一章 一日の日常
1
「…………何か、夢を見ていた気がする」
ただし、その夢の内容は覚えていない。……と、第一声がこれだったのだから、俺はかなり頭がはっきりとしている“行き倒れ”だったのだろう。よほど夢の内容が衝撃的だったのかもしれないが、普通はのん気に夢の話なんかしないはずだ。
「わっ、め、目覚めちゃったんですか!?」
「ずっと寝ていた方がよかったような口ぶりだな……」
「い、いえ。そのようなことはぜんぜん、まったく、これっぽっちも」
更に俺は機転を利かせてイヤミを言うことが出来たが、俺の看病をしていてくれたらしい少女が驚いたのも無理がないことだろう。彼女は折よく、俺の顔を覗き込んでいたらしい。そんな時にいきなり目が開いたのだから、びっくりして後ずさりしたくもなるというものだ。……ついでにすっ転んで尻もちを突くというのは、ちょっと考えものではあるが。
「信じがたい話かもしれませんが、あなたは道端で倒れていたんですよ。それをあたしがここまで頑張って運んで来て、ベッドに寝かせてあげた次第です」
「妙に恩着せがましい言い方だな……。でも、ありがとうな。ええと……君の名前は?」
「蓮香です。望見蓮香。蓮が香る、と書いて、れんか、と読みます。ここはあたしの家族が経営する喫茶店で、あたしはそのウェイトレスであり、看板娘、っていう感じです。家族、って言っても、お父さんしかいないんですけどね。お父さんとあたし、それからもう一人、先輩ウェイトレスの方で切り盛りしているんですよ」
ずいぶんと丁寧な自己紹介をしてくれたものだ。別に名前の書き方や、家族構成までは聞いた覚えがないのに。
でもそういうことなら、俺も同じぐらい詳細な自己紹介を――と思ったところで、急に頭が痛み出す気がした。実際の痛みはないのに、自分のことを考えた時、記憶を覆い隠すようにして精神的な痛みが思考を妨げる。どうにか思い出せたのは、自分の名前ぐらいだった。
「そうか。俺は長郷燎太、でいいんだと思う」
「えっ……?あの、頭を強く打っていて、軽くたんこぶが出来ていたみたいなのですが、もしかすると記憶の障害が出ていたり……?」
「自分の出身地や、行き倒れるまで何をしていたのかを思い出せないことを、記憶障害って呼ぶのなら、そうなんだろうな…………」
探り探りそう言いながら、自嘲した。記憶喪失者が「ここはどこ、私はだれ」なんて言うのは典型的な話だが、俺は本当にここがどこなのかも、自分が何者なのかもわからない。いざ自分が記憶喪失なんてものになってみると、悲しいとか理不尽だ、とか思うよりも先に、滑稽さが感じられてしまう。
「そうなのですか……。え、ええと、言葉とかはわかります?」
「言葉とか、日常的な知識は大丈夫みたいだ。俺の性別が男で、君は女。君が白色のブラウスを着ていて、スカートの色は紺色、その形はプリーツスカート、って言うんだったか。黒色の靴下をはいていて、茶色の髪の毛をしている、その長さは肩にかかるぐらいで、小柄な割にスタイルはいい――」
「も、もういいです!そんな、自分のことを分析的に言われても困りますっ」
「でも、俺自身のことはほとんどわからないな……」
こんなにも、初めて出会った女の子のことは説明出来るのに、俺は俺自身のことをまるで語れなかった。まだ鏡を見ていないから、自分がどれぐらいの身長で、どんな髪型をしているのか。痩せているのか、太っているのか、筋肉質なのか、それすらはっきりとはわからない。多分、中肉中背とかいう一番つまらない体型なんだろうが。
「あの、あんまり気を落とさないでください。混乱されていると思いますが、私も父も、長郷さんのことをしばらくお家で預かろう、って決めていますから」
「いや、そこまで落ち込んでもないし、混乱もしていないんだけど」
自分のことが馬鹿らしく思えるのは、気を落としている内に入るのだろうか。
「俺のことを預かってくれるって?普通、警察とかに連絡するんじゃ……」
「長郷さん。今は二十一世紀で、ここは文明国の日本ですよ。滅多なことで、行き倒れるなんてことは起こりません。それなのに、長郷さんはこうして道端に倒れていて、しかも記憶まで部分的に失っているんです。きっと何か、深い事情があるんですよ。なので、あえて公にはしないことにしました」
「はぁ、なるほど。でも、これで俺がとんでもない大悪人だったりしたら?」
「今の長郷さんは、普通にお話することの出来るまともな人です。どんな過去があったとしても、差別はしませんよ」
さも当然のように言って、軽く笑みを浮かべる。瞳がぱっちりとした、幼めの顔立ちの可愛らしい子だ。そんな彼女が笑うのだから、その可愛らしさは記憶を失った俺をも感動させるほどだった。
あんまりにも俺のことを助けてくれるこの子のことに対して、むしろ俺の方が、裏があるんじゃ、なんて思えて来たが、それはきっとしてはいけないことだ。もしも俺をどうこうしようというのなら、身ぐるみを剥いでそれで終わりだろう。わざわざ布団に寝かせてくれるはずがない。
……今は、素直にこの好意に甘えよう。これからのことは、落ち着いてから考えればいい。まず絶対にするべきこととして、この子への恩返しがあるが――。
「さて、お腹が空きましたよね。今は朝の八時ですよ。朝食を作りますから、ちょっと待っててください」
「そんな時間だったのか。それで、喫茶店って言ってたな……わざわざここにまで運んでもらうのは悪いし、俺も店の方に行くよ」
「いえ、長郷さんは起きたばっかりですし、頭も打っていたんですよ。もうしばらくはベッドの上で絶対安静です」
「そうか?本当、申し訳ない」
「いいんですよ。元気な人が働かないと。――では、ぱぱっと作っちゃいますから、十分ぐらい待っていてくださいね」
猫のようにするりと、蓮香――さんは部屋を出て行ってしまった。
一人きりになった辺りで、今一度、自分の置かれた状況について整理してみることにした。とはいえ、俺自身のことがわからないのだから、俺がまとめられるのは蓮香さんから与えられた情報ばかりだ。
彼女はさっき、ここが日本だと言った。確かに彼女の名前も日本的なものだったし、ここが日本であることは間違いないだろう。そして、俺もまず間違いなく日本人だ。名前が完全にそうだし。
今、俺がいるこの部屋は、どこか生活感がない感じがするので、来客用の部屋か何かだろう。内装は洋風だが、喫茶店ならそれも納得出来る。それで時間は朝の八時だったか。俺が発見されたのは、深夜か早朝だったのか?あまり気にすることではないかもしれないが、一応聞いておくべきだった。
ともかく俺は、蓮香さんとその父親が経営するという喫茶店で、しばらくの間は預かってもらえるようだ。確かに俺は記憶がないし、仮に警察に連れて行かれたところで、上手く話せる自信はない。家族から捜索願が出ていてもおかしくないが、では、どうして俺は行き倒れていたのか。
事故ならば家族の元に戻るべきだろうが、家出だったとしたら、記憶を失う前の俺にとってそれは望ましくないことだし、俺が天涯孤独で、一人あてもなく旅をしていた可能性だってある。いささかファンタジーが過ぎるような気もするが、可能性の話をするなら自由だ。
いずれにせよ、何も蓮香さんはなんとなくの思いつきで、俺を個人的に引き取ったのではないようだ。色々な可能性を考えた上で、本気で俺のことを考えてくれたように思う。ちょっと照れくさいけど、かなり可愛かったし、あんな子に世話を焼いてもらえるのは嬉しい。
……という感じで整理は十分だろうか。それにしても、あの蓮香さんの年頃はいくつぐらいだろうか。俺はたぶん、高校生をやっているような年齢なのだと思う。それより上か、下か。
小柄だし童顔だったものの、正直、恥ずかしながら彼女を見た時、最初に俺は胸に目を向けてしまった。薄手のブラウスを着ていたせいもあるのだろうが、かなり大きかったと思う。あれだけ立派な胸を持っていて、中学生や高校生だと言われたら困惑することしかできない。とはいえ、最近の子どもは早熟と言うし、もしや中学生、更にもしかすれば、小学生の線も……さすがにそれはないか。あったら困る。
「それに、いい匂いだったな」
ほんの少しの間、彼女の顔がすぐ近くにあった。あの時に香った匂いは、俗にいう女の子の匂いってやつなのではないだろうか。むさ苦しい俺のような男には絶対に縁のない、甘く麗しい香りだった。そういえば、彼女の名前は蓮が香る、と書いて蓮香さんだったか。蓮の花の匂いなんて嗅いだことはないけど、ああいう匂いなのだろうか。
果たして記憶を失うまでの俺が、女の子に縁のある生活をしていたのか。それは謎でしかないが、少なくとも今の俺は、唐突に始まった美少女との生活にドキドキしていた。もしかすると、あの子が毎日起こしてくれたり、料理を作ってくれたりするのだろうか。もしもそうなら、これほど楽しみなこともちょっとない。
さっきは頭がぼーっとしていて、自分でもよくわからないことを口にしていた気がするが、今度からはどういう風に接したものか。まずは朝食のお礼を言うとして、俺の方に話題がないのだから、彼女のことを聞きつつも――
「長郷さん。起きていますか?」
突然、扉が開いたと思ったら蓮香さんが入って来た。手にはお盆を持っていて、その上にあるのはトーストの乗った皿と、ベーコンとレタスのサラダが乗せられた皿。それから、殻付きのゆでたまごがあった。
「寝起きなのにパンはちょっと食べづらいかもしれませんが、我が家の朝食はいつもこうなので我慢してくださいね。それから、あたしは朝食の時にカフェオレを飲むのですが、長郷さんもそれでいいですか?ただのミルクだけや、ブラックコーヒーでも大丈夫ですよ」
「あ、ああ、えっと、カフェオレで。どうもありがとう」
「いえいえ。では、すぐに用意しますね」
