河組の方でしたか。便利でしょう心を読めるのって。博打で借金を作ってしまったこと、きちんと親分さんにお話ししましょうか。指一本くらいで許していただけるでしょうよ」
「そ、そそそそいつは勘弁してください!」
「なりません。これ以上無用の厄介ごとを、界隈に呼び込まないようにしていただかないと。それに私の機嫌がまだ晴れたわけでもありませんので」
さとりは悲鳴を上げる男の首根っこをつかみ、ずるずるずるずる引いていった。
そこで、ふと天を見上げる。ビルの住人たちが慌てて首をひっこめた。しかしさとりが見ていたのは、さらにその先だ。一条の筋雲が、右から左に走っている。
「面妖な」
一言言い残して、男を引っ張りに戻る。
そのときのさとりは、知らなかったのだ。この筋雲の名前は飛行機雲ということを。その雲はときとして「高速で飛ぶもの」が作る気圧の差によって生まれるものであるということを。
§
そいつは守矢城塞都市の外壁を軽々と飛び越え、十分すぎるほどの距離を取ってから地上に降り立った。頭には赤い烏帽子、手には望遠鏡ほどもあるレンズがついた写真機を抱える。
「我、サトリ妖怪、古明地さとりの居住地を発見せり」
そいつ、射命丸文はひとりごちて、自慢のカメラを掲げほくそ笑んだ。
「いやあ、ロストテクノロジさまさまだわ。白狼天狗の千里眼ほどじゃないけど、サトリ妖怪の目が届かない場所からやつの姿を捉えられるんだもの。あとはこれを持ち帰って現像」
「させてやると思ったかね。そうやすやすと」
文の顔が凍りついた。地面から誰かの手が生えて、彼女の足首をがっちりつかんでいる。
ドン、ドン、ドンと地響きを上げて一つ目の蛇が地中から現れ、四方八方を取り囲んだ。
「油断したなあ、文ちゃんよ。白狼天狗の狼藉を受けて、少し警戒網を広げたんだ。サトリの目は届かなくとも、天上は神奈子の領分だぞ」
地面が水面みたいに揺れて、洩矢諏訪子が顔を出す。
幻想郷最速の天狗も、これには冷や汗だ。仮に諏訪子の腕を振り払ったとしても、一つ目の蛇、ミシャグジ様の包囲網を逃れるのは簡単じゃあるまい。
「確かにうかつでしたかね。しかし私は空から写真を撮っただけ。お目こぼし願えませんか」
「領空侵犯。そんな法律なかったけど、今作った。我らの赦しがほしくば……まあ、立ち話もなんだ。少し面を貸しなよ。我らの社で込み入った話をしようじゃないか」
二
集合住宅の一室ごときに、水道なんか通っちゃいない。家具も、作り付けのキャビネットとテーブルだけっていう殺風景ぶりだ。
さとりはいろいろな厄介ごとを片付けて戻ってくるとしばらくの間、補修まみれでつぎはぎの目立つ壁を窓際からぼんやりと眺めていた。
「よし」
何ごとかを決めてキャビネットに歩み寄ると、中から何着か服を取り出した。水色のシャツ、ラナンキュラスの刺繍をあしらった薄桃色のスカート……かつての普段着を。
真っ赤なベルトで腰まわりをまとめたところで、頭上の「第三の眼」に注意がいった。心を読むサトリ妖怪の目は怪しいチューブで頭に通じていて、切り離すのは自殺するも同然だった。
「どうやってごまかしたものかしら」
カツン。表で乾いた音が鳴ったのは、そんなときだ。
さとりは、表につながる扉へと注意を向ける。第三の眼に飛び込んでくるのは、ご近所様の生活にまつわる「心の声」ばっかりだ。やったのは少なくとも、そいつらじゃない。
さっき、のしてきたやくざが仕返しにやってきたのか。
それとも、サトリ妖怪を疎んじるお隣さんの嫌がらせか。
いずれにせよ、それ系の声が聞こえてこないのは不自然だった。確かめないとならない。
周りへ十分に気を配りながら扉を開けると、薄暗い路地ばかりで人の姿はない。
足元を見るとコンクリートの破片が転がっていて、扉にぶつかったのは恐らくこれだ。投げつけてそのまま遠くに逃げれば、心を読まれる前に逃げ切れるだろう。
(少し前にも、似たようなことをしてきたやつらがいたわ)
思い返されたのは、少し前に成り行きで白狼天狗のはぐれ中隊を相手する羽目になったときのことだ。集団戦を得意としている、油断のならない連中だった。あのときは確か、並外れた早駆けを武器に彼方から奇襲攻撃をしかけてきて……
ちょうど、今みたいに!
