「お姉〜さま〜」
背後でそう叫んでいる声が聞こえた。
かがみはそれが自分を呼んでいるものだと思うはずもなかった。
自分のことをお姉様だなんて呼ぶ知合いはいない、はずだった。
唯一の妹であるつかさも、決してそんな呼び方はしない。
「お姉様〜!」
その声は、下校する帰宅部で賑わっている校門付近にもう一度響きわたった。
さっきよりも多くの生徒がその声のする方に顔を向けた。
その声は確実にかがみたちに近づいていた。
まさか自分を呼んでいるだなんて思いもしなかったかがみではあるけれど……
それは聞き覚えのある声でもあった。
「まさか……」
と思いながらかがみもようやく足を止めて振り返った。
大きく手を振りながら駆け寄ってくる少年。
それはやはりかがみもよく知っている人物、優一だった。
「お姉様!!」
三度、その言葉が発っせられた。
今度は呼び止めるような声の調子ではなく、
ようやく気づいてもらえた喜びが込められているようであった。
それがつかのまの幸せであるとも知らずに。
もうすぐ恐いお姉様にきつく叱られてしまうとは夢にも思わなかったのだろう。
ぎゅっと握られたかがみの拳が、密かにわなわなと怒りに震えていることに、
優一は気づかなかった。
かがみが怒るのも無理はないこと。
さっきまで優一に向けられていた周囲の視線が、
徐々にかがみの方に集まりつつある。
「お姉様、って誰だ?」
「へぇ〜、あれがお姉様か〜」
「うぁっ! お姉様、恐そう!!」
「俺もお姉様に怒られてぇー!」
そんな好奇の視線が向けられているのだ。
今すぐにでもこの場から走り去りたいほどの恥ずかしさと同時に、
優一に対する怒りがふつふつとこみ上げていた。
それをぐっと飲み込み優一を待った。
逃げ出したら優一が追いかけてくるであろうことは、
聡明なかがみには容易に想像ができた。
「待ってください、お姉様ー!」
と叫びながら。
優一は、かがみの正面に立ち止まるや否や怒られた。
「恥ずかしいんだから大声で呼ぶな!
って言うか、お姉様ってなんだよ!?」
さっきまでの嬉しそうな顔はどこへやら。
優一はたちまちしゅんとうなだれてしまった。
「ごめんなさい……、お姉様」
その神妙な面持ちを目の当たりにしてしまうと、
かがみは怒りを二度ぐっと飲み込む他なかった。
優一の顔には後悔と反省の念がこれでもかというほど溢れていた。
それでもなお、怒りをぶちまけ、叱りつづけるなどということは、
かがみにはできなかった。
それじゃあいじめっこみたいじゃないか。
何よりも、泣きだしてしまいそうなのだ、優一が。
校門の前、公衆の面前で年下の男子生徒を泣かせるなどという異業を為してしまえば、
柊かがみ凶暴伝説は、たちまちのうちに全校生徒の間に広まってしまう怖れがある。
「お姉様はマリみてがお好きなのだと、
泉先輩から聞いたので頑張って勉強してきたのですが……」
それを聞いた途端、かがみのお腹の中で消化不良を起こしていた怒りが、
隣のこなたに向かって吐き出された。
もう、遠慮なく。
「こなたぁ!!」
かがみは雄叫びをあげた。
こなたはすくみあがった。
何故だか少し嬉しそうに。
「私がいつマリみてが好きだって言ったよ!?」
「あれ?でも、かがみこの間言ってなかったっけ……?
私の夢の中でさ……?」
少したじろぎながらもこなたにはまだまだ冗談を言う余裕があるらしい。
「あんたの夢なんか知らないわよ! 勝手に変な夢見るな!!
って言うか、優くんに変なこと教えるな!!!」
怒られているはずのこなたは、
にんまりと笑みを浮かべた。
かがみがつい口走ったその言葉を聞き逃しはしなかった。
「へぇ〜、かがみ、優くんなんて呼んでるんだ〜。仲良いんだねー」
かがみが次に吐き出そうとしていた言葉が消え、
ぱくぱくと惰性で口だけが動いている。
その口の動きを止める冷静さが戻ると同時に、
頬が耳まで真っ赤に染まった。
「ち……違うわよ! そんなんじゃないわよ!
