街の片隅にある調練場から断続的に剣戟の音が街中に響く。
時折聞こえる怒声も、ここ最近では民達にとってお馴染みのもの。
勿論民達は調練場の中で何が行われているのか、詳しいことなどは分からない。
だが、毎日毎日ヘトヘトのボロボロになってそこから這うようにして帰っていく将達を見れば、大凡の想像はついていた。
一部の民には大衆飯店などで兵達から中の様子の一部を聞いたことがある者もいる。
その内容は俄かに信じられるものではない。
地獄、拷問、戦争といった物騒な言葉で形容され、ベテランの兵をして死なないことが不思議だ、とまで言わしめていたのだから。
外でそのような噂を立てられていようが全く構うことなく、ひたすら部下の体を虐め抜く女が1人。
大陸南東を主に纏め上げる孫家が当主、孫堅である。
その武は”江東の虎”と称され、現漢王朝において馬騰と共に篤き忠臣として名高い武人。
そんな彼女に現在立ち向かっているのは彼女の実の娘、孫策その人。
武に関して天賦の才を持つと言われ、事実として戦場ではその孫家の血を滾らせて最前線で敵の屍の山を幾多も築いている。
なのだが。
今調練場にて繰り広げられている光景からは微塵もその様子は想像出来ないほどだった。
「ほらほら、どうした雪蓮?もう終わりかい?」
「はぁ……はぁ……くっ……!まだ、まだぁっ!!」
持ち前の攻撃的な気性と戦闘勘を頼りに、再三繰り返した突撃を今再び敢行。
(力押し、手数押しは既に幾度となく試した……だったら……っ!)
孫策は間合いの限界まで一息に踏み込むと、二の手を考えない全力で剣を振るう。
初太刀に全てを込めるその様は、皮肉にも孫呉の宿敵となる一刀の操る北郷流、その大元となった薩摩示現流に通ずるところがあった。
しかし、それだけの一撃をもってしても、孫堅に土をつけることは叶わない。
孫堅は孫策の剣を真っ向から受け止め、全身のバネを使って僅かに南海覇王を下げることで威力を全て吸収する。
孫策の剣の速度がゼロになると同時に短く、しかし深い踏み込み。
全力攻撃のお株を奪うパワーカウンターにて孫策を軽く跳ね返したのであった。
「ぅあっ……!痛た……」
「はぁ……ぅくっ……しぇ、雪蓮。まだ、いけるのか?」
「冗談……もう、さすがに体が動かないわ……」
倒れ込む孫策の傍らには世に断金の交りとして知られる周瑜の姿がある。
呉の軍師は白兵戦にも強い。もちろん、軍師、文官としての能力もかなりの高レベルである。
しかし、その筆頭たる彼女もここ数日は仕事の大半を下の文官に任せて孫策他、呉の主要武将とともに扱かれていた。
「ふぅ、全く。どうやら今日はこれで終わりのようだね。あんたら、せめてもうちょっと持つようにしな」
大の字に並んで倒れる2人にとって厳しい一言が投げかけられる。
いつもこの場面にて2人の正反対とも言えるような性格の違いが明らかになる。
言い返そうにも言い返す理屈を見つけられずに苦笑を漏らしてしまう周瑜とは対照的に、孫堅の言葉に反射的に突っかかっていくのが孫策であった。
「母様はそう言うけれど、私達はまだ持ってる方じゃない!大体母様がおかしいのよ!
これだけの数相手に仕合をこなしてなんでまだ息も切れてないのよ!?」
「あんたらが疲れやす過ぎるんでないかい?私があんたらぐらいの頃にはもう戦場の最前線で暴れまわっていたもんなんだがねぇ」
逆にこっちが聞きたいくらいだ、と言いたげに小首を傾げる孫堅の後ろから、また別の声が掛けられる。
「堅殿と策殿、冥林とでは踏んだ場数が違い過ぎますからな。それに参戦していた戦の質も違いましたぞ?
