この物語は、主婦な武将やちょっと我儘な君主が繰り広げるアットホームな物語
……の傍らで繰り広げられる、ある仮面の物語の一つ。
『孫呉の王と龍の御子・六~外史の天秤~』
男には望みがあった。
その望みは二つ。いずれも人の身では至ることのできない領域。
故に男は人ではなかった。
人でないからそのような望みを持ったのか、そのような望みを抱いたから人ではなくなったのかは定かではない。
ただ男は、この世界の均衡を破ってでも手に入れたいものと叶えたいものがあった。
『理』の天秤を傾ける。その為に長い間放浪を重ねてきた。
希望、絶望、信頼、裏切り、愛情、憎悪、悲しみ、苦しみ……ありとあらゆるものを呑みこみそれでも男は己の夢を追い続けた。
そして今、その一つが叶おうとしている。
だが、節理を揺るがす願いを叶えるのは危険が伴う。一つを叶えればもう一つを叶える機会は失われるかもしれない。
二兎を追うものは一兎をも得ず。しかし一兎のみを望めばもう一兎は永遠に失われる。
故に男は一つの天秤が傾き崩れるその時までに、もう一つの天秤も傾けねばならなかった。
男には時間が無かった。
そして術もなかった。
……いや、一つだけ。
今まで長きにわたり続けてきた『放浪』という手段。それが未だに傾く気配も見せないもう一つの天秤を傾ける唯一の手段。
かくして男の最後の旅路が始まる。
天秤に踊らされるかのように。
荊州襄陽郡。
三国時代、荊州刺史・劉表の庇護の元に中原での戦を逃れた名士・学者達が大きなサロンを作り上げた地。
それは本来、中原での戦が激化してからの事。戦乱の幕開けの話ではない。
しかしこの世界では違った。黄巾の乱よりも早くこの地は一つのサロンを作り上げる程の発展を見せ、特に州都・襄陽はまさに大陸有数の学術都市と化していた。
その発展に大きな貢献をした一つの施設がある。
劉表に嫌われながらもその影響力故に彼も手を出せなかった水鏡と呼ばれる名士の作った、女の為の学習機関・水鏡女学院。
現在、劉備に仕えている諸葛亮、鳳統という二人の奇才は言わずもがな、徐元直、崔州平、孟公威、石広元といった多くの秀女達を育てたこの学院の名は大陸に少なからず響いている。
そんな学院正門前に、煉瓦造りの簡素なそれに書かれた『水鏡女学院』の字を見上げる一人の少女の姿があった。
「ここが水鏡女学院か」
手にした地図と現在地を丹念に確認し、目の前の建物が目当てのそれに違いないという事を確信した少女―鈴の甘寧ーこと思春はポツリとそう漏らした。
「あ、今日は。入学希望者の方ですか?」
その声が聞こえたのか、門のすぐそこにある敷地内の小屋から誰かがそう言う。
ひょこりと窓から顔を出したのは、まだあどけなさの残る容貌で長髪の上に帽子をかぶった少女だった。
「入学希望の方でしたら、まず建物に入ってすぐのところにある事務室に……」
「いや、私は…」
そのようなものではない。思春がそう言おうとした時だった。
「違うわ緑里(エンリ)さん。その人は入学希望者じゃなくてお父様のお客様よ」
小屋の戸が空き、一人の少女が出てくる。
歳は十に届くかどうかといったところか。艶やかな黒髪、鮮やかな紅の瞳、冬の日に吐いた息のように白い肌。
ぞくり。と思わず思春の背に冷たいものが走るほど愛らしく美しい少女だった。