お盆をベッドの近くにあった小さな棚の上に置き、またさっさと蓮香さんは出て行った。ウェイトレスとして鍛えられているからなのか、とにかく動きの俊敏さが目立つ子だ。見た目はふんわりとしているのに、意外なほど素早い。
「これが朝食、か」
なんとなく、用意してもらった献立を改めて見直す。そのまま店で出しても通用するような見事な洋風朝食であり、うっすらと焦げ目の付いたベーコンも、見た限り中々に高級そうだ。そういえば腹も減っていることだし、食べるのが楽しみだ。
「お待たせしました。もしもおかわりが必要でしたら、言ってくださいね。パンはいくらでもありますから」
「喫茶店だから、か。どうもありがとう」
「そういうことです。お口に合いますか?」
しかし喉がカラカラだ。まずは大きなグラスいっぱいに入ったカフェオレを飲むというより、喉へと流し込んでいく。それでも、かなりミルクで薄められているとはいえ、しっかりとしたコーヒーの香りが鼻をくすぐる。喫茶店ということは、これはきっと既成品ではなく、きちんと自分の店で豆を挽いて作ったものなのだろう。なんという銘柄かはわからないが、上品な酸味が実に美味い。
次にトーストをかじり、肉が食べたくなったのでベーコンも口に運ぶ。シンプルな塩コショウによる味付けで、バタートーストのアテとしては丁度いい薄味だ。レタスにかかっているソースは、これも自家製のものだろうか。マヨネーズベースらしいが、トマトかニンジンのような赤色の野菜のペーストも混ぜているようだ。
「うん、美味い。蓮香さんは料理が上手いんだな」
「ありがとうございます。でも、こんなの料理に入りませんよ。それに、あたしはお店で料理は作っていませんし、そんなに自信もないんです」
「料理を作るのは親父さんなのか。――そうだ、きちんと挨拶をしたいんだけど、親父さんは?」
「今はちょっと外出しています。開店時間の九時の少し前には戻るので、その時にでも」
ふと時計を見ると、八時半になろうとしているところだった。ということは、もうすぐ帰って来るのだろう。
「わかった。……よし、ごちそうさまでした」
「量は足りましたか?遠慮はしてもらわなくてもいいんですよ」
「そこまで腹が減ってる訳じゃないから、もう大丈夫。って、ゆでたまごがまだだったな。これもいただくよ」
一瞬、どうやって食べたものかと迷ってしまったが、すぐに殻を割ればいいんだと思い出す。……参ったな、こういう日常的な記憶も、ところどころは怪しいのか?すぐに思い出せたからよかったが、やっぱり俺はしばらく、ここでお世話になる必要があるらしい。これで日常生活ができるかは不安過ぎるからな。
「軽く半熟にしているのですが、大丈夫でしたか?」
「ああ、大丈夫。むしろこの方が好きだよ」
「それはよかった。あたし、ゆでたまごは半熟が大好きで、この加減だけはすごく得意なんです」
顔を赤くして、照れ臭そうに言う。その表情がなんだかはまっていて、輪をかけて可愛らしい。意外と彼女はいたずらな性格なのかもしれないと思った。
俺の食事が終わると、やはり蓮香さんはてきぱきとお盆を持って出て行く。今度は自分の食事をするのだろう。部屋を出る前に。
「父が戻ったら、お連れしますね。それまではゆっくりとされていてください。無理に挨拶は今いりませんから、眠たいようでしたら寝ていただいても大丈夫ですよ」
と言い残していった。
結局、彼女は俺がきちんと食事出来るかを見るため、自分が食べるのを後回しにしてくれたんだな。その心遣いがなんともいじらしくて、やはり申し訳なくなってしまう。俺はまだ彼女のことを全然知らないのに、こんなにも尽くしてもらえるだなんて。
可愛い子に世話をしてもらっているのだから、男として気をよくするのが普通かもしれないが、蓮香さんがあんまりに親切なので、逆に気を遣ってしまう。といっても、今の俺は本当に何も出来ない身の上なんだが。
――それにしても、蓮香さんの父とは、どういう人物なのだろう。
喫茶店のマスターということになるのだから、順当に想像すればヒゲを生やしたダンディな人、といった感じか。案外、娘と同様に若々しい美形で、言われなければ大きな娘がいる年齢には思えない人物かもしれない。逆に、思い切りお爺さんの老練なマスターだとか……。
俺の直接の恩人ともなる人物のことをあれこれ考えていると、自然とまぶたが重くなって来てしまった。蓮香さんもああ言っていたし、眠たければ眠るべきか。いや、でも少しぐらいはマスターの顔を見てから寝るべきか……。
必死にまぶたを持ち上げようとするが、その抵抗も長くは続かず、遂には完全に視界が真っ黒に染まる。後はもう、意識も遠ざかっていくだけだった。体は泥のように重くなり、布団が更に柔らかく体を包んでくれる気がする。睡魔との敗北の数秒後、俺は完全に眠りに就いていた。
2
記憶がない俺が見ていた夢とは、どんなものなのだろう。
目が覚めた時には、記憶喪失者の見る夢だなんていう貴重なものの記憶も、完全に抜け落ちてしまっていた。ある意味、人は普通に生活していても、こうして日常的に記憶を失っている。
夢のことなんて覚えている意味がないし、いちいち覚えていたらどうにかなってしまいそうだから、なるべくしてそうなっていることなんだろう。ということは、俺の記憶が消えたのも……?
なんて考えてしまうが、思い出せるものなら思い出してみたい。それまでの俺の人生が、丸っきり欠けているということを意味するのだからな。それはあんまりだ。
まだぼんやりとする頭で、改めて部屋を見返してみる。電気は当然消えていて、真っ暗だ。ということは夜、ずいぶんと寝た気がするから、深夜だろうか。壁際のハンガーに黒い服が見える。はっきりと形はわからないが、学ランだろうか。なら、あれは俺が倒れた時に着ていた服だと予想が付く。
まだ夜目が効かないので手触りで判断するに、俺はワイシャツの中に肌着としてランニングを着ていて、下には長いズボンをはいている。これが俺の通っていた学校の制服なのだろう。なら、俺は下校中に行き倒れたのか?
それもなんだかしっくり来ないが、修学旅行か何かに着ていたとしても、制服で散策するとは考えがたい。年齢的には多分、高校生なんだろうが……自分の歳の記憶すらないものだから、確証は持てない。
制服なんて、一番自分のことを知る上で手がかりになりそうなものだが、行き倒れという状況と組み合わさることで、余計に事情をややこしくさせている気がする。ああ、でも下校中という線はなさそうだ。この近くに住んでいたのなら、蓮香さん達と面識がある可能性も高い。俺は喫茶店に頻繁に行くような人間じゃなかった気はするが、同じ街に住んでいればなんとなくわかるはずだ。
蓮香さん達も、何か手がかりになりそうなものがあればきちんと確認するはずだから、制服に学校名が書かれたりはしていないはずだ。後、財布は誰かに盗まれたのかもしれない。どんな人生を送っていたかは忘れたが、学生証なりどこかの店のカードなり、名前や住所がわかりそうなものはあるはずだし、それは第一に確かめようとするに違いない。
「体は……普通に動くな」
上体を起こしてみて、そのままベッドから起き上がって軽く伸びをしてみる。これといって体の節々が痛いとか、特別なだるさとかはない。少なくとも病気ではなく、何か大怪我をした訳でもないらしい。そういえば、頭を打っていたとは聞いた。後頭部を触ってみると、確かに今はかなりマシになっているが、不自然な膨らみがある。今気付いたが、枕の上には冷却シートが敷かれていたようだ。もう中身は溶けてぬるくなっているが、これも蓮香さんがやってくれたのだろう。
まだ眠っていた方がいい時間なんだろうが、どうにも頭が冴えて来てしまった。眠る前にきちんと状況整理をしたつもりだったが、まだまだ考えるべきこともあるだろうし、もう少し起きていることにしよう。
もう少しだけ、この店のことなども知りたいが、住人達はもう眠っているのだろうか。暗さに慣れて来た目が、壁かけ時計の時刻を読み取ると、二時を少し過ぎたところだった。草木も眠る丑三つ時、ってやつだ。
考え事をするには、これぐらい静かな時間の方がいいかもしれない……そう思いつつ、ベッドに座り直す。ほとんど使われていないのか、スプリングがよく利いているのがわかる。この喫茶店が何年ぐらい続いている店なのかはわからないが、少なくともこの部屋は奇麗だし、比較的新しい店なのかもしれない。なら、このベッドは俺が初めて使っているのかもしれないな。
「起きていたんだな。物音がしたから来てみたんだけど、泥棒じゃなくてよかった」
どうでもいい想像をしていると、扉が開いて見知らぬ男性が入って来た。いや、見たことはないが、これが誰なのか想像することは出来る。
「あ、えっと、こんばんは。ありがとうございます」
「どうも、こんばんは。こんな暗い中で話すのも難だし、電気、点けていいかな」
「はい、もちろん」
小気味いい音と共にスイッチがONになり、電灯の光が部屋を満たす。それと同時に男性の姿が明らかになって、想像とは異なるその正体に思わず後ずさりしかけた。
「やあ、驚いたかな。蓮香とはもう話したそうだからね。――私……いや、改まったのはいいか、オレが望見秋広、蓮香の父だよ」
「はい……。長郷燎太です」
喫茶店のマスター、望見秋広さんの容姿は、若々しいにもほどがある、と思うほど若く、どう考えても青年としか言えない。蓮香さんのような大きな娘を作るには、それこそ結婚が出来る歳になる前に子どもを作り、その後で結婚でもしない限りは不可能だ。三十代とはとても思えないから、順当な年齢で結婚、子どもを作っていたのでは説明がつかない。
「まあまあ、そう訝しんでくれなくていい。蓮香はオレの実の娘じゃないんだ。彼女も、身寄りのない忘れられた子でね……初めはここに住み込みで働いていてもらっていたんだが、しばらくしてから家族にすることを決めたんだ。父というよりは兄のような歳の差だが、親子という形の方がやりやすかったからね。……ま、オレも子どもを作る前に、ワイフを失ったからね。ちょうどよかったってもんだ」
