彼は双眼鏡を手にして艦橋にいた。
白い海軍制服を着込み、提督の徽章を身につけ、しかし明らかな階級章はない。
その相貌は一見して年齢がつかめない。
眼差しは若々しい精気に満ちているが、漂わせる雰囲気は老成さが感じられる。
外見に特徴的なところはなく、背広を着て雑踏にまぎれこむと消えてしまいそうだ。
彼に際立った外見を求めれば、白い海軍制服に見出すしかない。
提督。人類の守護者たる艦娘を指揮する司令官は、その通称でよばれていた。
誰も彼の本名を知らない。もっとも信を置いた艦娘でさえそうだ。
まるで、匿名性を貫くことがなによりもの重要事であるかのように。
双眼鏡を覗いた彼は、しばし水平線を見つめていたが、ややあって、
「ようやくランデブーできたか……」
待ちわびたかのように、ぽつりとつぶやいた。
「本当でありますか。やれやれ、これでようやく帰れますな」
提督の横に立っていた、こちらは青い海軍制服を着こんだ男がそう言った。
こちらは少佐の階級章をつけている。彼もまた自分の双眼鏡を覗きこんだ。
視界の中に一隻の灰色の船影が見える――駆逐艦だ。
いまでは海洋を航行することも珍しい通常の艦艇がこちらへ舳先を向けている。
その艦艇の脇の海面、小さな人影が二つ、海面を駆けていた。
デザインの凝った衣装を身につけ、白と赤と緑に塗られた艤装を身にまとっている。
普通の人間があのようなものを背負い、波の上に立つなどありえない。
答えはひとつしかないが、それでも少佐は訊ねてみずにはいられなかった。
「――あの人影は何でありましょうか」
彼の問いに、提督は端的に答えた。
「イタリアの艦娘だよ――戦艦級だな」
「それはそれは。ずいぶん物々しい護衛ですな」
少佐が興味深いといった声で応える。
なるほどたしかに、あの三色はイタリアを象徴する色だ。
「こちらも出迎えの艦娘を向かわせよう。護衛部隊に通信だ」
提督はそう言い、双眼鏡を目から離した。
その瞳には、期待と不安と、そして恐れが入り混じっていた。
――どうか、“あれ”が善き知らせをもたらすものであってくれ。
内心でそうつぶやく提督に、誰も応える者などもちろんいなかった。
「深海棲艦」という存在がいつから世界の海に現れたのか、いまでは詳しく知るものはない。それは突如、人類世界に出現し、七つの海を蹂躙していった。シーレーンを寸断されて、なすすべもないように見えた人類に現れた希望にして、唯一の対抗手段。
それが「艦娘」である。かつての戦争を戦いぬいた艦の記憶を持ち、独特の艤装を身にまとい、深海棲艦を討つ少女たち。
鎮守府に所属する艦娘は、目下、西方海域の大規模な侵攻作戦に取り組んでいた。カレー洋に展開する敵機動部隊を叩き、リランカ島を占拠して策源地とし、さらにその西方のステビア海へ切り込んで、連絡の途絶した欧州とのコンタクトを図る一大打通作戦。
艦娘たちの奮戦もあり、ステビア海の制海権は一時的に人類が押さえることになった。か細い航路を通るように、いま一隻の艦艇が欧州から東へと派遣されてくる――その腹に本作戦の真の目的である重要機密を抱えて。
司令部であるヘリ空母、二隻の護衛艦。そして艦娘たちの拠点となる特設運搬船。
以上四隻から成る攻略部隊は欧州からの駆逐艦と邂逅した後、東へと進路を転じ、いまやカレー洋を後にしていた。
敵の脅威が回復しつつあった西方海域を抜けたことを告げる通信で、部隊の空気もやや緊張がゆるんだ。それは艦娘にあってはより顕著であり、「帰投するまで注意をおこたらないように」との通達にも関わらず、特設運搬船の空気は戦時から平時へと切り替わりつつあった。
ましてや、今夜は洋上慰労会とあっては、緊張を保てというほうが無理な話だろう。
艦娘たちは船内のサロンに集まっていた。
食事はごくささやか、飲み物もアルコールは許可されていないが、それでもどの艦娘たちの顔にも皆の無事と作戦の成功への喜びが満ちていた。
「それじゃ、みんな、飲み物は行き届いたかしら?」