あだ名よ、あだ名! ……普通でしょ! それくらい」
さっきまでの怒りはすっかりとどこかへ消えてなくなり、
今は必死で何かをごまかそうとしている。
それがますますこなたを喜ばせるとも知らずに。
「ふ〜ん、じゃあ私も呼んでいいよね? ゆうくん〜、って」
こなたの嫌らしく歪んだ口元が、ますますかがみの羞恥心を刺激する。
「だ、ダメ!」
反射的にかがみはそう叫んでしまった。
頭で考えるよりも先に言葉が飛び出してしまったらしい。
「どうして? 普通なんでしょ? ねぇ、どうしてかがみは良くて私はダメなのかな〜?
ねぇ、かがみ〜」
しまった! と思っても、もう遅い。
こなたの気が済むまで辱めを受け続けるしかない。
かがみはただうつむきぎゅっと目を閉じてそれに耐えるしかなかった。
自ら掘ってしまった墓穴ゆえに言い返す言葉も出てこない。
そう覚悟した。
その時、不意にかがみは左手首を掴まれて引っ張られた。
そして強く引かれるままに走り出した。
初めは引っ張られ、崩れたバランスを立てなおすために踏み出した一歩だった。
驚いて開けたかがみの目に飛び込んできたのは走る優一の後ろ姿。
そして次に目をやった自分の左手は、優一にしっかりと握られていた。
気づけば抵抗することもなく優一について走っていた。
後ろを振り向いてみると、
あの二人はわざわざ追いかけてこようなどと思わなかったらしい。
少し驚いた表情をしていた様ではあったけれど、
邪魔をすまいと気をつかっているのだろうか。
優一はそんなことにさえ気づいていないようだった。
必死だったのだ、きっと。
苛められているかがみを見ていられなくて、
思わず取ってしまった行動がそれだったのだろう。
もう逃げ続ける理由なんてないとわかっていたかがみではあったけれど、
それでも優一を止めようとはしなかった。
このままもう少し一緒に走ってみるのも悪くないかなと、
思ってしまったのだ。
これでもかがみを守ってくれようとしたのだ、ということがわかってしまったから。
かがみが思っていたよりも早く体力の限界に達してしまった優一は、
肩で息をしながら立ち止まった。
かがみの呼吸は少しあがった程度だというのに、
優一は既に千五百メートルを全力疾走したかのように果てている。
「あれ、もう終わり? だらしないわね」
と思いはしたけれど、口には出さなかった。
それはかがみの思いやりだった。
優一は、見るからに精一杯頑張ったようなのだから。
もう少しだけ、そうしていてもいいかなと内心思っていただけに、
少し残念でもあったけれど。
「ごめんな、、さい、お姉様。僕の、、せいで……」
優一は乱れた息を整えながら、かろうじてその言葉を絞り出した。
「いいわよ、別に。
って言うか、謝る前にその呼び方止めろって言ったでしょ!?」
言葉遣いはともかく、きつい口調ではなかった。
優一が必要以上に怯えるんじゃないかと思ってしまったのだろう。
「ごめんなさい、かがみ様」
怒られた優一は、呼び方を改めた。
「だから違うって言ってるでしょ!」
優一に悪気なんてないのだ。
お姉様と呼ぶことを許してもらえないのならば、
下の名前で呼ぶ、それがリリアン流であると
本に書いてあったことを思い出しただけにすぎない。
かがみは正しい呼び方と言うものを教えるしかないと思った。
「でも、柊じゃつかさと区別できないし……」
そう言ったところで少しためて、
と言うよりも躊躇ったのだろう。
「かがみって……呼んでもいいわよ」
消え入りそうな声で呟いた。
*** お知らせ ***
夏コミは二日目、東モ59aです。
あと、当サークルでは絵描きさん募集中です。
挿絵描いてくれる人とか。
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かがみが年下の男のからラブレターをもらったら……という話の6話目です。