許昌、夕刻、中庭にて。
少し人目に付きにくい場所で、剣戟の音が響いていた。
強い音は少ないものの、金属同士を擦るような、生理的に嫌な音が多い。
しかし向かい合って立つ二人はそんなことなど気にしていないかのように振る舞っていた。
これは西涼の件があった後から頻繁に見られるようになった光景。
誰が何をしているのかと言うと、華琳の練武に一刀が付き合っているのであった。
「はっ!はあっ!!」
「むっ……っとと……」
現在は一刀が防御に専念し、華琳が攻め続けている。
華琳にとっては連続した攻撃において隙を作らないこと、一刀にとっては独特の武器への対処法を検討すること。その鍛錬を同時に行っているのだった。
華琳の攻撃の基本となるのは刃を寝かせた状態での横薙ぎ。単純だが、これが意外に厄介だと気付いたのだ。
そもそもの発端は鶸と仕合った時に至る。
鶸の”湾閃”は華琳の”絶”のように鎌状の枝を持っている。
これが仕合時に感じた以上に受け手にとって対応に困る代物なのであった。
通常、相手の攻撃を見切ろうとする時、見るのは得物の切っ先では無い。
そのようなところを見てしまっては、遠心力によって加速されたそれを人の目では追い切れず、視界から振り切られて斬捨てられてしまう。
ならばどこを見るのかと言われれば、相手の手元、もっと言えば手元を中心とした相手の体全体である。
どれだけ得物の切っ先が速かろうが、それは結局のところ、手元の柄から伸びた先にしか有り得ないのだ。
流石に不規則な動きを見せる得物――例えば季衣や流琉の扱うような武器――はその限りでは無いのだが、概ねこの認識で良い。
だが、”湾閃”や”絶”の場合、こうして見切った相手の得物の振りよりも、切っ先がかなり先行しているのである。
そのため、諸々のタイミングが崩され、一刀お得意の交叉法が使い辛い。
しかも、その切っ先は真一文字に胴を狙ってくるだけでなく、手の返し方次第で上や下にスライドしたりするのだから、厄介さも格別だ。
華琳の場合、”絶”は純粋な鎌であるからこの慣れた武人程厄介に感じる横薙ぎを徹底させることにしたのだった。
目標が低いように感じるかも知れないが、そもそも華琳は国王。その仕事は武にあるのではなく、主に政務にある。
それでもこうして武を高めんとしているのは、いざとなった時に最低限の身を守る術をもっと高める必要があると感じたからであった。
もしも、華琳が平凡な形状の武器を扱う者だったとすれば、鍛錬は中々難しいものとなったかもしれない。
その点においては、華琳の得物が”絶”であったことは幸いなことに分類される。
欠点は一刀が直接扱い方を教えられるわけではないことだが、そこまで高い武を華琳が欲していない以上そこはそれほど問題では無いのであった。
「やっ――あっ……」
「っ!華琳っ!……ふぅ、危ない危ない」
「あら、ありがとう、一刀。ふふ、さすがね?」
なおも打ち込みを続けようとして、鎌の遠心力に負けたのか華琳がバランスを崩してしまった。
倒れ込みそうになるも、即座に駆け寄った一刀がその体を抱き留める。
そんな状況にあっても華琳は特に焦った様子もなく、妖艶な笑みを浮かべて一刀に礼を言ったのだった。
「いくら鍛錬中とは言え、不用意に華琳に怪我をさせるわけにはいかないからな。
ふぅ、ともあれ、そろそろ休憩にしようか。
華琳も随分と疲れているみたいだしな」
「あら?まだ私は平気よ?」
「……見た目で察することを許さないあたりはさすがだが、こうして触れてみれば一目瞭然だぞ?
ったく、肩で息をしていながらどうやってその上下動を抑え込んでいるんだか……」
感心と呆れの綯い交ぜになった溜め息を吐き、一刀は休憩を宣言した。
華琳も口では平気だとは言いつつもやはりきつかったようで、これに素直に従う。
手近にあった景観用の石に二人して座り込むと、休憩中くらいは鍛錬から離れようと世間話と相成った。
とは言っても、共に国のトップに並び立つ二人のこと、世間話であってもその内容は市井の動向を共有し合うようなものになっていた。
そんな流れは、しかし唐突に変わる。
ふと華琳の表情に悪戯を思いついたようなものが混じったかと思うと、次に発された言葉はがらりと変わったものになった。
「そう言えば、一刀。貴方も中々やるわよねぇ。
春蘭、秋蘭に加えて恋までその手に掛けて。魏の将を上から順に攻略でもしていく気なのかしら?」
「攻略って……いや、別にこっちから絡めとってやろうと食指を伸ばしたわけじゃないぞ?
