二章 夢二夜
1
気が付いた俺の目が捉えたのは、西洋風の石畳の街並みだった。
まだ夜なのか、石畳がどういう色で、家々がどういう構造をしているのかはよくわからない。頼りにならない視覚の代わりに鋭敏なのは、嗅覚と触覚だ。甘くそれでいて爽やかな香りが鼻から入って来ていて、腕には柔らかなものが感じられている。その柔らかな何かには体温があり、温かい。人肌だとわかる。
「――蓮香さん?」
聞き覚えならぬ嗅ぎ覚えのある匂いは、蓮香さんのものだと思った。それが確かであるかを、実際に聞いてみて確かめる。
「長郷くん。起きましたか」
なんだか、このやりとりには既視感がある。俺が蓮香さんに見守られながら起きた時、彼女は驚いて後ずさりして、尻もちまで突いてしまったんだった。ただし、今回の彼女はそんなヘマをしない。
「ここは?」
「街ですよ。家を出て、街の外に向けて歩いているんです」
「街……。そうなのか」
えらく抽象的な言葉だったが、蓮香さんはどこか尋常ではない雰囲気だ。一から十まで彼女に聞くのではなく、自分で推測してみる。きっとこの街とは、喫茶店があった街だ。思えば俺はその街の名前を知らず、一度も店の外に出たことはなかったし、窓の外もしっかりと見ることはなかった。だから見覚えがない。それでいて、なんとなく身近にも感じられる。
「どうして、こんな時間に?それに今、俺、蓮香さんに――」
背負われている。俺よりずっと小柄な蓮香さんは、相当に苦労しながら背負っているらしく、歩く速度はものすごく遅い。彼女は夜通し、どれだけ俺を運んで来たのだろう。
「夕食の前に話したじゃないですか。長郷くんは追っ手を差し向けられているんです。だから、いつまでも同じ所に留まることは出来ないでしょう?」
「ま、待ってくれ。それはただの冗談だろ」
「あの場では冗談でした。ですけど、あれは間違いなく長郷くんの記憶の一部です。まあ、ギャングとかそういうお話じゃないですが」
「……蓮香さん。俺のこと、何か知ってるんだな」
「ええ。もう起きたのでしたら、下りてもらえませんか?さすがに重いので」
「ああ……」
ゆっくりと地面に足を付ける。やっとはっきりとして来た意識は、俺が今置かれている状況を少しずつ理解しようと努力している。だが、いくら俺の頭が働いても、情報がない状況では空回りし続けるだけだ。
「長郷くんは今、世界中の人にその命を狙われています。……いえ、長郷くんがターゲットであることを知っているのは、ほんの一握りの人だけですが、誰もが長郷くんの死を願っている、それは確かです」
「俺は、そんな大悪人だったのか」
世界中の人間が死を願い、命を狙うような人間。そんなやつがまともな人生を送って来たとは思えない。その途中で記憶を失うほどの事故か事件に巻き込まれても、それはそう珍しいことじゃないだろう。俺はまず、俺が大罪人であるという仮説を立てた。
「悪人ではありません。長郷くんは少なくともあたしが知る限りは、法律や人の倫理に外れた行動は取っていないはずです。だけれど、長郷くんは死ななければならない。それは誰もが知っていることなんです」
「どうしてだ?俺は生まれて来た、そのこと自体が罪だとでも?」
次の仮説も、やはり蓮香さんは首を横に振って否定した。
「そんな、生まれながらの罪なんて背負わされてはいません。ただ、長郷くんは――」
蓮香さんの顔から、ふっと表情が消え去る。代わりにその手に握られていたものが、十一ミリほどの弾丸を吐き出した。銃声に体がびくりとした時には既に全てが終わっていて、硝煙の臭いに現実を知らされた。
「自身を殺した人間に多大な利益をもたらす。たったそれだけのことです。だからこそ、こうして追っ手がやって来て、あなたは常に生命の危険に晒されることになります」
彼女が撃ったのは、俺に背後から襲いかかろうとしていた刺客だった。
「急いで行きましょう。少しでも遠くに。あたしも、生まれ育ったこの街を血で汚すのは嫌ですから……」
憂いを帯びた瞳の蓮香さんは、俺について来るように促して更に先へと歩いて行く。路上に転がる死体になんて、目もくれない。もうただのモノだと認識しているかのようだった。
2
「という夢を見たんだけど、俺、疲れてるのかな……」
明日見の丘に暇な時間はそう多くはない。しかし、混雑時以外にはお客さんが足羽さんだけになることもあり、そのタイミングを見計らって蓮香さんに昨晩の夢を打ち明けつつ、俺は彼女にある反応を望んでいた。――動揺してくれないか、と。
昨晩の蓮香さんに運ばれる俺、それから彼女が語った俺の過去。彼女が躊躇なく撃った銃と、それによって倒れた人。一連の体験はどれも記憶が生々し過ぎて、その全てが夢だとはとても思えなかった。実際、朝起きた俺は夢を見ていたという実感が薄く、全てが真実であったかのように思う。
でも、俺が寝ていたのは俺が使わせてもらっている部屋だった。あの時の蓮香さんの口ぶりでは、どこか遠くに逃げ出すつもりだったようだが、結局、俺は少しも移動していないことになる。やはり、夢だったのか。
「なんと言いますか、ずいぶんとバイオレンスな夢ですね。悪夢と言いますか、なんと言いますか」
「確かに……」
俺の夢語りを聞いていた蓮香さんは、ほんの少しも表情を変えない。全て話し終えた後、苦笑しながらそんなことを言うだけだった。
人は演技をしようと思えばいくらでも出来る。とはいえ、どうにも蓮香さんがそういうのを得意としているタイプとは思えなかったし、やっぱり彼女のことは信じてみたい。そう思う俺がいた。本当にただの夢。仮に夢ではなかったとしても、意味があるからこそ、彼女はこうして平然としているのだ。そう信じる。少なくとも今は。
「ただ、あまり心配なのでしたら、足羽さんに相談されてみてはどうでしょう。色々と博識な人なので、簡単な夢判断ぐらいはお願い出来ると思いますよ」
「足羽さんか……。けど、そういうことなら俺のことを詳しく話す必要が出て来るな」