黄巾以降はともかく、それ以前の賊共など堅殿がよく相手をされていた五胡の足元にも及びますまい」
「そんなもんなのかねぇ?特に雪蓮なんか、戦に出てりゃあ孫家の血の滾らせ方が分かるもんだと思ってたんだが。
ところで、そっちの奴らはどうなんだい?」
「孫家の血とやらを制御出来たのは堅殿久方ぶりだとか言っておらんかったか?そう簡単に出来るとは思えんがのう。
おお、そうじゃった。権殿は勿論、亞莎も穏も大分実力が付いてきたわい。
権殿の立ち回り次第ではそろそろ儂では連戦は厳しくなってきておるな。実戦をこなせば権殿も孫家の血を滾らせられるのではないかのう?」
「ほう!頑張ってるじゃないか、蓮華!なんなら明日から蓮華もこっちに加わるか?」
「か、勘弁して、ください……母様……」
黄蓋の報告に嬉しそうに提案した孫堅だったが、少し離れた所でこちらも大の字に転がる孫権は途切れ途切れながら否を返す。
今までも甘寧に付き合ってもらって実戦を想定した鍛錬は積んでいたものの、黄蓋の鍛錬はその比では無かった。
なるべく怪我をさせないよう、疲れすぎないよう注意しつつ鍛錬に付き合ってくれた甘寧とは異なり、黄蓋の鍛錬では怪我することは当たり前、最後に疲労で動けなくなる寸前まで追い込む毎日。
確かに自分でも驚くくらいに実力が上がっている実感はあるものの、だからこそ余計に孫堅の異次元のような強さが理解出来、そこに加わる気が起きなかった。
なお、今話に出た甘寧だが、彼女は周泰と共に孫策たちの向こうで伸びている。
周瑜、孫策以前に孫堅との仕合をいくつかこなし、悉く叩き伏せられたのだ。
絶対的なな武を有する君主と、古くからそれに付き従って修羅場を共に乗り越えてきた宿将。
その2人が本格的に将の育成を開始して以降、この光景はお馴染みのものとなっていた。
そろそろ雑務に戻るか、と孫堅が踵を返しかけた時、死屍累々と言った様相を呈している調練場に一人の人物が現れる。
呉の将によく見られる鮮やかな紅の、しかし布地の少ない衣服を纏い。
その衣服から伸びるスラっとした手足は孫軍では珍しい色白。
後ろ腰に戟を2本交叉するようにして携えているが、それを見てもその場の空気が変わることは無かった。
適度に色の抜けた茶髪をワンサイドアップで束ねた見目麗しいその女性は、孫堅の前まで歩いてくるとピッと張った声で報告する。
「太史子義、ただ今戻りました、月蓮様!」
「お、木春じゃないか。ご苦労さん。で、どうだった?」
目的語を省略した問いでもこの場で聞くとなれば内容は一つ。
故に太史慈も迷うことなく即座に答えを返す。
「徳謀様は守りを確実に任せられると判断出来次第、こちらの合流するとのことです。
現在は一夜仕込みではありながらも砦に残る副官に持てる戦術知識を詰め込んでいるそうで。
遅くとも一月以内には必ず、と仰っていました」
「そうかい。どうやら間に合いそうだね。良かった良かった。
よくやってくれた、木春」
「いえ、仕事ですから、当然のことです」
与えられた仕事は確実にこなす。期日も一度として破ったことが無く、明命、思春と並んで孫堅からの信頼度が高い武将。それがこの太史慈であった。
当然のようにその報告内容を疑う事無く受け入れ、孫堅は労いの言葉を掛けた。
太史慈の報告の報告が終わるや、孫堅の側で聞いていた黄蓋が破顔する。
「なんじゃ堅殿、粋怜のやつまで呼んどったのか。あやつに会うのも久方ぶりじゃのう。酒を酌み交わすのが今から楽しみじゃ」
