「ねぇ、じゃんけんしよっか」
暇だ暇だ、とぼやきながら、何処かにふらっと行ってしまった初風が、意気揚々と戻ってきたのは、雪風が遅い昼食を一心にかき込んでいた時だった。
「おかえりなさい」
急いで口の中の炒飯を飲み込んで、お茶で口の中の油もざっと流し込んでから、雪風は答えた。その間中、初風は何やらニコニコとしている。こんな時は雪風の鋭敏な第六感が、何かあるな、と囁き出す。初風が笑顔を見せる時というのはそもそも珍しいし、後々になって振り返れば、何かと騒ぎの遠因になっていることが多い。今回も、結果がどう転ぶかはわからないが、少なくともレアで危険なケースであることは間違いない。
「ご機嫌ですね……?」
「わかる? まぁ、わかるわよね。あんたとは四六時中一緒にいるし」
彼女の声にも喜色というか、楽しげな雰囲気が乗ってくる。これはいよいよ何かあるな、と雪風は心の中で身構えた。
じゃんけんしよう、と初風は言った。彼女がただの児戯を喜ぶはずもないから、じゃんけんは何かに通じているはずだが、あいにく雪風には見当もつかない。
「月並みに言いますと、こういう時は初風が何かを企んでいる様な気がします」
「あら? そう感じる?」
「はい。すごく」
「ふ〜ん」
雪風の言葉に、初風は顔を上げて、半ば見下ろす様な面持ちで雪風を見る。口元の微笑はそのままに。
ぞわり、と雪風の背に冷たいものが走った。これは今までにないレベルだ。
雪風は用心して言葉を探した。頭の中が文字が空回りするのがわかる。
「それで、じゃんけん、するの? しないの? じゃ〜んけ〜ん」
ぽいっ、と初風が白い手袋をつけたままの手を大きく広げた。雪風はスプーンを持ったままの右手を申し訳程度に動かして、左手でまだ半分程残った炒飯を指し示す。
「ご飯終わってからなら……」
「いいわよ。あ〜、私もお茶もらってこよう」
初風がお茶のベンディングマシーンに向かった瞬間、雪風は残った炒飯をあっという間に片付けると、食器を食卓に置いたまま音も立てずに駆け出した。雪風の全身が、いや周囲にいた満潮も子日も、たまたま食堂の外にいた長門ですら「ともかく逃げろ」と手を振ったり、目配せをしたりしていた。子日にいたっては、わざわざ特別仲がいいわけでもない初風に話しかけに行って、雪風の遁走の時間を稼ぎに行った程だ。その時には雪風の体は既に食堂のドアにさしかかっていた。
ドアのきしむ音に、初風の目が、猟犬のそれのように、食堂のドアと小さくなって行く雪風の背中を捉えた。
「はぁはぁ……。逃げられた……かな」
とにかく走って走って、角を何度も曲り、倉庫間の狭い通路を、工廠のごちゃごちゃと何かの部材やら工具やら散漫とが積まれた棚が乱立する狭い部屋を通り抜け、雪風は工廠二階のトイレに駆け込んだ。ここは滅多に人は来ないし、来ても一本道で音も響く。ドアを施錠すれば侵入者は問題ないし、それすら破られたら、窓から逃げることもできる。隠れる場所としてはうってつけだ。雪風は呼吸を整えながら、周囲の様子を伺う。工廠の機械の腹に響く様な低い音が聞こえる意外には物音は感じられない。ふうっと一息つけると、携帯電話ががジリリリとなった。特定の艦娘は、特に秘書艦を務めることが多い実務に有能な艦娘は、連絡手段として司令官から持たされている。だが、雪風はそれには該当しない。では何故、雪風が持ち得ない携帯電話が間近で鳴るのか。
トイレの奥の個室のドアがぎぃーっと音を立てて開いた。雪風の体が硬直する。ぬっと顔を出したのは陽炎だった。雪風がほっと胸を撫で下ろす。陽炎は眠そうな目をこすりながら、苦々しい口調で応答する。
