とある日の早朝、許昌の城門前には幾人かの人間と二頭の馬が集っていた。
人の方は二人とその他とで向かあうようにしており、状況からその二人が今から出立するところだということが分かる。
その二人というのが一人は一刀、そしてもう一人が、なんと鶸であった。
要するに、以前一刀が桂花に進言した案、そこで決めた同行者が彼女であったということ。
今回の一刀の目的が目的だけに予想外の人選で、桂花には非常に驚かれたものである。
ただ、一刀からしてみれば同行者の選定は元からほぼ三択であり、そこからプラスαの要素を加味して鶸を選んだのだ。
一刀が同行者に求めた能力は単純なもので、いざと言う時の対処のために武力と走力を高い水準で併せ持つ者を欲していた。
黒衣隊員たちは皆、一刀によって徹底的にしごかれているので、一般的な兵のそれよりも能力は高い。
だが、将と比するとさすがに一段劣るものとなってしまう。
一方で、一刀が今回の任務に要求する能力は、まさに将のそれ。
従って桂花の元々の予測、黒衣隊員の実力上位から誰か、という選択肢は無かったのであった。
ちなみに何故蒲公英でなく鶸なのかは、一刀のただの気分の問題――――というわけでは、勿論無い。
一刀曰く、鶸に試させてみたいことがあり、付きっきりで教えるのに丁度良い環境になるから、だそうだ。
何分急な展開の話なだけあって、鶸も始めは冗談だと受け取っていた。しかし、笑みの欠片も見せずに滔々と説明する一刀と桂花の様子を見て、鶸も気付いた。
さて、ではこの要請を受けるのかと聞かれて、鶸は悩む。
立場的な問題というよりも、言い渡された任務の内容に思うところがあったのである。
今や”天の御遣い”たる一刀が幾日も街を離れるとなれば、さすがに華琳を通さずにというわけにはいかない。
そこで桂花が考えた表向きの任務内容。それが、国境付近の砦の視察、であった。
鶸としては、周りに比べて伸び悩んでいる今、なるべくなら武に打ち込みたいところ。
その想いを読み取ったのか、一刀は前述の思惑を鶸に告げる。
これが決定打となって、鶸は首を縦に振ったのである。
「……恋も、行きたかった」
今回の件が決まった時から幾度かあったことなのだが、少し拗ねたように恋が言う。
対する一刀の答えも、最早ここ数日のテンプレとなっていた。
「まあまあ。なるべく早く戻って来るから。な?」
「……ん」
恋を宥めるように、或いは慰めるように、軽く頭を撫でて告げる一刀に、恋は目を瞑ってコクンと頷く。
実は本当に不満を持っていたのは最初だけで、それ以降はこのナデナデを期待しているのでは、とは周囲の共通見解である。
「にしても……」
ふと一刀は自らの後方、二頭の馬を見やる。
「アルはともかく……赤兎は大丈夫なのか?」
今回用意された二頭の馬は、言わずと知れた魏の、正確には一刀と恋の保有する名馬、アルと赤兎であった。
一刀がツイと視線を移動させると、その移動先にいた鶸は慌てて首と手を横に振った。
「む、無理です!私では赤兎ちゃんには……!」
「そういえば、前に乗りこなしたのは蒲公英だったんだよな。
う~ん……俺も、赤兎が受け入れてくれるとは――――」
そこまで口にした時点で、一刀は不意に視線を感じた。
どこからのものか、と周囲に目をやると、こちらをジッと見つめているアルと目が合う。
「アル……?」
何事かを訴えかけてくるかのようなその視線に何かを感じたのか。
一刀はゆっくりと赤兎に歩み寄る。
「赤兎。お前のご主人さまでなくて悪いが、少しの間頼めないか?」
言いつつ、一刀は赤兎の首に手を伸ばす。
以前までならば、この時点で拒否を示す行動を起こしていたのだが――――何という事か、赤兎は一刀の手を素直に受け止めた。
心底驚きつつも、ならば、と一刀は赤兎の鞍に足を掛け、ついに赤兎に跨る。
それを見届けた瞬間、アルが鼻喇叭を盛大に鳴らした。
それにはどこか誇らし気な響きが混ざっているように感じられるのは、もしかすると気のせいでは無いのかも知れない。
「アル……ありがとう」
一刀の礼を聞いてもう一度鼻喇叭を鳴らしたアルは、鶸の下へと歩を進め、彼女が跨るのを待つ。
すぐに鶸もアルに跨って準備が整うと、一刀は見送りに出て来てくれた者たちに声を掛けた。
「さて。いつまでもこうしててもあれだし、そろそろ行ってくるよ。
見送りありがとう、春蘭、秋蘭、恋。なるべく早く帰って来る」
「うむ。一刀も”任務”の方、しっかりな。
くれぐれも無茶だけはしてくれるな?万が一なんてことになったら、泣くぞ?」
「一刀!絶対にすぐ帰って来いよ!
