真恋姫無双 幻夢伝 第五章 13話 『うたかたの恋』
雪蓮危篤の急報を受けて、アキラたちが柴桑に辿りついたのは、雪蓮が亡くなった三日後であった。
港に停泊した船内の一室で、彼は呉からの使者を待つ。しかしなかなかやって来ず、その間、町に放った諜報から情報を集めていた。
「………」
「アキラ……」
すでに彼女が亡くなったことを知った彼は黙り込み、彼女に背を向けている。その痛々しい姿に、詠は言葉が見つからなかった。雪蓮との関係をうっすらと気が付いていた彼女には、その心中は察するに余りある。
このまま放っておくのが、彼にとって良いことは分かっている。でも彼女には他に報告すべきことがあった。
「ねえ、ちょっと、気になることがあるのだけど」
アキラは振り返る。その顔を見た彼女は、次の言葉が出てこなくなってしまった。
(なんて顔をしているのよ、あんたは)
若干下がった瞼。何の感情も読み取れないうつろな瞳。泣いていないことが不思議に思えてしまう、そんな表情をしていた。
えっと、と言葉を濁しかける自分に叱咤して、改めて報告を続けた。
「あなたの評判が悪いのよ、とてもね」
思わぬ報告に、彼の瞳にかすかな色が付く。
「…柴桑でのか?」
「そうよ。もしかしたら呉全体かも知れないわ。一体どういうことよ。私たちは一緒に戦った仲じゃないの。同盟相手でしょ。好かれはしても、憎まれる覚えはないはずよ」
「ふむ……」
考え込む二人に答えをもたらしたのは、それからしばらくして部屋に入ってきた凪だった。
入り口近くにいた詠がまず、彼女に気が付いて声をかけた。
「凪、報告はあ、る……?」
詠の口が止まる。不審に思ったアキラも考えていた頭を持ち上げて、凪に視線を向けた。そして彼も息を飲んだ。
2人の視線の先には、今まで見たことが無いほど怒りに燃えた彼女の姿があった。額に青筋を張らせ、目じりを吊り上げている。アキラのお供が出来ることに心なしか嬉しがっていた、先ほどまでの様子とは全く異なっている。
アキラはそれを見て、問いかけることにためらいを見せた。が、詠に小突かれて、やむなく質問する。
「どうしたんだ、凪?」
キッとアキラの方を向いた彼女は、憤然とした口調で言い放った。
「ありえません!!」
余りにも大きな声に、空気が震えるのが分かる。詠は恐る恐る尋ねる。
「い、一体どうしたの?」
「どうしたもこうしたもありません!無礼な!」
あまりにも激しい剣幕。二人は顔を見合わせる。その間にも爆発した凪の怒りは収まりを見せない。
「あの下衆ども!江夏で隊長に助けられたことを、いとも簡単に忘れおって!なんの事情も分からずに隊長のことを、あんなにも、悪しざまに。くそっくそっ!!」
「落ち着け。お前らしくもない。一体何があった?」
「隊長!急いで汝南に戻りましょう!急いで軍備を整え、一刻も早く、あやつらの舌を一枚残らず斬り捨ててっ!」
「凪!!」
詰め寄る凪の顔を、その大きな両手で荒っぽく挟んだ。アキラの顔が目の前に迫っていることに気が付き、ようやくその勢いが止まる。
「あっ」
するりとアキラが手を放し、凪が声を漏す。彼は、今度は優しく彼女の頭を撫でながら、ゆっくりとした口調で同じ質問を繰り返した。
「いったい何があった?」
「………」
ちょうどその頃、雪蓮の葬儀が執り行われている柴桑の城内に、アキラたち到着の知らせが届いていた。
当時の葬儀形式は『後漢書』の「礼儀志」に詳しく記載されている。「礼儀志」によると、まず亡骸の傷をチェックしながら湯浴みをさせる。そして死に化粧を施し、耳には黄色い綿をつめ、全身を赤い衣で包んだ後に金縷玉衣(金糸で玉片をつづって作った衣)を着せた。その後、棺に納めて、数々の副葬品と共に陵墓に向かったとされる。この葬儀の間、臣下は白の単衣と頭巾を着て、冠を外して出席している。もっともこの「礼儀志」に記されているのは皇帝の葬儀であって、一領主で、しかも江南出身の孫策が全く同じように葬られたとは考えにくいが、概ねこの通りである。
しかし決定的に違うところがある。皇帝の葬儀の場合は、臣下は儀礼通りのタイミングで泣くことを強いられる。だが雪蓮の場合、臣下は誰に命じられることもなく涙を流し、激情に走った者は殉死しようとしたところを周りに取り押さえられている。