俺にも俺なりの信念があって、これに沿って行動していった結果、こうなっていたってだけだ」
「そうね。貴方はそういう人間よね。
だからこそ、あの子たちも貴方に惹かれたのでしょうけれど。
だけど、だからこそ、とでも言うのかしら?次は霞か菖蒲あたりがいつの間にかその輪に加わっていそうね?」
一刀がどう返そうとも、華琳は華琳でその路線から大きく逸らさせるつもりはなさそうな返しをしてくる。
ならば、と一刀も悪ノリをしてやろうと考えた。
「そんなことは特に考えてもいないんだがなぁ。
だけど、敢えて誰か次を選べって言うんなら――」
言いつつ、一刀は少し腰をずらして華琳との距離を詰める。
どうしたのか、と訝しがる節を見せた華琳の、そのおとがいにすかさずそっと指を掛け。
軽く上向けた上で顔を近づけて囁くように言った。
「次は、華琳。君が相手、なんてのはどうだい?」
多少なり焦らせてやろうかとの一刀の悪戯心からのこの行動。
しかし、結果は予想外のものとなった。
「あら?この私を貴方の輪に加えたいと言うの?
ふふ、割とまんざらでもないけれど、今はダメよ?
早くとも、この動乱が終わった後。その時に私にその気があれば、その話を受けてあげてもいいわ」
華琳は全く焦った様子も無く、むしろ一刀を試すかのような妖艶な笑みを伴ってそう告げたのだった。
「……そうか。なら、その時に向けてもっと自らを高めていかないとな」
「あら、もう終わり?
ふふ、そうね。期待しているわ」
負けた。素直に一刀はそう思った。
おとがいに掛けた指を外した際に華琳が発した言葉にも、向こうが勝ちを悟った様子が見て取れる。
こういった武の場で無いところでの対人駆け引きでは、一刀は華琳の足下にも及ばないのだろう。
「さあ、そろそろ休憩は終わりでいいわ。
一刀、稽古の続き、お願いするわね?」
「ん、ああ。よし、それじゃあさっきの続きから始めようか」
二人とも腰を上げ、距離を取ってから得物を構えて向かい合う。
再び中庭に響き始めた剣戟の音は、その後まだ暫くは続くのであった。
「また次もお願いするわね」
そう言って華琳が去ったのは鍛錬が終わってすぐの事だった。
華琳とのこの鍛錬においては余力を残すように配慮しているとは言え、それでも十分にきついもののはずである。
しかし、いつも華琳はそれを露程も悟らせない。
意地とも矜持ともつかないそれだが、そこまで装える華琳には素直に感嘆するのみだ。
さて、一方の一刀はと言うと、城内の文官区画へと足を踏み入れていた。
理由も無く彷徨っているわけではなく、一刀の足はとある一室へと一直線に向かう。
すぐに目的の扉へと至り、軽くノックしてから一刀は入室した。
「失礼。ここでやってるって聞いたんだけど。
っと、本当だったんだな。どうだ、ねね?順調か?」
「ぬっ!北郷一刀!お前っ、よくもぬけぬけと~っ!!」
「おや?お兄さんじゃないですか。
どしたんですか、こんなところに?もしや、恋ちゃんの次はねねちゃんをその毒牙に掛けようとしてらっしゃるので?」
「あっ、一刀殿。どうも。
……って、風っ!あなたは一体何を口走っているのですかっ!
一刀殿がねねさんに手を掛けるなど……など…………ふはっ!!」
「お~、久々に出ましたね~、稟ちゃん。
ほ~ら、詰め詰めしますよ~」
三者三様、というより一部漫才が入ったような気もするが、ともかくそんな声が一刀を出迎えた。
「風まで言うか……あまりねねの前でその手の冗談は言ってやるなよ?ほら、顔真っ赤にして怒って――――」
「ち~ん~きゅ~~……とるねぃどぉ~~っっ!!」
久々に会った音々音から、風を引き金にした手荒い歓迎の一撃。
それは何故か以前の”きっく”――飛び蹴り――から”とるねぃど”――飛び回し蹴り――へと進化を遂げていた。
それでも、さすがに音々音の膂力と技では一刀には届かない。
いつぞやの如く速度を相殺され、一刀の腕の中にお姫様抱っこのように収まる結果となったのだった。
「やいっ、北郷一刀っ!