今度こそ、私が勝ってやるんだからな!」
「……恋、待ってる」
短い間とは分かっていても、高速交通の存在しないここ大陸では、近場の往復であっても最低でも数日を要するほど。
今回のように遠方地へと行くともなれば十日単位で会えない日々が続くことになる。
故に、三者三様の言葉で一時の別れを惜しみつつ、それでも文句も言わずに送り出してくれた。
春蘭と恋に幾通りかの意味で内心謝りつつ、一刀は感謝の念を抱く。
秋蘭はどうやら一刀の真の任務を薄々理解していた様子。
全てを分かった上でかように接してくれる秋蘭には、改めて信頼と感謝の念を深くした。
一刀は鶸と共にもう一度だけ短く答えてから、赤兎を駆けさせる。そして寸秒と遅れず鶸とアルも続く。二頭の姿は瞬く間に小さくなり、すぐに地平線の向こうへと消えていった。
こうして二人の出立は為ったのであった。
さて。出立してからすぐ、鶸は一刀の取る進路に疑問を抱くこととなった。
予め通達されていた任務内容では、蜀の領土と接する、西涼辺りの砦への視察だと聞いていた。つまり、西方へと向かうはず。
ところが、一刀が取る進路は、どう控えめに見ても、南西或いは西南西。
まさか道を間違えたのか、と尋ねようとしたその時、タイミングを合わせたかのように一刀の方から話し掛けられた。
「鶸、まず先に謝っておく。すまない。
実は今回の任務、鶸が聞いた内容は表向きであって、実際は全く違ったものなんだ」
「は、はぁ…………ん?……え、えぇっ!?ど、どういうことですか?!」
突然の出来事に、少しのラグを挟んで鶸は盛大に驚く。
そのまま食らいつく様に一刀に詳細を尋ねてきた。
「鶸は確か、文官の方ともちゃんと交流を持っていたよな?あ、仕事関連での、って意味で、な」
鶸が頷いたのを見てから、一刀は続ける。
「なら知ってるかとは思うが、呉の情報が思うように集まっていない。
これは今後のことを考えると非常によろしくない状況だ。
つまり、今、魏は国として呉の情報を欲している。喉から手が出るほど、な」
この辺りは文官たちの間でしばしば話題に挙がるものなので鶸も知っているようだった。
鶸がきちんと理解して付いて来ていることを確認した上で、一刀は更に話を展開していく。
「ただ、一般兵の間諜に頼ってばかりのままじゃあ、呉の情報は恐らく今後も入ってこない。
それと言うのも、向こうでは二人、将が間諜の役割を担っているからだ。鶸も聞いたことがあるんじゃないか?周泰と甘寧の二人の名は」
鶸はコクリと頷く。
無言なのは話の流れを理解し、何を要求されるかを薄々勘付いているからだろうか。
「相手が将とあっては、いくら専用の鍛錬を積ませていても一般兵には荷が重い任務となってしまう。
だから、多少不慣れであろうとも魏も将級の者を出して対抗しようとしたわけだ。
但し、これは桂花から相談された俺の思いつきで、桂花がそれに賭けた形になる。
そんなわけで、上に通しているのは表向きの任務内容、ってわけだ。
ちなみに俺が行くのは、所謂”天の技術”で多少なり間諜任務に応用出来そうなものを持っているから、だな」
もしもの時のバックアップとしての面が大半とはいえ、鶸を付き合わせるに当たって裏事情の説明を行う必要がある。
しかし、だからと言って全てを詳らかに話すことを迫られているわけでは無い。
故に、一刀の説明には無理が無い程度に嘘が散りばめられていた。