「今はそういう時だと私の勘が騒ぐんでね。袁紹の奴はもう動き出した。当てられて美羽も動き出すだろう。
まあそっちは大して問題は無いんだが、危ないのは曹操の奴さ。連合で直に会ったから分かるが、あいつは本気だよ。大陸を獲りに来るだろうね。
あいつがその行動を取るってことは、つまり陛下に牙を剝くってことだ。ならやるしかないさね。
久しく無かった大戦。考えるだけでも血が滾るねぇ!酒もいいが、血沸き肉躍る熱い戦も楽しいもんじゃないか!」
「孫家の血と堅殿の勘は相変わらずじゃな。敵に回せば恐ろしいが味方じゃとこれ以上無く頼もしいもんじゃ」
軽く首を振りながらしみじみと漏らす黄蓋の言葉は、この場に居合わせる将が皆思うところであった。
今でこそ簡単に地面に転がされている孫策であるが、その戦闘力は十分に高い。
彼女の真骨頂は戦の最中、一瞬一瞬における非常に鋭い勘。それに加え、それを最大限に発揮すると言われる自由奔放な剣筋。
さらに孫家の血が滾った時、彼女の勘はそれまで以上に冴え渡る。
その状態で孫堅と対峙すれば、あるいはいい勝負にはなるかも知れない。
母たる孫堅を含め、皆がそう思ってはいるのだが、孫堅と黄蓋以外はそこに空恐ろしさを感じてもいた。
確かに血を滾らせた孫策はいい勝負をするのかも知れない。だが、言ってみればそこ止まりなのだ。
孫堅の側はそのまま。つまり”血を滾らせていない”という前提でそれ。
孫策以上の勘を持ち、その武の底は頑として知れない。
そんな孫堅を敵に回すなど、考えるだけでも身の毛もよだつ想像なのだった。
「そうだ。木春、折角戻ってきたんだ、今から一丁揉んでやろうか?」
「はい!お願いします!」
ふと思いついたと言ったような孫堅の提案にも太史慈はすぐ応じる。
そしてそのまま後ろ腰の2本の戟、双戟を手に構えを取った。
「さぁて……久しぶりの今日はどれくらい持つかねぇ?」
「逆に、今日こそ一本取ってみせますよ……」
構えて立ち合う両者の間に張りつめた緊張が満ちていく。
黄蓋はいつの間にやら距離を取り、審判を務めるようだ。
「しっかり気張るんじゃぞ、木春。今のご機嫌な堅殿はいつも以上に強いからの。では……始め!」
合図とほとんど同時に両者が飛び出す。
控えめに言っても好戦的な両者の仕合に”待ち”の選択は無い。
静まっていたこの日の剣戟の音が、暫しの間だけ再び戻ってくるのだった。
「はぁっ……はぁっ……ま、参り……ました」
4仕合計半刻。孫堅相手にほぼ休憩無しの連戦でこれだけ持てば合格を与えられても良さそうなものだが。
「ふぅむ、時間は持ってるんだけどねぇ……
最後の方は防戦一方だったじゃないか、木春。もっと攻め気を充実させな?」
「は、はい……しょ、精進します……」
孫堅から投げられた言葉は非常に厳しいものだった。
先刻までの孫策達と同じように地に倒れ伏す太史慈も、結局一本も取ることが出来なかった。
そうは言えども、それを見ていた孫策達にそれを情けないと思う気持ちは全くと言っていい程無かった。
「木春も好きねぇ……最後の仕合、いらなかったんじゃない?」
「私の目にも3仕合で限界のように見えたがな。何か策でもあったのか?」
太史慈が仕合を行っている間にどうにか立てるまでに回復した皆の中から、孫策と周瑜が近寄り太史慈に声を掛ける。
差し伸べられた孫策の手に引き起こされながら苦笑を浮かべて太史慈を返答した。
「あはは……無いよ、策なんて。私は冥林みたいに緻密に組み立てた戦闘なんて出来ないからさ。