全く姿を見せないと思ったら、突然何の用だと言うのですっ?!
まさか、本当にねねをおちょくりに来ただけだとでも言うつもりですかっ!?」
攻撃が通じなければ口撃へと移す。
ひらりと一刀の腕から床に降り、音々音は一刀に食って掛かった。
この即座の切り替えは少なくとも以前よりも成長した一つの成果と言えよう。
実際、ここ最近一刀は音々音と会う機会が定例の軍議程度でしか無かった。
と言うのも、どうにも音々音の育成が捗っていない様子なのである。
華琳や一刀といった主要人物はその過程の報告を受けているのだが、これを簡潔に述べれば。
初めに桂花や稟の担当した基礎的な内容とそこから生まれた定石の布陣、戦法の叩き込み。
これはかなり順調に進んだ。実際、音々音は幼かれど地頭が良く、素直に勉強に専念するとなると吸収がとてもよかったのだ。
ところが、零や風の担当する、相手の心理を読み解いてより効果的な策を練る修練に移った途端、進みが悪くなってしまった。
これは逆に音々音が幼いことが悪因となっている。
どうしても想定敵の思考をトレースする際に、自身の感情を混ぜ込んでしまうのだ。
これではある程度効果的な策は打ち出せても最適なものは出て来ない。
ならば、まだまだ音々音の教育を続けなければならないのだが、如何せん情勢が情勢である。
そのため、ここ最近は詰め込みで音々音は拘束され続けていたのであった。
「さすがにそんな意地悪のためだけに訪ねたりはしないよ、ねね。
むしろ、ねねには期待している。期日までにねねが仕上がれば、蜀や呉に対しての隠し弾となり得るんだからな」
「む?むむ?一体どうことなのです?」
「お兄さんが言っているのは、軍師の癖の話でしょうね~。
桂花ちゃんや零ちゃんは言わずもがな、風たちもそれなりに戦場に出てますので、既に情報は色々と集められてしまっていますし~。
そういう意味では確かにねねちゃんはいい具合に敵の思考を惑わすかも知れませんね~」
「一口に軍師と言っても、同じ問題に対して立てる策は各々異なります。
皆、自らが最も得意とし、その後の展開次第では応用も比較的容易に利かせやすい策を立てるでしょうが、その傾向は個々人によりある程度は決まっているということです。
例え敵に裏をかかれても、相手軍師の癖を掴んでいれば対処は早くなるでしょう。
逆に言えば、これを掴まれていなければ、或いは勢いに乗せて押しに押すことも出来るかも知れないということです。
理解出来ますか、ねね?」
「な、なるほど……」
風と稟が一刀の言葉に補足を入れ、音々音はどうにか納得を示す。
勿論、全てにおいてこのような方程式然とした展開になるとは限らないが、少なくともその可能性がある以上、狙って悪いものでもない。
一刀はしゃがんで音々音に目線を合わせると、表情を引き締めて真剣味を醸しだして語り掛けた。
「ねね。君には出来れば大一番の戦において、重要な役目を担う部隊の軍師に付けたいと考えている。
それが誰のどの部隊になるかまではまだまだ分からないが、勿論恋になる可能性も高い。
重要な役目ということはそれだけ危険ということでもあるんだが……
いずれにせよ、今のままのねねじゃあ、そんな大役は任せられない。だから、ねねにはもっと勉強を積み、手の内を増やして洗練して欲しい。
どうだ、ねね?この大役、もし荷が重いというのならばすぐにでも言ってくれ。別案へと移らないといけないからな」
「舐めるなっ、です!北郷一刀!
ねねは元恋殿の専属軍師なのですぞ!
そんなもの、お茶の子さいさいでやり遂げてやるのです!」
間髪入れず、音々音はそう返した。そこに不安の影は全く見当たらない。
これは恋の名前が予想以上に効いたかな、とその効果に若干驚く。
が、それは一切表情に出さず、一刀は軽く微笑むと音々音の頭を軽く撫でてやった。
「そうか。それはとっても頼もしいな。
結構きついかも知れないが、頑張ってくれ、ねね」
「ぅ……わ、分かっているのですっ!