「へあ…そうだったんですか。それは失礼しました」
幾分慌てたように縁里と言われた少女は居住まいを正し。
「申し遅れましたが私はここの守衛兼教師をしている諸葛均というものです。お客様とは知らず失礼しました」
「気にしていない…それよりも……」
「お父様でしたら今はここから少し離れた所にある屋敷で別のお客様のご接待をなさっていますわ……ご案内します。甘将軍」
少女が笑い。すっと思春に背を向ける。
その背中をしばらく見つめ、思春はおもむろに歩き始めた。
昨夜から拭えない、言いようの無い胸の重みがまた少しだけ重くなったのを感じながら。
思春がこの水鏡女学院を訪れたのは言うまでもなく仕事である。
江夏で合流するはずだった阿毘主から急遽予定の変更が部下の一人を通じて伝えられ、新たな待ち合わせ場所であるここまで遠出してきたのだ。
阿毘主。本名を司馬徽、字を徳操、号を水鏡。阿毘主は真名である。
彼こそがこの水鏡女学院の学院長であり、荊州名士の間に大きな影響力を持つ水鏡先生その人であった。
「……どうかされましたか?甘将軍」
女学院から程近い小高い丘の上に作られた水鏡の私邸の廊下を歩きながら、ちらちらと屋敷の様子を観察していた思春に少女が小首を傾げながらそう尋ねた。
「いや…面白い造りの屋敷だと思ってな」
水鏡の屋敷は一般の住宅とは明らかに異なったつくりをしている。
もしここに龍泰や一刀がいたらこの屋敷を見てこう現しただろう。『洋館』だと。
「そうですか?私は荊州についてからずっとここで暮らしていますからよく解りませんが…ただ、この屋敷は父の師に当たる方が設計なさったと聞いています」
「…今更だが、あなたは水鏡先生のご息女か?」
「はい。水鏡の一人娘……影瑠(エル)と言います」
今、微かに名を言う前に照準があったのは気のせいだろうか?
「そうか。つかぬ事を伺うが、母君は?」
「……私が七つの時に父と離縁して以来合っていません」
「…失礼した」
「いいえ……それよりも甘将軍は寡黙な方だと聞いていましたが、案外お喋りなのですね」
「……そんなことはない」
「ふふ。そうかしら?」
クスクスと笑みを浮かべて影瑠はある部屋の扉を開け、中へと思春を誘う。
そこは客間らしく、卓を挟んで長椅子が向かい合うように並んでいた。
「父は隣の部屋です。もうしばらくかかると思いますので、しばらくお待ちください」
そう言い残して影瑠は静かに部屋を後にした。
後に残されたのは妙に重々しい沈黙と取り残されたように佇む思春のみ。
「……ふう」
小さく息をついて思春は長椅子に腰を降ろす。
「お喋り……か」
言われるまでもなく何時になく饒舌な自分。周囲を探る眼を少女にすら感じ取られてしまう集中力の欠如。
原因は解っている。
昨夜。いや、厳密には数年前から胸を焦がす言葉に出来ないもやのようなものだ。
胸の中に鉛でも詰めたような重さ、ちりちりとそれは時に思春の胸を焼くように疼き、言いようのない不快感、その中に確かにある恍惚感を彼女に与え続けてきた。
その感情が一体何なのか、彼女は解らない。
ただ、幾度か彼女の同僚達から聞いた話から、それがあるものに酷似していることは気付いていた。
(だがそんなことがあるはずがない…)
そう、あるはずがない。何故なら……。
(恋などと…愛などというものを抱いた相手などいないではないか!!)