折角月蓮様に直接鍛えてもらえるんだから、動ける限り教えを乞うた方がいいじゃない」
「木春は真面目ねぇ。相手はあの母様だってのに」
「あんたは逆に木春を見習いな、雪蓮。それにね、最後の仕合もちゃんと意味はあるもんだよ。
戦場では何が起こるか分からないんだ。時には孤立して体力を使い果たしてしまうようなこともあるかも知れない。
だが例えこちらがそうであったとしても、敵は躊躇無く襲ってくる。そんな時でもきちんと対処出来るようになる、その為にはそんな状態での鍛錬も重要な意味を持つもんさ」
「そうじゃぞ、策殿。戦というものは例外無く命のやり取りが行われる場じゃ。何の言い訳も聞きゃあせん。
後々になってから後悔したとて、時既に遅しじゃからのう。冥林にとっても例外ではないぞ?」
軽い会話を交わしていたつもりのところに思わぬ方向から孫堅と黄蓋に諭される。
理屈に納得できるだけに言い返すことは出来ず、渋々孫策は頷く。
周瑜も得心したようで、幾分真面目な顔でこちらも頷き返していた。
「まあ、そう気負うこともないぞ、策殿、冥林。それに木春もじゃ。
なんせ堅殿がこう考えるようになったのもあの時に―――」
「祭~。そういえばあんたとも久しく仕合ってなかったね~?どうだい、一丁やっとくかい?」
「む、昔からの堅殿のこの考えは非常に正しいものじゃからな!努々忘れるでないぞ?!
して、どうされたかの、堅殿?」
「い~や、なんでもないさ。今日もお疲れってね」
背後からメラッと燃え上がった闘気に慌てて台詞を修正する。
見れば黄蓋は額にダラダラと冷や汗を流している。
まあそれも仕方のないことか、と3人が揃って苦笑を漏らしていると。
「た、大変です!姉様!母様!」
少し離れた位置で残りの者達と屯していた孫権が血相を変えて孫堅達5人の間に飛び込んできた。
「どうしたんだい、蓮華?さっき思春の部下が来てたみたいだけど、それ関連かい?」
「見、見てらしたんですか、母様。はい、そうです。袁紹と曹操との間で事が大きく動いた、との事だったんですが……」
「それならそろそろ来るだろうと言っていただろう?そんなに驚くようなことかい?」
訝しげに首を傾げる孫堅だったが、次なる孫権の言葉はその態度を一変させるに十分な威力を持っていた。
「曹軍の大将を務めたと思しき人物が”天の御遣い”を名乗り、あまつさえ数倍も異なる兵数差を打ち破って勝利を収めたそうなんです!!」
「ほ~ぅ……それはまた、面白いことをやらかしてくれたもんだねぇ」
ニヤリと意味深な笑みを浮かべて孫堅が呟く。
それを皮切りに周囲からも様々な声が上がり始めた。
「蓮華様、それは真ですか?」
「ええ、本当よ、冥林。今回の間蝶は思春の部下の中でも実力者らしいわ」
「天の御遣いって、最近また噂になってるやつのことだよね?数年前に噂になった予言とやらが言うには、『比類なき「武」と「知」を以てやがて来る戦乱の世を鎮めん』。
その北郷とやらの武と知に関して予言が正しかったってことなのかな?」
「そうみたいね。現にあの袁紹が破られたっていうんだから。一度戦ってみたいわね」
「木春、策殿。堅殿が皆をこうして鍛えておられるのは、そやつの台頭を予測してのことじゃ。
逆に言えば、堅殿がそれ程心配する相手。気を抜くで無いぞ?」
「大丈夫ですよ、祭様。私はいつでも戦には全力ですから!」
「私は孫家の女よ?むしろやり過ぎないかの方が心配なくらいよ」
