No.733881

超次元ゲイム学園 6時間目 (モイラの遊戯)

お待たせして申し訳ありません、ようやく第六話が納得のいく形に仕上がりました!
今回の物語は、今まで書いてきた話の中で、一番筆が進まなかったです。決して退屈で、という意味ではなく、難しかったという意味でですが。
特に他の作者さんのキャラの心理描写を書くときは、もう何度もこれでいいのかな? と思い直しては、今まで書いてきたものに納得いかなくて一度消してもう一度、なんてことも多々ありました……。
それでも何とか書き上げることが出来たのは、銀枠さんとリアおぜさん、このふたりと一緒に紡ぎだす物語をもっと書きたいと思えたから。それに読者の皆様があったからと心から思っています。
第六話、至らない点もあるかもしれませんが、楽しんでいただければ幸いです。

2014-10-31 10:09:12 投稿 / 全1ページ    総閲覧数:1619   閲覧ユーザー数:1454

 

 少女は、ただ真っ直ぐ前を向いて歩いていた。

 目の前に広がるのは、永遠に続くのではないかと思われるような、長大な廊下である。全長一キロはくだらない中央棟にあるその廊下は、ここがひとつの校舎であるという現実を正面から打ち砕かんとするかのように存在していた。

 少女の瞳は、廊下の果ての先のただ一点を見つめていた。途中すれ違う生徒たちは、彼女の視界には入れど、その意識には影も形も存在していないことだろう。

 端正な顔立ちながら、全く表情のうかがい知れない相貌を持つ少女、鳶一折紙は、その無表情の奥底で、様々な思いを駆け巡らせていた。

――私は、人を殺したの?

 それはほんの少し前に起こった事だった。

 折紙は廊下で出会った幼い少女を、殺したのだ。

 きっかけは、些細な事だった。

廊下で出会ったその幼い少女が、折紙が全身全霊をかけて探し求めている名前も姿も思い出せない“彼”の情報を、知っているようなそぶりを見せたのだ。

 折紙は当然、そのことに対して歓喜に酔いしれる思いだった。普段全く表情を変えることのない彼女が、一瞬ではあるが、その表情に嬉しさと動揺を同居させたほどである。

 だが、折紙がそれを教えて欲しいと必死に訴えたにも関わらず、その幼い少女はそれに同意するどころか、必死になって頼み込んでいる折紙の姿を楽しむように、あっさりとその要件を断ったのだ。

 折紙は全身の血が頭に昇っていくのを感じた。これほどの怒りを人に対して覚えたのは、何年振りだろうかと思った。普段は冷静な彼女も、この時ばかりは怒りを隠しきれなかった。折紙は肩を震わせ、その頭に昇った血が冷静な判断力を奪っていくのを、薄れゆく理性で感じ取っていた。

 そこから先は、もう激情の赴くままだった。

折紙はその幼い少女を、三度(・・)殺した。

 それはなんの比喩でもない。確かに折紙は、その幼い少女の息の根を、三度止めたのだ。それも、三度とも方法を変えてである。

 しかし、その少女は死ななかった。否、正確に言えばその少女は折紙に殺されたその後、目の前の自分の死体を見つめながら、何事もなかったかのような顔をして、殺されたはずの少女と全く同じ姿をした別の少女が、折紙の前に姿を現すのである。

 こんな馬鹿な話があるだろうか。折紙はたった今殺したはずの少女の死体を眺めながら、同時にその少女と全く同じ容姿と気配を携えた少女を眺めていたのだから。

 だが今の折紙の頭の中に燻っているものは、その奇怪な現象を体験したというショックではなかった。

 折紙に重くのしかかっているのは、その少女を殺したという事実である。

 なぜ自分はあんなに躊躇いもなく、あの少女の息の根を止められたのだろうか。記憶を遡って理由を求めても、答えは頭に血が昇っていたからだとか、理性を失っていたからだとか、そんな他愛もないことしか得られない。

 直感的に私は、あの少女が普通の人間でないことを感じ取っていたのだろうか。そう考えれば、あの時私がすぐにあの少女を殺しにかかったのは、一種の防衛本能が働いたからなのかもしれない。

 でも、もしそうでないとしたら……。

 私はいつの間にか、人殺しを何とも思わないような人間になってしまったのだろうか。

 精霊を、この手で倒す。五年前のあの日、心に誓ったその信念は、今の私の心を歪めてしまったのだろうか。

 そこまで考えて、折紙は何を今更と思い直した。

 私の存在意義の全ては、五年前のあの日から、たったひとつしかない。精霊をこの手で殺す、ただその為だけに私は生きる。その為ならば、たとえこの心が怨念の炎に包まれて死灰に成り果てようと、構いはしない。