俺が行き倒れで、しかも過去の記憶を失っている、というのは蓮香さんと秋広さんしか知らないことだ。別段、隠し通そうとする必要はないことだと思うが、説明するとなると色々と面倒だ。お互いに時間を無駄に長い時間を失うことになる。
「その辺りも全て、話してみてもいいのでは?足羽さんはあたしやお父さんよりずっと、こういうことに関しては詳しいはずですよ。もちろん、強制は出来ませんけど、進展のため自分から動いてみる、というのも悪くはないと思います」
「確かに、な。うん、そうしてみようか」
充実した一日を過ごしたせいだろうか。今の俺には、普通の人間にあるはずのものが欠けているのだ、という意識が薄れていたかのように思う。……記憶がなくとも、これからの人生を大事にして、幸せに生きられるならそれもいい。でも、失われた記憶を頭のどこかで気にし続けることになるのは嫌だ。自分から動くことで何かを変えられるのなら、そうしてみるのもいいと思える。
「長いお話になるかもしれませんし、あまり他人に聞かせるような話でもないと思います。長郷くんの部屋を使われてはどうですか」
「お、俺の部屋に、足羽さんを……?」
「そういうのは、あまり気にしない人だと思いますよ」
「う、うん。それはわかるんだけど、なんというか、俺の方の気持ちがさ、ほら」
見た目がアレではあるものの、足羽さんは年上の立派な大人の女性だ。そんな人を、借りているものとはいえ自分の部屋に連れ込むとは。……当然、俺の部屋にはベッドがある訳であるし、シチュエーションだけを見ればそれは――。
「足羽さんに言わせれば、ませたお子様だと一蹴されそうですが」
「……ですよね。わかった、それじゃあ、出来るだけ早く終わらせるから」
「はい。ジェイムズさんにもあたしからお話しておくので、気にしないでください」
ヘンリーはまた秋広さんと一緒に力仕事をしている。かなり大柄な人なので相応に力もあるんだろうが、本来なら俺がしているべき仕事だろう。ヘンリーがウェイトレスを出来ないということは、蓮香さん一人で接客をしなければならない、ということを意味しているのだから。もちろん暇だからそういうことをしているのだけども、俺も早くこの店の戦力として活躍出来るのだと認めてもらわないと。
気は急くが、今は自分の問題を解決させるために一歩前進したい。
「足羽さん。えっと、少し相談したいことがあるのですが」
「この私に?今は暇だからいいけれど、わざわざ私の時間を奪ってまでする相談事とは、相応に面白いものなんでしょうね?」
「え、ええ、きっと」
なんというか、小さいのに威圧感のある人だ。思わず声が震えそうになってしまう。
「いいわ。それじゃあ、この私の貴重な時間を使わせなさい」
「あ、ありがとうございます。それで、ちょっと個人的なことなので、場所を移させてもらってもいいですか?具体的には俺……僕の部屋で」
「年上の女性を部屋に連れ込む、と。あらどうしましょう。私はこれから少年にどうにかされてしまうのかしら」
「……何にもしませんから、黙ってお願いします」
「それはそれで屈辱ね。少しぐらいはいたずらしなさい」
「しませんって」
いざ自分一人で本格的に対話してみると、想像以上に面倒くさい。もとい、楽しい人だ。楽し過ぎるので、正直あまり頻繁には話したくない。
3
「記憶喪失、ね」
「信じてもらえませんか?」
「三十点。あまり面白いネタじゃないわ。確かに、記憶喪失者がどういう風に世界を認識していくのか、それは興味のある題材ではあるけども、あなたは自分のこと以外は覚えてるじゃない。道具の使い方や、自分の使っていた言語も覚えている。記憶喪失者としては、一番面白くない部類ね。でも、記憶喪失という時点でそこそこ面白い境遇だから、そこで二十五点。残り五点は、蓮香に拾われて生活するようになった、という美少女ゲームでありそうな展開を踏襲していることの面白さ。以上」
「は、はあ」
俺は自分が記憶を失ってこの家に居候させてもらうようになったこと、それから「あの夢」について全て話した。そうしたら足羽さんは、比喩表現ではなく、事実として害虫を見る時の冷たい表情を見せた。
「やっぱり、更にマイナス五点ね。あなた、若い男にしてはちょっと元気がなさ過ぎるんじゃない?これだけ自分のことを悪く言われたんだから、少しは怒りなさい。それか、不快感を表す。『は、はあ』なんて。あなたは自分が面白くない人間って言われて憤らないの?」
「そ、それは。でも、俺は自分のことがその面白くない人間なのかすら、自分の記憶だけでは判断出来ませんし。足羽さんなら、何かわかるかもしれないので、怒らせる訳にもいかなくて……」
「後半の言い訳はいらなかったわね。逆に相手を怒らせるわよ」
「あっ……」
足羽さんの雰囲気に飲まれていたのだろう。思ったことをそのままペラペラと口にしてしまい、歯止めが利かなくなっていた。でも足羽さんは特に気に留めた様子もなく、余裕たっぷりの大人びた表情だ。その顔立ちは童顔だが。
「気にしてないわ。それより、夢の話をしましょうか。なんというか、内容としてはわかりやすいのに、ずいぶんとシンボリックな夢ね。しかも、荒唐無稽に見えて、そうでもない。特に蓮香については、かなり深い理解があるように思えるわ」
「どういうことですか?」
「あの子は見た目ほど明るく、幸せな生き方をして来なかった、ということよ。境遇はそれなりに知っているのでしょう?」
「捨て子だということぐらいは、ですけど」
真面目な表情になった彼女が首を横に振る。それだけではない、ということか。
「あの子は奇麗な茶髪をしているでしょう?あれは染めたものではない、地毛よ。父親がフランス人だったかしら。ともかくヨーロッパ系の人で、その影響で茶髪なの。母親は日本人だったようだけど、行方知れず。父は――」
誰かの許可を求めようとするように、足羽さんの視線が泳いだ。
