バチーン!
『うさぎ漢方 極楽満月』に、小気味良い音が響いた。
「この浮気者!二度と私の前に現れないで!」
続いて、ヒステリックな女性の声。彼女は込み上げてきた涙を堪える事が出来ずに、頬に滴が伝う。
白澤は、そんな彼女が去っていく背を、無言で見送った。
「嵐は終わりましたか?」
「!!」
「あ、鬼灯さん。いらっしゃい」
門の横から出てきた鬼灯を、白澤は気まずそうに見る。
「彼女、泣いてましたよ」
言いながら、白澤の元に歩み寄る。
「綺麗な紅葉ですね」
コテン、と首を右に傾げ、自分の右頬を指さす。
「…うるさいな」
そう言う白澤の頬には確かに真っ赤な紅葉が出来ている。眉間には皺が寄っているが、不快よりも後悔の色が強い。
「薬、出来てます?」
「…まだ」
小さな白澤の声を聞き、鬼灯は深い溜息を吐いた。腕を組み、不機嫌そうな目を向ける。
「貴男の女狂いはもうとっくに諦めました。しかし、せめて仕事を熟してからになさい!」
それ以上は何も言わず、椅子に座って兎を撫で始め、白澤も何も言わず薬を作り始めた。
「後は煮込んで、冷まして出来上がり」
白澤の言葉に、鬼灯が顔を上げる。彼は鍋を混ぜていたお玉を洗い始めていた。
「…貴男、少し女遊びを控える事は出来ませんか?」
「何いきなり。さっきの話の続き?」
あまり気分の良い話ではない為、白澤としては遠慮したい。だが、鬼灯は止める気はないようだ。
「煮込んで冷まして、袋で包装しているのに結構な時間かかるでしょう」
確かに、時間はかかる。中には一時間煮込む物もあるのだ。しかし白澤は今迄、女と酒を楽しみに仕事をしていた。
「お前は何を楽しみに仕事してんだ?」
鬼灯が何の為に働いてるのか、白澤は知らない。酒は好きらしいけど頻繁ではなく、ずっと金魚草の世話ばかりしてる。
「恋でもしてみたらどうだ?周りを見る目が変わるぞ」
自分で言っておいて、胸がモヤッとした。訳が分からず眉を顰めていると、鬼灯が返事を口にした。
「いますよ」
「は?」
「お慕いしている方、いますよ」
思わぬ言葉に、鬼灯を凝視する。「恋なんてそんな良いモノじゃありませんよ」なんて言う彼女の言葉は、耳に入らなかった。
「…誰?」
「はい?」
「お前の好きな奴って、誰?」
鬼灯の眉間の皺の数が増えた。
「貴男に言う必要はありません」
それより薬はまだですかと、苛立だしげに話題を変えた。いや、元々もっと早く薬を作れと言いたかったわけだが。
「まだ、煮込んでる最中」
「チッ!」
舌打ちの後、立ち上がる。
「時間の無駄ですね。出来たら配達して下さい」
鬼灯は言うだけ言って、颯爽と店を出ていった。
「白澤様、冷ましますよ」
「…うん」
「白澤様、包装しますよ」
「…うん」
「白澤様、鬼灯さんが気になりますか?」
「…うん。…はあ!?」
「やっと反応しましたね」
彼は、鬼灯が店を出てからずっとこうだった。ぼぅっと扉を見詰めたまま微動だにしない。呼び掛けても心ここに有らずでろくな返事をしない。
それが、鬼灯の名前を出した途端、過剰に反応した。
「彼女が好きならさっさと告白すれば良いじゃないですか」
桃太郎に言わせれば、白澤が鬼灯を好いている事はバレバレだ。見ていてモダモダする。さっさとくっついて欲しいというのが本音だ。
「何を言ってるの桃タロー君!僕はあんな暴力女!」
「意地を張ってるうちに、誰かにとられますよ。それとも自覚無しっすか?」
呆れたように話す桃太郎を、白澤は信じられないといった顔を見せる。
「まさか…本当に?」
信じられないとは此方の台詞だ。彼は鬼灯といる時はどこか楽しそうで、彼女がいない時に何かと心配しているような事を話す時もある。
「信じられないなら、彼女に会って考えてみれば良いんじゃないですか?この薬を持って」
桃太郎が差し出す薬の入った紙袋を、じっと見る。何やら葛藤しているようだが、弟子は一歩も退かない。
軈て観念したのか、白澤は紙袋を受け取った。
「…いってきます」
「いってらっしゃい」
弟子からの挨拶を背に、白澤は薬を配達するべく店を出た。
* * *
【お慕いしてる方、いますよ】
鬼灯の言葉を聞いてから、彼女の言葉がずっと頭に響いて離れない。
(誰だよ…)
『お慕いしてる方』とは『好きな人』という意味だ。
(好きな奴って誰だよ)
抑(そもそも)、何故自分はこんなに気になっているのかも、白澤は分かっていなかった。ただただ気になる、凄く気分が悪い。それだけが確かな感情だった。
気が付けば鬼灯の事ばかり考えている。だからだろうか?彼女の黒い着物と逆さ酸漿を見た。
視察だろうか?…そうぼんやり考えていると、唐突に彼女の首に誰かの腕が回るのを見た。金棒で沈めているところを見ると、相手は男性かもしれない。思い至って、白澤は強い苛立ちを感じた。
足を止めじっと見ていると、やはり相手は男性で大きな風呂敷を持っている事が分かった。二人は親しげに話していて、白澤の心は更に荒くなる。
(彼奴が、鬼灯が好きな奴?)