とは言え、そんなこととは露程も知らない鶸は素直にその説明を信じる他無い。
「は、話は分かりました。つまり、一刀さんはこれから呉の情報を集めるべく、間諜任務に赴かれる、と。
で、ですが、だったら私は一体何故……?申し訳ないですが、特別な技術なんて何も持ち合わせていませんが……
それに、今向かっているのは蜀の方角なのでは?」
「大丈夫だ。鶸に求める役割は、もしもの場合、その時点までの情報を持って魏まで逃げ切ることだからな。
ただ、蜀の方ではもう少し役目を担ってもらうが……それに関しての説明は成都に到着してからでいいか。
それと蜀に向かっている理由だが、折角なんで蜀の方の情報も実際に目にすることでより正確に把握しておこうという狙いだ」
「な、なるほど……分かりました。私に出来る限りのことは致します。
あ、ですが……あの、任務に使える日にちの方は大丈夫なのですか?」
「ああ、その為の極小人数、早馬だ。
アルと赤兎で駆けられるようになったのは嬉しい誤算だな。二頭ともはっきり言って規格外の名馬だ。
本来の行軍では設営なんかに要する時間は、全て移動に回して進める限りを進む。
赤兎たちが疲れを見せたら休憩を挟み、その間は俺たちの武練の時間だ。
とまあ、こんな風に考えているんだが、鶸はこれでも大丈夫そうか?」
鶸は少しの間情報を整理するために黙考し、それから一刀の問い掛けに答える。
「はい、大丈夫です。母さまの下でも強行軍は何度か経験がありますから。
それにしても……任務の期間中に稽古を付けて頂ける話は、本当のことだったんですね。
あっ、べ、別に嫌だとか文句を言っているわけではありませんよ!ただ、聞かされていた任務が偽りだと聞いたものですから、そちらも……と思ったもので……」
「いや、まあ、これは任務とは別物だからな。
ただ、先に正直に言ってしまうが、これも俺の思いつきでしか無いんだ。
申し訳ないが、俺は鎌も槍も主体的に鍛錬に打ち込んだことは無いからな。
単にそれぞれと仕合った時の感覚なんかから、こんな動きが出来れば最大限相手を苦しめられるんじゃないか、って思ったことを伝えるに過ぎない。
実際にそれが実戦で使える戦法かどうかは、それらを主武器として今まで扱って来た鶸の感覚に委ねることになる。
つまり、最後はみんな鶸自身で決めてもらうしか無い、ってことだな。俺はそこに至るまでの判断材料を提供するに過ぎない」
「いえ、それでも十分です!
私は他の皆さんに比べて伸び悩んでいますから……
恋さんに次ぐ実力者たる一刀さんから教われるのであれば、それが全くの無駄になるなんてことは無いですから!
どれだけ厳しくても、強くなれるのであれば構いません!」
「そう言ってくれるか。分かった、ならばとことん行こう!
かなり大変な道中になるだろうが、言ったからには音を上げてくれるなよ?」
「はいっ!」
小気味の良い返事をした鶸の顔には笑みが浮かんでいた。
鶸にとって暗雲立ち込めていた武を強化する道が、明確に示されるかも知れない。それが彼女にとって余程大きな範囲を占めていたことがよく分かる表情だった。
さてさて、そんなこんなで初日から早速武練の時間がやってくる。
まずは簡単に説明から、と一刀は得物を構えるでなく鶸を呼び寄せた。
「まず確認だが、槍による攻撃は突きが主体だよな?