「そうだったんですか……」
最後の秋広さんは茶化すような表情だったので、奥さんを亡くしたとか、そういう重い話ではないらしい。いわゆる「逃げられた」というやつなのだろうか……そんなことをされる人物だとは考えたいが。
「さて、忘れられた子についてはその辺りとして、忘れてしまった子のことを聞いておこう。どうも記憶がはっきりしないらしいが、その後はどうだい。何か思い出せたことは」
「いえ……名前以外はどうにも。思い出そうとすると、痛み、っていうんでしょうか。本当に頭痛がする訳じゃないんですけど、脳が思い出すのを拒んでいるような気がして、どうしてもそれ以上は無理なんです」
「そうか。オレは君のような症状には全く無知だけど、思い出せるものなら、ある日突然、知っているのが当たり前のように思い出せることだろう。それか、脳が忘れて、隠したがっているのなら、思い出さない方がいいのかもしれない。ともかく、あんまり気に病まないことだ。もう蓮香からは聞いているだろうが、しばらく……いや、いつまでだって君を置いてあげることは出来るから」
「ありがとうございます。でも、本当にいいんですか?」
お世話になる以上は、俺も店の手伝いはしたいと考えている。それでも、十分にもう人手は足りていそうだし、恩返しとしては不十分だろう。やはり、どうしても申し訳ない気持ちがある。
「なに、蓮香を育てるようになってかなり生活も変わったけど、それでも案外上手くやれたんだ。一人ぐらい増えても問題はないさ。それに、自慢じゃないけどウチは常連さんにも恵まれて、中々稼がせてもらっていてね。ローカル番組だけど、テレビの取材も受けたんだ。……それに何より、看板娘がとびきりの美少女だから。って、これは親バカか」
「は、ははっ。でも、本当にそうですよね」
俺もドキドキしました、と続けるのはさすがに自重した。自分で言うぐらいなのだから、本当に秋広さんは蓮香さんのことを溺愛しているんだろう。下手なことを言って、娘を狙っているだなんて思われたくない。
「可愛いし、優しいし、本当によく出来た子だよ。……どうして独りになったのか、理解できないぐらいに」
秋広さんの言う“忘れられた子”というのは、捨て子という意味なのだろうか。どうやら蓮香さんはかなり大きくなってから、家族と離れ離れになったようだけど、幼い時にそうなるのとはまた別の辛さがありそうだ。……だからこそ彼女は、俺にここまで優しくしてくれるのかもしれない。
「まあ、それじゃあ、ゆっくり休んでくれればいい。この部屋は普段は使っていないから、そのまま君の部屋として使ってもらおう。家の間取りや、これからについてはまた明日、仕事が一段落してから話すとしよう。それでいいね?」
「はい。本当にありがとうございます」
「そんなに固くならなくてもいい。オレにしてみれば蓮香の時に経験したことだし、蓮香にとっても自分がされたことを、今度は人にしているんだ。……ああ、それよりも、蓮香のことを少しだけ話しておこう。あの子は十六歳、本当なら高校二年生だけど、学校には通っていない。それなりの原因があってね。だから、出来るだけあの子の前で学校の話とかはしないでもらえないか。多分、それなりにあの子の中では決着も付いているんだろうけど」
「わかりました」
そこを深く詮索することはなく、素直に頷くと秋広さんも安心したように電気を消し、部屋から出て行った。また暗闇と静けさが部屋の中に戻って来る。
想像よりずっと若かったここの家主は、必ずしも平坦な日々を送って来ていた訳ではなさそうだ。それに、蓮香さんのことも知ることになった。俺とは違い自分の記憶を持ちながらも、全く別の家族と暮らしている彼女は、どんな気持ちで俺を助け、一緒に生活をすることまで決めたのだろう。
俺には想像してみることも出来ない。それほど、彼女は特別な人生を歩んで来ている。
なら、俺がこうして記憶を失ったことも、実はそう珍しいことではないのかもしれない。世間の他の人達は、意外に想像出来ないほど大変な生き方をしているんじゃないだろうか。
そう解釈してみると、ぐっと気が楽になった。とりあえず、色々な悩み事も全て放っておいて、布団に体を預ける。あれだけ目が冴えてしまっていたのに、心地よい眠りは案外早くにやって来た。今はこれでいい。眠れるだけ、眠っておけば。待てば海路の日和あり、なんて言葉を思い出していた。
3
翌朝の目覚めは、ずいぶんとさっぱりしたものだった。かかっている場所も完全に覚えた時計を読み取ると、七時。あれから五時間もぐっすり眠れたという訳だ。ということは、俺は昨日という日をほとんど寝て過ごした訳だが、このままだと人として駄目になってしまいそうだ。
とにかく、起きて動かなければ。
そんな使命感に突き動かされ、ベッドから起き上がって伸びをする。やっぱり体に異常はない。後頭部に手を当ててみると、もうこぶもかなり引っ込んだようだ。しかし、俺は倒れる時に仰向けだったんだな。足元に何かあって、それで転んだんだろうか。もしそうなら、俺は相当に参っていたらしい。
カーテンを開け、窓の外の景色を見てみると、ここが一階であることがわかる。単純に考えれば、喫茶店のスペースも一階にあることだろう。だから昨日、蓮香さんは朝食やカフェオレを用意して、すぐにこの部屋に戻って来れた訳だ。状況的に、窓の外を見なくても推理出来たことだったんだな。
一人、ふんふんと納得しながら、遂に部屋の外へと一歩踏み出してみる。本当は誰かが来るまで大人しくしているのが賢いんだろうけども、家の中を歩いていれば誰かに会うだろう。そうして、もうすっかり大丈夫なところをアピールしたい。
部屋を出ると、まずは廊下に出る。とはいえ、あまり道幅はなく、いかにも店屋さんの裏側、といった雰囲気だ。すぐそこにあるちょっと立派そうな扉が、そのまま喫茶店に繋がっているんだろう。とすると、親子の部屋は二階だろうか。その階段は廊下の突き当たりにあるのがわかる。まあ、俺も完全な馬鹿ではないつもりだから、いきなり二階に上がり、適当に扉を開けまくるようなことはしない。
もう蓮香さんは起きているだろうが、うっかり彼女の着替え現場に遭遇でもしたら、俺は早くもこの家を追い出されるかもしれない。主に秋広さんの権限によって。
そういう訳だから、喫茶店へと出てみる。確実に蓮香さん達が来る場所だろうし、くつろぐのにもいい。まさか俺がいるとは思っていないだろうから驚かれるだろうが、それこそが狙いでもある。俺の体はもう問題ないし、心の方も……すっかりとまではいかないが、整理がそれなりに付いた。まずはこの生活をめいっぱい楽しもう、そう思えている。
――扉を開けた。想像通り、全体的にクラシックな雰囲気でまとめられた瀟洒な店内には、趣味のいい調度品や、奇麗に並べられたカップ達が覗ける食器棚などが配置されている。決して派手さはないが、喫茶店にそんなものは求められないだろうし、最上の彩りはここでウェイトレスを務めている少女だ。彼女が一人いるだけで、華やかさが大きく加算される。
そして、その少女がなぜか俺に下着姿を見せ付けていた。ブラウスをはだけさせて、下半身には下着以外に何も付けず、呆気に取られた表情で。
「あっ、ええと、おはよう」
挨拶の後、全力で扉の外へと引き返す。これ以上、その姿を見てはいけない。本能は見たがっているが、理性はそれを許さなかった。なぜか?――二人の関係を一撃で崩しかねないからだ。
幸運だったのは、あんまりにびっくりしてしまったものだからか、蓮香さんが叫んだりしなかったことだ。これで、当事者が誰かに話さない限りは誰もこのことを知り得ない。
……それにしても、まさか蓮香さんが自室ではなく、喫茶店スペースで着替えをしているだなんて。いや、それはある意味で普通のことなのか。今まで、この家には彼女と父親しかいなかった。その父親も、どうやら朝は出かけているらしいし、まあ、親子だから下着姿ぐらいは見られてもいい、という気持ちはあるのかもしれない。血が繋がっていないとはいえ。
いやいや、それにしても、やっぱりこれは蓮香さんが少しずぼら過ぎないか?着替えなんて、自室で終えてから店に出ればいいだろう。それをどうしてわざわざ下に降りてからする?私服を下に置いておく意味があるのか?いや、あるのかもしれないが……。
ああ、わかっている。今回のは俺が全て悪い。何もこの家の「当たり前」を知らない状態で、軽率な行動を取ってしまった。蓮香さん的には、俺は割り当てられた部屋で静かに寝ているはずだった。まさか俺が襲撃して来るだなんて、考えもしなかったことだろう。そうだ、俺が悪い。俺が悪いんだから、謝らなければ。しかも相手は命の恩人なのだから。
「蓮香さん。ごめんなさい」
扉は見た目の立派さの通り、その厚さもずいぶんとあった。だから少し大声を上げて伝える。
『いえ……』
返って来た声は弱々しいものだったが、蓮香さんの声はよく通るようだ。はっきりと言葉は伝わる。
『もう、いいですよ』
言われるがままに扉を開ける。そこには、少しだけ頬を赤く染めた蓮香さんがいて、もちろん、着替えは完了してウェイトレスの制服姿になっている。ずいぶんとシンプルな、装飾らしいものは胸元の黒いリボンと、袖口のフリルぐらいしかない、どことなくクラシックなメイド服を思わせる服装だ。色も黒と白のモノトーンだし、店の雰囲気とよく合っている。
……が、やはり彼女の顔をまともに見ることは出来ず、視線を泳がせば、胸の方に吸い寄せられてしまう。年齢や体型にしては、破格とさえ言える大きさの胸は、可愛らしいリボン付きの下着に覆われていた。その下着の白と、リボンのピンク色がどうにも忘れられない。