声をあげたのは、優美な長身と長い黒髪が印象的な艦娘。体にぴったりとした白と赤の衣装を着こんだそのたたずまいは、どこか華を感じさせる。集った者の中には、彼女に憧れの眼差しを向けるものも少なくない――戦艦娘の大和(やまと)であった。
鈴を転がすような麗しい声に、どこかあどけなさが混じっている。その彼女が声を張り上げると、他を圧しつつも惹きつけてやまない何かを感じさせた。
「まずは皆さんにお知らせします。先の戦いで“負傷”した長門(ながと)さんですが、先ほど意識を取り戻したそうです。検査の結果も異状はなし。これでめでたく、一切の損害なしに第十一号作戦を完遂したことになります」
大和の言葉に艦娘たちから歓声があがる。
艦隊総旗艦である長門は最終決戦の指揮を取った上に、持参した試作兵器で敵のとどめをさしたことは皆が知るところだった。そして洋上で意識を失い、本隊へ運ばれてきたことも。船室に運ばれる前に、束の間意識を取り戻し、皆に向かって凛とした声をかけたことで動揺は最小限に抑えられていたが、それでもここ数日眠ったままだったのが艦娘たちには気がかりとなっていた。
だが、われらが艦隊総旗艦も無事だという。これはまさに朗報といえた。
皆のざわめきが落ち着くのをまって、大和は続けて声をあげた。
「それから、もう噂になっているかもしれませんが……欧州から鎮守府に新たに二名の艦娘が加わることになります。イタリア出身の子です――ほら、挨拶して」
大和にうながされて、明るい栗色の髪の艦娘と、落ち着いた黒髪の艦娘が前に出る。
栗色の髪の子は、その波打つ長い髪をひとつに束ねていた。白い上着と赤いミニスカートを身につけ、白いタイツを革のベルトで吊り上げていた。ほんわかとしたやわらかい笑みが印象的な、どこか陽だまりを思わせる容貌だ。
「はじめまして、パスタの国で生まれました」
流暢な言葉での開口一番の台詞に、艦娘の何人かがたまらずくすりと笑った。
「ヴィットリオ・ヴェネト級戦艦二番艦、リットリオです。よろしくお願いします」
声も穏やかでどこかのんびりとしている。
対して黒髪の子はリットリオよりやや背丈が低い。前髪は短く切っていて、おでこが出ている。まなざしは醒めていて、かけている眼鏡もあいまってどこか怜悧な印象を与える艦娘だった。緊張しているのか、それとも元々からなのか、表情は硬い。
「イタリア生まれの最新鋭艦よ。ヴィットリオ・ヴェネト級戦艦四番艦、ローマ」
名乗る声も少し低く無愛想な響きである。ただ、どこか幼い調子がまじっていて、それが全体としての可愛げにつながっている。
「姉妹ともどもよろしくお願いします」
リットリオがそう言い、ローマと共に頭を下げる。
二人の自己紹介に、艦娘たちが拍手を送る。欧州から来た連絡艦に二人の艦娘がついてきたのはひそかな噂になっていたが、自分たちの戦列に加わるというのは、予想していなかった、これまた朗報であった。
「今夜は二人の歓迎会を兼ねています。本格的なものは鎮守府に帰ってから改めてだけれど、わたしたちは一足先に二人と仲良しになりましょう」
大和の口調にどこかけしかけるような響きがある。
「これも出撃任務に出たごほうび。友達になるならいまのうちですよ」
彼女の言葉を聞いて、少なくない艦娘が目を丸くした。大和といえば生真面目で冗談など言わず、どこか引っ込み思案なところがあったからだ。それがこんなふうにくだけてみせるのは思ってもみないことだった。
もちろん、悪い変化ではない。良い兆しだ。艦娘たちが顔を見合わせ、微笑む。
「それじゃ、乾杯の音頭は提督にとっていただきましょう――お願いします」
大和の言葉に応じて、白い海軍制服の男が歩み出る。
「言いたいことはあらかた大和に言われてしまったな。ひどいぞ、大和」
冗談めかして言った提督の言葉に、大和が頬を赤らめ、艦娘たちがどっと笑う。
「皆、無事に作戦を終えられた。それが俺にとってはなによりも嬉しい――よくぞ生き残って、やり遂げてくれた。人類を代表して君たちに感謝を述べたい――乾杯!」
「乾杯!!」
提督の言葉に、艦娘たちがそろって唱和した。
海面を駆けながら、彼女はふと特設運搬船の方を見やった。