それほど雪蓮はこの呉にとって大きな存在であり、それゆえに彼女を殺したと噂がある者を許すことなど不可能であった。
「なに?!奴が来ただと!」
祭はそう言うなり、自分の部下に耳打ちをして、暗い葬儀の会場を出て行こうとした。それを見た冥琳がその行く手を止める。
「待たれよ。一体、どちらへ」
「決まっておろう。敵討ちよ。あやつの首を策殿の墓前に供えてくれる」
祭は袖を掴む冥琳の手を払い、大股で出口へ向かう。彼女の言葉に反応した複数の武将も、彼女の後ろに付いて出て行こうとした。
「思春!明命!止めよ!」
冥琳の命令に従い、2人は祭の前に立ちふさがった。その彼女らに祭の怒号が飛ぶ。
「どけ!ガキども!」
「祭殿」
ゆっくりと歩いて来た冥琳に声をかけられ、祭は振り向く。そして殺気が満ちた目で彼女を睨んだ。祭に同調する者たちも同じ目をしている。
「公瑾!なぜ止める?!主の仇を討とうとすることが間違っているというのか!!」
「彼が雪蓮を暗殺したというのは噂に過ぎません。あなたほどの人が騙されるとは」
「ならばなぜ、奴が去ったすぐ後に策殿は殺されたのじゃ?!しかもこの城のすぐ近くで。奴が部下を居残らせ、策殿の隙を狙わせたに違いあるまい!」
「もしそうなら、どうして彼はここに来ましょうか。雪蓮の葬儀に参列した事こそ、彼が無実である証拠!」
「ふんっ!自分が殺した相手の面を拝みに来ただけじゃ。けっ、酔狂なやつめ。そのお返しに、仇を討ったあかつきには、奴の葬儀もここでやろうかのう」
はははは、と高らかに笑う祭とその一味。だが、その目に籠った殺気は一向に消えない。冥琳は周りを見渡すと、段々と祭と同じように怒りが込み上げてきている者が増えてきたことに気が付いた。
(まずいな。どうにも抑えきれん)
その時、冥琳の後ろの人垣が割れて、その間を通ってくる足音がした。
「この騒ぎは何だ」
「「蓮華様」」
祭や冥琳、周囲の臣下は慌てて頭を下げる。そして彼女が問いかけるように見渡していると、祭が代表して発言した。
「お願いがございます。儂らに主の仇を討たせて下さい。必ずや奴の首を取ってまいりましょう」
不穏な言葉を聞いて眉をひそめる蓮華に、冥琳が耳打ちした。
「アキラが来ました」
全てを察した蓮華は深く息を吸う。そして、こちらをまっすぐに見つめる祭たちに向き直ると、命令を下した。
「それは駄目だ」
「なっ?!」
祭たちの顔に動揺の色が見えた。彼女は彼らが何か言う前に、その理由を述べた。
「奴はろくな護衛も無く、簡単に殺せるに違いない。それゆえに、たとえ主の仇といえども、無防備な者を殺すことは卑怯な行為である」
「し、しかし!」
「祭。私に世間の誹りを浴びせたいのか」
毅然と言われた言葉に、祭は反論することが出来ず、震えながら頭を下げるしかない。重臣の暴走を彼らの主張を逆手にとって抑え込んだ新しい主君の姿に、彼女の後ろにいた冥琳はひそかに舌を巻いた。
ところが、次に蓮華が取った行動は、冥琳の思惑に反するものだった。
「港へ向かう。思春、付いてきなさい」
「お、お待ちを!何をなされるのですか?」
肩を掴もうとする冥琳の手は届かず、彼女は開いた戸から入ってくる光を見つめながら、こう答えた。
「決別よ」
凪の報告を聞いたアキラは、再び背を向けて感傷に浸っていた。彼の背中には先ほどとは異なる悲しみが見える。
「……虚しいものだな」
そう呟くアキラの後ろでは、今度は詠の怒りに火が付いていた。
「あんたも怒りなさいよ!僕はすっごく腹が立つ!ついこの前まで共闘していた相手よ。なんだってそんな簡単に疑うことが出来るのよ!」
「……街を歩いていると、子供たちに石を投げられました。大人はそんなことはしませんでしたが、こちらを見る目が冷たくって。時折、罵声も聞こえてきましたし、本当にもう、悔しくって…」
そう漏らした凪は、下唇をかんで悔し涙を浮かべた。その彼女に詠が怒りの籠る口調で尋ねる。
「まさか孫権たちもその噂を信じているっていうの?!」
「分かりません。ただ、兵士たちは信じているようでした」