っというか、撫でるのは止めるのですっ!!」
パシッと音を立てて一刀の手を払いのける。
詠から聞いたのだったか、音々音はどうやら子供扱いに慣れておらず、それが恋相手であっても気恥ずかしいらしいのだった。
「はは、ごめんごめん。とにかく、しつこいようだが頑張ってくれよ。
それじゃ、風、稟。後は頼んだ」
「ええ、お任せください、一刀殿」
「また後ほど~」
現状と音々音の意気込みは確認できた。
この確認を終え、最後に三人に一言ずつ残して一刀は部屋を後にした。
この部屋での一刀の用事はこれで終わり。しかし、一刀の仕事自体はまだ終わってはいなかった。
一刀は次なる目的地へと向けて足を進めていく。
それは城門の方へと向かっていた。
いくら大陸でも特に栄えていると言える許昌と言えど、日が沈めば街中からは人影が消え、全体的に暗くもなる。
その外、それも林の中ともなれば最早暗闇同然。
しかし、木々の間から差す僅かな月明かりのみを頼りに、そんな暗闇の林を我が物としているのが彼ら、黒衣隊である。
以前からの暗中訓練は継続されているが、隊員数が増加した今、彼らはローテーションを組んで出欠を回していた。
但し、このローテーションに新旧の隊員の区別は無い。
従って、訓練開始当初、新隊員は今まで行って来たものとは全く異質なその訓練に舌を巻いていた。
ところが、さすがは黒衣隊に入隊する者たちと言えよう、瞬く間にこの環境にも慣れ、今ではほとんど旧来の隊員にも見劣りしない者がほとんどであった。
こうして十分にその過酷な任務を任せるに堪える人材へと育ったことを確認し、一刀は今日、彼らにこれからのことについての話をしようとしていた。
話をするのは訓練前。林の中にスペースを見繕い、そこに隊員を集めた。
それなりの人数の黒装束の男たちが音も立てずに集うその様子は、やはりどこか不気味に見えるものであった。
「伝達事項が一つある。
今後、旧来隊員同様の任を新隊員にも課す。
任を受けた者は速やかに全うせよ。但し、判断は誤るな。
我が隊の存在意義を心に刻め。以上だ」
黒衣隊らしい、要点のみの簡潔な下命。大声を出すでもなく、至っていつも通りの調子で告げられたそれは、しかしその調子に反して中々のものであった。
要するに、今後はより危険な任務に就け。時には死兵とも成り果てろ。そういうことである。
驚くべきは、隊員の誰一人としてこれに動揺を見せた者がいなかったことだろう。
元よりその覚悟を持って入隊した彼らにとってはむしろ今更な感すらあるのだった。
簡潔に用事を済ませた後は、いつも通りの訓練となる。
内容は変わらず捕縛訓練と逃走訓練の同時進行。
ただ、その内容はレベルアップし、様々な条件が加えられることもあった。
時には無茶な条件が与えられることもある。
されど、隊員たちは皆どうにか達成しようとあらゆる方向からアプローチをかける。
それがまた彼らのスキルアップへと繋がり、魏の情報部隊はより高みへと昇っていくのであった。
そんな訓練の様子を木の陰からそっと見つめる人影が一つ。
闇の中とは言え万が一にも黒衣隊員たちから姿を見咎められぬよう絶妙に隠した彼は、訓練の様子を目を剝いて観察していた。
(これはとんだ儲けものだ。俺にも運が向いてきたか?