「亡くなったわ。いえ、もっときちんと話しても良いでしょう。あの子もきっと、自分で話せるなら話しているでしょうから。――殺されたの。両親共に、決して大手を振って外を歩ける身分ではなくてね。簡単に言うと、父親は犯罪者同士の抗争の中で死んだ。相当の悪事をしでかしていたそうだから、私から見れば因果応報ね。悪がまかり通るのは文学の中だけでいいわ」
クール。いや、ドライに言い捨てる。故人を死んで同然と言う彼女には抵抗があったけど、感情を排せばそれも正しい考えか。日本の法律でも、複数の人を殺してしまえば、その罪を贖うためには死が与えられる。それと同じ手続きが、形を変えて行われただけだ。
「そういうことで、夫を失った妻は娘を育てるのをやめた。蓮香の年齢は十二歳だったわ。……十二歳よ。もう十分に大きい。両親のこともきちんと覚えている。しかも裏の世界のこともまた、教えられていた。いずれはどこかの同じような境遇の息子と結婚させる、という段取りになっていたのかもしれないわね」
つまり、蓮香さんは日本で言う暴力団の構成員の一人娘、ということか。確かに、今の彼女からその過去を想像することなんてとても出来ない。
「言っておくけど、あなただから話したのよ。あなたなら、このことを知ってもあの子のことを恐ろしく思って、よそよそしくするようなこともないでしょう。どうにも図太くて馬鹿みたいだから」
「まあ、前半は確かにそうですけど。俺自身、どういう人間かはわからないって蓮香さんに言ってましたし」
「そう。だから、今もそんな世界と繋がっているはずはないけれど、あの子にとって“裏の世界”は近くにあった、ということ。あなたが無意識にそれを嗅ぎ取って夢に見たのなら、犬並みのいやしい嗅覚ね」
「褒めてませんよね、それは」
「もちろん。どうして褒められると思ったの?」
自然にグサグサと言ってくださる人だ。……それにしても、俺がそんなことに気付いていただって?いや、でもそれは偶然というものだろう。蓮香さんにも悲しい過去があるのだということは、秋広さんの口ぶりからわかっていた。でも、たったそれだけで推理したり、雰囲気を感じ取ったりすることが出来るはずがない。
「今、そんな馬鹿なことが、と思ったわね。でも、夢とは無意識の世界を映し出すものよ。もし夢が自分の意識していることだけを映し出すものなら、どうして見たこともない景色を夢で見ることが出来るのかしら。脈絡のない、意味のわからない夢を見る時は、自分自身の頭がおかしくなっているのだと思う?」
「それは……」
「だから、無意識は自分では意識出来ないからこそ、無意識なの。逆に言えば、人は自分がわかっている以上に多くのことを理解している、ということね。その一部が夢に顔を出すの。
……っと、そういうのはいいの。私は残念ながらフロイトはあまり得意じゃないわ。あなたの夢の話に戻るわね。でも、なんだか寂しい夢だわ。全体的に。夜の夢だというのもそうだし、自分以外の人間が死んでいる。しかも、今のあなたにとっては最も親しい人の手によって殺されて。結構、今のあなたって無理をしているんじゃないの?」
「無理、ですか」
これもまた、足羽さんに言わせれば無意識の世界の話だ。
俺自身は一つも無理をしていないと思っている。体も心も比較的健康だ。確かに自分自身に対する不安もあるが、それによって追い詰められている感じは全くしないし、最悪、記憶が戻らなくてもいい、そう考えるほどに今を楽しめている。
蓮香さんに対する不信もない。彼女のことをよりよく知った今でも、彼女が優しいのだということに変わりはないからだ。過去を見るより、今を見ていきたい。自分の記憶がないからこそ、今の俺はそう考えることが出来ているのだ。
「少年。一番タチが悪いのは、自分が病を患っているのだと意識していない患者よ。自分が正常だと思っているから病気の兆候を気のせいだと無視して、悪くなってからもそんな訳はないと一蹴して、酷くなった頃には手遅れなの。体の病気も、心の場合だってそう。私にきちんとしたカウンセリングは出来ないけど、口が堅いことだけは保証するわ。いつでも、なんでも相談しなさい。もちろん、私から見て危ないと判断したら病院に放り込むけれど」
「は、はい」
最後に足羽さんはウィンクをして、軽く微笑んだ。多分、彼女が俺に見せた初めての笑顔だと思う。
「ところであなた、名前はなんと言ったかしら。昨日、自己紹介されたような気もするけれど、興味がないから忘れたわ」
「……本当、酷い人ですね」
「あら、あなたより物覚えはいいつもりよ」
「そういう意味の酷いじゃないです!……えっと、長郷燎太と言います」
「リョウタ?字はどういうのなの」
「ひへんに、こう……男子寮とかの寮の字のうかんむりがないやつです。で、太いっていう字の」
「ああ、燎原の火、とかのあれね。なんだか激しさを持った字ね。あまり見ないわ」
言われてみれば確かに。もっとリョウタという名前を表すのにわかりやすい字はあるだろう。それなのに、俺の名前はこの字だ。それだけは確かな記憶として残っている。大事な、絶対に忘れてはいけない記憶だということだろうか。
「漢字を知ると、中々に興味が持てそうな名前ね。覚えられるものなら覚えておいてあげるわ。燎太少年」
「上の名前じゃないんですか?」
「ええと、なが……なんだったかしら。面白くない名前だから覚えられないわ。燎太で十分でしょう。むしろ、この私が下の名前で呼んでいるのだという事実に涙を流して喜ぶといいわ」
「は、はあ」
最後まで、本当に疲れる人だと思った。……あっ、いや、楽しい人だ。すごくすごく。もう話さなくてもいいかな、と思ったほどに。
4
「ところで、ヘンリーはどうして日本に?もうずいぶんと長いみたいだけど」
足羽さんとの話の後、再び喫茶店に戻ると、まもなく蓮香さんがケーキの補充のために出かけていった。代わりにヘンリーが戻って来ていたので、なんとなく彼女にそんな質問をしてみた。ちなみに、今朝の開店直前に敬語をやめるように言われたので、それに従っている。まあ、名前は呼び捨てにしているんだし、こっちの方が違和感は少ない。