灯りが煌々とついている姿からは、サロンでのにぎわいが伝わってくるかのようだ。
思わず、ふっと笑みがこぼれる。皆、楽しんでいるといい。心からそう思う。
夜のとばりの下、月の光がわずかに彼女の姿を明らかにしていた。
ポニーテールにまとめた長い黒髪、凛としたと称するにはやや険のある目つき、洗練さを感じさせる白と赤の衣装と鋼の艤装――軽巡の矢矧(やはぎ)である。
「盛り上がっているみたいね」
少しかすれた声でつぶやく彼女の顔には、どことなく緊張感が漂っている。
「――あーあ、阿賀野(あがの)もパーティ出たかったなあ」
矢矧の横から、間の抜けた感じの声が飛び込んでくる。衣装は矢矧とお揃い、しっとりした感じの黒髪に、のほほんとした顔つき。表情には緊張感のきの字もない。
「ちょっと阿賀野姉。警戒任務中よ」
矢矧がたしなめたが、阿賀野は柳に風と聞き流し海面をぐるりと回ってみせた。
つくづくマイペースな姉の様子に、矢矧はたまらずため息をついた。
そんな二人に、また別の艦娘が声をかける。
「あら、阿賀野姉だけパーティ出てもよかったのよ? 船団の警戒任務は矢矧とこの能代(のしろ)で充分ですから」
きりっとした声で言い切ってみせる。二つに編みこんだ茶色の髪。衣装は矢矧や阿賀野とお揃い――姉妹艦なのだ。矢矧にとっては姉、阿賀野にとっては妹にあたる。
能代の言葉に阿賀野が頬をぷうとふくらませて言った。
「ひっどーい。わたし、戦力外通知?」
「そう言われたくないなら、しゃんとしてちょうだい」
「えーっ、充分にしゃんとしてるよ? ほら、服のアイロンだってばっちり」
「……それ毎日かけているのわたしの仕事でしょうに」
いつものように始まった阿賀野と能代のやりとりに、矢矧はふっと目を細めた。
「――二人とも、ありがとう。今度も、わたしのわがままにつきあってくれて」
矢矧の言葉に、阿賀野と能代が顔を見合わせ、そろって声をあげた。
「いいんだよ。これもお姉ちゃんの役目だし」
「わたしたちがついていかなきゃ矢矧だけでやりそうだったもの」
姉たちの言葉に、矢矧は苦笑いを浮かべた。
慰労会当日の警戒任務に志願したのは、彼女自身の意思だった。
誰しもパーティには参加したい。警戒任務のローテーションを決める会議で、他の艦娘たちが一瞬ためらったところへ機先を制して矢矧が名乗りをあげたのだ。
本作戦の前哨戦をつとめたことから、彼女は慰労会に出るべきだとの声もあったのだが矢矧はぜひやらせてほしいと主張し、長門に代わって艦娘をまとめていた大和が許可する運びとなった。それに阿賀野と能代もついてきたわけである。
「――偵察作戦をつとめたから、索敵装備は充実しているもの。少ない人数で任務に当たるにはわたしたちが一番でしょう?」
そう言ってみせる矢矧に、阿賀野がニヨニヨとした笑みを見せている。
「なによ、なんなのよ」
「矢矧、ちょっと変わったね」
阿賀野の声は弾んでいて、少し嬉しそうだった。
「無理をせずに頑張るようになったわ」
いつものマイペースな口調ながら、その指摘は鋭い――矢矧の頬を染める程度には。
月明かりしかない夜であることを、矢矧はありがたいと思った。こんなに照れた様子をだらしない姉に見られるのはなんとも気恥ずかしいかぎりだ。
「――任務って、華々しい役目ばかりじゃないもの。皆が楽しんでいるときに、それを影ながら守る役目だってあるわ。それは目立たないかもしれないけど、あとで振り返れば、きっと自分の誇りになる……そう思ったから」
矢矧の言葉を姉たちは黙って聞いていた。
潮風の音と足の艤装が波を切る音だけが聞こえる、心地いい沈黙。
頑張り屋の妹の言葉を是とする姉たちの、優しい思いやりが込められていた。
「さあ、おしゃべりはおしまい。周囲警戒、ゆるめないで」
彼女の言葉に阿賀野も能代もうなずき、それぞれの位置につく。
顔を引き締めて周囲に注意を張り巡らせる矢矧。
そんな彼女に、わずかに欠けた上弦の月が青い光を降らせていた。
サロンでは、リットリオとローマの周りに艦娘が集まっていた。
リットリオが社交的なのは明らかだったが、ローマも人慣れしているふうではないものの敵意をむき出しているわけではない。同じ黒髪で眼鏡をかけた戦艦娘となにやら話し込んでいる。