しかし胸のわだかまりは少しずつ大きくなる。
そしてここ数日は今までないほど強い朧火が思春を焼き続ける。
「どうしてしまったのだ私は……」
呟く。答える者などいないと知りながら。
「今日はありがとうございました老師。夢奇先生にもよろしくお伝えください」
「ああ。しかしお前も恩があるとはいえ大変だな」
ふと、戸の向こうから話し声が聞こえてきた。
「まあ、返し足りない程の恩を受けていますし…今の私があるのも夢奇先生のおかげですから」
「歪みねぇなぁ」
「ありがとうございます。時に老師もそろそろ彼等の元に戻られてもいいのではないですか?」
声は二つ。気配も二つ。どちらもかなりの武芸者であることが扉越しでも思春には感じられる。
「どういうことなの?」
「直接深く話したわけじゃありませんが、未だにあなたが生きていると信じている人もすくなくないみたいですよ」
「………何が問題ですか?」
「…ふ、素直じゃない方だ」
「…最近だらしねぇなぁ」
「しかたないですね」
「ありがとう。時に次の客がいるんだろう?見送りはここまでで良いから、そっちに行きな」
「お心使いありがとうございます。ではこれで」
気配のうち一つが去り、別の小さな気配が近づいてくる。
「おや、影瑠。まだお茶をお出ししていなかったのかい?」
「ごめんなさいお父様。お客様用のお茶が老師の分で切れていて……」
「買ってきたのか…それはすまなかったね」
ガチャリと音を立てて扉が開く。
そうして滑るように部屋に入ってきたのは、見なれない衣装に身を包んだ仮面の男。
仮面。そう、仮面に遮られ男の素顔は見えない。
見えないはずなのに、思春は直感していた。自分はこの男に会ったことがあると。
それと同時に理解していた。自分とこの男が出会うのは初めてであると。
「……どうかしたかね?」
仮面に隠された顔がどのような表情をしているのか。むき出しの口元だけでは判断はつかない。
ただ、良く見れば気付いたかもしれない。
阿毘主の瞳もまた、思春を揺らすことなく映していたという事に。
かくして、二人は出会った。
それがどのような意味を持つのか。
答えは外史の天秤のみぞ知る。
後書き
ども、タタリ大佐です。
今回は批判覚悟でside阿毘主
サンホラファンの方、すみません。愛…を言い訳に使うようであれですが、いろんな人に興味を持っていただくきっかけになったらなぁと(その人が後書きを読むのが前提になっている時点で破綻していますが)
冒頭で書いたように、今回…というかこれからしばらく阿毘主の話は読者への挑戦みたいなものです。彼の正体に気付いている方は少なからずいらっしゃるかと思いますが、どうしてこのような所にいるのか、その目的は何なのかを推理…という程のものではないですが想像していただけたらなぁと
そんな面倒くさいことができるか!!という方はまあ、side南斗(本編)をお楽しみください。
こんな事をしてみたのも、振り返ると自分は秘めておくべき設定を早々と公開する癖があるなぁと気付いたからでして。自分の口(手)に枷をつけ、読者の皆様に楽しんでいただける方法としてこうしたらうまくいかないかなと思った次第であります。
個人的に読者への挑戦と書くと上から目線みたいで私はあまり好きではないのですが。
「作者の単純な物語なんてお見通しだぜ!!」という方はそっと私に耳打ちください(コメやメールで…ただ、コメだと明確な返事はできませんのでご了承を)。
さて、たぶん次は帝記北郷のほうをアップすると思います。そちらも読まれている方は楽しみに、そうでない方はこちらを気長にお待ちくださいませ。
では、また次作にてお会いしましょう。
追記
あくまでこれは雪蓮と龍泰の物語です。最近あれですが、荊州編が終われば仲間にしたかった人材がそろいますので改めて二人の話になります、それまでお待ちください。
次回予告
長沙城で呂蒙ち合流した龍泰と紫苑。
三人は璃々の行方を追い、長沙のとある廃屋に目を付ける。
それより数日前、事件の黒幕は誰か
仮面が襄陽の闇夜を行く
次回
孫呉の王と龍の御子~睨まないで亞莎さん~
闇夜。水鏡女学院敷地内の小高い丘の上にある洋館の一室。
時は夜半。その部屋を除いてすでに他の部屋の明かりは消えている。
「……明日はいよいよこの世界での甘寧が来る」
揺れる灯火とその光。照らし出される燭台を握る男の顔。
「もう何度目だろうね……」
そこに照らし出されるは紅い衣装(ドレス)に身を包む髪の長い一人の女の大きな肖像画。
「彼女こそ…私の君なのだろうか」
肖像画は答えない。答えるはずもない。
「……そして君もこの世界にいるのだろうか」
燭台が動き、隣にある肖像画を照らす。
「あの子も私の血をひく子……そうであっても不思議はない。ましてや今度は二人…高い可能性ではないが低くも無い」
照らし出される女の姿に、複雑な表情を浮かべる男。
それを肖像画の女は静かに見つめている。
「……俺はもう狂っているのかな」
そう呟き、男は自らの言葉を嘲笑うかのように笑い目を閉じる。
「何をいまさら……」
その時吹く微かな隙間風。
消える灯火。
そして世界は闇に包まれる。
肖像画を見つめる男を見つめていた、真紅の瞳を除いて。
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何といいますか、ちょっと読者に挑戦です
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