「ワタシはねー、日本が大好きなんだよ」
「へぇ……具体的にはどういうところが?」
「まずは食べ物!それから、着物に、和菓子に、絵画に、富士山、後はラーメンと、寿司と、アニメも大好き!それからそれから、舞妓さんに、八つ橋に、えっと、日本酒、どぶろくも!えーっと、後は……とにかく、いっぱい!日本は何もかも大好きだよー」
「な、なるほど」
食べ物を最初に挙げた後も、幾度となく食べ物が出て来た気はするけど、それだけ愛が強いということなんだろう。
だけど、それだけ一つの国を愛していて、そのまま自分の国を出て日本に来てしまうだなんて。この行動力は、外国人だから、と言うだけじゃ説明が付かない、彼女独自のものなんだろうな。
「だからAmericaいる頃からいっぱい日本語を勉強して、英語よりも出来るぐらいになったんだけど、いざ日本に来てみると中々上手くいかなくって。ワタシ、大きいし、やっぱりアメリカ人って怖いのかな?」
「どうだろう……。確かに、白人はなんとなく怖く見えるかもしれないけど、俺個人のことを言うなら、全くそんなことはないよ」
「そう?やったー!ワタシもリョータくんのこと、大好きだよ!」
危うく抱き付かれそうになったところを、なんとか避けて握手をするだけに留めておく。それでも、女性らしい柔らかな手のひらの感触と、アメリカのマーケットに売られている果実のような甘酸っぱい匂いが鼻をつく。
「は、はは……。思ったんだけど、ヘンリーって何歳なんだ?なんかノリは俺達に近い感じがするけど、お酒は飲める歳なんだろ?」
なら若くても二十歳だ。加えて言うなら、俺が思うに二十二、三は行ってそうだ。全体的に幼く感じるハイテンションなので、予想はほとんど役に立たなそうだが。
「うーんと、今年の誕生日で二十六。だから今は二十五だよ」
「そうなんだ。でも、確かにそれぐらいの歳にも見えるかな」
「意外とオバサンだった?」
「いやいや、まだ全然若いって。でも、十個ぐらい上になるんだな。こんなタメ口で呼び捨てで話してて、本当にいいのか?」
「いいのいいの。むしろ、よそよそしい方がワタシは嫌いだよ。……レンカちゃんはずーっとあんな感じだけどねー」
そういえば、蓮香さんはヘンリーのことを「ジェイムズさん」とファミリーネームかつ、さん付けで呼んでいる。口調もやっぱり敬語だし、ヘンリーに言わせればかなり他人行儀な感じだ。
でも、彼女の場合はあれが普通なんだろうな。同年代と思われる俺にもああいう感じだし、父親である秋広さんにも敬語だ。逆にあれをタメ口に矯正するのは、難しいを通り越して不可能なレベルの大仕事だろう。
「それで、またヘンリーのことだけど、この店には就職できたんだな」
「マスターは本当にいい人でねー。しかもね、お休みの日はワタシの好きなところに案内してくれたりするんだよ」
「へぇ……ちょっとした従業員旅行だな。どこに行ったりするんだ?」
「一番最近はね、京都旅行!お寺とか神社とか、色々回ったんだー」
「平安神宮とか、清水寺とかか」
「後は金閣も見たしね、天竜寺も行ったよ。ワタシの国にはお寺とか神社みたいな古い建物はないから、一つ一つが本当に大感動だよー」
「確かに、アメリカと比べるとそうだよな。……ん、ちょっと待てよ。ということはここって、京都にすぐ行けるところなのか?」
そうだ、まだ俺は肝心のことを聞いていなかった。ここは日本だということはわかるが、その何県なのか?そもそも、関西なのか関東なのか、北海道なのか九州なのか……それすら俺は理解していなかった。
「兵庫だよ?兵庫のね、東丘ってところ。だからね、兵庫はもう大体全部回ったんだ。異人館も行ったし、中華街も行って……」
「そうか、兵庫県だったのか」
何か思い出すことがある訳ではないが、兵庫ということは港がある。いや、他のどの県にも内陸でない限りはあるが、船の出入りが多いか少ないかで言えば多いはずだ。ということは、俺は船で兵庫にやって来て、それから記憶を失った、という可能性が見えて来る。
「なんか変だね。リョータくん、自分でここに来たんじゃないの?それで、ワタシみたいにここで働かせてもらうようになった、って思ってたんだけど」
「あっ、ええと、それは」
ヘンリーにはまだ俺の事情を話していない。けど、既に足羽さんには話していることだし、どうせ彼女とはこれからも長い付き合いになりそうだ。隠そうとしても上手くいかないだろうし、その理由もそう多くはない。全てを教えて何かリスクが発生する訳ではないのだから、話してしまおう。
「俺、ここに来るまでの記憶がないんだ。それで、蓮香さんに拾ってもらってここで働くようになったんだ」
「記憶喪失?そうだったんだー」
「あんまり驚かないんだな」
まるで、薄々は勘付いていたかのようだ。
「だって、そういうこともあるよー。普通に。ワタシ自身、アメリカから日本が好きで好きで来ちゃった、っていう変な子だしねー」
「自分で言うかな、そういうこと」
「ふふー。でも、記憶喪失なんてそんな、いちいち気にするようなことじゃないよ。こうして話せるなら、それで十分じゃないかな?とりあえず今をしっかりと楽しんで、記憶が戻る時が来たら、それもまた素直に受け止めれば」
「うん、そうだな。俺もそう考えようと思ってる」
さすがに年長者、といったところだろうか。やっぱりヘンリーにも事情を話してよかった。いつもはハイテンションかつパワフルな人だけど、こういう時には落ち着いた声音で、話していてすごく心地いい。
「あっ、お客さんだ。じゃ、この辺でね。――いらっしゃいませー!」
鈴の音がして、ヘンリーはすぐに開いた扉の方へと駆けていく。その姿は元気溌剌としていて、俺が初めて会った彼女と同じだ。
「今日は年上の女性とよく話しているようだね。少年」
「秋広さん」
さっきまでの俺とヘンリーの会話を聞いていたのかどうなのか、今度は秋広さんが話しかけて来た。
「やっぱり、俺一人で抱えているのも辛いかな、と思って」