孫堅によって予想されていたとは言え、手強そうな敵がついに実体として現れた。
その事実に俄かに沸き立つ首脳陣。
そこに更に水を差してきたのは孫権が慌ててこちらに伝えに来た後も報告を受けていた残りの将達だった。
「あのぉ~。盛り上がっているところ申し訳ないのですがぁ~」
「じ、事態はより深刻なものかも知れません!」
どちらも色白で、片方が緑の髪を持つたわわに実った果実を持つ少女。もう1人は焦げ茶色の髪を後ろで球状に纏めた、モノクルが特徴的な少女。
彼女達こそが、かの陸遜と呂蒙である。孫呉の頭脳集団に名を連ねる2人の顔にはどこか切迫したものがある。
ただならぬ事態か、と孫堅が聞き返そうとしたその時、陸遜が静かに一言。
「最悪の予想、やっかいな方の予想がどうやら当たってしまったようでしてぇ~」
それでどのような報告が為されたのかを孫堅と周瑜が理解する。
今この場をどうするか、2人はアイコンタクトで即決。
孫堅がそれに従って周泰と甘寧にとある命令を出そうとしたのだが。
「おや?明命と思春はどうしたんだい?」
「あ、お2人でしたら―――」
「我々でしたらここに」
「調練場の周囲の人払い、及び敵間諜の警戒強化、完了しました」
「はっ、さすが、仕事が早いね。よし、ならこのままここで簡単に軍議といこうじゃないか」
孫堅のその宣言に一同はサッと孫堅を中心とした定位置につく。
それを見届けてから直ぐに軍議が開始された。
「まずは間蝶の報告からだね。北郷が袁紹を破った、ってとこまでは蓮華から聞いた。で、残る報告を、穏」
「はい~。え~っとですねぇ~、その戦で前線に立った将の方達なんですがぁ~。
北郷さん、呂布さんはいいとして、残りの方が問題なんですよねぇ~……先程の反応を見る限り、月蓮様と冥琳様はお察しのようですがぁ」
「ちょっと、穏!勿体ぶらないで早く教えなさいよ!」
「も、勿体ぶってなんていないですよぉ~!えっとですね~……
北郷さん、呂布さんの他に主力と思しき将は2人とのことです~。それでそのお2人なんですが~。
1人は武将で董仲穎さん。もう1人は軍師で賈文和さん。どちらも北郷さんの下に付いているような言動だったそうです~」
緊迫感が余り感じられない陸遜の声とは裏腹に、報告の内容は一同に多大な衝撃を与えていた。
洛陽で死んだはずの董卓と賈駆。その2人が実は生きていて、しかも天の御遣いに、ひいては魏国に与しているとのこと。
連合時に曹操の本隊が捉えて降らせた張遼、周泰が潜入にて確認した呂布と合わせれば、これは最早小規模な董卓軍が丸ごと魏に吸収合併されたものと見て良いだろう。
実力は未知数。しかし、彼女達が袁紹を破ったということを鑑みれば、その実力を低くなどは見れない。
元々将も軍師も粒揃いだった魏国がいよいよもって厄介なことこの上無い相手になってきた。それが一同の共通認識だった。
「それでですね~。北郷さんが言うには、董卓さん達を黄泉の国から連れ戻した、と。
袁紹さん達はそれで呑まれてしまったようですねぇ~。手痛い先制攻撃を受けた後は終始主導権を握られたままだったそうです~」
「さもありなん、ってところだね。袁紹のやつのその後はどうなったんだい?」
「それが、戦が終わりを迎えて間も無く、敵方の哨戒に間蝶さんが見つかってしまったようでして~」
「袁紹の処遇は結局不明、と。そういうことなんじゃな?」
「はい~、その通りです~」
追加の報告も終わり、まず訪れるのは沈黙。ほぼ皆が脳裏にて今の情報を噛み砕き、整理しているからだろう。