「さっきは、本当にごめんなさい」
目を見ることは出来なかったが、土下座をする勢いで頭を下げた。
眼福だったかそうでないかで言えば、間違いなく前者だが、申し訳ないという気持ちでいっぱいだ。そう思ったからこそ、記憶にあるのは上だけで、下のことはまるで覚えていないし、見てもいない。ブラジャーを見てしまったのも、たまたまそこに胸があったからであり、本当は見たくはなかった。いや、見たかったけども、こんな形で見るのは卑怯だ。……段々、俺は何を考えているのかわからなくなって来たが。
「い、いえ、お気になさらず。私が軽率過ぎたんです。これからは、長郷さんとも一緒に暮らすのだとわかっていたのに」
顔を上げるように身振りで促す蓮香さんは、もう顔の赤さも取れていた。明るい微笑が湛えられていて、心を癒してくれる。
「一応、弁明をさせてもらいますと、あたしがものぐさだったから、このようなことをしていたのではないのです。あたしはお仕事の都合上、別のお店に出入りすることもあるので、その時までこの制服で行くのはまずいから着替えを用意しているんです。……とはいえ、やっぱり自室で着替えておくべきでした。これからはそうします」
「そんな、それこそ気にしないでいいから。俺はこの時間帯、絶対にここには入らないんで……」
なんとか気を遣わせまいとするが、蓮香さんは明確な返事はせず、微笑むだけだった。言ったことは曲げないつもりのようだ。優しくて丁寧なだけじゃなく、芯の強さもあるのは……境遇のせいなのだろうか。
「それはともかくとして、長郷さん。もう体の調子は良いのですか」
「うん、大丈夫。だから、俺にも店を手伝わせてくれないか。体を動かしている方が何か思い出せるかもしれないし」
「お手伝い、ですか。確かにその方がいいかもしれませんね。詳しくは父が戻って来てから三人で決めるとして、ではまず、お皿を用意してもらえますか。私は朝食を作りますから」
「わかった。メニューは昨日と同じ感じ?」
「はい。中皿を六枚、出してもらえればそれで足ります」
突然お願いしたのに、もう蓮香さんの中では喫茶店の業務は始まっているらしい。てきぱきと俺への指示を終え、自身は素早く制服の上に白いエプロンを着て厨房に立つ。すぐに冷蔵庫から卵が三つ取り出され、続いてロースハムがフライパンの上に並べられた。今日の朝食はハムエッグのようだ。
料理はあまりしないと昨日言っていたが、とてもそうとは思えない手際の良さだし、あくまで店で出す料理は作らない、ということだろう。家での食事は彼女が担当していると考えれば、熟練された動きも納得出来る。
――蓮香さんに感心しながらも、俺は俺の役目を果たさなければならない。皿を取り出していると、ふと店で使う食器をそのまま日常生活でも使っていることに気付いた。まだ開店していなくとも、これは一種の「まかない」のようなものなのかもしれない。とはいえ、まかないにしては十分過ぎるほど豪華か、とトースターがパンを焼き終わった音を聞きながら思った。
出来上がったハムエッグが皿の上に乗せられていく。トーストも同様にするのだろうが、蓮香さん一人でやっているので大きめの業務用トースターには、未だに三枚の食パンが詰め込まれていた。
「トーストは俺が準備するよ。バターはここに出ているやつでいいんだよな」
「あっ、ありがとうございます。お父さ……父は多めが好きなので、二欠片使ってあげてください」
いつもはそう呼んでいるのだろう、お父さんと言いかけて蓮香さんは顔を赤くした。そんなに恥ずかしくはない、普通の呼び方だろうに。ここまで来ると、俺のことを気にかけ過ぎているとしか言えないな。
「俺なんかに言葉遣いなんて気にしなくていいよ。普段通りの呼び方をすればいいし、俺のことだって、苗字でしかも、さん付けなんて、他人行儀な呼び方をしてくれなくても俺は構わないけど」
「そ、そうですか?……では、燎太、さん?」
蓮香さんの口が俺の名前を紡ぎ出した時、心臓を見えない手で強く握られたような感覚がした。それに呼応するように、血圧と脈拍数が一気に増えるのが自分でも感じられる。――まずい、軽くめまいすらして来たかもしれない。
どうして、同世代の女の子に名前を呼ばれるだけで、こうもドキドキしてしまうんだ。――暴力的なほどの、いわゆる胸のときめきだった。
「だ、大丈夫ですか!?」
「あ、ああ……。やっぱりその、いきなり名前で呼ばれるのはクるものなんだな。あのさ、名前はアレだから、苗字の呼び方を工夫してもらえないか」
「工夫……えっと、長郷くん、というのはどうですか」
「う、うん、それならいいな。それでいこう」
今度は血圧が上がることもなく、むしろ安定して来ている気がする。心臓の鼓動の速さも緩やかになって来た。苗字というのは多分、学校で何度だって呼ばれて来たものだから、特別な感情は湧き上がらないのだろう。名前は限られた友人にしか呼ばれないものだし、それを女の子に呼ばせるというのはやっぱりきつい。
「わかりました。あの、それなら長郷くん。あたしのことも……もうちょっとだけ、気軽に呼んでもらえませんか。さん付けにされるというのは、少し違和感があって」
「それもそうか。なら、やっぱりここは、蓮香ちゃん?」
「……ごめんなさい、なんだかすごく小さい子を呼ばれているみたいなんですが」
確かに。どうしてこうも俺の時は普通だったのに、相手が蓮香さんになった途端にこうも印象が違うのだろう。
かといって、まさか呼び捨てには出来ないし、日常的な敬称のバリエーションなんて、そうあるものじゃない。
「今は蓮香さん、ということでいいかな」
「そう、そうですね。他にあたしも何か良い呼び方は思いつきませんし。――あっ」
視線を空中に踊らせ、昔を思い出すようにしていた蓮香さんは、何かを思い出したようだった。が、すぐにその表情を曇らせてしまう。思い出すべきではないことだったのかもしれない。
「……何もありません。では、そのままの呼び方でお願いします」
「わかった。――っと、そうだ、バター、バター」
話し込んでいたので、少しトーストが冷めてしまっただろうか。中々溶けていかないバターをパンに塗り付けていると、鈴の音を響かせて玄関の扉が開いた。秋広さんが帰って来たのだった。
「もう起きていたのか、長郷君。朝食の準備まで手伝ってもらって悪いな」
「いえ、むしろ俺に出来ることであれば、なんだってやらせてください」
「それは頼もしいな。とはいえ、ウチはウェイトレス二人で間に合っているからな……これ以上で動かれてしまっても、逆に混み合ってしまう。だから、そうだな」
家に戻る途中で調達したのか、秋広さんは新聞紙を持っていた。それを何の気なしにいじりながら少し考え、カウンターにまでやって来た。
「レジ打ちと、忙しい時の配膳、というのはどうかな。料理やコーヒー、紅茶は全てオレが用意しているんだけど、その時に食器を出してもらって、トレーに乗せるところまでを君がやってくれると助かる。もちろん、暇な時はオレがやれるんだが、昼間やお茶の時間は次から次へと料理を作っていきたいからね。後、レジは今までは手の空いている方のウェイトレスがやっていたんだけど、それも専用の係が付けられると助かる」
「わかりました。それぐらいなら、問題なく出来ます」
「そうか。まあ、無理はしない程度に頑張ってくれ。軽いリハビリのようなものだという感覚でね。案外、こういうことをしている時に記憶が呼び起こされるかもしれないし」
確かに、俺がどういう経緯で記憶を失い、その前の生活がどうだったのかは、この場にいる誰にもわからない。でも俺はどうやら学生だったらしいし、飲食店でのバイトは経験していたかもしれないし、そうでなくても、ただじっとしているよりは働いていたい。
二人に心配されるほど体に心配はないんだが、頭を打っていたようだし、現に記憶の一部がなくなっているんだ。頭と体を使っている内に、他にも異常があったらそれがわかってくるだろう。
「ん、蓮香」
「はい、どうしました?」
「顔がちょっと赤いけど、風邪じゃないよな?それか、この長郷少年に何かされたか……」
「さ、されてませんっ。もう、お父さんってば何を言うんですか」
「いや、訳もなく蓮香が赤面するはずがないし、特に気だるそうでもないから、その線を疑ったんだけど。まあ、そういうことならいい。長郷君も、くれぐれも間違いはないようにな。言っておくがオレは、人を本気で殴り、骨の一本や二本をへし折ることに抵抗はないからな」
「……は、はぁ」
やたらとキレのあるシャドーボクシングを始める秋広さんを見ていると、あながち嘘じゃないみたいだ。……事故とはいえ、セクハラのような、そうでないようなことをしてしまった直後な訳だけど、絶対にこれをばらす訳にはいかないな。今度は記憶じゃなく、骨を失うことになる。
「なんて、冗談だよ、冗談。従業員が二人とも女の子だし、お客さんも女性が多くてね。あんまりにむさ苦しいのは嫌いだが、女性ばかりというのも中々に辛くて。本当、歓迎するよ。これからよろしく」
「そうだったんですか。よろしくお願いします」
ふと蓮香さんの方を見ると、曖昧に苦笑いをしている。本当に肩身が狭い思いをしていたんだな、秋広さん。確かに人から見れば羨ましい店だけど、いざ男が一人放り込まれてみると、中々に居づらそうな空間ではある。もう一人のウェイトレスの人にはまだ会っていないが――。
「ただ、歓迎はするけど、オレ個人としては不潔な男は嫌いだということも忘れないでもらいたい。だから長郷君、朝食の後はシャワーを浴びて来てもらおう。君は二日も風呂に入っていないことになるからな」
「あっ……」
すっかり忘れていたが、言われてみれば確かにそうだった。もう二日も行き倒れた服装のままで、髪も体も洗わずに過ごしている。人から改めてそのことを指摘されてしまうと、急に自分の全てが汚らしく思えて来てしまった。