――ただ、そんな私を見たら、“彼”は失望してしまうだろうか。

 折紙の心の中に燃える、生きる意味そのものとも言える怨念の炎の火の手を抑えるのは、皮肉にも彼女にとってもうひとつの生きる意味を与えてくれる“彼”の存在だった。

 五年前のあの日から、精霊を倒すためだけに生きてきた折紙にとって、“彼”の存在は唯一の心の拠り所であり、何物にもかえがたい、特別な人だった。

 思えば折紙が、今日まで人間としての心を保って生きてこられたのも、“彼”の存在があってのことだろう。

 それなのに今は、その“彼”の名前も顔も、どんな人柄であったかさえ、思い出すことが出来ないでいる。折紙はそんな自分が、腹立たしくて仕方なかった。

 そんな時に偶然出会った、その“彼”の何かを知っている少女。折紙にとってこれは大きな好機であり、逃すことが許されない大切な切り札でもあった。

本音を言えば、今すぐにでも彼女を探し出して、尋問したい。だがなんの下準備もなしにそれを実行に移すには、あの少女は少々不気味が過ぎるというのが折紙の見解だった。

 殺しても殺しても、何度でも同じ姿を見せてくるあの少女。今再び冷静な頭で思い返すと、確かに折紙はあの少女に普通の人間ではない何かを感じ取っていたように思う。否、正確に言えば、本来ならば普通の人間ならだれにでも感じ取れる生気のようなものが、あの少女からは一切感じ取れなかったような気がしていた。死んでいるのに生きた体を、生きているのに、死んだ気配を纏っている。そんな少女に何の情報もなしに、加えて何の対策もなしに近づくのは、気が引ける。

 ではどうすればいいのだろう。折紙がここに至るまでの間、思考回路をフルに回転させて導き出した、合理的かつ最も安全な道が、現在折紙がとっている行動である。

 すなわち、精霊である夜刀神十香を、あの少女に引き合わせてやろうと考えた。

 同じ目的を持っていて、かつ単純で利用しやすそうなあの女なら、少しその少女のことを吹き込んでやれば、すぐに勝手に突っ込んでいってくれるだろう。頭に脳みそではなくこしあんか何かが詰まっていそうなほど間抜けなあの女からなら、それを横からかすめ取るのも、さほど難しいこととも思えない。

 それに精霊でもあるあの女なら、その少女との間に少々厄介事が起こっても力尽くでどうにかなるだろう。もしどうにかならなかったなら、それはそれで折紙にとってマイナスな事ではない。

 つまり折紙にとってのリスクはゼロ、おまけに得るものは限りなく大きいのである。

 この計画の合理性と安全性が完璧に近いものであることを改めて思い返した折紙は、自分の中に向いていた意識を外に向け直し、再び夜刀神十香を探すために、目の前の果てしなく続く長い廊下を踏みしめる足に力を込めた。

 ただ、意識を外に向けるのが、少し遅すぎた。その瞬間、折紙は交差した廊下の左側から歩いてきた人影と、正面からぶつかり合ってしまった。

「つっ……」

 全くの意識外からの衝撃に、折紙は柄にもなく尻餅を突いてしまった。

「すまない、こちらの不注意だった」

「いえ、こっちもちょっと考え事していたから。気にしないで」

 ぶつかった人影の方から聞こえてきたのは、抑揚の少ない女の声だった。顔を上げて姿を確認すると、そこには黒く艶やかなロングヘアの少女が、倒れた折紙の方を向いて立っていた。身にまとっている制服と身長からして、どうやら高等部の女子生徒らしい。

「立てる?」

 そう言って、折紙のぶつかった相手の少女は折紙に向かって手を差し伸べてきた。別にどこを強く打っただとかはなく、ひとりでも立てるのだが、流石に差し伸べられた手を払うのは失礼極まりないと思い、大人しく手を借りて立ち上がった。

「ん? そういえばあなた、同じエージェント科の同級生の……」

 立ち上がったところで、折紙の目の前の少女が折紙の顔を見て思い出したように言った。

 言われて折紙も、目の前の少女の顔を覗き込んでみる。

折紙よりも十センチほど背の高い目の前の大人びた少女は、かなり整った顔立ちをしていた。折紙のことを見つめている深い水色の瞳が特徴的な少女の顔には、確かに折紙も見覚えがあった。

 とは言え、直接会って話したことなどは一度もない。何度かエージェント科の講義で顔を見た程度だが、その少女についての話は折紙の耳にも入っていた。

 鳶一折紙は、天才だ。

 成績は常に学年主席、体育の成績もダントツ。さらに模試では全国トップという、紛うことなき天才である。

 それはエージェント科においても何ら変わらず、筆記でも実技でも他を寄せ付けぬ成績で、天才の名を高等部のエージェント科の全ての学年に至るまで知れ渡らせた。

 ただ、そんな天才鳶一折紙の話の陰で、こんな話もエージェント科の生徒たちの間では囁かれていた。

鳶一折紙は確かにエージェント科において万人にひとりの天才だ。だがこの学園でたったひとり、実技においてのみ、その天才と呼ばれる折紙と同等、もしくはそれ以上の実力を誇るエージェント科の生徒が、折紙と同じ高等部の二年に居ると。

――天才、鳶一折紙

――鬼才、雪村千怜

 超次元ゲイム学園エージェント科が誇るふたりの異才、これはそのふたりの最初の、偶然が引き起こした出会いだった。

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

西棟の三階にある各技場は、異様な熱気に包まれていた。

まだ季節は春、それも四月になって間もないまだ冬の気配さえ薄っすらと感じられるようなこの日に、この各技場を包む大気は夏の装いさえ帯びているようだった。

この熱気の原因を作っている張本人たちは、各技場の中央より少し奥に道着姿で向かい合って立ち尽くしていた。各技場の床にはポリウレタン塗装されたフローリング材が使われているが、そのふたりが立っているところには段差があり、その上からは畳が床材として使われている。