「なるほどね。確かに、オレや蓮香に出来ることは大してないし、それなら新たな知恵を彼女達に求めるのは賢明だろう。それで、少しは参考になったのかな」
「はい。まずはじっくりとここに腰を据えていきたいと思います」
「いきたい。その字は、goの行くなのかな?それとも、liveの生きる?」
「どっちもだと思います。なんとなくぼんやりと立ち止まっているのも、俺という人間じゃない気がしますし」
俺自身のことなんてわからないのに、なんとなく自分は行動的な人間だったような気がする。
この性分は記憶を失ってから得たのかもしれないけど、それでも今はそれに従っていいような気がしていた。幸いにも、身の回りには力を貸してくれそうな人だっている。何か出来ることがあれば、積極的にしていくべきだ。
「青春だな。いや、馬鹿にしているんじゃなくて、ちょっと羨ましくてね。オレはこうして喫茶店をやるってずっと考えてて、親父に助けてもらってその夢の通りにこうして店をやれてるからね。自分で大した努力をしたこともなければ、青臭く冒険をしたことだってない。色々と予定調和だらけの人生でさ」
「でも、夢を叶えて、幸せなのだったら――」
「まあね。あんまり贅沢は言えないな。それに、そんなオレの人生に起きたイレギュラーな事態、それが蓮香との出会いであり、ヘンリーとの出会いだった訳だ。その出会いは今にまで作用して来ていて、更に毎日を楽しくしてくれたよ。おまけに、今度は君がやって来たという訳だ。どっちかというとこれは、蓮香の方の縁のような気はするけどね」
「な、なんと言いますか。申し訳ない……?」
イヤミを言われている気がして恐々言ってみたら、秋広さんは笑い飛ばしてくれた。
「肉と人生にまぶすスパイスは、多い方がいい。これがオレの持論でね。ただ、人生のスパイスは自分じゃ中々仕入れることが出来ないから、向こうから来るのを待つしかない。そしたら本当に来てくれたんだから、むしろ感謝しないと」
やっぱり皮肉みたいな気はするが、本当に歓迎をしてくれるんだろう、ということは表情と言い方でわかる。爽やかな笑顔の秋広さんは、とてもじゃないがイヤミを俺にぶつけて来ているようには見えなかった。
「それにしても。ヘンリーはいい子だろう?じっくりと話してみて、ただのにぎやかな子じゃない、ってわかったと思うんだけど」
「秋広さんの人を見る目は確か、ってことですか?話していて元気になれるし、すごくいい人だと思いました」
「ははっ、そうだろう、そうだろう。でも誤解されないように言っておくと、オレは何も彼女がウチの店員として使えそうだから声をかけた訳じゃないよ。蓮香の時にそうで、君の時もそうであるように、迷い、困っている人を見過ごせない性分でね。だから苦労もして、奥さんに逃げられた訳だけど」
自虐的に笑うが、その姿は俺には立派で魅力的に映った。確かに、余計な苦労まで背負い込んでしまう損な気質なのかもしれない。家族にしてみると中々に大変なのだろうが、俺の今の生活も秋広さんのお陰であるのだから、少しもそれを悪く言う気は起きなかった。
「まあ、そういう訳で結論から言うと、再婚を考えてるんだ」
「――えっ?どこがどういう訳でそういうことになるんですかっ」
「実は長く付き合っていてね。互いに惹かれ合ってるんだ。そして、彼女とならきっと上手くいく気がする。蓮香との関係もいいしね」
「ということは、その相手って……」
長く交際出来るほど身近にいて、蓮香さんとも仲が良い女性となると、自然とその数は限られて来る。まだ秋広さんの交友関係を全て知っている訳ではないだろうが、俺が知っている人だからこそ、そんな話をしているのだろう。
「足羽さん、ですか?」
昨日、二人は激しい口喧嘩をしていた。が、喧嘩するほどなんとやらとも言うし、幼なじみなら互いを理解するのに十分な時間を共に過ごしている。更に言うなら、彼女の接客は蓮香さんでなければならないほど気難しく、俺もついさっき、その強烈な毒気――もとい、個性に圧倒されたところだ。
「え、ええ、そんな風に考えられちゃったのか。今の流れ的に、普通はヘンリーだと思わないかな」
「あっ……。ええっ、本当ですか?」
「冗談で言うようなことでもないだろう。オレはヘンリーとずっと交際しているんだ。いや、もしかすると本人にそのつもりはないのかもしれないけど、結構プレゼントも贈ってるし、旅行に連れて行っているのも、デートのようなもので……」
さっきヘンリー本人が旅行については話していた。けども、マスターこと秋広さんのことを“いい人”とは言いつつも、彼氏のような扱いはしていなかったように思える。むしろあの感じは、従業員が店長に対して抱く親しみと尊敬と感謝の念の表れであって、色恋沙汰と関係がありそうなものでは……。それに、どうも彼女は色気より食い気のタイプというか。恋愛というものを意識していない人に見える。
「な、なるほど……」
とはいえ、本人にそれを言っていいものか。言うとしても、どんな風に言ったものか。今の俺には考えられないので、曖昧に笑っておく。言わない、その決断をするのもまた優しさだと信じて。
「結婚は、そうだな……。蓮香を育てることになった七月がいいかもしれない。いや、ヘンリーと出会った九月か。いや、それだと遅いな。間を取って八月もいい。ジューンブライドもいいけど、ちょっと急ぎ過ぎだよな――」
すっかりその気の秋広さんは、もうプロポーズ、そして挙式のことを妄想……もとい、夢想している。なんだか黙っているのが申し訳なくなって来たが、このまま夢を見させてあげた方がいいんじゃないか?いや、でも早く真実を教えてあげた方が――わからない。俺にはまだ恋愛のことなんて全然だ。やっぱり黙っていよう。
「ただいま帰りました。あれ、お父さん。どうかしたんですか?」
「おお、我が娘よ。なに、幸せな未来を考えていたところだよ」
「はあ、そうですか。ともかくお父さん、また混んで来ると思いますから、すぐに厨房に戻ってくださいね」