「女性の制服はともかく、男子の制服のスペアはないから、とりあえずはオレの私服を着てくれればいい。ちょっと大きいかもしれないけどね。最後にいつ洗ったのかわからない学ランでの接客よりはマシだろう」
「は、はは……そうですね」
出来上がった朝食を適当な席に運び、そのまま一人で食べる。蓮香さんは俺に気を遣ってくれようとしていたけど、父親と二人で食べるのが習慣なのだろう。秋広さんに促されるがままに向い合って食べていた。でも正直、一人で食べることの寂しさよりも、蓮香さんと顔を突き合わせて食べることを免れた安心感の方が強かった。
俺はそんなに食べ方が汚いつもりはないけども、女の子と一緒の食事というのは緊張してしまう。正直、昨日の寝起き直後の食事も、腹が減っているから食べられたけど、じっと見られながら食べるのはかなりきつかった。しかも蓮香さんが料理を作った訳だしな……。
「風呂は廊下に出て、右の突き当たりだ。湯船にお湯は張ってないけど、まあゆっくりシャワーを浴びてくれ。その間に着替えは用意しておくから」
「はい、じゃあ失礼します」
「シャンプーやボディソープは自由に使ってくれていいよ。どうせ浴室に置いてあるのはオレのだからね」
……わざわざそんなことを言うということは、俺が蓮香さんと同じものを使うことで興奮するようなやつ、と思われていたのだろうか。いや、考え過ぎか。ともかく身も心もさっぱりすっきりとさせてもらおう。
4
この喫茶店の店名は「明日見の丘」というらしい。妙に詩的で、喫茶店としては珍しい名前だと思って由来を聞くと。
「いや、深い意味はないんだ。ただ、オレの苗字が“望見”だろう?“望み”があるのは未来、それを“見る”んだから、明日見、ってことだ。で、明日なんて遠いものを見るためには丘に上らないといけないだろ?だから、明日見の丘。それだけだよ」
と、聞いてみてもわかったような、わからなかったような感じだ。営業時間は午前九時から午後八時まで。午前十時から午後一時まではランチタイムで、三時代だけティータイムということで、ケーキ類が一割引になる。当然、女性客が増えるそうだ。
これといって看板メニューと呼べるものはないが、やはり落ち着いた店の雰囲気と、女性ウェイトレスが美人で、かついわゆるメイド喫茶のような「あざとさ」もない、ということで女性客の人気を得ている。マスターが若くて容姿もよく、今は奥さんがいない、というのも成人女性を惹き付けるそうだ。
……と、これ等は全て秋広さんが言ったことなので、信ぴょう性はわからない。でも秋広さんが格好いい容姿をしているのは事実だし、蓮香さんが飛び抜けた美少女だというのにも異論はない。後、わからないのはもう一人のウェイトレスのことぐらいだ。
「ところでこの服、本当に似合ってますか?」
まだ八時、開店までには時間があるが、どうにも俺が着ることになった秋広さんの服は、その……。
「ああ、よく似合っているよ。蓮香もそう思うだろ?」
「は、はい。すごくよくお似合いで、えっと……売れているホストさんみたいです」
「やっぱ、そうだよな……」
よりによって秋広さんがチョイスしたのは、薄いピンク色のシャツと、黒いベスト、それから同じく黒いネクタイだった。
ベストという点に、なんとか喫茶店らしさを取り繕った最後の良心は見えるが、ピンク色のシャツって。確実にこれは向こう側の「飲食店」にいる兄さんの着るものだ。というか、どうして秋広さんはこんなのを持っていた。実は元々は、そっちの人だった……と言っても通用しそうだから困る。
「それだけ色男に見える、ってことだよ。これじゃあ、オレのファンが長郷君に流れそうで困るなぁ、はっはっはっ」
思いっきり棒読みで笑う。完全に楽しんでいるな、この人。真面目な蓮香さんとは対照的なお父さんで、逆にそれらしいというか、なんというか。
「まあ、そう心配してくれるな。君の制服はすぐに注文するから、数日もすればまともな服を着れるさ」
「今のがまともじゃないっていう自覚はあるんですね」
「いや、そりゃあね。オレが買って、結局は一度も着なかった服だからな。でもその方が、他の男が一度着た服を着る、なんて屈辱を味あわなくて住むだろう?」
「使用感がないのは、それが理由なんですね。……一応、お気遣い、感謝します」
「なに、廃品処理みたいなものだから気にしないでくれ」
「本当、気にしないことにしますよ…………」
どこまで本気なのかわからないが、いずれにせよ、話していて退屈しない人だ。
「さて、そろそろヘンリーも来るかな。長郷君のことはもう連絡してあるから、普通に接すればいいよ。彼女にはただの新しいバイト、ただし住み込み。ということにしてあるから」
「ヘンリーさん……もう一人のウェイトレスの人ですね。外国人の人なんですか?」
「詳しくは実際に会えばわかるよ。オレからはあえて説明を省かせてもらおう」
なんとも気になる言い方だけど、確かに百聞は一見にしかずともいうし、会って話してみるのが一番だろう。ウェイトレスを普通にやれているということは、日本語も通じるんだろうし。
――数分後、からん、と「明日見の丘」の扉に取り付けられた鈴が鳴る。うるさ過ぎないその音は、朝の鳥の鳴き声と調和していた。
「おはようございまーす!本日もヘンリー、参りましたー!」
「おはよう、ヘンリー。今日からは昨日話したバイト君も一緒だよ」
「おはようございます。ジェイムズさん」
上品な鈴の音とは反対に、入って来た女性の声と見た目はあまりにも華やかで、突然の暴風のような激しさがあった。金色の髪が店内を照らす照明の光を反射していて、一段と明るさが増した気がする。
「マスターも、レンカちゃんも、おはよー!それで、こっちがミスターナガサト?」
「は、はい。長郷燎太です。おはようございます」
「リョータくんね、おーけーおーけー。ワタシはヘンリエッタ・ジェイムズ。アメリカ人ですよー。もうわかってもらった通り、日本語は全然喋られるからご安心くださーい。ワタシのことは気軽にヘンリー、って呼んでねー」
「あっ、はい。ヘンリーさん」
「のーのー。ヘンリーって呼び捨てがいいよー。名前にMrとかMsとか付けないでしょ?Mr.Tomなんて言葉遣いしてる教科書があったんですかー?」
「わ、わかりました。ヘンリー、って呼びますね」
さすが外国人、とでも言ったところだろうか。とにかく押しが強い。いや、強過ぎる。ほとんど俺の意見を言う前に、呼び方まで決められてしまった。秋広さんと話した時点で軽い疲れはあったけど、この疲労度はその比じゃない。恐るべし、アメリカ人のナチュラルハイ。というか、ヘンリーは何歳ぐらいなのだろう。
小柄な蓮香さんと比べると、その身長はずいぶん高く見える。俺と同じぐらいか、それより少し高いかもしれない。長い金髪をポニーテールにしていて、そのせいかとにかく活発そうに見える。いや、事実としてものすごくパワフルな人だが。
出るべきところは出て、締まるべきところが締まったその抜群なスタイルは、さすがといったところか。蓮香さんも見事なスタイルだと思ったのに、それ以上にメリハリのある体つきは、下品な言い方かもしれないがとにかく魅惑的だ。正直、ウェイトレスというよりは、バニーガールやレースクイーンの姿の方が似合うんじゃ、と思うほどに。
見た目はすっかり大人のそれに見えるが、性格には幼さもあるので、そんなに俺達と歳は変わらないのかもしれないな。余裕があれば聞いてみてもいいだろう。本人には難しくても、蓮香さん辺りに聞けばいい。
「それじゃ、着替えてきまーす」
「ああ。よろしく頼むよ」
一人たじたじになっていた俺だが、秋広さんと蓮香さんにとっては当たり前のことなのだろう。特に動揺を見せることもなく、着々と開店準備を進めていく。
「すごい人ですね……」
「まあ、最初はそう思うだろうね。でも、ああいう風に見えて、すごくよく気が付く子でね。働いている時はもう少し大人しいし、いい子なのは間違いないよ。ただ、そうだな……長郷君というおもちゃを得て、それで思い切り遊ばないかは心配ではあるな」
「お、おもちゃ……」
どういう扱いを受けるのかは、なんとなく予想が出来てしまう。
だけれど、ヘンリーがああいう人だったことには安心も出来た。俺は彼女にしてみれば、突然現れた異邦者だ。その素性に関して詮索して来てもおかしくはないのに、あの文なら自然に受け入れてくれるのだろう。彼女のおおらかな性格には感謝しなければ。
「長郷さん。ちょっといいですか」
「ん、他にも誰か来るのか?」
「ええ……。いわゆる、このお店の常連さんのことです。いつも開店と同時にいらっしゃって、ずっとあの席を陣取っている人なのですが」
蓮香さんが手で示したのは、窓際のよく陽の光が射し込む席だった。カーテンもあるので、眩しいようなら調整することも出来る。店の隅なので目立たないと言えば目立たない席ではあるものの、それだけに一番落ち着けそうないい席だ。
「その人は少々。いえ、すごく気難しい人なんです。基本的にあたしがお世話しますが、もしもあたしが抜けるようなことがあれば、間違ってもジェイムズさんには任さず、長郷さんが接客するようにお願いします。最大限の礼儀を尽くせば、怒り出しはしない人なので」
「な、なるほど。ちなみにどんな人なんだ?見た目とか、職業とか」
気難しい、とあらかじめ言われてしまうと身構えてしまうものの、それと同時に気になっても来る。ずっと喫茶店にいるということは、少なくとも会社に勤めているような人じゃないのは確かだ。おしゃれな喫茶店で創作に励む、芸術家の類だとは思うけど――。
「詩人で、すごく小柄な――あたしが言うのも変ですが、子どものような体型の人です。そういう訳ですから、子ども扱いされることにいちいち腹を立てたりはしませんが、職業柄か言葉遣いには神経質で。敬語の間違いとかまでは色々言いませんけど、とにかく丁寧な接客が必要なんです」