「じゃーじゃーじゃーん!」
口でファンファーレをかき鳴らしながら、そいつは一直線に突っ込んできた。さとりはなかば自動的になってその腕をつかみ、勢い殺さず投げ飛ばす。
「はい?」「あら」
襲ってきたやつとさとりと、二人ぶんの間抜けな声が重なった。
そいつは空中で素早く身をひるがえし、さとりから五メートルほど離れた場所に降り立った。
「つれないなあ、いきなり放り投げるなんて」
そいつは深緑色した長袖の上着を着て、同じ色のハンチング帽を目深にかぶったやつだった。体の丸みを見りゃ一目で女とわかる。そして帽子の下の髪の毛は、燃え立つように赤い。
「ごめんなさいね、勝手に体が動いちゃって。元気そうで何よりだわ、お燐」
「へへへ」
そいつ、火焔猫燐が帽子のつばをたくし上げると、好戦的なつり目がさとりを見上げた。
「かく言うさとり様は……ずいぶんぼろっぼろになりましたね?」
「いろいろとあったのよ、いろいろと。立ち話もなんだし、お入りなさいな。お茶も出せないくらいに、何もないのだけれどね」
「へいへい、それではお言葉に甘えて」
燐を部屋に入れて扉を閉める。
「さあ、もう帽子を取っても大丈夫。元気な顔をちゃんと見せて?」
「元気も何も、あたいはずうっとぴんぴんしてまさぁ」
ハンチングを脱ぐととがった猫の耳が二つ、頭の上にぴょこんと立った。
「お燐はずっとこの街に住み着いているのね。暮らしに不自由はない?」
「ぴぃぴいしてますが、葬儀場で働きつつなんとかやっとります。よく死体の出る街でしてね」
「死体はよく持ち去れて?」
「残念ながら孤独に死ぬ奴ぁそうそういませんし、何より今は燃やせる場所がない」
顔を見合わせ、声なく笑った。
「それでお燐、あなたはお空と会えてるのかしら?」
さてその疑問をさとりが投げるとだ。お燐の顔からみるみる笑顔が消え失せた。
「最後に会ったのは、一ヶ月くらい前になりますかねぇ。風の神さんは面会の時間を作っちゃくれますが、間は長くなるいっぽうですわ」
第三の眼を通して、燐の記憶に残った霊烏路空の姿を見る。かつての威風堂々たる地獄鴉の姿なんて少しもない。頬の肉がごっそりそげ落ちて、それでも燐に向けて気丈に笑っていた。
「あいつはお空が立派に勤めを果たしている、なんて言ってたけれど」
「ご冗談を。神さんの八咫烏使いは、年々荒くなるばっかりですよ。手前の信者を考えなしに増やすもんだから、より強い神徳とやらを示さなきゃ収まりがつかなくなってます。もうね、いつまでもあんなお空を見続けるのはそろそろ限界です」
静かな怒りのこもった目が、さとりを見据える。何を言わんとしているのかいやでもわかってしまうのが、サトリ妖怪の辛いところだ。
「あたいさとり様がお戻りになられたのはいい機会だと思うんです。お空を奪い返しましょう。そしてこんな狭っ苦しい街から逃げ出して、誰も手出しできないような遠い場所まで行って、元のペットも呼び戻して、みんなで暮らしませんか。誰も昔の忠誠なんか無くしちゃいません。きっと元どおり、うまくやれますよ」
隻眼と第三の眼で、燐を見る。彼女の言葉は、もちろん本心だった。
「私が気に病んでるのは、あなたたちの忠誠心が薄れたかどうかじゃなくてね、お燐。お空を奪い返す試みは、きっとうまくいかないわ」
「そんなこたぁありません。この街は馬鹿みたいにでっかくなりましたが、無茶苦茶に国を広げたせいでいろいろとおんぼろなんだ。そいつを突けば、神さんだって出し抜けますって」
声の量をいくぶん下げる。
「いいですか、この街にはあたいみたいに人間に紛れて暮らしてるペットが十数人はいます。まずはそいつらと連携してことを起こすんです。インフラの勘所を突いてやれば、人間どもはパニックになること間違いなしです。その混乱に乗じてお空を取り返しに」