天の御遣いがはばかる事無くその存在を公に晒したこと。とうに死んだと思われている董卓が突如現れ、そこに与していること。
それらが意味するところをまずは各々なりに考えていた。
「どうにも……北郷とやら、或いは魏の誰かしらにしてやられたような感じがしてくるねぇ……」
たっぷり2分ほど考え込んだところで孫堅がポツリと漏らす。
「どういうこと、母様?私達は別に実害を被ってはいないわよ、今のところは」
孫策の疑問が示すように、大半の者が孫堅の呟きの意味するところを察することが出来ない。
とは言え、これを理解している者もちゃんとこの場には存在していた。
「月蓮様もそう思われましたか。どうにも間諜が発見される時期が……」
「それだけじゃないしね。思春、明命。陳留や許昌に送り込んだ間諜がどうなったか、ここの奴らにも教えてやってくれ」
「はっ。我々は月蓮様の命により大陸各地の情報を集める一環として陳留及び許昌にも数度に渡り間諜を送り込みました。
しかし、そのほとんどが補殺されたようで帰還しておらず、唯一情報を持ち帰った者も深手を負い、幾月かの安静を強要されたというのが実情です」
「加えますと、以前に報告を行いましたが私自身も直接陳留に足を運んでおります。ですが、結果は途中離脱です。
魏全体に関する十分な情報量を得ることは私と思春様が2人で一月がかりでも少々厳しいものがあるかもしれません」
「ま、そういうわけだ。いくら思春の優秀な部下でも、あそこの奴らに間諜が見つかって全くの無傷、ってのが納得いかないねぇ」
「え~っと……つまり、思春の部下は敢えて生かされたってこと?」
「ああ、私達はその可能性を考えている。今までは思春や明命が言ったように僅かな情報さえ得ることが難しかったというのに、だ。
今回はタップリと情報を得ることが出来て、しかも戦が終わった頃に丁度こちらの間蝶が発見された、なんて、木春も余りに出来すぎていると思わないか?」
「た、確かに。ってことは……」
「御遣いさんの力を強大なものに見せる、恐らくは意図的な情報流出の戦だった、と。その示威行為にまんまと嵌ってしまったといったところでしょうね~」
最終的に纏めた陸遜の発した内容に皆が納得を示す。
確かに今回の戦にて収集出来た情報は、結局のところ天の御遣いと董卓軍の圧倒的とも言える武力のみ。
遠目ではその武の秘密を解き明かすに十分な情報を得ることは出来ていない。
言わば見せかけの情報を掴まされた状態。これではいけない、と多少なり知恵の回る者であれば誰でも思う状況だった。
「………………思春、明命。いけそうな奴、どれくらいいる?」
長考の末に紡がれた孫堅の質問に思春と明命は即答する。
「私の部下には1人、可能性のある者が」
「私の方も1人、いえ、2人の方がいけるかどうかといったところです」
「そうかい。よし、ならばその3人、送り込みな。但し、今回は命が最優先だ。無茶はさせるな。
持ち帰ることの出来ない情報なんてそこらへんの石ころよりも役に立たないんだからね。いいかい、これは厳命だ」
『はっ!』
当然といえば当然のこと。正確な情報を得るべく実力の確かな者を送り込むことを決定した。
周瑜も陸遜も頷いていることから、彼女達も同意見ということだろう。
様々な驚愕を齎しながらも進む軍議に、しかし中々付いてこれていない人物が1人。
「ちょ、ちょっと待ってください!母様、姉様達も!何故そんなに平然と受け入れられるのですか!?