向かい合っているふたり、氷室とデリックは、道着をまとったその体に異様なまでの熱気を纏わりつかせていた。その熱気、否、もはやそれは殺気とも言えるような熱い気の塊が、ふたりの間でうねり、各技場の空気全体を支配しているのだ。

ふたりは互いに腰を落とし、両足を軽く前後に開いている。構えている両腕の位置はふたりとも違ったが、どちらもすぐに相手に打撃を仕掛けられるような構えだった。

 ふたりの距離は、ちょうどあと半歩前に出れば、互いの蹴りや拳が届こうという距離である。その距離を忠実に守ったまま向かい合うふたりは、石像のように微動だにしない。互いに己の視線に威圧感を込め、前方の相手を睨み付けている。

 各技場には、熱気とともに張りつめた空気が満ちている。空間全体をコンクリートで固めてしまったような、歪んだ硬質な空気である。

「うぉーい、食いもん持ってきたぜー、っと」

 ふと何の前触れもなく、各技場の大きな鉄製の扉が開かれると同時に、そこからすっ呆けたような声が聞こえてきた。

 張りつめていた緊張が、音を立ててはじけ飛んだ。その瞬間、ふたりの体は、誰かに合図をされたわけでもないのに、寸分の狂いもなく同時に動いた。

「づあっ!!」

「シッ!!」

 畳の床を蹴る瞬間に噛みしめた奥歯のさらに奥から漏れ出した声も、ほぼ同時に空気を震わせる。

 体を動かしたのは同時だが、先に仕掛けたのはデリックだった。

 左足を軸にして、右足のつま先で思い切り畳を蹴った。先ほどまでの石像のような硬直が嘘のように、凄まじい速度で蹴り上げられた右足が、氷室の腰に吸い込まれていく。

「ぬぅん!」

 寸前のところで、氷室の左腕がデリックの右足と氷室の左側の腰に割って入る。蹴りを受ける前に氷室が前に出たため、デリックの蹴りの入りは浅い。

「ぎっ!」

 腰への蹴りが入ると同時に、今度は氷室が仕掛けた。

 デリックが右足を戻すと同時に、左腕の甲でデリックの右足を押した。

デリックには氷室の狙いが分かっていた。これはただの誘導、氷室が左腕で右足を押したのは、追撃の蹴りの打撃点に、自分の右足を持っていくためなのだと。

 刹那、氷室の右足が勢いよく跳ね上がった。誘導した打撃点にあるデリックの右足を、氷室の右足が襲う。

「ちい!」

 デリックが右足を宙に浮かせたまま、床に残った左足で畳を前に強く蹴った。

 ふわりとデリックの体が宙に浮き、そのまま後ろ向きに跳躍した。

 氷室の蹴りが、デリックの右足のつま先より少し前の空を切る。

 デリックは宙に浮いたままの姿勢で右足を引き戻し、両膝を折り曲げて衝撃を殺し、ほとんど音もなく着地した。

――ふううぅぅぅぅ……

 蹴り足を戻した氷室と、着地したままの姿勢でいるデリックが、互いの口から細く、かつ深く息を吐きだした。

 息を吐きだして肺が縮小していくのと同調するように、ふたりを包み込むように存在していた熱気が、各技場の隅に残っていた外気と混ざり合い、徐々に等質になっていく。

 そしてふたりは、完全に息を吐き切ると同時にその場に立ち上がると、この緊張を破った声の方へ体の正面を向けた。

「おーお、まだ四月だっつーのにそんな暑苦しいことしちゃって。ふたりともサウナ帰りのおっさんみたいに汗ダラダラだぞ」

 声の主はふたりの想像通り、モルトだった。モルトは両手に鍋つかみをはめて大きめの土鍋を掴んだまま、ふたりより少し離れたフローリングの床の上に立っていた。

 確かにモルトの言う通り、ふたりの体はまるでたった今サウナから出てきたかのように汗だくだった。道着の襟と背中の部分はずぶ濡れになっていて完全に変色しており、隙間から除く肌や顔には大粒の汗が滲んでは滴り落ちている。

「お前の方がよっぽど暑苦しいだろうが。つーか俺たちがここで何してんのかわかってんなら、何でよりによってそんな昼飯持ってきやがるんだ。馬鹿かお前は」

そう言って氷室は、ただでさえ良くない目つきを更に悪くしてモルトを睨んだ。

 氷室がこう言うのも無理はなかった。なにせモルトが両手で支えている土鍋に入っているのは、濛々と白い湯気を立ち上らせて煮えたぎっている、熱々のおでんなのだから。

「いや、運動の後は熱々のおでんをたらふく食うのが健康にいいとか、よく言うじゃん?」

「絶対言わない」

 すかさずデリックがモルトの言葉をばっさりと切り捨てる。

「ちぇっ、デリックまでそんなこと言うのかよ。じゃあこのおでんは俺が独り占めしていいってことだ! ふたりともこのおでん、食いたくないんだもんな!」

 モルトはその場に座り込むと、おでんの入った土鍋を鍋敷きも敷かずにそのままフローリングの床の上に置いた。立ち上る湯気の前に、モルトはこれ見よがしに顔を近づけて、思い切り鼻から湯気もろとも息を吸い込む。