「そういうことなら、確かにヘンリーはちょっとアレだな……」
日本語は流暢だったが、あの押しの強さと明るさだ。ぐいぐい行くあまりに地雷を踏み抜く可能性も高い。どういう対応をしていれば怒られないかはまだイメージ出来ないが、その辺りは蓮香さんを見て学習させてもらおう。
「あの子は、オレのいわゆる幼なじみなんだよ。と言っても、家が近所とかじゃなく、小学校が同じだった、ってだけの繋がりだけど。それでも律儀にウチをご贔屓にしてくれてるんだから、義理堅いっていうか、なんというか。ありがたいことだけどね」
「へぇ…………」
喫茶店というのは、適当な場所でほい、と開業しても上手くいかなそうだ、ということはなんとなくわかっていた。飲食店なのは確かだけど、普通の料理を出すような店とは少し毛色が違っている。
その常連の人のような、地域の人が頻繁に通ってくれるからこそ、成り立っているものなのだろう。そして、そういう人の心を掴んで離さない努力はもちろん、初めての人にまた来たいと思ってくれるサービスも提供しないと。……自分で考えていてかなり緊張して来たが、なんとかやり遂げなければ。
なに、どうせ俺はレジ打ちをするぐらいだし、そこまで接客には関わらないだろう。会計の時に礼儀を忘れずに接して、お客さんにきちんとお礼を言って……そういう感じで良いはずだ。
「おまたせー!さっきは触れなかったけど、リョータくんはやくざなスタイルだねー!」
「や、やくざ……」
そういう風に見ることも出来るか、確かに……。なんだろう、ホストと言われた時よりもショックが大きい。
「マスターの趣味だよねー?チンピラみたいだけど、中々に似合ってるとワタシは思うよー」
「ど、どんどんランク落ちて行ってませんか、それ」
「まあ、すぐに彼の分の制服も用意するよ。それにウチの売りは、ウェイトレスの可愛さだからね。男の子のこと気に留める人なんてそういないさ」
「……いよいよ俺、存在意義を問われ始めて来た気がするんですが」
「いやいや、君がいてくれて助かるよ?多分」
事実として俺は、まだ何一つとしてこの店に貢献出来ていないのだから、秋広さんが言うことは正しい。存在意義を示すのは、俺自身の働きだけだ。
「お父さん。そろそろ」
「おっ、そうか。――よし、明日見の丘、本日も開店だ!」
蓮香さんが店の外に出て行く。よく見るOPENの札を店の扉にかけ直すためなのだろう。
こうして俺がこの店で過ごす第一日が始まった。
5
「足羽唯月よ。まあペンネームだけど、基本的にこの名前で呼ばれているから、あなたもそう呼ぶといいわ」
「あっ、はい。わかりました。俺は長郷燎太です」
「あら、自己紹介なんていらなかったのに。あなたはあなた、わざわざ他人と区別する必要性を感じないわ。残りの店員はきちんと名前で呼んでいるもの」
「は、はあ」
店が開いたかと思うと、本当にすぐに一人の女性がやって来た。蓮香さんが開けた扉から入って来たその人は、どう見ても十代の半ばのものでしかない体を、軽く汗ばむ季節だというのにトレンチコートに包んでいた。――今は五月の中頃、コートなんて正常な人は絶対に着ない季節だ。
そんな奇抜なファッションセンスの彼女、足羽女史はまず俺を見つけると自己紹介をし、いつも使用している席に直行。コートを脱いで寛ぎ始めた。さすがに中に着ていたのは白い半袖のカットソーで、首元が大きく露出していて中々に色っぽい。ただし、大人っぽい服装の割には、その中身はあまりに少女的だった。
「まあ、ああいうやつだからね。もう諦めて、気を悪くしないでくれ。相手は蓮香に任せておけばいいさ。お気に入りだからね」
秋広さんがフォローを入れてくれつつ、コーヒーの準備を始めた。まだ足羽さんの注文を誰も聞いていないが、彼女が何を望むのかはわかりきっているのだろう。
「ワタシ、ユイカは苦手だねー。すっごく頭いいのはわかるけど、ちょっと怖いよー」
「聞こえてるわよ。後、唯花じゃなく唯月って呼びなさい。本名はあんまり好きじゃないの」
「えー、カワイイよー。ねー、リョータくん?」
唯花?足羽さんの本名はペンネームの唯月ではなく、唯花というのか。
「そうですね。どうして好きじゃないんですか?」
「あんまりにふわふわし過ぎているのよ。私は見ての通り、クールで知的な女性なのだから」
「あー……はい」
しつこいようだけど、足羽さんの見た目は蓮香さん以上に幼い。顔だけを見れば蓮香さんより大人びて見えるかもしれないが、完全にお子様な体型だし、声も甘く舌っ足らずで幼さが溢れている。それでも、彼女の中で自分はクールな大人なんだろう。下手に噛み付くことは避けて、彼女の言い分を尊重する。
それが大人と付き合う時の作法だ。……そう思う。
「知的なのはそうだけど、COOLかなー?」
「ヘンリー、お喋りは寿命を縮めるわよ。その気になればここから万年筆を投擲して、あなたの眉間に風穴を開けることも可能なのだけど」
「ユイカはペンじゃなくてパソコンで創作してるけどねー」
「ふ、ふふ……あなたは本当に口が減らない子ね。縫い合わせるのが好み?それとも、舌を……」
「足羽さん。オリジナル・コーヒーです」
先に予想出来ていた通り、ヘンリーと足羽さんの相性は最悪らしい。いや、一方的に足羽さんが苦手としているようではあるものの、ヘンリーはヘンリーで中々言っているので、どうにも和気あいあいとはいかないようだ。そんな険悪になりそうなムードの中、蓮香さんがコーヒーを運んで来る。
すると、まるで腹を空かせて吠えていた犬が、エサを与えられたかのように足羽さんは姿勢を正し、静かにカップに口を付ける。……いや、この表現はちょっと失礼だったか。
「今朝もいい味ね。秋広、あなたのことは基本的にクズ野郎だと思っているけど、コーヒーと紅茶の淹れ方に関してだけは評価してあげるわ」
「そりゃどーも。オレもあんたは基本的にただの毒舌女だと思ってるけど、一息入れてる姿だけは奇麗だと思ってるよ。写真撮ってポスターにすれば、いい宣伝になるんじゃないか、って思うぐらいにはね」
これで店に平穏が戻って来ると思いきや、今度は秋広さんとのノーガードの殴り合い――いや、素晴らしいクロスカウンターをかましていた。基本的には、誰かと口喧嘩しちゃうタイプの人なんだな。詩人の割に使う言葉は普通のものばかりで、話しやすい感じはするけど。
「全く、こんな男に育てられて、よく蓮香はこんなにもできた娘になったわね」
「あ、あはは……」
「生まれがよかったのね。きっと、私のように高貴なる血筋に生まれたのよ」
「高貴な割には、オレみたいな庶民と同じような生活してたけどな」
「在野であったとしても、高貴なる者はいるわ。それすら想像出来ないとは、やれやれ。これだから想像力というものを持たない人間は。蓮香、よかったわね。あなたがこんな男の遺伝子を受け継いだ娘ではなくて」
「どういうことだ、それは。オレの将来生まれる子どもに失礼だとは思わないのか?」
「独身のバツイチがどうやって子どもを作るのよ。言っておくけど、あなたと結婚してくれる奇特な女性が二人とは現れないわよ」
なおも二人の舌戦は続いていき、蓮香さんは苦笑しながら隅っこへと退避した。俺も適度に秋広さんからは距離を取っておく。他のお客さんが来るかもしれないのに、こんな喧嘩をしていたいいのだろうか。いや、ここを利用する人にはそれが日常なのかもしれないけど……いやいや、こんなに洒落た店なのに、それはあんまりに格好が付かない。
「いつもこうなのか?」
「大体は、ですね。でもお父さんと足羽さんは心の底では互いを尊敬していますので。本当に仲が険悪になることはないんです」
「まあ見てればなんとなくそうだろう、ってことはわかるかな」
「いい大人が二人して、って失望しました?」
蓮香さんは苦笑を消した純粋な瞳を俺に向けた。彼女は身長が俺よりずっと低いので、必然的に上目遣いで見ることになる。
「そんなことはないな。大人って言っても、二人ともまだまだ若いんだし。本当に蓮香さんみたいな子どもを作っている年齢なら引くけど……」
「四十や五十代のお父さん達、ですか。……でも」
「まずいな。このまま歳をとっても、普通にこういうやりとりをやってそうだ」
「ですね…………」
そう考えると、本当に二人は「駄目な大人」なのか……?い、いや、それぞれの得意分野では素晴らしい仕事をするんだから、多少の欠点は目を瞑ってあげるべきだ。特にこの喫茶店は、マスターである秋広さんがいるからこそ成り立つのだし、一番の常連である足羽さんも同じだ。
「――ふん。まあ、今日はこの辺りにしておいてあげるわ。私は静かに仕事をしているから、不用意に話しかけたら殴るわよ」
「はいはい。オレとしても静かにお勉強してくれてた方が安心だよ。見た目幼いアラサーが暴れてる喫茶店、なんて噂が立って欲しくないし」
「あら、あなた。今、なんと言ったのかしら」
「おっと。ヘンリー、そういや紅茶の在庫を出しておきたいから、ちょっと手伝ってくれないか」
「はいはーい。おーけーですよー」
慌てて逃げ出す秋広さんの背中に、足羽さんの凶悪な視線が突き刺さった。本当に物理的な威力を持っていそうなほど鋭く、ゲーム的に言えば闇の属性を持っていそうな眼力だった。……素直に恐ろしい。
6
秋広さんはこの「明日見の丘」が中々に儲けていると言っていたが、それは決して嘘ではなく、開店から途切れることなくお客さんはやって来ていた。
主な客層は二十代の女性であり、大抵は紅茶、もしくはコーヒーと一緒にトーストかケーキを注文する。そこで気になったのは、どうもこの店ではケーキを自作していないということだ。
紅茶とコーヒーはマスター秋広さんが自分で淹れている。もちろん、既製品などではなく豆から挽いたり、自分で茶葉を合わせたりしているこだわりの一杯だ。他の軽食も全て秋広さんが作るようだし、この店には基本的に既に出来ているものを出す、というシステムがない。