(わたしのときとは違う――当たり前ね。みずから棘を生やしていたもの)
二人の様子を遠くから見つめながら、彼女は自嘲気味にそう思った。
冴え冴えとした金髪、硬質の美貌、黒と灰の堅苦しい軍服めいた衣装。ただでさえ近寄りがたい印象なのに、より人を遠ざけてしまっていたのは自分自身に非がある。しゃくにさわることだが、事実だから仕方がない。そう思って、彼女は小さく息をついた。ドイツから来た戦艦娘、ビスマルクである。
リランカ島攻略では作戦遂行の立役者ではあるが、彼女に話しかけようとする艦娘はほとんどいない。作戦前の壮行会での振舞いからこの方、ビスマルクにしみついた印象はというと、「気難しくて偉そうで怖い人」だ。それは彼女自身が望んでそう振舞っていたことだったが――いまにして思えば、実にばかげている。まるで駄々をこねる子供だ。
「――お食事、お持ちしました。ビスマルクお姉さま、召し上がりますか?」
手にした皿に色々と山盛りにして、蜂蜜色の髪の艦娘が駆け寄ってくる。人懐っこい笑みの彼女は、プリンツ・オイゲン。ドイツからビスマルクと行動を共にしてきた後輩であり――自分を見捨てないでいてくれた友人でもある。
自分の顔をじっと見つめるプリンツ・オイゲンに、ビスマルクはかぶりを振った。
「いらないわ。せっかく持ってきてくれたのに、ごめんなさいね」
「ああ、はい――そうですか」
しゅんとしょげてしまう彼女の頬を、ビスマルクはそっと撫でた。
「だって、食べ物を胃に入れたら良い音が出せないもの」
ビスマルクの言葉に、プリンツ・オイゲンが目を丸くする。
口の端だけでふっと笑んでみせて、ビスマルクは静かに歩き出した。
彼女の動きにきづいた艦娘たちが、びくつきながらがら道を譲る。
そのままビスマルクはサロンの隅に置かれていたグランドピアノへ歩み寄った。
そっと蓋を持ち上げ、慣れた様子で椅子に腰かける。
ビスマルクの細くしなやかな指が鍵盤に触れた。
サロンに音が響き渡り、それはすぐに妙なる調べとなって流れ出した。
どこかもの悲しい音色で始まったその旋律を耳にして、誰かがつぶやいた。
――ベートーベンの「月光」だ。
やがて、会話のざわめきが落ち着き、艦娘たちは静かに耳を傾けた。
目当ての船室の扉を前にして、彼女は大きく深呼吸した。
以前であれば、遠慮気兼ねなしに扉を開けたことだろう。
だが、いまは違う。彼女はこの人の大きさを目の当たりにしたのだ。
それを自覚してみると、軽々しく訪れるべきではないのかもしれない。
だが、彼女自身がなによりも真っ先にこの人と話がしたいと思っていた。
彼女は褐色の肌に、獅子のたてがみのような白い髪をしていた。身につけた衣服はほとんどさらしを巻いた程度で、上着は肩からひっかける程度。その顔立ちは端整で肌の色を覗けば目鼻立ちがどこか大和に似ている。だが、大和が華を感じさせる魅力にあふれているとしたら、彼女は猛獣にも似た気迫と獰猛さを漂わせている――大和の妹にあたる戦艦の艦娘、武蔵(むさし)であった。
しばしためらったあと、意を決して武蔵は船室の扉をノックした。
「――なんだ?」
凛とした声が室内から返ってくる。
「武蔵だ。お前――いや、あなたと話がしたくて来た」
そう答えると、少しの沈黙の後、
「わかった、入っていいぞ」
少し愉快そうな響きで、返事がかえってきた。
船室の扉を開け、部屋の主の様子を見て――武蔵は思わずあきれ声をあげた。
「……なにをしているんだ、いったい」
「見てのとおりだ。皆の戦闘報告書に目を通している」
部屋の主はこともなげにそう答えてみせた。寝巻き姿ではあるものの、漂わせる武人の空気は変わらないままだ。その長い黒髪がわずかに乱れているのはご愛嬌だろう――艦娘たちのまとめ役、艦隊総旗艦の長門(ながと)であった。
ベッドで横たわっているはずの彼女は、はたして書類とお見合いしていた
半身を起こし、背中を枕で支え、サイドテーブルに書類を山と置いている。
「まあ、そこに座れ。お前の体格では部屋が狭く感じてかなわない」