それにしても……なんだ、この訓練風景は……?これじゃあ、我々よりも遥かに……
…………詳細を探らなければならない案件だろうな。もう少しこの場で情報を集めて、早くこのことを将軍に――)
木と闇で身を隠しつつ、些細な情報も漏らすまいと男は目を見張らせる。
が、如何せん暗すぎた。大凡での内容は分かれども、その詳細や視線の先にある人物たちの人相までは判然としない。
自らの能力ではあまり長居しても意味は薄い。男はそう考えた。
故に、暫くしてから踵を返し、男は許昌へと戻ろうとする。が、途端に今度は別の意味で目を剝くこととなった。
いつの間にやら背後に、つまり今目の前に、2人の隊員が居た。
「誰だ?目的は何だ?」
隊員たちは短い誰何と共に懐に手を入れる。抜かれた手には短いが確かな得物が握られていた。
「くっ……!」
ドジを踏んだ。そう感じた男は咄嗟に自らも得物を抜く。
しかし、それが彼にとっての致命的行動だった。
「敵対行動確認。捕縛」
「なっ――」
2人をどうにか突破すれば、と考える間に、さらに背後から声が聞こえ。
男の意識は暗闇に飲み込まれてしまうのだった。
バシャッと音を立てて捕らえられた男の顔に水が掛けられる。
その刺激により目覚めた男は、驚いたように周囲に目を巡らせる。
そして、取り囲むように居並ぶ黒装束の隊員たちと縛り上げられた自らの手足を認識するや、静かに目を伏せた。
その行動を目にした瞬間、一刀はこれからのことを上手くいかないだろうと踏む。
隊員の中にも同様の意見を持つ者は少なからず居た。面白いことに、それは旧来の隊員がほとんどである。
逆に新隊員の方は捕縛した敵間諜への対応を始めようとしない一刀たちに疑問の視線を投げつつも、それを開始する。
「そいつはきっと、何をされても口を割らないぞ?」
そう口に出して忠告する隊員もいたが、行動に移そうとする者たちの答えは単純であった。
「間諜の皆が皆、そう強いわけじゃない。それに、痛みや死は誰にとっても恐怖の対象だ。
必ず口を割らせてやるさ」
そこからの光景は描写に耐えないようなものと成り果てる。
要するに、彼らは拷問によって間諜から逆に情報を搾り取ろうとしているのだ。
徒に四肢を切り落としたりなど、末端にいたるまでそんなことはしない。
死なぬよう、気絶させぬよう、それでいて耐えられないような、そんな痛みを、苦痛を与えていくのだ。
例えば爪剥ぎ。例えば水桶への抑え込み。
かような拷問を繰り返され、全身をボロボロにされ、それでも男は何一つ反応を示さなかった。
ただ時折、痛みによる堪え切れぬ苦鳴を漏らすのみ。
やがて、男の体力の限界が来る。目の焦点が飛び、自らの力では立てず座れず、そのまま地に転がった。
朧な意識の中、男は瞼の裏に浮かんだ人物に対し、無意識の内に謝罪の句を口にする。
「周……さま……、申し訳…………」
それが男の辞世の言葉となった。男は遂に、口を割ることは無かったのだ。
これには先の新隊員たちも舌を巻くのみ。旧来の隊員たちは、やはり、と言いたげな視線を向けていたのだった。
ところが、一刀は男の今際の際の言葉に取っ掛かりを得ていた。
「周……周…………まさか、周泰、か?」
「周泰、というと、例の呉の将軍にして凄腕の間諜の、ですか?」
「ああ、恐らくだが。
これだけの練度、覚悟を持つ間諜を有し得る勢力で、周の姓を持つ将級を擁しているのは呉だけだ。
そして現状注意すべき周姓は周瑜、周泰の二人だけ。
周瑜の可能性もあるが、ここは最悪を考えるべきだな」
「つまり、隊長は既に周泰が許昌の中に潜り込んでいると?」
その言葉に周囲の黒衣隊員に俄かに緊張が走る。
続く一刀の首肯によって、警戒態勢へと移った。
隊員たちのその変化に一刀は口を出す。
「今この近くにはいないだろう。それはこいつが去ろうとしていたことからもほぼ確定だ。
ただ、予想が的中しているなら、街の中にはいるんだろう。
明日以降、警戒網を張って巡回しておいてくれ。但し、発見しても下手に手を出すな。
将の肩書きは伊達なんかじゃないからな。いいな?」
『はっ!』
哀れ、男の凄絶な覚悟と行動は、最後の最後でほんの僅かな綻びを見せてしまったのである。
こうなっては訓練は終了となる。
各々自らが取るべき行動を考えながら街へと分散して戻って行こうとする中、一人の隊員がふと浮かんだ疑問を一刀に問うた。
「隊長。呉の間諜を捕殺した、というのは対外的に拙いのでは?」
現在、魏と呉は停戦協定を結んでいる。