「それが分からないと、こちらも動きようがない。どうにかして情報を」
アキラが悩みの声を出す中、1人の兵士が報告に来た。
「申し上げます。孫権様が港にてお待ちです」
「……待ってはくれないそうよ、アキラ」
詠は問いかけるようにアキラを見つめる。凪もアキラの方を見て指示を待っている。アキラはため息をつくと、固い表情に戻って命令を下した。
「凪は一緒に来い。詠はすぐに出港できるように手はずを整えておいてくれ」
傾いた日に照らされ、港や多数の船は赤く色づく。その港の大きな桟橋の上で、汝南と呉の君主は対峙した。
周囲には誰もいない。危険を察知して逃げたのだろうか。寂しげな風景は、軽く吹く風と相まって、余計に寒さを感じさせている。蓮華と思春の白い衣が風にたなびく。
港に打ち寄せる波の音が響く。
まずアキラは、蓮華が思春だけしか連れていないことに安心した。少なくともここで殺される恐れはなくなった。彼の方も凪だけを残して、残りの兵士たちを下がらせた。
兵士たちが去り、再び顔を合わせる。そこから一歩、前に歩こうとするアキラに向かって、蓮華が持っていた剣を高く投げた。
「隊長!」
アキラを庇おうと、凪が彼の前に飛び出る。しかし剣はその手前で勢いを失くし、木製の桟橋に突き刺さった。
「そこから呉に入るな」
蓮華ははっきりとそう伝えた。アキラはその場から、こちらを睨み付けてくる彼女の誤解を解こうとした。
「蓮華、聞いてくれ。あんな噂が間違いであることぐらい、君だったら」
「李靖!」
蓮華の後ろにいる思春が鋭く声を上げる。
「黙れ」
「………」
その言葉に怒りは感じられない。むしろ(分かってくれ)という意味合いを読み取ってしまう。
(そういうことか、蓮華)
主君の仇に対してどのような態度をとるのか。誰もいないはずのこの場所で、彼女は国民全員の視線を感じている。そして思春も彼女の気持ちを痛いほど分かっているのだった。
ただし蓮華にはもう一つ“雪蓮の遺言”も重く圧し掛かっていることには、さすがの彼女も気が付いてはいなかった。
蓮華はアキラに告げる。
「李靖!私たちの同盟はこれまで。早々に汝南に帰るが良い」
「蓮華!」
彼は叫ぶ。
「俺たちの絆はこんなものだったのか?!」
その言葉に彼女の顔が歪む。手を握り締め、唇をグッと噛み締める。それから一呼吸置いた後、潤んだ瞳でアキラを見つめ、勢いよく振り上げた腕を使って指さし、高らかに、そして絞り出すようにこう宣言する。
「次は、戦場で会いましょう!」
赤い夕焼けに、彼女の目から零れ落ちたなにかが光る。彼女は身をひるがえし、アキラの元から去って行った。思春もアキラに一瞥を与えると、彼女の後ろに従って行ってしまった。
あっという間の出来事。ようやく凪が口を開いた。
「いいのですか」
こう言った凪自身も、何が良いのかは分からない。アキラも聞き返しはしない。ただ彼はこれだけ言った。
「帰ろう」
一本の剣が突き刺さったままになっている。彼は近寄ると、その剣をゆっくりと引き抜いた。その剣を彼は見たことがあった。
「隊長、それは……?」
「雪蓮の剣だ。孫家代々の秘剣だよ」
「えっ!」
その剣を夕陽にかざしてじっと見つめる。真ん中の銀の部分が、怪しく光っている。
「なぜその剣を?」
「さあな、与えたわけではあるまい。取り返しに来るのだろう」
「しかし、なんでわざわざ?」
「自分の実力でつかみたいのさ。この剣をな」
孫家当主の証しであるこの剣を取り返す。それでようやく蓮華が蓮華のことを呉の主君であることを認めることが出来る。彼女にはまだ、姉の背中しか見えていない。
(雪蓮の亡霊を追いかけ、今までの自分を否定するつもりなのか、蓮華)
今日の太陽が最後の輝きを見せていた。アキラは剣を片手に持って、船へと帰っていく。
橋のたもとに浮かぶ泡は、次々と押し寄せる大きな波に飲み込まれ、すぐに消えてゆく。凪はそんな当たり前の光景を目に焼き付けて、彼の背中を追って行った。
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決別、そして戦いへと進みます。