そう言ってみせた長門の声は、どこか笑みが混じっている。
以前の武蔵ならそのことに噛み付いてみせただろう。だが、武蔵はおとなしくうなずいてみせ、椅子をひきずってきて腰かけた。
「……寝ていなくていいのか」
武蔵がそう訊ねると、長門は肩をすくめてみせた。
「安静にしていろと言われている、一応は」
「いまの状況は安静とはいえないと思うが」
「飛んだり跳ねたりするわけではない。なに、根は詰めないさ」
長門は書類を手の甲で軽くたたいた。
「ただ、“作戦は始まったばかり”だからな。正直、おとなしくしていられない」
「始まったばかり……何を言っているんだ?」
武蔵は怪訝そうな顔を浮かべた――第十一号作戦は無事に完遂したではないか。
長門はすっと目を細めて、武蔵を見つめた。
射すくめるような眼差しに、思わず武蔵はごくりと唾を呑んだ。
「――ひとつの作戦の終わりは、次の作戦の始まりにすぎない」
静かな声で、長門は言った。
「皆の戦績、得られた戦訓、深海棲艦の動き、費やした資材――それらを元に、次の作戦に備えた兵站を整え、艦娘の育成計画を立てる。つまるところ、その準備が作戦の成否を決める」
淡々と語る長門の言葉は、一方でずしりとした重みがあった。
「準備というのは一日でも早いほうがいいからな。寝込んでる暇などないよ」
「……なあ、それは提督の仕事じゃないか? 艦娘は戦うのが役目だろう。なぜそこまでする。なぜそこまで長門は背負い込めるんだ」
半ば問い詰めるかのようにそう訊ねると、長門は目を閉じてくすりと笑んだ。
「……わたしはな、提督の隣に立ちたいんだ――それだけだ」
「それが……あなたを支えるものの正体か」
「かもな――だが、わざわざ訪ねてきたのはそんなことを聞くためではなかろう?」
長門が目を開け、武蔵の顔を見据える。
彼女の視線を受けて、武蔵はひとつ咳払いをすると、がばりと頭を下げた。
「申し訳なかった!」
突然の謝罪の言葉に長門が目をぱちくりとさせる。武蔵は続けて言った。
「分をわきまえない言動、大変失礼なことをした――そうそう許してもらえないことはわかっているが、わたしでできることならなんでも……」
そこまで言って、武蔵はくつくつという笑い声を聞いた。
顔をあげてみると、長門が腹を抱えて必死にこらえている。
長門が武蔵を見る。呆気に取られた様子の武蔵の目と、長門の目がおもむろに合う。
「くっ、はは、ははははは――」
目が合って我慢の堤防が決壊したのか、長門がからからと笑い出す。
さすがに武蔵もむっとして、声をわずかに荒げた。
「おい、人が謝ったのに、それを笑ってみせるとはどういう……」
「いや、すまん。あまりにらしくないのでな。まさか武蔵からそのような言葉を聞けるとは思っていなかった――いやはや」
長門はまだ声を震わせながら、言った。
「大和の助言というわけでもないようだな。それならこっそり物陰からあいつが様子を窺ってそうなものだが、その気配はない。となると、武蔵、お前の判断か」
「……わたしが自分で過ちに気づいて謝りに来てはおかしいか」
思わずひねた声になってしまう武蔵に、長門はかぶりを振ってみせた。
「いや、おかしくはないが、ずいぶんと殊勝なことだと思ってな――ああ、ひとつ言っておこう。お前の言動は別に不快だとは思っていないぞ。だから謝りに来るのは、礼儀としては正しいが、わたしにとっては実に意外だった。いや、結構なことだ。できれば、その気遣いは他の艦娘にこそ配ってやってくれ」
長門は手を伸ばして、武蔵のひざをぽんとたたいた。
「それと、『あなた』とか呼ぶな。無理をしているぞ。普段のお前らしくしていろ。きかんぼうなのがお前のよいところなのだから」
「……長門はわたしをなんだと思っているのだ……」
「もちろん、かわいい後輩だとも――丸くなるのは構わん。だが牙は抜くな」
長門の声が途端にきりと締まったものに変わる。
「真の強さとは戦闘能力の高さではない、誇り高く生きることだ――素のお前は無礼で粗野かもしれんが、けっして卑しくはない。そのプライドを大事にしろ。より強くあるために。大和の背を押してやれるように。そして――」