 おでんの鰹出汁の匂いを一通り楽しむと、モルトは土鍋と一緒に右腕に提げて持って来ていたビニール袋の中から、紙皿と割り箸をひとつずつ取り出した。モルトはまたわざとらしく見せびらかすように割り箸を口に咥えて割ると、せっせと土鍋の中から大根とこんにゃくとごぼう天を紙皿にとって、最後に箸で掴んだはんぺんを土鍋から直接口の中に放り込んだ。

 その様子をしばらく眺めていた氷室とデリックは、互いに顔を見合わせると、同じように呆れたような表情を顔に浮かべて、ひとりでおでんをつついているモルトの方に歩み寄った。

「おっと、このおでんはもうふたりには食わせないぜ? だっていらないんだもんなー、お前ら。あーあ、残念、こんなに美味しいおでんなのになー」

「お前が食ってるおでん、そいつはどうせ、俺の部屋に置いてあったやつだろう。それを作ったのは俺だ。作ったものをどうしようが、作ったやつの勝手だろうが」

 最大限の皮肉をもあっさりと図星を指されたモルトは、うっ、とわざとらしく呻き声を漏らすと、それっきり黙り込んだ。

「ほら、デリック」

「どうも」

 氷室はビニール袋に入っていたもうふたり分の割り箸と紙皿、それに緑茶の入ったペットボトルを取り出し、そのうちのひとつずつをデリックに投げ渡した。

 ふたりはまず緑茶のペットボトルの蓋を開けると、顔を上げて思い切りペットボトルを傾けて、大きく喉を鳴らして飲み始めた。満杯に入っていたペットボトルの中の緑茶は、みるみるうちにその量を減らし、ものの数秒も経たないうちにほとんどがなくなってしまった。

「まるでラクダだな」

 今まで黙り込んでいたモルトが、ふたりを見るなり笑いながら言った。

「うるせえ。んなことより、モルト、久々に注文だ」

 氷室は特にモルトに目を向けることなく、おでんの入った鍋に箸を伸ばしながら言った。

「ん? 今回は何だ? 日本酒? ウィスキー?」

「ワインと日本酒はまだストックがある。ウィスキーのボトルを一本だ」

 氷室が大口を開けて、餅きんちゃくを口の中に放り込みながら言う。

「へいへい。今仕入れられそうなので氷室の口に合いそうなのは、山崎の12年物と、シーバスリーガルの18年物、それにボウモアの12年物ってところだな」

「ならボウモアを頼む。代金はいつも通り、商品との引き換えでいいな。それと、調査団の中じゃ氷室じゃなくて団長って呼ぶんじゃなかったのか、お前」

「どうせこんなところになんか、誰も来ないっしょ。三年以外の団員に聞かれないなら、呼び捨てでオーケーオーケー、オーケー牧場」

 モルトは言いながらごぼう天を箸でつまんで、自分の目の前でひらひらと左右に動かした。

「誰が来ないって?」

 その声に合わせるように、少しだけ開きかけている各技場の出入り口の扉の向こう側から透き通った、しかし抑揚の乏しい声が聞こえてきた。

 千怜の声だった。聞き慣れた声に、モルトは反射的に出入り口の方を振り返った。

「あ、やっぱ千怜じゃん。どうしたんだよ、わざわざこんなむさ苦しい場所に来るなんて。あ、ひょっとしてあれか、俺に夜這い仕掛けようってわけ?」

「誰があんたに何かに夜這いなんかするもんですか。あんたに夜這いするぐらいなら、どぶ川の水を飲み干す方がマシよ」

 扉を開けて入ってきた千怜が、ごみを見るような目つきでモルトを睨んだ。

「うっ……その冷たい態度と目つき……ああっ、たまらない!」

「本当に気持ち悪いことをなんの躊躇もなく言うわよね……寒気がするわ」

 わざとらしく呻き声を上げて、背を丸めて苦しむような様子を周りにアピールしつつ、この間と同じように右の拳から親指を立てて腕を前に突き出すモルトを、千怜はもはや見ようともしなかった。

「で、お前は何しに来たんだ、千怜。この各技場は、あと一時間は俺たちが使うと言っておいたはずだ。素振りでもしに来たなら、他を当たれ」

 氷室は顔を上げず、おでんの入った土鍋に箸を伸ばしながら言った。

「違うわよ。そもそも用があるのは私じゃないわ」

「お前じゃない?」

 その言葉を聞いて、ようやく氷室は顔を上げて千怜の方を見た。

「いいわよ、入ってきて」

 千怜の声の後に続いて、各技場の扉の影からひとりの少女が場内へと足を踏み入れた。

 先ほど千怜とぶつかった少女、鳶一折紙である。

「うおっ、何その可愛い()! あ、千怜、これはもしかしてあれか、新入団員!? 初めまして、俺はモルト・アークライト。ちなみに調査団では第四班の班長をやっています。まぁ、君がうちの班に来ることは確定として、とりあえず寮の部屋番号と電話番号を――」