一方で鎌の攻撃は払いが基本となっている。
鶸の湾閃はこれらを併せ持つ特殊な武器だから、そういった攻撃の主体となる部分からして考える必要があるわけだ。
それでだが、現状で鶸は湾閃を槍として使う、つまり突きが主体であって、枝となる鎌は不意打ちなんかで相手を崩すのに利用している。その認識で合っているか?」
「はい。その通りです。
私も馬一族の女ですから、母さまには槍術を小さい頃から叩き込まれてきましたので」
これまでの鍛錬での鶸との仕合経験。
そこから一刀は鶸の攻勢の組み立て方を割り出していたが、ここを詰めるべくきっちりと確認を取ることにしたのである。
その一刀の分析は鶸によってすぐに肯定された。
ならば話は進めやすい、と一刀は自らの案を鶸に提示する。
「鶸。まずはその基本からして根本的に変えてみよう。
これからは突きよりも払いの方を主体に攻撃を組み立てるようにしてみたらどうだろうか?
或いは、今までの型を崩し過ぎたくなければ、払いをより多く取り入れるよう意識するだけでもいいかも知れない」
「は、払いを、ですか……それを踏まえて型の再編……
あの、その意図をお伺いしても……?」
鶸としては、一刀からは自らの武に応用出来る類の何らかの技術を教えてもらえる可能性を考えていただけに、意外な内容で驚きを隠せない。
しかも、それが今迄の戦い方をごっそりと変更するともなれば、その意図を聞きたくなるのは当然だろう。
勿論一刀の方もそれは分かっていたので、当たり前のように答えは用意してあった。
「鶸自身が鎌を相手取ったことがあるのかは分からないが、とにかく鎌のような武器を相手にした時に厄介なのは、他の武器で養った経験によってむしろ感覚が狂わされることにあると思っている。
鶸の持ち得る攻撃手段の中でその最たる攻撃が鎌状の枝による払いだ。
相手の感覚を狂わせることが出来れば有利に働く事柄は多い。
例えば、相手が攻撃を躊躇するようになったり、思わぬところに隙が出来たりするかも知れない。
何より、そんな状態が続けば、相手の消耗は相当なものになるだろう。
相手の虚を突き、無意識に対して攻撃を仕掛けるような型になるわけだが、理論的には実戦的な型になるとは思う。どうだ?」
一刀に言われ、鶸は改めて今までの鍛錬や実戦の歴史を振り返ってみる。
魏でのものに限らず西涼での経験も全てを含めて思い返してみると、確かに一刀が言った傾向が見られないことも無い。
但し、そこには大きな懸念が一つ、存在していた。
「確かに…………湾閃の枝による攻撃に対してはやりにくそうにしている方が多いように感じます。
あの翠姉様でも――――ですが、その……
何人か、その、そういった印象を受けない方が……」
「ふむ……参考までに、それは誰なんだ?」
一刀に問われ、鶸は伏し目がちにチラと一刀を見てから、思い切ってその名を列挙した。
「一人は母さま、一人は恋さん。そしてもう一人は、一刀さん、貴方です」
「んん?俺?いや、俺もかなりやりにくかったんだが…………ああ、そうか」
言いかけて、何かに納得したようにポンと手を打ち合わせる一刀。
それから顎に手を当てて少しだけ考えてから一刀は鶸に話す。
「俺の場合はそこから除外しておいてくれ。それは単に平静を装っているからに過ぎないからな。
それと、恋が実際どう思っていたのかは、帰ったら直接聞いてみよう。
俺も何度か、ボロボロに負けたと思っていたのに、恋からすればギリギリだった、ってことがあったからな。
全く、恋は戦闘中に自身の情報を相手に悟らせない天才だと思うよ。
だから、懸念は馬騰さんだな…………いや、実際これは後でまた言おうと思ってたんだが、鶸に提案する新たな型では馬騰さんと孫堅だけは効果が無い可能性が元々あったんだよ。
というのも、理由は単純で、あの二人の経験値は俺たちなんかじゃ比べものにならないほどだ。
戦闘の経験が多ければ、それだけ変則的な武器の持ち主との戦闘の経験もあるだろう。
この辺りは仕方がないものと割り切るしかないだろうな」
「やはり、そうですか……いえ、何となく分かっていた気がします。
ずっと身近にいただけによく分かるのですが、やはり母さまはどこか規格外が過ぎるところがありましたから」
ですが、と鶸は更に疑問が残っていると一刀に問う。
「その、一刀さん自身の鍛錬はよろしいのですか?