それなのに唯一の例外が、ケーキの存在だった。確かに、ケーキを一般の人が作るのは難しいし、たくさんの種類を揃えておくのも大変だが、ショートケーキやチーズケーキだけ、と絞っておけば自作のものを用意しておきやすいはずだ。それなのに、確かにケーキの種類は十以上あって様々なニーズに答えられるが、秋広さんは必ずケースから既製品らしいものを取り出していた。どうにもこの店らしくない気がする。
「蓮香さん――いや、ヘンリー。このお店のケーキって、お店で売っているようなやつなんですか?」
気になったのでウェイトレスの内の手の開いている方、ヘンリーに質問してみる。彼女はそんなに長くこの店には務めていないらしいが、さすがにケーキがどこから来たものかぐらいは知っているだろう。
「えーと、ねー。ここのケーキは、商店街の向こうの方にあるケーキ屋さんのものだよ。マージンをもらって、この店で取り扱っているんだー」
「へぇ、そんな店が。じゃあ、ケーキの売上はそっちのお店に入るんですね」
「そういうことだねー。だから、ケーキのストックが切れると、レンカちゃんがそのお店に取りに行くんだよー。その間、ワタシ一人でお店を回すことになってたけど、リョータくんがいるなら安心だね」
「あっ、俺が取りに行くんですか」
そういう雑用はきっと、俺が担当すべきことだ。勝手にそう思い込んでいると、ヘンリーはのーのー、と人差し指を立てて横に振る。
「レンカちゃんじゃないと、お店とコミュニケーションを取れないんだよ。ユイカがそうであるように、レンカちゃんはどんな人もメロメロにしちゃう子だからねー。気難しい人との交渉は全部やってもらってるんだー」
「な、なるほど。そのケーキ屋さんも問題がある人なんですね」
もうなんだか、この店に関わる人の大半が変人な気がしてきた。……記憶喪失で拾われて来た俺を含めて。
どうして店の雰囲気は落ち着いていてこんなに素晴らしいのに、悪魔のるつぼみたいになっているんだ、ここは。その中の唯一の良心である蓮香さんが不憫で仕方ない。
「ん、もうケーキの在庫がないな。蓮香、行って来てくれないか」
「はい、わかりました。でも、今からが本番ですが――」
「そのための長郷少年じゃないか。なあ?」
「が、頑張ります」
時計は十一時過ぎを示している。飲食店ならこれぐらいから昼食の時間帯だ。元々あまりがっつりとした料理は扱っていないが、それでもやはりメインの客層である女性は、サンドイッチやケーキを求めてやって来るだろう。その時にケーキが品切れなら、さぞがっかりされるに違いない。小走りで蓮香さんが出て行くと、まるでそれを見計らっていたかのようにお客さんが増え出した。
こうなると秋広さんの技が光り出し、すさまじい速度でコーヒーを淹れてはカップに注いでゆく。お昼時は紅茶よりもコーヒーの注文が増えるようで、しかもオリジナルが人気だ。同じものばかりなので用意をするのも楽なのだろうが、それにしても手際よくコーヒーを淹れていく。
俺はそれをきちんとお盆の上に乗せ、ヘンリーにパスする。すると彼女はまるでローラースケートでもはいているかのように軽やかに、店内を滑り舞うように歩き回って、注文通りの飲料を並べていく。そうして、またヘンリーが戻って来る頃には秋広さんが仕事を終えていて、さっきと同じように俺は彼女にパス、といった具合だ。
オフの時はあんなにもテキトーな変人なのに、いざ仕事を始めれば全員が熟練の技を発揮する――この店の繁盛も頷ける、最高のサービスの提供だ。そうしている内に蓮香さんが戻って来て、補充されたところから飛ぶようにケーキがはけて行く。この調子なら、ティータイムまでにもう一度追加する必要があるだろう。このケーキを焼いているお店も、上手いコラボの方法を見つけたものだと感心する。
「大盛況だな。いつもこんな感じ?」
「休日はこの三、四割増しになりますよ。そうなると、お店の外で待っていただく必要も出て来ます」
「そ、そこまでなのか」
明日見の丘は、個人がやっている飲食店としては、かなり多くの座席を確保しているように見える。さすがにチェーン店のファミレスなんかと比べると劣るものの、喫茶店としてはこれ以上がないほどの店構えだ。
もちろん、満席の場合に待ってもらうために店内には長いソファが置かれていて、そこに七、八人は座れるようになっている。それでも店の外に人が出るということは、まるで行列の出来るラーメン屋のような繁盛っぷりだ。しかも、律儀に待つということはそれだけここのコーヒーを皆が飲みたがるんだろう。もしかすると、秋広さんや蓮香さんに会いたいだけなのかもしれないが、それにしてもすさまじい人気だ。テレビの取材が来るのも納得出来る。
「なんか、思ってた以上にすごいところに置かせてもらってるな……」
「緊張されているんですか?」
「ちょっと、な。こんなところに居候させてもらっていいんだろうか、って」
「いいんですよ。むしろ、ウチだからこそ長郷くんを置いておけるんです。お父さん以外の男手も、ちょうど欲しかったところですから」
「でも俺、まともに力仕事とかしてないけど」
在庫出しもヘンリーがやっていたし、俺は本当にレジ打ちと、人手が足りない時の配膳の手伝いぐらいだ。その役割をしているだけで大きいのかもしれないが、男である必要性は薄い仕事に違いない。
「そ、それは……まだまだこれからと言いますか、その。――あっ、お客さんですよ。いらっしゃいませ!」
思いっきりお茶を濁された。でもお客さんが来たのは事実だし、と思ったらどうやらそうではないらしい。入って来たのは、どことなくサブカル的な方向でのメイドっぽい制服の、俺達よりいくら年上ぐらいの女性だった。手には中華屋が出前に使うような岡持ちがあって、何かを配達して来たのが明らかだ。
「ヒロミさん。わざわざ来てくださったのですか?あたしがまた後から行かせてもらおうと思っていたのに」
「タルトが焼き上がったから。後、もうなくなって来てるだろうからショートケーキと、モンブラン。後、ショコラとか」
「わざわざありがとうございます。なんだか個性的な入れ物に入っていますが、また二時前ぐらいにお伺いする時、お返ししますね」
「……うん。他にケーキを入れられそうなものがなかったから。じゃあ、これぐらいで」
「はい。本当にありがとうございました。またいつでも、一休みに来てください」
「うん」
ウィッグなのだろうか。ワインレッドという特徴的な色の髪を持っているのに、どことなくぬぼーっとした印象のある女性は、要件を終えるとすぐに店を出て行った。すぐ後にバイクが走り去る音がしたので、バイクでケーキを運んで来たのだろうか。……なんだか、すごくアンバランスなことだ。ケーキは無事だったのだろうか。
「今のは――」
蓮香さんに聞くまでもないものの、一応は確認しておく。彼女の名前も聞いておきたいし。
「ケーキ屋さん、山代屋の山代ヒロミさんです。基本的にあちらのお店で接客をされているのですが、たまにこうしてケーキを届けてくださっていて」
「妙に和風な名前だな……ケーキ屋なのに」
「なんでも、西洋文化が入って来た当初からの、老舗なのだとか。更に元々は和菓子も作られていたようなので、今でもその名残として小豆や抹茶を使ったケーキのバリエーションが豊富で。残念ながらそういうオリジナルメニューは、山代屋さんの店頭だけ、ということになっているのですが」
「ああ、さすがにそうなのか」
あんまりこのお店でケーキを取り扱い過ぎていたら、本店の方が誕生日ケーキの注文ぐらいしか用事がなくなりそうだからな……。それだともう、完全にこっちとくっついてしまった方がいい、ということになってしまう。
「ヒロミさんは山代屋さんの看板娘であり、パティシエールとしても優秀な方なんです。幼い頃からずっとお菓子作りをされていたそうで。ただ、そのためなのか人とお話をするのが苦手で、このお店の中ではあたしぐらいとしか、きちんとコミュニケーションが取れないんです」
確かに彼女は口下手そうな感じだったな。それに、ぼーっとしているように見えたけど、今思えばあれはひどく緊張していて、反対にやる気がなさそうな無表情になっていたのかもしれない。
「後、特に男性は苦手とされているので、長郷くんがお話をするのは尚のこと困難ですね……。かなり慣れているお父さん相手にすら、頷くぐらいのコミュニケーションがやっとですので」
「そこまでなのか……。まあ、俺とはあんまり会うこともないだろうけど、気を付けておくよ。ちなみにあの髪は……」
「さすがにウィッグです。でも、ご本人の髪もすごくキメ細かくて、奇麗な方ですよ」
「だろうな。ぱっと見た感じだけど、ヘンリーとはまた違った美人って感じだった」
「……ジェイムズさんを引き合いに出すんですか」
「えっ?」
蓮香さんは奇麗な美人と言うより、可愛らしい美少女って感じだ。だから比較対象としては適切じゃないと思ったんだが、明らかに気分を害してしまったようだ。蓮香さんは俺もよく知る通りに優しいので、露骨に表情で示すことはないが――小さな呟きには哀しみがこもっているように聞こえた。
「蓮香さんは――とても可愛らしい人だから」
死ぬほど恥ずかしかった。いや、事実として精神的には一度や二度、余裕で死んだと思う。まさか彼女にこんな告白めいたことを言ってしまうことになるだなんて。しかも、長く付き合っていた友人ならまだしも、まだ知り合ってたった二日の友達未満の相手だ。思いっきり引かれるのは承知だった。でも、これしか彼女を慰める言葉が見つからない。
「長郷くん……。もう、そんな口説き文句、今どき流行りませんよ」
「は、はは、そうだよな。忘れてくれていい――じゃなくて、どうか忘れてください、お願いします」