「私は入団希望者ではない。ただ、人を探しているだけ」

 折紙がてっきり入団希望者だと思い込んでいたモルトは、ひとりで散々盛り上がった後に、勝手に肩を落とした。

「あーあ、入団希望者じゃないんだ……で、俺たちに何の用? 人探しなら職員室に行って教師にでも聞いてくださーい」

 乾いた笑いを含ませながら、モルトが皮肉っぽく言う。

「校舎内は、もうかなりの間探し回った。これ以上校舎内を探しても、徒労に終わるだけというのが私の推測」

「まぁ、この広い校舎の中でひとりを探そうなんざ、徒労に終わらないことの方が珍しいだろうが、俺たちにどうしろってんだ。俺たちは生憎、人探しは請け負ってねえんだ。他をあたりな」

 ひねくれておでんを再度つつきだしたモルトを尻目に、氷室が顔を上げて応対する。

「確かに、校舎内の捜索をあなたたちに頼もうとは思っていない。私が頼みたいのは、ここ最近に校舎外に出た生徒がいないのかを、あなたたちに調べてほしい」

「あぁ……?」

「要するに、最近危険区域に立ち入った人がいないかを調べてほしいって言ってるのよ」

 補足のために、千怜が口をはさむ。

「わざわざそんなところに足を踏み入れるほど、おたくの探してる奴には後ろめたい事情でもあるのかよ」

 氷室は呆れたようにそう言うと、折紙の顔から目を離し、皿の上の大根を箸で一口大に切って口に運んだ。

「私の尋ね人の短絡的かつ荒唐無稽な性格からすれば、そんな場所に手違いで足を踏み入れていても、何らおかしくはない」

「いったいどんな糞野郎だそいつは……おい、モルト」

 氷室に言われて、モルトは渋々、うーいと返事をすると、箸を紙皿の上に置いて自分の左手首に巻きつけてあるリストコムに目をやった。リストコムのホームボタンをタップすると、空気中に縦およそ七センチ、横十センチメートルほどの3Dディスプレイが出現した。

腕時計の形をした携帯端末のリストコムは、調査団員全員に支給されている。しかし調査団の保有するメインコンピュータにアクセスして随時その情報を閲覧できるのは、団長を除けば、主に調査団の中でも技術屋を中心とした団員で構成された、第四班の一部の人間だけであった。

 モルトのリストコムそのもののディスプレイを操作する右指の動きに合わせて、リストコムの縁の部分から照射されたレーザーによってできた3Dディスプレイが、映し出すコンテンツを変えていく。しばらくリストコムに目を落としていたモルトだったが、ふと思い出したように口を開いた。

「あー、それで探してる人って誰? 彼氏?」

 モルトの発言に、それまで無表情だった折紙は微かに眉根を寄せた。

「確かに、私と恋仲にある人も探してはいる。けれど、今はその人を見つけるために、ある女を探している」

「なんじゃそりゃ」

 折紙のわけのわからない言葉に、今度はモルトが眉をひそめた。

「ま、いいや……それで、その探してる人の名前は?」

「高等部二年の夜刀神十香という女」

 折紙がその名を口にした瞬間、おでんを囲んでいる三人の周りの空気に、緊張が走った。

 モルトのリストコムをタップしている指が止まり、デリックが鍋に落としていた視線を上げて氷室の方を見上げた。

 だがその緊張は、一瞬のことだった。

「デリック、そこのがんもどきを取ってくれ」

 氷室は鍋の方を見たまま、特にふたりに対して視線をやることもなく言った。

「……はい」

 デリックは再びさっきのように視線を鍋に戻し、箸で自分のすぐ手前にあるがんもどきをつまんで氷室の皿に置いた。

 折紙の言葉は、氷室にも聞こえていたはずである。なのにふたりに対して目もくれず、目の前のおでんを頬張る氷室を見て、ふたりもその真意を悟った。

――何事もないように振る舞え

 言葉にはしなかったが、氷室は自らの行動でそう二人に訴えていた。

「おっと、こいつか。どうやらあんたの勘は当たってたみたいだぞ」

 再びリストコムを操作し始めたモルトが、ほどなくして3Dディスプレイを見上げて言った。

「ついさっき、無許可で立ち入り禁止区域に立ち入ったお馬鹿な女の子がひとり。東棟一階の引き戸の溝の部分に設置してあるセンサーが学生証のIDを読み取った結果、名前は夜刀神十香。高等部二年の女神候補科所属の生徒、これが君の探してる人でオーケー?」

 折紙の表情に、一瞬ではあるが歓喜の色が灯った。

「それで間違いない。感謝する。雪村千怜、ここまで連れて来てもらったあなたにも、礼を言う」

「別にいいわよ、そんなこと。それより、探し人見つかったんだし、早く行ってあげたら?」

「では、そうさせてもらう」

 折紙は素早く後ろを振り返ると、ほとんど走るのと変わらないような速度の早足で、各技場から出ていった。

「いいのかよ、女子生徒ひとりで立ち入り禁止区域に向かわせて」

 デリックが箸を止めて、千怜の方を見上げて言う。

「エージェント科二年、鳶一折紙」

 突然、氷室がそれに口を挟んだ。

「俺もその名前は聞いたことがある。なんでも、エージェント科でも万人にひとりの逸材と言われているそうだ。筆記は首席、実技も千怜と張り合うほどだと聞いてる。それなら、東棟一階から繋がっているあの危険区域ごとき、どうとでもなるだろう」