聞く限りでは、どうにも、その、私の新しい型にお時間を割いてくださるようですが……
例え実戦を常に意識する目的で仕合形式の稽古を中心に据えたとしても、私程度の者が一刀さんの有意義な鍛錬に貢献出来るとは思えないのですが……?」
「なんだ、そんなことか。それなら何も問題は無い。
鶸に提案した新たな型は、季衣や流琉とはまた違った種類ではるが、十分に変則的な型に該当する。
俺自身、変則的な型を持つ相手との対戦経験が少ないんでね、この任務の道中で仕合中心に鍛錬を行うことで、鶸の強化と俺の対応策の充実化、双方が同時に図れるって寸法だ。
ま、皮算用にだけはならないよう気を付ける必要があるけどな」
「変則……確かに、一刀さんの仰る通りの型にすればそうなりますね……
あの、ですがその、”氣”の鍛錬の方はよろしいのですか?
凪さんとよく議論されていましたよね?あちらに関しては私は完全に役に立たないと思うのですが」
「あ~、”氣”の方も気にしないでくれ。
凪と話してたのは意見交換と互いに気付いたことの助言のし合いだったんだ。
凪は確かに俺にとって”氣”の師匠だが、凪自身またそれを極めたとは思ってないし、実際に言えないようだからな。
それに、俺と凪とでは少し利用する”氣”の質が違う。だから基本は個人鍛錬なんだよ、こっちはな」
だから鶸は何も気後れする必要なんてないんだ、と一刀は締め括った。
ここまで言われては、鶸も納得せざるを得ない。むしろ、遠慮してしまわないよう一刀がその建前を用意したようにすら感じられた。
その理由を鶸は好意的に受け取ろうと努める。
即ち、一刀はそれだけ本気で鶸の武力強化に取り組んでくれるつもりなのだ、と。
「……分かりました。
不肖この馬休、一刀さんのご期待に沿えるよう頑張ります!」
「うん、いい意気込みだ。
ただ、鶸なら大丈夫だろうけど、一応忠告しておくぞ。
俺が言ったから、提案したから、と全て鵜呑みにするだけ、ってのは止めてくれよ?
実際に湾閃を振るいながら、適宜修正を入れて行ってくれ。
なんせ、その得物を扱えるのは鶸だけなんだからな」
「はい!」
再度気合のよく篭った返事を上げ、遂に第一回目の鍛錬が幕を開けることになるのであった。
こうして成都に着くまでの数日間に及ぶ、傍から見れば過酷に過ぎる鍛錬が始まる。
その間に鶸も徐々にではあるが、自らの型を着実に変化させていった。
そして――――鍛錬開始から数日後の昼間、ようやく二人と二頭は第一の目的地たる成都へと辿り着いたのであった。
頭まですっぽりと覆う外套を二人して羽織り、一刀と鶸は旅人に扮して成都の街中へと侵入する。
そこで見る光景は中々に新鮮なものであった。
許昌とはまた違った赴きながら、確かな活気に満ち満ちている。
一通り見て回った限りでは、民たちはそれほど豊かな暮らしをしているとは言えない。
にも拘らず、街のどこへいこうとも目に付くのは民の笑顔、笑顔、笑顔。
”人徳の王”と称される劉備陣営の治世の質が民にとってどう映るのか、それがよく象徴された光景が広がっていた。
勿論、許昌の民にも笑顔は溢れていると言える。が、それは主に子供や雑談に興じる民たちのもの。
とてもでは無いが、許昌においてはその輪は店にまでは広がらない。
一方で、成都では店主店員等諸々のそれに区別は一切関係ない。
これが劉備の望む世の姿か、とある意味で感心しつつ街中を見て回った後、二人は旅人らしく振る舞って飯店へと入った。