「恐らくその最後の詰めで蹴散らされてしまうでしょうね、今のままでは」
「我らペットは依然列強ですよ。負けやしない」
「ここに戻ってくるまでの間、いろいろな土地を流れ歩いたわ」
締め切られた部屋の中、誰かが言い争う声だけが遠くから聞こえてきた。
「幻想だったものが世界を動かす力になって、今や集まる恐怖の数や、信者の数が神妖の格を示す絶対のものになったわ。常夜の王国を作ったやつ、酷寒の地で女神みたいに崇められてるやつ……弱小の有象無象でも、ワンチャンスあれば王様になれる時代よ」
焼き芋屋台の呼び声が、どこからともなく聞こえてくる。
「それ点あの二柱、いや三柱かしら、が集める信仰の量は幻想郷の中でも今や随一のものだわ。市井に紛れて暮らす妖怪じゃ、とても歯が立たないくらいに」
「だったら集めましょうよ、その恐怖を。さとり様の心を読む程度の能力を怖がらないやつぁ、この幻想郷のどこにもいない」
「恐怖と嫌悪は、似て非なるものだからねえ。それに私は、まだ一箇所に腰を落ち着け恐怖を集めている場合ではない」
赤子の泣き声が、どこかからかけたたましく聞こえてくる。
「まだ、お探しになるおつもりですか。十年かけて、幻想郷中を探しても見つからないのに」
「大した時間じゃあないでしよ、十年くらい」
燐がさとりから目をそらす。
「あのですね、さとり様。こいつは非常に申し上げにくいことなんですが」
「みなまで話す必要がないことくらい、あなたはわかっているでしょう?」
「だから、言います。さとり様がご出立なすってから、ペットの聞けるやつ全員に聞きました。みんな、おんなじ答えです。
あたいらの主人は、さとり様だけでした。ほかのご家族は、誰も、いません」
「いたのよ」
「さとり様ご自身が、名前すら思い出せないのにですか」
「それでも、いたのよ」
「隠したって無駄なんで、言いますがね。あたいはさとり様が『大崩落』のショックで幻覚か何かをご覧になってしまってるのではないかと思ってんです」
絞り出すような燐の言葉を、さとりは笑ってるのと泣いてるのがごっちゃになったみたいな顔をして聞いていた。
「仮にいたとしても、あれで地霊殿は潰れちまったし、ペットも半分は下敷きになっちまった。そん中に入ってるとは考えられませんか」
「いいえ、生きてる」
「何を根拠に?」
「『あの子』のイメージは、出会うやつらの心の中に時おり紛れ込んでいるわ」
さとりはおもむろにキャビネットへと歩み寄って、中身を漁り出す。
「姿は見えないけれども、どこかにはいるのよ。もっとも目撃した連中ですら、いつ、どこで会ったのかすら覚えていないけれど」
「それこそ、さとり様の妄想に誰かをつき合わせているだけなんじゃ」
さとりが取り出したのは、ペンと紙だ。それをテーブルにおいて、何ごとか描き出した。
「第三の眼は心を映す。まぼろしが紛れ込むなんて考えられないわ。それは私の問いに応じ、共通した断片として想起される。こう……つば広の帽子をかぶった、髪の長い女の子として」
ペンを置く。燐は紙に描かれた「あの子」をのぞき込むと、大きな大きなため息を吐いた。
「……さとり様、ぜんぜん絵ぇうまくなりませんねぇ」
「これでも頑張って描いてるつもりなのよ」
幼児が殴り描いたか、それ未満の何かが紙の上で群れをなしていた。そいつはさとりが言う帽子みたいな半円、髪の毛みたいな細長くのたくった何か、目のような丸が二つ、そして口のような三日月が一つ描かれているからたぶん誰かの顔なのだ。
「百歩ゆずって、これがさとり様のご家族として。これが一度でもまぼろしじゃない、本物が姿を見せたことってありましたか」
「ないわね、今まで、一度も」
「やっぱおかしくないすか。ご家族でしょう? 本当にいるってんなら、なんで一度たりとも姿を見せてくださらないんですかね?」