武蔵を見つめる長門の目が、強い光を帯びた。
「――いつか、わたしと戦うかもしれない日のために」
「なんだと……?」
突拍子もないことを言われて、武蔵の目が戸惑いに揺れる。
「そんなことあるわけないだろう。わたしたちは艦娘だ。味方同士で戦うなど……」
「ああ、そうだ。わたしは艦娘だ。提督の隣に立ち、提督と共に歩む艦娘だ」
長門はうなずきながら、言った。
「だからこそ、提督が艦娘の意に沿わない決断をしたときに、わたしは艦娘たちの敵となるかもしれない。なにがあっても、わたしは提督の味方だからな」
「なにをばかな……」
武蔵はかぶりを振ってみせた。声が汗をかいているかのように、必死な響きだった。
「……提督はわたしたちの味方だ。わたしたちのことを第一に考えて判断してくれる。大和もそう言っていた。その提督が裏切るというのか!」
対する長門の声は、あくまでも静かで淡々としていた。
「提督は艦娘ではない。人間だ。だから、場合によっては艦娘たちを否定する立場になるかもしれない――そのときのために、艦娘の側から否と声をあげられる者が必要だ」
長門の眼差しは真剣そのものだった。
「それを担えるのは実力でも人望でも、大和しかいない。だが、あいつには“むほん気”が足りない……わたしと自身を比較して、己の限界を勝手に決めている節がある。だから武蔵、お前があいつを後押ししてくれる役目を引き受けてくれるといい」
架空の想定、というには長門の声には妙に現実感が満ちていた。
「――いったい、お前は何を知ってるのだ」
しばしためらった後、武蔵はそう訊ねた。
質問することが深淵の一端を垣間見ると知っていてなお、問わずにいられなかった。
「何を抱え込んでいる。何を危ぶんでいるというのだ」
問われて、少し顔をうつむけて、答えた。
「……“ツェルベルス計画”。艦娘に頼らない海洋防衛システムだ」
「なんだって……」
「大本営はその導入を検討している。そもそも今回の作戦の本来の目的は、欧州で開発された“ツェルベルス計画”のシステムコアを受け取ることだ。計画の実施が即座に艦娘の否定につながるわけではない。だが、ビスマルクたちの受けた処遇を考えれば、存在意義の薄くなった艦娘がどうなるかは楽観視できない――人間は、時に同じ人間でさえ見捨てる。ましてや、わたしたちは人類ではないのだからな」
長門の言葉に武蔵は押し黙った。
ひとつの答えを得て、十の疑問が湧く。
長門はどこまで、何を知っているのか――そのすべてを彼女は明らかにしていない。
だが、武蔵は重ねて訊ねようとはしなかった。
知ってしまったが最後、自分の拠って立つ足場が崩れてしまう予感がした。
だから、心中に湧いた疑問を押さえて、武蔵が訊ねたのは別のことである。
「ツェルベルス――ドイツ語か?」
「通りがよい呼び名は“ケルベロス”だな」
長門が口にしたそれは、不吉そのものの響きだった。
「地獄の番犬。逃げ出そうとする亡者を捕えて喰らう神話の怪物だよ」
長門は窓へ目を向けた。舷窓から月が見える。
夜のとばりの中で青く光る月を見つめながら、長門は憂いた表情を浮かべた。
「神話の、怪物か……」
武蔵はつぶやいた。言葉にしてみても、さっぱり想像がつかない。
ただ、心もとない気持ちで長門を見つめることしかできなかった。
ピアノの音が流れ出したサロンを抜け出して、彼女は彼を探していた。
ビスマルクの音楽を聴いておきたい気持ちはあったが、彼――提督がサロンの外へ出ていくのを見て、二人きりで話をするなら今しかないと思ったのだ。
透き通った旋律がかすかに耳に入ってくる中、彼女は甲板に出た。
編みこんだ栗色の髪、やや青みがかった印象の黒い瞳。大人びた雰囲気と無邪気な稚気が同居している顔立ちは、しかしいまは帰り道を見失った迷い子のような表情を見せている――戦艦娘の金剛(こんごう)である。
甲板の上に、わずかに欠けた上弦の月が青い光を降らせている。
月の光を浴びて、提督は船べりにいた。黒々とした海面を見つめている。
金剛は足音を立てないようにそっと歩み寄った。