「そういう事よ」

 珍しく千怜が氷室に同調する。だがやはり、声には微かに嫌気のようなものが感じられる。

「じゃ、私ももう行くわね」

「あれ? 千怜はおでん食べていかないの? うまいおでんなのに、ねぇ、団長」

 千怜がいることにより、モルトの氷室に対する言葉遣いが若干の敬意を含んだものになっている。

「気分じゃないわ。それに、さっきご飯を食べたばっかりだし」

「そりゃ残念、せっかく千怜と間接キスができると思ったのに」

「後で殴り倒すわよ」

「ぜひ、お願いします! 千怜になら、むしろその後に踏んでほしいぐらい」

 モルトの返答を耳に入れないうちに、千怜も折紙と同じぐらいの早足で各技場を後にしていった。

 モルトは千怜の後ろ姿が見えなくなるまで見送ると、視線を氷室の方に向けた。

「千怜が知ってるのがあの夜刀神十香って娘の顔写真だけで、名前まで知らなくって良かったよな。知ってたら、ちょいと面倒なことになってたかもしれないし」

 モルトの言葉遣いは、既に千怜が来る前のそれに戻っていた。

「ああ、何にせよ、これが俺たちにとってプラスに働けばいいんだがな……」

 そう言うと、氷室は皿に残っていたおでんを全て口の中にかきこんだ。そしてそれがまだ口の中にあるうちに立ち上がると、各技場の端の方に置いておいた着替えの方へ歩き出した。

「どこに行くんだ?」

「ちょっと、前から目をつけていた、同学年の学園内の情報通のところに行ってくる」

 デリックの質問に、氷室は口の中のおでんを喉を鳴らして呑み込んだ後に答えた。

「ああ、そういえばそんな事言ってたな。名前は確か……長くてもう覚えてない」

「キャストリーム・リ・ラ・フィリアーヌ・ヴィオラハートだ」

 タオルで汗をぬぐい終わった氷室は、ワイシャツの袖に腕を通しながら言った。

「よくそんな長い名前覚えてるよなー、氷室は。あ、ひょっとしてあれか、氷室、その娘に対して気があるんじゃねえか?」

 口を開けばそんな事しか言わないモルトに対して、氷室はもはや反論するのも馬鹿馬鹿しくなり、無視を決め込んだ。

「黙ってるってことは、つまりは図星ってわけだ。よし、今度俺の班の団員に、盛大に言いふらして回ろう!」

「モルト、今度の遠征にかかった費用は、全部お前宛ての請求書にしてお前の寮の部屋の郵便受けにぶち込んでおいてやるからな」

「すんませんでした」

 モルトは合間入れずに、その場で両膝を突いて土下座した。氷室の冷たい視線とデリックの呆れた視線が、同時にモルトの背中に突き刺さる。

「じゃあ、もう俺は行くからな。後のことは頼んだぞ」

 学生服を着終わった氷室は、ふたりにそう言い残すと、先ほど出ていったふたりよりはゆっくりとした足取りで各技場を出ていった。

 モルトの土下座は、氷室の足音が各技場から完全に消えるまで続いていた。 

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 ネロ・フェケート・シュバルツシスターは、自分の部屋の中で困惑していた。

 本来であれば、ホームルームが終わった後は真っ直ぐ姉であるユニのクラスへと赴き、そのまま一緒にラステイション寮へと向かうのがいつもの事だった。普段あまり他人に心を開かないネロも、最愛の姉との帰り道では多くのことを話し、心の奥底を開いていた。教室から寮に帰るまでのわずかな時間、この時間がネロにとっては掛け替えのない時であり、一番心安らぐときでもあった。

ユニとは寮の部屋が別々であるため、寮に着いたところで互いに別れ、各々の部屋に足を進める。

部屋に帰ってきた後は、特にこれと言ってすることは決まっていなかった。唯一決まっていることと言えば、制服を脱いで部屋着に着替え、鞄を所定の位置に戻しておくことぐらいである。ソファーに寝そべって、本棚から適当に見繕った本を読みふけることもあれば、姉に体が鈍らないようにと言われたときは、筋力トレーニングに励んだりしたこともあった。