さとりは右手で自分の頭を支えて、押し黙った。こめかみのあたりにじんわりと汗が浮いているのは見逃せないところだ。
「正直に言うわね。わからない、が正解。少なくとも今のところは」
「わからないって」
「とっつかまえて縄を引いてでも持ち帰りたいところなんだけれどね。あなたの意図することは、いやでもわかるわ。どうにか誘導尋問で、私の妄想に矛盾があることを気づかせたい、と」
次は燐が黙る番になった。
「私自身、自分の頭がおかしくなってるんじゃないかって思うことは、しょっちゅうあるわ。だとしたらそれはきっと、旧地獄を追い出されたあのときよりもずっと前からなのよ」
「さとり様にはお休みが必要に思えます。まかり間違ってさとり様が正気だとしてもですね、んなズタボロになってまで旅を続ける意味があるとは、とうてい思えません」
燐が目をやったのは、さとりの左手だ。包帯の下に本来の腕はない。白狼天狗との血みどろのいくさでもって、失われた。
「心配しなくても、そのうち新しいのが生えてくるわ。だいぶ再生したのよ、これでも」
「んなこと言って、左目のはまだ治っとらんじゃないですか」
非難がましい燐の顔から、目をそらす。
「とにかくね、私の腕を持ってった天狗どもの心にも『あの子』の影は見え隠れしていたの。これは一方的な私の直感によるものだけれど、あの子はこの国で何かをしでかすつもりよ」
「さとり様の勘をどこまで信用したものやら」
「ともあれ、大きなことが起こるのはそれから。お空の身柄をおさえるのは、それからでも十分でしょう? それまでは私もここに居座るつもり」
芋を手にした子どもらの歓声が、外を通り過ぎていった。
「しゃあないですねぇ。ではしばらくの間、あたいが身の回りのお世話させていただきます。こんなぼろ家で暮らすのは、不便でしょう?」
「ええ、助かるわ。それでじっくり私が正気かどうか、見極めればいい。それで、世話ついでに一つ相談を聞いてほしいのだけれど」
「なんです?」
さとりは燐を見上げて、言った。
「私にもまわしてもらえそうな仕事って、ないかしら」
三
そんな二妖怪のやりとりが貧民街でうだうだ続いていたのと同じころ、守矢神社の奥深くでは怪しい取り引きが始まろうとしていた。
通路に設けられた小部屋の前で、八坂神奈子はまんじりともせず文の作業が終わるのを待ち構えていた。襖が横にずれて、薄暗い部屋から文が顔を出す。
「よもや暗室まであつらえていただけるとは、思いもよりませんでした。これでいいですか」
「無理にここまで連れてきたからね。どれ」
文から数枚の印画紙を受け取った。そこに写っていたのは、上から撮った貧民街の街並み、そして巨漢に強烈な右ストレートを叩き込んでるさとりの姿だ。
「かなりの上空から撮ったにしては、きれいに撮れているじゃない。河童の技術かしら?」
「なんだかんだで、きやつらの勤勉ぶりは大したものです。人間の望遠技術を完全に自分らのものにしてしまったようで」
「さておき、さとりは番外地のスラム街に住み着いたと。わざわざ不信心者のたまり場に乗り込むなんて、あいつらしいというところかしら」
「かのサトリ妖怪を、いかになさるおつもりで?」
神奈子は写真をひらひら振った。
「かの地は本来、この国にあってはならない場所よ。さりとてうかつに立ち退きを強いれば、国民の信心にかかわる。ひるがえって、多少の無茶をやっても目をつむれる場所でもある」
「つまりは、無茶な取材を続けてもよいと。そういう理解でよろしいですか?」
「そうなるわね。お前にその気があるのなら領空侵犯を帳消しとした上、就労ビザを発行してあげる。ただし、条件があるわ」
神社の直上にある核融合炉から、人工太陽フレアの音がゴウンゴウンと聞こえてくる。