周囲の客をさっと観察した上で無難な注文をこなし、料理が全て出揃ってから一刀は成都を見て回った感想を口にする。
「案外劉備の政も、彼女の希望通り・想定通りに進んでいるようだな。正直、想像以上だ。
細部にまで行き渡っているのかはまだ分からないが、民目線から見ても以前に聞いていた情勢との間に差異はほぼ無いみたいだ」
「みたいですね。
ざっと歩いて民の皆さんの話を耳にした限りですが、不満の類は全く聞こえてきませんでしたし」
「あの理想を掲げながら、ざっと見とは言えこれだけ安定させられるとは、な。
報告に依れば諸葛亮、龐統は想定通りに優秀なようだが、それに負けず劣らず徐庶って人物も切れ者らしい。
一度直に見ておきたかったが……馬騰が城に滞在している今、それはあまりに危険な賭けだと見ていいだろうな」
「それは……ですね。
母さまは敵意の欠片でもあれば瞬時に相手を見つけ出してしまいますから……」
改めて思い出した馬騰の規格外の一つに思わず溜め息が漏れてしまう。
それでも、今はそんなことをしている時ではないと思い改め、鶸は居住まいを正す。
「それで、一刀さん。ここでの私の仕事はどのようなものになるのでしょう?」
鶸に習うように一刀も背筋を改めると、さっと周囲に視線を巡らせる。
それで聞き耳を立てている者がいないことを確認した上で、念を入れて声を潜めて鶸に任務内容を告げた。
「ああ、そうだったな。大まかに言って二つある。
まず一つ、ここ成都のどこかに貧民区があるかを探して、そこの者たちの会話を集めてきて欲しい。
出来れば鶸の存在に気付いていない、貧民区の者同士の状態での会話が望ましい。
それからもう一つ。先に言っておくが、こちらは遂行する機会が訪れれば、で構わない。
馬騰と共に蜀に身を寄せることになった馬超、あるいは馬鉄。何れかに接触して武官目線での内情を探れないかを試してみてくれ。
ただ、いくら身内と言っても、正直これはかなり危険な任務だ。
もしも鶸自身の身に危険を感じるようなことがあれば、その時は即座に成都自体から離脱しろ。
その場合は一つ手前の邑で落ち合うこととする。
これで鶸に頼みたいことは全部だが――いいか?絶対に無理だけはするなよ?」
「はい、分かりました。
一つ目はすぐにでも取り掛かります。
二つ目は……もしかしたら可能性があるかも知れません。少し策を凝らしてみます」
「そうか。さすがだな、鶸。
繰り返すが、無理は禁物だぞ。無理をして鶸に何かあったんじゃあ、本末転倒だからな。
さて、この街での方針も決まったし、今後の進路はこれでいいだろう!鶸、今は飯を食おう!」
「ふぇ?!あ、は、はい!」
出された料理にほとんど手を付けないままにあまり長く内緒話を続けていては、いくら何でも目立ってしまう。
まだ誰の注意も引いてはいなかっただろうが、念のために一刀はカモフラージュの発言を大きめに発する。
鶸はそんな一刀の突然の行動に思わず困惑するも、瞬時に意図を悟り、無難な返答で済ませた。
そうして二人はその店内で、食事後の街中で、さも旅人ですとばかりに振る舞い続けた。
暫くの後、二人は宿を別れるように装って別行動に移る。
一刀から直々に任された任務に気合の入った様子のある鶸の背中を見送りつつ、空回りしないことを一刀は祈るのであった。
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第百五話の投稿です。
この回から停滞していた大陸を徐々に動かしていきます。