 だが、今はそのどれひとつさえできずにいた。

「へぇー、これがネロちゃんの部屋なんだー」

 なぜなら、部屋にひとりの招かざる客が居座っているからである。

 その招かざる客、エネットは、広々としたリビングの中を縦横無尽に動き回り、部屋のあちこちに目をやっていた。

「おい、お前。なんで私の部屋に居るんだ」

「え? やだなーネロちゃん、ここまで一緒に帰ってきたこと、忘れちゃったの?」

「私が聞いてるのはそこじゃない。なんで部屋にまで入ってきたんだと聞いてるんだ」

 露骨に目を細めながら、ネロがエネットの方を向いた。ただでさえネロはあまり目の大きい方ではないために、かなり雰囲気としては威圧感のあるものに仕上がっている。

「それはもちろん、ネロちゃんの部屋が見たかったからだよ!」

 だがエネットは、そんな威圧を物ともせず、さも当然のように答えた。両目に燦々と輝く無邪気な栗色の瞳は、真っ直ぐネロの細まった目を見つめている。

「それ、答えになってないぞ」

「まあまあ、ネロ。いいじゃないの。部屋ぐらい、見せても減るもんじゃないんだし」

 ネロの肩を軽く叩きながら、隣に立っている姉のユニがネロをなだめた。

「そうそう、怒ってばっかりじゃ毎日面白くないよ、ネロちゃん」

「怒る原因を作っているのはおまえなんだがな……」

「まあ、そんな事は置いといて、だよ。ネロちゃんの部屋のインテリア、綺麗だね~!」

 エネットは相変わらずの調子で部屋の中を飛び回っては、デスクの上の小物などに目を輝かせている。

 確かにエネットの言葉通り、ネロの部屋のインテリアは学生寮としてはかなり凝ったものに仕上がっていた。白一色の壁紙にグレーのソファー、白色のローテーブルに黒と白のストライプ柄の絨毯と、モノトーン調で統一されたインテリアは、可愛いというよりは美しいと形容する方がしっくりくる。

「あれ? この写真って……」

 今まで部屋のあちこちに目をやっていたエネットが、初めて部屋の中のひとつのものに向かって目を止めた。

 その視線の先にあったのは、黒塗りが施された木製の写真立てだった。学習用のデスクの上に飾られているそれは、デスクの上でも特に目のつく場所に飾られていた。

 その中に入っている写真に写っているのは、三人の少女である。一番手前に写っているのがユニ、それとは正反対に一番奥に写っているのがネロであることはエネットにもわかった。だが、そのふたりの中間、身の丈の半分もありそうなほどの鮮やかな黒髪を青いリボンでツインテールにしている、ふたりよりも少し年上に見える少女は、エネットには見覚えのない人物だった。

「ああ、その写真の私とネロの間に写ってるのは、私とネロのお姉ちゃんよ」

 いつの間にか写真を覗き込んでいるエネットの隣で立っていたユニが、エネットの見ている写真を指さして言った。

「へえ~! じゃあネロちゃんは末っ子で、ユニちゃんが次女なんだ! あれ? でもネロちゃんとユニちゃんって、学年一緒だよね? もしかして双子なの?」

 エネットが隣にいるユニの方へ顔を向けながら言う。

「え? あー、それね……まぁ、話すと長くなるから、今は気にしない方がいいわよ」

「うん! じゃあ気にしない!」

「そこまで聞いておいて、結局しないのか」

 遠くでふたりを眺めていたネロが、絶妙のタイミングで突っ込みを入れる。

 と、そこでユニが何を思ったのか、突然少し目を細めて写真を覗き込んだ。食い入るように見つめては写真に近寄り、それを両手で持ち上げて目の前に引き寄せる。

「ねえ、ネロ。私たち、こんな構図の写真、一緒に撮ったことあったかしら?」

 両手に持った写真をネロの方に突き出しながら、ユニが問う。

 写真をよく見てみると、ユニの言う通り、その写真はよく見れば不可思議なところがひとつ見つかった。それは、写真の中のネロがはっきりとカメラを意識して視線を送っているのに対し、後のふたりは全くカメラを意識しているようには見えないところである。折角姉妹三人そろっての写真なのに、肝心のふたりの姉がカメラを向いていないのでは、やはり少し不自然な感じがする。

「私とお姉ちゃん、全然カメラの方向いてないじゃないの。これ、いつ撮ったの?」

「……少し前です」

 全く抑揚の感じられない声で、ネロが機械的に話す。

 ネロのあからさまにおかしな反応に、ユニは写真を右手だけに持ち替えて突き出したままネロの方へと歩き出した。そしてそれに合わせるようにして、ネロの視線がユニから外れる。

「いつ、撮ったの?」

 ネロの目と鼻の先まで顔を近づけたユニが、写真を無理やりネロの目の前に突き付けて問いただした。眉間にしわを寄せて目を細めたユニの視線から逃れようとするネロの瞳を、写真を持ったユニの右手が追いかける。

「……二週間前です」

「二週間前……最近私たち三人で写真を撮ったのって、あんたと私の入学式が最後で、それより前って言ったら一ヶ月以上は前よね? ってことは、これは……」

 盗撮、それはもはやユニが言うまでもないことだった。

 もう一度目を凝らして部屋を見渡してみれば、他にも姉妹三人で写っている写真の中に、自分には全く身に覚えのないような構図の写真が何枚か見つかった。

 自分と姉のことを慕って、大切に思ってくれるのは嬉しいけれども、これは少々その愛が重すぎるような気がしないでもない。

 ユニは右手に持った写真をネロに手渡すと、呆れたように大きなため息をひとつ吐いた。

 ――この愛情が少しでも、クラスでの友人作りに向いてくれればいいのに

 そう切実に思うユニだったが、ふと思ってみれば自分と姉も、あまり積極的に友人作りなどしていないことに気付き、ネロの肩に手を当ててまたいっそう深いため息を吐いた。

「ユニねーさん、どうしたんですか?」

「いやー、なんでもないわー……やっぱりこれって、ラステイションの女神候補生の宿命みたいなものなのかしらね……」

「全然なんでもないように見えません、ねーさん……」

 自分の肩に手を置いて項垂れては、乾いた笑みを浮かべているユニを、ネロが心配半分不思議半分と言ったような表情で見下ろした。

 何か不謹慎なことをしたのだろうかと、ネロは自分の行動を思い直した。こっそりと写真を撮ったことに対して、腹が立っているのだろうか。それとも、撮った写真の構図が気に入らなかったのか。もしくは、もっとふたりをアップにして撮った方がよかったのだろうか。