「残念ながら、嫌です。墓場まで持って行ってしまいますから」
だなんて、彼女には珍しくいたずらな表情をして言うものだから、思わず胸がどきりと高鳴った。決して俺はマゾとか、そういうのじゃないつもりだったんだが。
「後、別にあたしは長郷くんがヒロミさんの比較対象に、あたしを選んでくれなかったから気を悪くしたとか、そういうことはないですから」
「そうだったのか?じゃあ、なんであんなことを」
「純粋な感想です。さあ、もういいじゃないですか。お仕事です、お仕事」
……嘘が下手な人だ。でも、優しい嘘だから悪い気持ちは全くしない。
きっと、俺に気を遣わせてしまったのが申し訳なくて、嘘を言ったんだろう。気を遣われたことに気を遣ってしまうなんて、なんとも丁寧で優し過ぎる彼女らしいというか。思わず苦笑が漏れ出ていた。
7
「お疲れ様でーす!」
「はい、お疲れ様。それじゃ、気を付けて帰ってくれよ」
「おーらい、それではレンカちゃんもリョータくんもお疲れ、おやすみー!」
「お疲れ様でした」
「――でした!」
閉店は午後八時の決まりだが、七時五十分の時点でレストランのように「ラストオーダー」を受け付け、その時点でのお客さんが全員出て行った時に店は閉められる。まるでこの店の守り神のようにずっと定位置にいた足羽さんも、五十分に本日五杯目のコーヒーを頼み、それを堪能した後は会計を済ませて行った。
「さて、どうだったかな。長郷君。今日のお客さんの入りは普通、って感じだったけど、中々にやりごたえがあるだろう?」
「本当、そうですね。こんなにも仕事があるだなんて」
俺の仕事はただのレジ打ちのはずだった。それなのに、お客さんの出入りが激しいものだから、思った以上にその仕事量は多かった。それにお昼時にする秋広さんの手伝いも大変だったので、もうずいぶんと働いた気がする。
「君のリハビリがてらに、っていうつもりだったんだけど、すっかり荒療治になってしまったかな。続けるのが難しいようなら、休んでいてくれてもいいけど――」
「大丈夫です。続けさせてください」
「そうか。それならオレとしても嬉しいよ。ただ、本当に無理だけはしないように。まさかウチの店から過労で倒れる人間を出す訳にはいかないからね」
冗談めかして言うが、本当に心配されているようだ。でも、だからといって、このままただの居候を続けるのもまた俺の良心が許さなかった。素性のわからない俺を好意で置いてくれているのだから、相応に報いなければならない。それに、この程度で音を上げていたら、俺より大変な仕事をしている二人のウェイトレスにも申し訳が立たなかった。
「それじゃあ、オレは風呂に入って来るよ。蓮香、その間に夕食を頼む」
「はい。ごゆっくりどうぞ」
ついさっき仕事が終わったところなのに、今度は「望見家」という家庭が動き出す。そして居候の俺もその一員に組み込まれていた。
「蓮香さん。俺に何か手伝えることがあるなら、何でも手伝うよ」
「一人で大丈夫ですよ。そもそも長郷くんは料理が出来るんですか?」
「えっ――?あー、どうなんだろう。多分、それなりには出来そうだけど」
「お父さんは結構、グルメなんですよ。あたしでも下手なものを作ったら、容赦なくダメ出しされてしまうほどです」
娘のことを溺愛している秋広さんが、我が娘に対しても厳しく言うとは。さすがに唯一、店の厨房に立っているだけはあるということか。それなら、俺が適当に作ったものなんて食べてすらもらえなさそうだな。無理に手伝いをするのもよくない。
「それよりも長郷くん。何か思い出すことはありませんでしたか?お店のお客さんも中々に個性的なので、刺激はあったと思いますが」
「いや……特には。働いていて、既視感を覚えるようなことも全然なかったし、本当に昔の俺は何をしていたんだろうな」
「案外、予想も付かないほど壮絶な人生を送っていたのかもしれませんね」
「なんか、それはそれで真剣にありそうだ。たとえば、どんなのがあり得る?」
学ランを着ていたということは、学生は学生だったんだろうが……どんな学生だったのか。
バイトをしていても特に思うことはなくて、蓮香さんみたいな同世代の女の子と話しても何も感じないということは、ロマンスの欠片もない人生だったのか。それはそれでなんだかすごく嫌だ。今の方が充実してるというのなら、なんて皮肉な話なんだろう。
「予想が付かないほどなんですから、完全な妄想ですけど――実は少年天才アスリートだった!とかどうですか?」
「アスリート――体操とか、野球選手とか?でも、それならそれで名前が知れ渡ってるよな。顔も」
「あー……。長郷くんの名前が記憶障害から来る嘘のものでも、顔はテレビに映って確かなものがわかるはずですよね。どっちにも見覚えはないと思います」
「何者かが、俺の顔を整形してた、とかならあるかもな」
「じゃあ、長郷くんをさらって、記憶を奪って、顔も奪った人は闇に堕ちたライバルアスリートですね。過去にドーピングをしてまで長郷くんに勝とうとしたけど、それでも負けて業界を追放されたんです」
「で、そいつが逆上して俺のアスリート生命を絶とうとして来たって訳だ」
アニメか何かにはなりそうだが、荒唐無稽な正に妄想だ。それでも、蓮香さんと真剣にこんな話を続けているのが楽しい俺がいて、蓮香さんもノリノリで続けてくれる。
「後は、少年ギャングとかどうだ?多勢に無勢でも勝てる最強のヒットマンなんだけど、敵の卑劣な罠にかかって追い詰められるんだ。間一髪、そこから抜け出せはしたけども、逃げる時の爆発のショックで記憶は飛んで――みたいな」
「では、もうまもなく追っ手のギャングがお店にも来そうですね。そして、あたしが人質にされちゃうんです」
「だけど、その時の怒りで俺の記憶が戻るんだな。そこからの俺は華麗に蓮香さんを取り戻して、喫茶店を舞台に銃撃戦を繰り広げ、追っ手を全員倒すんだ」
「ですが、お店はめちゃくちゃになってしまって、それに責任を感じた長郷くんは行ってしまうんですね」
「そうして一人、各地を旅する孤独なギャングが生まれるんだ。生きる目的はただ一つ、この世界からギャングなんてものを失くし、最後に自身も死ぬっていう――」
ひとしきり夢物語をして、最後に顔を見合わせて笑い合った。多分、俺の過去なんて普通に学生をしていただけの一般人で、偶然、何かの事故で何もかも忘れてしまっただけだ。その裏に壮大なドラマはないし、俺が記憶を取り戻せる、取り戻せないに関わらず、これからの人生も平凡なものだろう。それでも、意味のないことを考えているのは楽しかった。
いつの間にかに蓮香さんの手は止まっていて、このままだと夕食は遅れてしまいそうだったが、それでもいい。彼女と話すのは面白いのだから。
「――なんか、安心しました」
「何に?」
「長郷くんが元気そうで。あたしの想像では、もっと色々と不安に考えていそうだったので」
「ああ……。まあ、目覚めてすぐは不安しかなかったけど、今は状況を全部受け入れたっていうか。これが目覚めたのが道端とか、どっかの病院だったら、ずっと先が見えない不安に襲われてたかもしれないけど。蓮香さん達に助けてもらえて、すごく安心出来てるよ。本当、ありがとう。俺を拾ってくれて」
さっきまでの妄想話じゃないが、俺を拾ったのがおかしなやつだったり、いつまでも誰にも発見されなかったりしていたら、俺はどうなっていたことか。生きてはいられなかったかもしれないし、少なくとも今のように心休まることはなかった。俺はなんて恵まれた行き倒れだったのか。
その幸運を思うと、俺を拾ってくれた蓮香さんは、正に救済の女神そのものであるように感じられた。
「そんな。あたしは当然のことをして、最良の形で長郷くんを助けようとしただけです。誰だって考えるようなことですよ」
「でも、それを実行に移しんだから。俺だったら、見てみぬふり……はしなくても、適当に救急車を呼んでそれで終わりだと思うぜ。それなのに、自分の家で置いてくれるようにするだなんて」
「それは――。でも、長郷くん。もしも倒れているのがすごく奇麗な人でも、同じことをします?」
「ええっ……どうだろう。あんまりに奇麗過ぎても緊張するだろうし、そうするかもな。奇麗だからって、家に連れ込んで何かしようとかは考えないって」
「む、むむ、そうですか」
蓮香さんはなんだか不満足そうに、炒めものを作っている。今の質問の真意は――?まさか、蓮香さんが俺の容姿をいいって思ったから――なんてことはないだろう。風呂の鏡で見たけど、俺は顔も体も、特別恵まれたところが見つからない。いや、何も顔形がいいことや、体つきがたくましいことだけが人を好きになる理由じゃないとは思うけど、蓮香さんほどの子が俺に惚れるとは思えない。
じゃあ、何か他に比喩的な意図があったのだろうか。でも、俺のことは、俺自身はもちろん、蓮香さんも知ることが出来るはずがないからな……そんなに複雑な話ではないはずだ。
ものすごく気になったけども、本人に聞いてみても、意外にもいたずらな面のある蓮香さんが教えてくれそうもない。謎は謎のまま、か。
「まあいいです。――長郷くん」
「う、うん」
さっきまでの和やかで平和なムードをかき消すような、真剣そのものの表情だった。今度俺を見た蓮香さんの顔を彩っていたのは。
「いえ。何もありません」
何かがある。嘘をつかれているのは明らかだったけど、蓮香さんが無意味に嘘をつくとも思えない。彼女なりの考えがあってこそのことだ。
俺は深くも考えずにそう信じて、それ以上の追求はしなかった。
「明日からも、がんばりましょうね」
俺は最後に蓮香さんが言ったことを、その字面通りに受け止めていた。今はそれでもよかったが、しばらくの後、俺はその言葉の真意を知ることになる。
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