隊員はそのことを指してこう言ったのだった。
が、一刀は別に深刻そうな様子は見せない。
「そこは微妙なところではあるが、恐らく大丈夫だ。
向こうがこれに気付いても何も言ってはこないだろう。いや、言ってこれない、だろうな」
「言ってこれない、ですか?」
「ああ、そうだ。特に今回みたいな案件だと、な。
こっちの行動は国益を守るためというれっきとした理由の下に為されたものだ。
捕殺されたのが呉の者だったのは結果論であって、初めから呉を標的にしたわけでは無いんだからな」
「それでも、もし相手が食って掛かってきたら?」
「それならば、むしろそれまでの相手だったということだ。
これに対して言いがかりを付けようとするならば、こちらにも相応の返しが無数に出来るわけだしな。
例えば、先に協定を破って間諜を潜り込ませたのはそちらだ、とかでもいいわけだ。
ま、屁理屈を捏ねてでも突っかかって、今すぐに戦に持ち込みたいというのであれば話は別なんだが」
さすがにそれは無いだろう、と一刀は結論付ける。
今現在、魏と呉の間で戦に発展したとして双方に利は薄く、むしろ害しか無いまであるからである。
最終的な一刀の回答としては、気にする必要は無い、というものなのであった。
「――――とまあ、以上が昨夜に生じた報告事項だ。
まだ想定の段階でしかないが、街にあの周泰が潜んでいる可能性がある以上、待機中の黒衣隊員は総動員することにした。
もし拙かったら言ってくれ。すぐに訂正の命を出す」
翌日早朝のこと。
一刀の姿は情報統括室にあり、その対面には室長たる桂花。
比較的緊急の報告事項有りと聞くや、桂花は即座に一刀を呼びつけたのである。
そしてすぐに報告内容を告げさせ、一刀の下したその対応も聞いた後にこれに答えた。
「いいえ、それでいいわ。
それにしても、もしこれが本当なのだとすれば、中々問題ね……」
桂花は対応には問題無いとした上で深刻そうに眉を寄せる。
これには一刀も同意見のようで頷きつつ言葉を補足した。
「いつから入ってきていたか、どう動いていたかにも依るだろうが、俺も含めて隊員の誰一人として気付かなかった、ということだからな。
以前に潜入された時にも同じだった。偶々漏れた気配をこれまた偶々俺と恋が察知出来たに過ぎない。
今回の件をどうにか上手く利用して、周泰自身には金輪際潜入任務をさせないよう仕向けたいところだな」
「やっぱり呉が厄介ね……
周泰以外の間諜は捕殺出来ているんだったかしら?」
「一部逃走を許してしまっているが、概ね捕殺出来ている。
それぞれの状況を考えるに、民の噂や街を見たら分かる程度以上のことは探られてはいないだろう」
「つまり、城内の情報は大丈夫、という認識?」
「ああ、それで――いや、城内で働く者が外での会話に混ぜる内情は漏れていると見た方がいいかも知れない」
「そう……」
一刀の答えに桂花は暫し考え込む。
そして暫くしてから徐に口を開いた。
「…………相手が相手、なのよね。
もう、魏の情報を完全に遮断することが出来るとは考えない方が良さそうね。
一刀。今回の件を終えた後のことだけれど、特別警戒を上げる必要は無いわ。
但し、城内の枢密情報だけは万が一にも漏れることの無いように。
どの情報を、ということに関しては、時間を見つけて私の方で情報に等級付けをしておくわ」
「承知した。
それとちょっと提案なんだが、適度な深度に餌の情報を蒔いておく策はどうだろう?」
「それは……難しそうだけれど、機能すれば使えそうね。
これは零に持ち掛けてみることにするわ」
「悪いな、聞きかじりなだけで具体的な案を出せなくて」
「あんたはそれでいいんじゃない?
細かいことを考えるのは私達軍師に任せておけばいいのよ」
なんとも頼もしい、そんな答えが桂花から返って来る。
立場上も能力的にも”武官”な一刀にとっては、それはとても有り難いものであった。
この日から許昌の街中には僅かばかり兵の数が増えていた。
それは毎日指折り各所の兵の人数を数えていなければ分からないような変化。
しかし、その僅かな差が数日後、大きな動きへと繋がっていくのであった。
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第百一話の投稿です。
ちょっとだけ痛覚を刺激する描写があるのでご注意を。
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