提督の隣、しかしやや距離を空けて、同じく船べりに立つ。
普段は熱意あふれるスキンシップを求める彼女らしからぬ遠慮具合だった。
「――サロンには行かれないのデスカ?」
そっと話しかけると、提督は海を見つめながら答えた。
「司令官などと言われているが、俺がやれることは限られている。戦うのは艦娘自身、勝利も艦娘が勝ち取ったものだ。俺たち人類はそのおこぼれに預かっているだけでしかないのさ――皆も、上官がいない方が気楽でいいだろう」
「そんなことはありマセン。提督あっての艦娘デス」
金剛が一歩だけ提督との距離を詰める。
「テイトクはいつも頑張ってイマス。ワタシたちが安心して戦えるのもテイトクが舞台を用意してくれるからデス。そして――舞台を整えるということは、単に作戦の準備をするだけではないんデショウ?」
いつのまにか涙まじりになった金剛の声に、提督が振り返る。
瞳を潤ませて、いまにも泣き出しそうな彼女は、彼を見つめて言った。
「ビスマルクから、聞きマシタ。ワタシたちのこと。どこから来たのかを」
金剛の肩が震える。
泣くまいと決めていても、いざ提督を前にすると、心の中で様々な感情が渦巻いた。
悲しみ、恐れ、悩み、苦しみ――そして怒り。
いつから知っていたのか。なぜ話してくれなかったのか。
そして、自分たちの由来をしってなお、どうして優しく接してくれるのか。
問いたいことはたくさんあったが、金剛が口にできたのは一言だけだった。
「テイトク――ハグしてもいいデスカ?」
問いではなくお願い。金剛の言葉に、提督がうなずいてみせる。彼女の方へ向き直り、そっと両手を開いて出迎えてみせる彼に、金剛はおそるおそる抱きついた。
彼の胸に顔をうずめ、彼の背に両手を回し、すがるように腕に力を込める。
すると、彼の手が優しく金剛の頭を撫でてくれた。
彼女は彼の制服に鼻を押し当てながら、何度も何度も呼吸した。
ひと呼吸ごとに混じっていた涙が薄れ、徐々に穏やかなものになっていく。
「――すまない、と思っている」
彼がぽつりとつぶやいた。
「真実を告げなかったことではなく、君たちを生み出し戦いに駆り出したことを。これは人類の罪であり、俺自身の罪でもある――許してくれとは言わない。嫌いにならないでほしいとも言わない……ただ、俺が言えるのはひとつだけだ」
彼女を抱きしめながら、彼は言った。
「君が知ったことで、君自身を否定しないでほしい。生まれがどうであれ、君たちはいま生きている。艦娘として心を持って生きている」
彼が彼女のおとがいにそっと手を添えた。
胸に埋もれていた彼女の顔を優しく挙げさせ、その目を見つめて言った。
「金剛、生きているということは素晴らしいことなんだ」
提督の言葉を聞いて、彼女は目を見開いた。その瞳が月光を浴びてきらめく。
「……テイトクに抱きしめられて、いまワタシはとても幸せデスネ」
彼の体温。彼の匂い。彼の優しい腕の感触。
提督に抱きしめられて心地良いと感じる自分はたしかにここにいるのだ。
答えがほしかったのではない。確かめたかったのだ。
ビスマルクに言ってみせた言葉が、本当に正しかったのか。
彼女は空を見上げると、小さな声で言った。
「テイトク……月が、綺麗デスネ」
ありったけの勇気を振り絞って言った言葉。
だが、彼からかえってきた返事は、
「うん? ああ、そうだな……良い月だ」
「―-ああ、テイトク、そうじゃないデース!」
金剛は頬を膨らませて目を吊り上げた。
「女に恥をかかせるなんてテイトクは意地悪デース!」
彼女の言葉に、彼は肩をすくめて言ってみせた。
「とはいってもなあ、その台詞、男から言うべきじゃないか?」
指摘されて、金剛の顔がたちまち真っ赤になる。
そんな彼女を、彼は優しく抱きしめなおして、言った。
「少し時間をくれないか。違う場所、違う機会に改めて俺から言おう――お互いの弱みにつけこみあうような関係は、俺は好みじゃない」
ぷっくりと頬を膨らませたまま、彼女は拳を作って、とんと彼の背をたたいた。
「本当に、テイトクは……ひと筋縄ではいかない人デスネ」