「もちろんさ。幸せな明日のため、今日も労働に勤しむぞー!」
……見ているのが痛々しく感じられて来た。蓮香さんのクールな反応から察するに、こういうことがしばしばあるのだろうか。ということは、蓮香さんも真実には気付いているのかもしれない。
「マスター、オーダーですよー。オリジナル二つでーす」
「よし来た。ヘンリーは実に有能なウェイトレスだなっ」
「普通にやっているだけですよー」
デレデレ顔の秋広さんを見ていて、どうしてこうも哀しいのだろう。恋愛の難しさと、男というものの本質がわかるから、なのかもしれない。
5
また俺は夢の中にいた。どうやら昨晩の続きなのだということは、「夢で見慣れた」街並みが教えてくれる。
「蓮香さん、このままどこまで行くんだ?」
これが夢なのだとわかった今、俺は積極的に夢の中の蓮香さんに話しかけるようにした。やっぱりこの夢は、ただの夢じゃない。俺の記憶を取り戻す鍵のような気がするからこそ、俺はこの夢で何かしらのアクションを起こさなければならない。
「どこまででも。とにかく、この街は離れなければなりません。もうあまりにも多くの人が長郷くんを知っていますから」
「……俺はなんなんだ?蓮香さんは、わかるのか?」
「話しながらだと走る速度が落ちます。まずはこの場を全力で逃れましょう」
蓮香さんがおそらく、彼女が出せる最大の速度で走り始める。それに釣られて俺も走り出すと、彼女より少しだけ速く走れる気はしたが、そこまで全力では息が続かない。彼女と合わせながら走って、石畳が途切れるまで通りを突き進んだ。途中、形のおかしな石畳につまずき、転びかけて地面に手を突いた。軽く手のひらを擦り剥いて血が出る。痛い。でもこれは夢だ。
痛覚のある夢なんて不思議だと思ったが、元からこの夢には妙な現実味があった。そういうこともあるかもしれない。そう思って特に気にすることなくまた走り出す。遂に街を抜けると、ようやく蓮香さんはゆっくりと歩き始めた。その息は上がっていて、胸が大きく上下しているのが色っぽく見えた。
「長郷くんはっ、結構平気そうですねっ」
「あっ、うん……。どうにか」
「あたし、運動不足なんでしょうか。頑張っているつもりなんですけどね、色々とっ」
「いや、でも大したものだと思うけど」
どれぐらい走ったのかは、夢独特のおかしな時間感覚のせいでわからない。でも、もうずいぶんと走ったのだということはわかる。十分ぐらいは全力疾走をしていたのだろうか。
「でも、実戦ならここでさようならかもしれません。もっと体力を付けないと……」
そう言いながら彼女は、腰の拳銃を確認する。そうだった、こっちの蓮香さんは銃を持っている。子どもの頃、ギャングの父親から使い方を習ったらしい拳銃を。
「蓮香さん。それで、教えてくれないか。俺は一体どういう人間なんだ」
「普通の人が普通に見れば、何も特別な人ではありません。ただ、長郷くんの命そのもの……いえ、魂とでも呼べるものでしょうか。それが普通の人と異なっているんです」
「……どういう風に?」
直感でわかる。これは俺が俺を知る上での、最も重大な情報だ。最終目的に等しいものを今、俺は蓮香さんから聞き出そうとしている。彼女が今まで自分で話さなかったのはなぜなのか。ただ単に意地悪をしていただけとは考えにくい。では、どういう事情があれば俺に隠したほうがいいと判断するのだろうか。
「あたしも、長郷くんの全てを知っている訳じゃありません。それでも、このことだけは知っています。“この世界を作ったのは長郷燎太である”と」
すぐには理解が追いつかなかった。追いつきそうにもなかった。世界を作る?誰が?――俺が。信じられない、信じられるはずもない。あんまりにも突飛で、しかも規模が大き過ぎて、イメージをしてみることすら出来なかった。
世界を作るだなんて、それじゃまるで。
「神だ、って言ってるようなものだよな、それ」
「あるいは、そういう呼び方もできる存在、それが長郷くんなのだと、あたしは認識しています。今のあなたではありませんが、あなたと同一の存在が世界を。そう、この地球だけではなく、銀河系も、宇宙全ても、その見事に計算されたシステムを含めて作り上げた、全能の存在なのだと。あたしはそう知らされました」
「誰から?普通、信じないよな、そんなこと」
「初めは確かに、おかしな宗教のようなものでした。突然、そんなことを提唱し出す人が現れて、最初は全然信じられなくて……でも、今となっては誰もがそのことを信じています。どうしてなのか、そのことを言葉で説明することは出来ません。しいて言えば、人は初めから自らの造物主を知っていて、そのことを思い出したんじゃないでしょうか」
まるで神話だ。いや、これが正にその神話なのか。にわかには信じがたい……いや、やっぱり信じられない話だが、それが壮大なフィクションだとしても、俺が狙われているのが真実なら、とりあえずはそういうこととして理解しておく必要がある。
「今、あたし達が知っているのは、もう一つ。長郷くんが死んだ場合のことです」
「そうだ、どうなるんだ?世界を作ったのが俺っていうなら、その逆のことぐらい起こるんじゃ」
つまり、世界が滅亡する。世界を作るというのも馬鹿みたいに大きな話だが、その逆の滅亡というのも信じがたい話だ。まず、具体的にどう世界が壊れていくのかを想像しづらいし、世界なんてものがなくなるのなら、そこに住む全ての人間も死ぬだろうから――頭が痛くなって来た。
「それが、長郷くんにあった力が、一番近くにいた人間。つまり、殺した人間へと移るというんです。簡単に言うと、今の長郷くんというのは、世界を作った“誰か”が人の体を持って世界に降り立った姿であり、いわば“器”なんです」
「いよいよ神話だな……。じゃあ、その器に過ぎない俺が死んでも問題はなくて、また別の器にその世界の造物主が入り込む、ってことか」
「長郷くんは、察しがいいですね。助かります」