「何よ、せっかく人が逃げてたのに。え? 雪風にかわれ?」
電話のむこう側からの言葉を聞いてから、陽炎は雪風を視認した。彼女はぎょっと驚いた顔をして、携帯電話のマイクを指で押さえて、小さく声を出す。
「何であんたここにいんの?」
「えっと、ちょっと逃げてて」
陽炎が空いた右手で携帯電話を指す。雪風の背に冷たいものが走る。
「初風?」
雪風の言葉に陽炎が頷く。どうやら初風は、陽炎がここにいることも、雪風がここに来たことも知っていたようだ。
陽炎が察して、携帯の電源ボタンを長押しする。次の瞬間には、雪風の背後のドアが音もなく開き、やれやれ、とわざとらしく声を上げながら、初風が入ってきた。雪風も陽炎も目が点になったまま、その場に凍り付いていた
「ほら、面倒ばかりかけさせないでくれる?」
「え〜と、いつからそこに……?」
「えー、電話かけた時からに決まってるでしょ」
初風が自身の携帯電話をベストのポケットに滑り込ませた。
「大体雪風は逃げるのが下手すぎ。陽炎は行動が読めすぎ。二人とももうちょっとちゃんとしなさいね」
「い、いやいや、何で私のことまで把握してんのよ」
「なに? 秘書艦様の動向を把握してていけないの? 褒められるべきことでしょ。ああ、陸奥さんが呼んでたわよ。ほら、出頭出頭」
初風が陽炎の腕を引っ張って、トイレの外まで引きずり出す。次の瞬間、陽炎は初風の体に飛びついた。
「ちょっと!」
「何かわかんないけど、行け! 雪風!」
陽炎が叫んだ瞬間、硬直を脱した雪風は窓枠に足をかけ、一気に表に出ると、空中で体をひねり、窓枠に両手をかけた状態で反動を殺してから、ストンと階下へ降り立った。そして一目散にまた走り出した。
結局雪風はその日の夕方まで逃げ回って、逃げる場所隠れる場所ことごとく初風に発見され、最後は根負けして、もうどうでもなれ、と埠頭の先っぽで、大の字になって横たわっていたところを初風に鹵獲された。あれだけ走り回ったはずなのに、初風に疲労の色は見えない。夕焼けに輝く瞳も髪も、いつものように涼しげに佇んでいた。
「さすがにもうおしまいね。随分頑張ったわね」
「陽炎さんは?」
「陸奥さんに引き渡しておいたわ」
「子日ちゃんは?」
「さぁ、午後のトレーニング頑張ってたんじゃないの? 何回も訊かれるの面倒くさいから先に言うけど、満潮はあの後普通に予定通りに演習に出てたし、長門さんは浜辺で土左衛門ごっこしてたわよ」
何だか一瞬変な情景が頭に浮かんで、雪風は何かを言いかけたが、結局口をつぐんで、目を閉じた。
「ほら、風邪引くから起きなさいな」
初風が雪風の腕を引いて、それにつられて雪風も体を起こした。盛大にお腹を鳴らすと、初風がぷっと吹き出した。
「そりゃあ、あんだけ走り回ればお腹も空くわよね。ほら、もう夕飯の時間よ」
初風はニコニコとした笑顔のまま雪風を引っ張り上げて立たせると、その背中をぽんぽんっと叩いて、帰るわよ、と促した。
「え〜と、結局じゃんけんっていうのは……」
「まぁ、後でいいわよ」
何やら楽しげに笑いながら、初風は先に歩いて行ってしまう。
「というか、午後さぼったわけだから、始末書を先に書きましょうね」
初風がとてつもなくいい笑顔で振り返った。
「因みに私は午後は休暇にしたから」
後編へ続くかもしれない。
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無性に雪風とじゃんけん()をしたくなった初風さんのお話前編。