金剛が顔をあげる。照れ笑いと苦笑いが同居した表情が浮かんでいた。
波だった旋律が最後の音をサロンに響かせた。
鍵盤に一心不乱に向き合っていたビスマルクが、すっと立ち上がる。
それをきっかけに、静まり返っていた艦娘たちが一斉に歓声を上げた。
割れんばかりの拍手がビスマルクに送られる。
プリンツ・オイゲンなどは目に涙を浮かべていた。
ビスマルクが優雅に一礼して、しかも――あろうことか微笑んでみせた。
「みんな、リクエストはある? できる限り応えてあげるわ」
意外すぎる言葉に、艦娘たちが顔を見合わせてささやきあう。
ややあって、声をあげたのは、大和であった。
「月光つながりで――ドビュッシーを」
彼女の注文に、艦娘たちの何人かが「おお」と声をあげる。
ビスマルクはうなずき、言った。
「いいわ。まかせてちょうだい」
それがきっかけで、艦娘たちがわれもわれもと言い始める。
慌てて間に入ったのはプリンツ・オイゲンである。
「待って待って、順番にメモするから、一人ずつ――」
相変わらず甲斐甲斐しい後輩の姿に、ビスマルクがくすりと笑う。
そして、彼女の指が新たな旋律を奏で始める。
柔らかなメロディーが流れ出したサロンに、武蔵が入ってくる。
そして、ほぼ同時に、金剛と提督も戻ってきた。
武蔵がふっと笑み、金剛と提督が顔を見合わせて微笑む。
こうして、慰労会の夜は静かに更けていった。
短艇で特設運搬船からヘリ空母へ戻った提督は、そのまま自室へは向かわなかった。 格納庫へと足を向ける。
深夜にも関わらず、白衣を着た技官がそこにはいた。
「遅くまでご苦労だな」
「いえいえ。これも仕事ですからね」
技官はそう言うと、格納庫の中央に鎮座したコンテナを見つめた。
「なにせ中身はナマモノですからな。四六時中モニタリングする必要があります」
「内容は書類で拝見した――このシステムコア、未完成ということだが?」
問いかける提督の顔は、どこかしら青ざめていた。
「ええ。皮肉なものです。艦娘に頼らない防衛システムとやらが、その実、その“中枢部分は艦娘抜きには動かない”とはね」
そう言うと、技官は肩をすくめてみせた。
「しかしまあ、納得はできます。深海棲艦が怨念の結実したものであるなら、それを鎮めるために“人柱”がいるというのは」
「――どうしても、選ばなくてはならないのか」
とまどい気味の提督の声に、技官はあっけらかんと言ってみせた。
「もう候補者は決まっているんでしょう? ケッコンカッコカリの指輪を贈った艦娘――練度が限界値を超えたものから選べばいいんです。その精神の強さはきっとよい礎となるでしょう。なに、全部といいません。一体でいいんです」
技官の声の響きは、まるで「試験管を一本」と言った気軽な調子だった。
「……すぐに、というわけではないんだな」
「まあ、艤装がこれから建造ですからね。そのあたりは大本営が決めるでしょう」
「そうか、そうだな……」
提督はそう言うと、格納庫を後にした。
船内のエレベーターへ向かう通路。
あたりに人影のいないことを確認して、彼は壁に拳を打ちつけた。
顔には苦悶の色を浮かべ、うめくように彼はつぶやいた。
「人類は、いったいどこまで――」
彼女たちに自分たちの罪を押し付けるのか。
どれほど彼女たちを犠牲にすればいいのか。
深海棲艦――それを生み出した原因は人類にあるかもしれないのに。
彼は、かすかにすすり泣いた。
一人を差し出せば、皆が助かる。
だが、その一人をどう選べばいい?
彼の苦悩は深く、その顔に見えざる皺がまたひとつ増えたようであった。
〔了〕
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えぴえぴして書いた。やっぱり反省していない。
というわけで、艦これファンジンSS vol.39をお届けします。
今回は五部作のエピローグに当たるエピソードです。
エピローグなのに「序曲」とはこれいかに。何の始まりなんでしょうか。
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