褒められて、喜べばいいのやらなんなのやら。
「それで、長郷くんの言葉を借りて造物主。これを体に宿した人間は、世界を好きなように変えることができるとされています。よくわかりませんが、物理法則とかからして変えられるんじゃないでしょうか」
「……別に、俺は何か念じてみても変わらないが」
「多分、長郷くんがオリジナルだからですよ。とりあえず、長郷くんイコール造物主、という感じなんです。だから、長郷くん的に今の世界が最高ということなんじゃないでしょうか」
「な、なるほど。……ともかく、俺が死んだら、俺が持ってた力を悪用されて、世界がどんな風にも変わる、ってことなんだな」
蓮香さんは大きく頷く。いっそ、俺が死んだら全てが終わる、というのなら簡単な話だったのに、厄介なことになっているものだ。更に厄介なことに、このことを知るのは一部の限られた人間だけなんじゃなく、誰もが誰も、って言うんだから嫌気が差してくる。
「けど、蓮香さん。じゃあ、なんで君は俺を助けようとしてくれるんだ。世界をどうこうするのに興味がないとしても、俺のために戦う理由はないだろ。いや、他の誰かにめちゃくちゃされるのが嫌なら、いっそ君が俺を殺せばいい。なのに、どうしてわざわざ危険を冒してまで、俺を助けてくれるんだ。何か理由があるのか?」
「あります」
「……どんな?」
「あたしは利己的な人間です。だから、あたしはあたしがそうしたいから、長郷くんを放っておくのでも、あたしが長郷くんを殺すのでもなく、長郷くんを守ります。あたしができるあらゆる手段を講じて」
蓮香さんが拳銃を使っていたことは記憶に新しい。俺を守り切るためなら、何人だって殺してみせる。彼女の暗く沈んだ色の瞳は、そう言っている。
「俺を守ってくれる気になった、その理由は教えてくれないんだな」
「ごめんなさい。少なくとも、今は無理です」
殺人者の表情を瞬き一つで消した蓮香さんは、微笑んでいた。その言葉と表情だけなら、同年代の少女がした微笑ましい隠し事の風景だ。気持ちが和むことはあれど、こんなにも複雑な――誰もいなければ、泣き出しそうな気持ちになるはずがない。
「さて、長郷くん。そろそろお話は終わりにさせてもらってもいいですか。……一応、長郷くんの人相を変えるように髪をいじったりはさせてもらいました。でも、気付いちゃう人はいるみたいです。来ますよ」
誰が来るんだ、とは質問しなかった。わかりきっていたからだ。
黒いロングスカートから拳銃が飛び出す。なんという名前なのかはわからないが、大柄な、女の子の手には余る銃だというのはわかる。蓮香さんはそれをしっかりと両手で掴み、銃口を後方へと向けた。撃鉄が獲物を見つけた蛇の頭のように持ち上がる。
「今思えば、あたしのこの技術は長郷くんのためにあったのかもしれません。ブランクはありますが、体が覚えていました。小さな時から握らされていた銃の感触を。それを持った時の動き方を。人を効率的に仕留める術を」
俺はあえて、蓮香さんが見つめる方を向かなかった。間近で上がった叫び声のような銃声で、何が起きたのかはわかる。わざわざその現場を見る必要はない。
「これで残りは四発。予備の弾はないので、相手の銃を奪っていく必要があります。弾が流用出来ればいいのですが――」
死体から銃と弾薬を奪い取るためなのだろう。駆け出した蓮香さんを、やはり俺は見なかった。だが、一瞬後に銃声ではない、打撃音のようなものが聞こえてきたせいで、俺は振り返ってしまった。
そこにいるのは、白いウェイトレス服を血に染めた蓮香さんと、もう一人。力を失い、地面に滑るように倒れていく男――外見からは戦いの技術を持っているとは考えがたい、一般の社会人のような人だった。
「油断して死体に近寄ったところを、という算段だったんでしょう。でも、あまりに動きが遅過ぎました」
血がこびり付いているのは、服だけではなかった。蓮香さんの右手にもまた、さらりとした血が滴っている。その先にはナイフがあった。生活で使うものではない、強靭な刃を持った対人戦を意図した殺人用の短剣。それで男の喉を一突きにしていた。
「――長郷くん。あたしは、怖いですか?それとも、気持ち悪いですか?」
俺は答えない。
「怖い、ですよね。あたし自身、自分が怖いんです。いざ凶器を握ると、いくらでも人を殺せてしまう。そのための記憶は全てこの体にあるんです」
何も言えない。
「気持ち悪い、ですよね。お父さんからもらった制服が、あっという間に血みどろです。結局、あたしはこの色と生臭さの中でしか生きられない、そう生きなければならないんでしょう。お父さんと一緒に、幸せに生きたかったのに」
何か言えるはずもなかった。
彼女は、直接的にはそう言わない。それでも、間違いなく全て俺のせいだと言っている。俺が彼女と出会ってしまったから。そのせいで彼女から平穏な生活を奪い取ってしまった。もうきっと彼女は、秋広さんの元には戻れない。戦い、戦い、どこに行くのか。最終的には彼女も――。
「長郷くん。それでもあたしは、あなたを生かします。生きていてもらわないといけないんです。だから――これを持っていてください。この人のナイフは、まだ奇麗ですから」
鞘付きのナイフを握らされる。想像以上に重量がある。これも、立派な凶器。人を殺す力のある刀剣の一種ということか。
「取り回しの簡単そうな銃が手に入れば、それもお渡しします。あたしが、どれだけ生きていられるかもわかりませんから」
俺はふと、これが夢であることを思い出した。それで安心してから、この悪夢の終わりを願った。
6
「ねぇ、あなた」
「はい……」
「蓮香に何かされたの?実は彼女、裏で相当あなたに暴力を振るっているとかない?」
「な、ないですよ。どうしてそんなことがあると」
「だって、ねぇ」
翌日、見た夢の全てを足羽さんに話したところ、そんな風に心配をされてしまった。
「あなた、相当に精神が不安定なんじゃない?心への負担って知らず知らずの内に溜まっていくものだし、何か話したいことがあったら聞くだけ聞くわよ。不満でも不安でも、なんでもいいから」