見れば見る程その考えが当たっているような気がして、身の内から神気が溢れそうになる。漏れないように苦心していると、白澤もよく知る小鬼・茄子と唐瓜もやって来て、風呂敷男と鬼灯と短く言葉を交わすと風呂敷男は此方に向かって歩き出した。他の三人は彼を目で追い、その流れで白澤と鬼灯は目が合った。
風呂敷男が通り過ぎると、白澤は三人に歩み寄る。
「あの男、誰?」
彼が最初に口にしたのは、そんな質問だった。鬼灯はコテン、と首を傾げる。
「八寒地獄の獄卒、雪鬼の春一さんです」
「お前に抱き付いてなかった?」
間髪入れずの質問に、鬼灯は眉を顰める。
「いつの頃からか、突然出会い頭に抱き付いてくるようになったんですよ」
「春一さん、鬼灯様の事、好きなんじゃないのかな?」
茄子の突然の言葉に、鬼灯は目を見開き白澤は知らずにギリッと歯軋りし、唐瓜は「おいこのおたんこなすび!」と慌て出した。
「お前いきなり何を言い出すんだよ!」
「え~。でも春一さん、前に言ってたよ。【鬼灯様は美人だなぁ】とか【鬼灯様って恋人いるかなぁ?】とか」
唐瓜と違い、茄子はどこまでも呑気だ。唐瓜は彼のようには笑えない。自分のすぐ近くで、神獣の怒気を感じる。
「此奴って男に人気あるの?」
「あっ!いやっそのっ」
「あるよぉ」
唐瓜がどう切り抜けようか考える時間すら、茄子は与えてくれない。
「鬼灯様は美人だし、仕事も出来るし、厳しいけど優しいところもあるから皆、好きだよ」
茄子には悪気や悪意はなく、その言葉が真実なのだと白澤に教える。聞けば聞く程、腹立たしい。
と、唐突にパンパンと手を叩く音がした。
「無駄話はそこまでです。私は仕事に戻るので、唐瓜さんと茄子さんも仕事に戻りなさい。で…」
鬼灯は、白澤に向き直る。
「貴男は結局、何しに来たんですか?」
まっすぐに睨むその瞳を見て、白澤は漸(ようや)く本来の用を思い出した。
「注文の薬」
言って、ズイッと紙袋を押し付ける。鬼灯は何も言わずすぐ中を確認した。
「…確かに。お代です」
鬼灯は金を白澤に渡すと、「では、また今度の納期の日に」と言って去っていった。白澤は、逆さ酸漿の背が見えなくなる迄、ずっと苦々しげな想いで見詰め続けた。
「桃タロー君、今日はあがって良いよ。僕、ちょっと疲れたから寝るね」
「え!?」
桃太郎が驚愕の声を出す。
「今日は女性と遊ばないんですか?」
白澤は仕事が終われば即、酒と女に走っていた。桃太郎が驚くのも仕方ないだろう。
「なんか、今日は気分じゃないんだよね。さっさと寝たい」
「そ、そうっすか。じゃあ、おやすみなさい」
「晚安」
白澤は、桃太郎に挨拶を返すなり寝室に入ってしまった。
実際、女遊びに興じる気分ではなかった。頭に浮かぶのは、春一の姿と茄子の言葉ばかり。
【春一さん、鬼灯様の事、好きなんじゃないのかな?】
【鬼灯様は美人だし、仕事も出来るし、厳しいけど優しいところもあるから皆、好きだよ】
グルグル、同じ言葉ばかりが駆け巡る。胸がジリジリと痛い。衆合地獄で酒を飲んで忘れようかとも思ったが、地獄は鬼灯の管轄だ。今はうっかり出会(でくわ)したくない。
白澤は茄子の声を聞きたくなくて、無理矢理、目を閉じた。
客で賑わう酒場。男性も女性も、酒を楽しんでいる。
その中に、逆さ酸漿を背負った鬼女がいた。彼女の前には三本角の男鬼と、金髪の男鬼、そして横にはお香がいる。四人とも楽しそうだ。鬼灯も、表情が柔らかい。かなり仲が良い事が分かる。
(僕にはそんな顔、見せてくれないのに)
金髪の男が笑う。鬼灯の頭を乱暴に撫で、彼女の髪がグシャグシャになった。
(止めろ、触るな!)