「就労の内容は古明地さとりの取材に限ること。取材内容は包み隠さず、我々に報告すること」
「サトリ妖怪の動向は、八坂様も気になるのですね?」
「きやつはお空を奪うつもりはないと主張しているけれど、元の飼い主だからねぇ。加えて、市街にはきやつの有力なペットが暮らしている。油断はならないわ。せめて模範的市民にふさわしい態度を見せてもらわないと、お空に会わせるわけにはいかないわね」
「いいでしょう。情報を売るだけで市内にも立ち入られるとあれば、乗らない話はありません」
「おっと、条件には続きがあるのよ? 私はさとりのことを信用しちゃいないのと同じくらい、お前のことを信用しちゃいないのだからね」
文を見下ろす神奈子の目つきは、カミソリみたいに鋭かった。
「情報通のお前が、知らないわけではないでしょう? 『山』の白狼天狗が、我が国の周りで何をしでかしたのか。さとりの話もそれに付帯して手に入れたはず」
「無論、存じております。頭に血の昇ったはぐれ白狼天狗どもが、守矢国の周囲で虐殺行為を働いていたとか。実に嘆かわしいことです。かの凶行に及んだ一派は行方をくらましたまま、どこに行ったかの見当すらついておりません。我が方に残った木の葉の一派もかつての仲間を守りたいのか、千里眼の結果を出し惜しみしているというありさまでして」
「そこが気に入らないのよ。我々は凶賊と『山』の連中がつながってる可能性を捨ててないの。あんたはそこにヌケヌケと飛び込んできた。その意味をきちんと理解して?」
蛙をにらむ蛇みたく、神奈子が文に凄みを効かす。文は文でそれをそよ風みたいに受け流す。
「私はあくまで一個人としてサトリ妖怪の動向に興味を持ったまで。かつても取材したことがありましたが、あのころのあやつは館に引きこもる虚弱児にすぎませんでした。それがたった一人で白狼の一団を退けたという。興味が湧かないわけがありません」
「なるほどそれはつじつまが合う。だけどそれを受けて、はいそうですかって言えるほど私もお人好しではないのよね。というわけで最後の条件は、我々の監視を受け入れること。飲めるというなら片手を出しなさい。いちおう、利き腕じゃないほうをお勧めするわ」
§
板張りの廊下を出口に向けて歩いていく文は、左肩のあたりをしきりに気にかけていた。
「むずがゆいけれど、気にするほどのものでもないわね」
「文さん」
横合いから声がかかって、はたと文は立ち止まる。長い髪に蛇と蛙の飾りをつけた女が、書類の束を小脇に抱えて立っていた。
「おや、これは早苗さん、お久しぶりです。神様になられてもお変わりないようで何より」
東風谷早苗はゆっくりゆっくりと笑顔を作る。
「文さんも、相変わらずですね。『風の便り』もここのところお渡しできなかったので、しばらく話もできてませんでしたが」
「仕方がないですよ。二柱と並んでご多忙な身の上じゃあないですか」
さて早苗、薄く首を傾げて笑顔のまま文の目を見た。
「すっかり記者さんに戻られましたね?」
「組織の中で使いっ走りをやらされていると、たまにはストレス発散がしたくなるものです」
「すると、もうすぐにでも取材に戻られますか」
「それはもう、一秒でも早く。取材対象がいつネタを蒔いても受け止められるように。では」
と、片手を上げて早苗の前を通り過ぎる。早苗はそんな文の背中を見送って、しばらくの間その場に立ち尽くしていたのだった。
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さとりが妖怪を殴って倒す「博麗大決壊」シリーズ第3作目となります。
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