 考えれば考えるほど、ネロの思考はユニのそれとはすれ違い、どんどん勢いを増して離れていく。

 そんなネロの終わりのなさそうな勘違いのループを断ち切ったのは、先ほどまでふたりの傍観に徹していたエネットの一言だった。

「ネロちゃんとユニちゃん、すごく仲良いんだね! 羨ましいな~!」

 ふたりの方を向いているエネットは、ユニとは対照的に屈託のない笑みを浮かべていた。

 声に反応してエネットの方を振り向いたふたりは、まるで欲しくてたまらないおもちゃを目の前にした子供のようだと、このとき初めて同じことを胸に思ったが、あえてそれは口に出さないでおいた。

「そりゃあ、愛しいねーさんだからな。それに、姉妹の仲が良いなんて、当たり前のことだ」

 ネロはそれを恥ずかしがることもなく、さも当然のように言った。むしろそれを言ったネロよりも、言われたユニの方が顔をほのかに赤くし、恥ずかしがっているように見える。

「いいな~、ユニちゃん、愛されてて。友達になったばっかりの私が、ふたりにそんな風に恥じらいもなく、仲が良いよって言ってもらえるようになるには、あとどれくらいかかるのかな~」

 言いながらエネットは、腕を胸の前で組んで大げさに首を傾げた。

「おい、いつから私はお前の友達になったんだ」

 首を傾げたままのエネットに向かって、ネロが冷静な口調で言う。

「え!? だってもうネロちゃんはお部屋にお邪魔しちゃったし、ユニちゃんとは握手をしたんだし、これってもう友達ってことでしょ!?」

「たったそれだけで、友達認定されるものなのか……? もっとこう、時間をかけて作るものじゃないのか、友達ってやつは……」

「友達は、出会って握手すればできちゃうよ。 時間をかけて作っていくのは、友達じゃなくて友情の方だよ! さ、だからネロちゃんも、私のことをお前なんかじゃなくって、ちゃんと名前で呼んで?」

「どうしてそれが、名前で呼ぶことに繋がるんだ……え、エネ……エネット、ラド? お前の名前、何て言った?」

 ネロは頭の右上の何もない空間を見つめるようにして、何とか記憶を漁っていたが、結局エネットのフルネームは出てこなかった。

「あー、私の名前長いもんね。エネット・ラドリー・オークレーだよ」

 エネットはそれだけ言って、突然言葉を止めて俯いてしまった。俯いたまま右手に拳を作って額に押し当て、うーんと唸っている。どうやら何か考え事をしているようだ。

 ほんのしばらく経って、エネットがばね仕掛けのおもちゃのように頭を跳ね上げた。直後、ネロを見つめる顔に満面の笑みを浮かべて、

「じゃあ、ネロちゃん! これからは私のこと、エネって呼んで!」

 と半分叫ぶような形の大声で言った。

「エネットじゃなくて、エネなのか? 大して変わらないような気がするが……」

「ほら、あだ名ってなんだか友達~、みたいな感じがするじゃん! ネロちゃんのあだ名は何が良いかな~?」

「私のあだ名は必要ないぞ、エネ」

「あ、早速呼んでくれた!」

 ついうっかり口に出してしまった言葉に、ネロはいつの間にか自分がエネットのペースに乗せられてしまっていると気付き、軽いため息をひとつ吐いた。

 なにせ目の前にいるエネットと言う少女は、無邪気で明るくて社交的な、自分とは対極に位置するような少女なのだ。正直、あまり他人と関わりあおうとしないネロとしては、エネットのような少女と関わるのは、何かと疲れるし、息苦しささえ感じていた。

「じゃあ、これからもよろしくね、ネロちゃん!」

 そう言ってエネットは、元気よくその右手をネロの前に差し出した。エネットが握手を求めていることは、ネロの目にも明らかだった。

 ネロは瞼を閉じて、再び軽くため息を吐くと、

「ああ、よろしくエネ」

 そう言って目を開き、エネットを見つめなおしてその手を握り返した。

――まあ、こう言う友達がひとりぐらいいても、悪くないか

 ネロはエネットの手を握りしめながら、そう思っていた。息苦しさはいつか慣れるだろうし、何より折角自分に歩み寄って来てくれたエネットを無下に突き放すのは、罪悪感がある。それにしても、自分に姉以外の話し相手ができるなんて、今まで考えもしなかったが、これはこれで悪い気分はしないとネロは思った。

 エネットはネロの言葉を聞いた瞬間、より一層明るい笑みを、その顔に浮かべていた。一切の濁りのない、人懐っこくて柔らかで、思わず微笑み返したくなるような笑みである。ネロがエネットと出会ってから見た彼女の表情は、全て笑顔に溢れていたが、この笑顔は今までのどれとも一線を画する笑顔だった。

 ネロ自身が、いつの間にか自分がエネットに微笑み返していることに気付いたのは、もうしばらくたってからだった。

 

 

 

 

 

 
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