「ありがとうございます。けど、本当に大丈夫なんで」
「大丈夫じゃない人こそ、その言葉を使いたがるのよ。自分に言い聞かせたいのね。俺は何の心配もないんだ、と」
今日の足羽さんは、そう簡単には納得してくれないようだ。それだけ俺を心配してくれているのは嬉しい。けど、俺には本当に心当たりがないので、優しさが痛く感じられた。
「何にせよ、連続性のある夢、かつあなたの数少ない知り合いが出て来て、ありそうでありえないことをしている、というのは軽視出来ないわね。専門家じゃないから踏み入ったことは言えないけど、一つだけ言わせてもらうわ。あなたが見ているのは、本当に夢かしら」
「……?それは、どういう」
「あなたにとっての夢はどちらなの?あなたと蓮香の逃避行なのか、私達との喫茶店での日々なのか。どちらがあなたにとってのリアルで、どちらが夢?」
「そんなの、こっちが現実に決まってますよ。こっちの意識の方がずっとはっきりしてますし、夢の中の人物が『これが夢かも』なんて言いますか」
「だけど、あなたの言う“夢”も異常よ。怪我を負い、痛いと感じている。そんな夢、あるのかしら」
確かに。それは俺も気になっていたポイントだ。あの夢はあまりにも生々しく、空気感や血の臭いまで伝わって来ていたように思う。そこまで現実に近い夢があるのか。だが、この世界だって匂いはするし、感触もある。
「燎太。あなた、一回死んでみない?こう、あなたが夢見た通りに喉を一突きにされて」
どこからともなく足羽さんが万年筆を取り出す。金属のペン先は、夢に見たナイフと似ているような気がする。確かにこれを柔らかい喉に刺せば、それで人は死にそうだ。
「夢なら、死ぬ直前に目が覚める、ってことですか」
「そう。だからもちろん、寸止めはするつもりよ。夢を覚まさせるトリガーにはそれで十分でしょうからね」
「じゃあ、やってくれますか。はっきりさせることが出来るのなら、その方が安心出来るので」
「わかったわ。それじゃあ……」
言い終えるか終わらないのか内に、足羽さんの腕は動いていた。本当の暗殺者のような素早さでペン先が迫り、喉に食い込むほんの少し前でぴたりと止まる。
「とりあえず、こっちはこう、と。また同じ夢を見たら、その渡されたというナイフで喉をかき切りなさい。時間が進んで銃を持っていたら、それを自分の脳天に向けて撃ち込んでもいいわ。それで起きたら、そっちが夢で確定する」
「……もしもそっちが現実なら、俺は死ぬ訳ですね」
「そうは思っていないんでしょう?なら、自信を持ってやりなさいよ」
「え、ええ。まあ」
でも、俺は本当に自分を殺すことなんて出来るだろうか。……あの痛覚のある夢は、あまりにもリアルだった。そんな世界で、自分には物を突き立てるか、銃を撃つだなんて。
「後は、そうね。もう一つ仮説があるわ」
「それは?」
「どちらも夢のパターン。あなたはずっと目覚めていないのよ。夢と夢の間を交互に行き来している。だからどちらも夢であり、どちらも現実なの」
「複雑ですね。じゃあ俺はもう、適当にこの夢を楽しむしかないじゃないですか」
「そうね。けど、現実の人生でもそれは変わらないんじゃない?人は、自分以外の人間にはなれないわ。どれだけ後から自分を変えても、完全な他人に化けることは出来ない。持っているものだけを抱えて、“自分”として生きないといけないのよ。その点、あなたは幸運なのかもしれないわ。自分を知らないから、何かに行動を妨げられることもない。記憶喪失って、唯一、人が他人になれる手段なのかもしれないわ。本人にはたまったものではないとしても」
「確かに、そう考えればそうなのかもしれないですけど……」
俺には、記憶が失われたことの利点を感じることはできない――のか?本当に?
ふと、今までの自分のことを思い出してみた。蓮香さんと出会い、秋広さんに出会い、ヘンリーに会って足羽さんに出会った。まだ話せていないが、山代ヒロミさんの姿は見た。当然ながら、誰もが俺の知らない人であり、同時に皆も俺のことを知らない。
きっと俺は、どこか遠くから来てここに流れ着いたんだろう。そんな全くの新天地で、俺は充実した毎日を送ることが出来ている。夢見が悪いのだけは辛いところではあるが、それを足羽さんは真剣に聞いてくれる。自分でも思うが、クレイジーな夢なのにも関わらず。
こんな生活が出来ているのも、全ては記憶を失ってこの店に居候しているからこそだ。前の俺の生活はわからないが、ここまで幸せだっただろうか。
「あなたは恵まれているわ。だから、つまらない夢に惑わされることなく、幸せをめいっぱい享受しなさい。それがあなたに幸せをくれている人への最大の恩返しと思うといいわ」
「は、はい。相談に乗っていただき、ありがとうございました」
「また今夜も似た夢を見たら、相談に乗ってあげるわ。……けど、そうね。もしかしたら、その夢こそ現実の整理の形かもしれないわ。夢があなたの過去を象徴していて、その救い主が蓮香だという訳。あなたは狙われ、殺し合うように生きていた。そこに蓮香が来て、強引にではあるけど、連れ出してくれるの」
「じゃあ、あながち悪夢でもないと?」
「でも内容は明らかに悪夢よね。これからもしかすると、更に過激になるかもしれないわ。幸せが大きい証拠だと思って、諦めなさい。蓮香にも絶対に話せない内容になるだろうから、気を付けなさいよ。後、私に話していることも秘密。何を話していたのか聞かれたら、エビフライのしっぽを食べるか食べないかでディベートしていた、とでも言いなさい。ちなみに私は食べる派ね」
「は、はあ。気を付けます」
俺もどちらかと言えば食べるタイプなんだが、どうやって反論したものだろうか。反射的にそんなことを考えながら、仕事へ戻っていった。
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二章なのですよ