あの董卓が生きていたというだけでも驚きだと言うのに、それが天を騙る輩に与していると言うんですよ!?」
孫権の声が響いて軍議が止まる。
考えてみれば孫権のこの意見は正しい部分も多々あるだろう。
しかし、それでもやはり軍議の重点からズレてはいたのだ。
孫権に宿る為政者としての才。それを見抜いて評価しつつも、彼女に対してまだ経験不足だと断じるのは彼女の母たる孫堅だった。
「やっぱりあんたはまだまだ素直過ぎるところがあるね、蓮華。いいかい?情報は得る度に確かな事実を軸に不確かな事実を可能な範囲で修正していくんだ。
例えば、今回のことならば、董卓の生存、と言うのが実際に間蝶が目にした確かな事実。一方董卓の死亡は主に袁紹がそう予測しただけで誰かが直接目にした訳では無い。
つまり、董卓は連合が押し寄せる前にとうに洛陽から脱出して、後に陳留なり許昌なりに辿り着いたってことさ」
「なっ……!それでは我々は、いえ、大陸中が董卓に欺かれていたと言う事ですか?!陛下までさえも?!」
「そこが”やっかい”なところなんですよ~、蓮華様~」
相変わらず気が抜けそうな呑気極まる声で陸遜が注釈する。
どういうことかを問う視線を陸遜に投げかける孫権に、陸遜は矛先を曲げて返す。
「亞莎ちゃん、どこがどう”やっかい”なのかわかりますか~?」
「ふぇ?!わ、私ですか!?あ、はい、え~っと……
董卓が洛陽から脱出したことを連合が知らず欺かれたこと、その連合から発信された情報で大陸が欺かれたことは事実だと思います。
ですが、元々洛陽にて政を執っていた董卓の洛陽脱出に陛下が、そして禁軍の方々が気づかれないのはおかしいとも考えられます。
この辺りを余程上手くやっていたのでなければ、もしかすると陛下は董卓の洛陽脱出を黙認していた可能性がある……ということでしょうか?」
「亞莎ちゃん、正解です~。よく出来ました~。
つまりはそういうことなんですよ、蓮華様~」
呂蒙の口から紡がれたその推測は孫権にまたもや強い衝撃を与えていた。
それが事実なのであれば、陛下御自らが魏に与する展開まで場合によってはあると考えたからだ。
その想像を打ち消すべく、とある希望が孫権の口から洩れた。
「だ、だが……所詮それは全て推測なのだろう?だったら、それが外れている可能性だって―――」
「残念ながら亞莎の口にした推測はまず間違いないだろうね。これはあの後明命に探らせて分かったことなんだが……他言はしないようにしなよ?
董卓の統治は善政そのものだった、ってことらしい。陛下を傀儡にして暴政を敷いていたなど、事実無根もいいとこだったってことだね。
陛下は心優しい方だ。きっとどうにかして董卓を生かすことを考えたのだろうさ」
孫堅から齎された新たな事実は孫権の僅かな希望も打ち砕いてしまった。
打ちひしがれたように頭を垂れる孫権に、対照的に明るさを装った声が掛けられる。
「な~に、心配せんでもよいと思うぞ、権殿。陛下は心優しい方でおられるが、同時に思慮深い方でもある。
そうであるからこそ、陛下が特別魏に肩入れすることは無いじゃろうて。
魏が董卓を表に出してきたとて、世間的には暴政を敷いていたはずの者に変わりはないのじゃからな」
「確かに今しばらくはそうでしょうが、今回の魏の戦が事を大きく変えてしまうかも知れませんよ、祭殿。
予言から数年が経過していてもなお、天の御遣いの噂は根強く民達に信じられているのです。
それが非常に衝撃的な登場を為した今、舌戦にて主張したらしい董卓の無実、それを信じる民の数は急激に広まる可能性がありますから」
「冥琳は心配性じゃの~……と言いたいところじゃが、それは確かに考慮せんといかん内容じゃな」
周瑜と黄蓋が示した推測を一同は心に留めおく。
各々の推測も出し終わり、軍議も終わりが近づく。
そうなれば当然締めは君主たる孫堅の言葉となる。
「よし。これからの基本方針だが、魏を最警戒しつつお前らはさっさと実力を上げることに専念しな。何をするにも今のあんたらじゃあ至るところで実力不足が出かねんからね。
冥琳、穏、亞莎は同時に情報の取りまとめもやっとくれ。許昌のみならず、大陸各地の情報をより密に集めるんだ。
以前に言ったかも知れないが、既に大陸は動乱のうねりの最中にある。私らはあり方を確と保ち、ブレることがあってはならない。そうでなければうねりに飲み込まれ、消滅の憂き目に合うだろう。
何を第一に置いて物事を考えるのか、その辺を忘れるんじゃないよ」
『はっ!!』
9つの声が綺麗に唱和する。
見た目にはこの日の前後における行動に大きな差は無いように思われるものの、将達の心構えは大きく変わっていた。
最早のんびりと過ごせる日々は終わった。
そう、孫呉の勢力が認識した日の出来事であった。
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第五十一話の投稿です。
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