鬼灯は男の手を払うが、そんなに怒ってないようだ。
(何で嫌がらないの?!)
男の言葉に、鬼灯がフワリと笑う。白澤が見た事のない笑顔で。
「鬼灯!其奴(そいつ)が好きなの?!」
白澤は堪らず本来の目を開け額の『目』を閉じた。
「…クソッ」
殆ど無意識だった。知らぬ間に『目』を開け、鬼灯を探していた。
「クソ…为什么」
白澤は嫌でも、己が鬼灯を気にしていると思い知った。
何故、こんなに気になるのか?
【彼女が好きならさっさと告白すれば良いじゃないですか】
弟子の言葉が、頭を過(よぎ)る。
(好き…)
好きだから気になるのか。好きだから彼女に好きな男がいると聞いて苛立つのか。
(じゃあ…これは嫉妬?)
『嫉妬』とは、自分の好きな人、愛している人の愛情が他の人に向けられる事を恨み憎む感情。自分が抱いているこの感情が鬼灯への恋で彼女が想う男への嫉妬なら、辻褄が合う。
(初めて感じたなぁ…)
恋とはこんなに切なく苦しいモノなのか。
嫉妬とはこんなに辛くて醜いモノなのか。
初めて味わった恋と嫉妬の味は、とても苦くて白澤は顔を顰めた。
昼。白澤は仕事もせずに携帯電話を弄っていた。桃太郎からの苦情も、全て聞き流している。
「一体、何をしてるんです?」
「女の子達のメルアド消してる」
即答の内容に、桃太郎は驚いた。
「え!? 消してる?! 白澤様が女性のメルアドを?!」
弟子の驚愕なんて気にしない。これは、彼が初めて恋した相手への、初めて示した誠実。
最後の一人を消して、立ち上がる。
「さて、桃タロー君。仕事しようか」
「は?はい…」
桃太郎は、訳が分からないながらも素直に頷いた。
* * *
それから閻魔殿の納期まで、白澤は女遊びもせずに働いた。酒場に行く回数だって、そんなに多くはない。そのお陰で、薬は既に完成し包装も済んでいた。
「たのもー!」
ガラッ!ガタンッ!という音をたてて、店の扉が開いた。其処にいるのは鬼灯。
「薬は出来ていますか?」
「出来てるけどお茶を飲んでいきなよ」
薬を受け取りに来た鬼灯に、白澤は間髪入れずに茶を誘う。
「疲労回復のお茶を用意するから、飲んでいけ」
ムッとした顔の鬼灯に更に言うと、彼女は溜息と共に椅子に座った。
白澤の入れる茶は、暖かくて美味しかった。しかし、今は素直に喜ばない。
「私に何の用ですか?」
己を蛇蝎の如く嫌う白澤が、ただで茶を振る舞う筈がない。鬼灯はまどろっこしいのは嫌いだ。茶を飲み干すと直球で訊ねた。まっすぐな視線とまっすぐな問いに耐えられず、白澤は目を逸らした。
「…お前…好きな奴とは、どうなったの?」
凄く気になるのに、答えを聞くのは怖い。そんな心理で訊いた声は小さかったが、鬼灯の耳には正しく届いた。
「どうもしません、いつも通りです。抑、私は相手に嫌われてますので」
「…そうなの?」
好きな男性に嫌われていると話す彼女は、相変わらず無表情だ。感情のない顔の裏で、何を感じ何を考えてるのだろう?だが何にしても、これは白澤にとっては千載一遇のチャンスだ。
白澤は、緊張の面持ちで鬼灯を見詰めた。
「お前は信じられないかもしれない。気持ち悪いかもしれない。でも、それでも言いたいんだ」
前置きが長いせいか訝しげな視線を向ける鬼灯。
「僕、お前が好きなんだ。お前を想わない男なんか忘れて、僕を見て」
はっきりと言うと、鬼灯は目を見開いた。
「好き?貴男が私を?」
「嘘じゃない。鬼灯に、ずっと傍にいて欲しい。僕の…恋人になって」
白澤の体はガチガチに堅くなり、目は不安で揺れている。鬼灯の目は泳ぎ、俯いた。
(やっぱり…駄目かな…)
白澤も、絶望的な気持ちで俯いた。しかし、軈て鬼灯が出した答えは彼にとって予想外のモノだった。
「短い間かもしれませんが、宜しくお願いします」
それは、間違いなく彼の想いを受け入れる言葉だった。
「本当に…僕の恋人になってくれるの?」
恐る恐る訊くと、彼女はゆっくりと確実に頷いた。白澤は堪らず鬼灯を抱き締めた。
「嬉しい!謝謝、鬼灯!大切にするよ!」
鬼灯にはすぐに別れると思われてるようだが、白澤は彼女を離す気なんて更々無い。これから先、少しずつ信じさせようと決意を新たにしたのだった。
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恋と嫉妬を知った白澤の話。