剣の森、ネアトリアハイム東部に位置する森である。三〇〇年前、ネアトリアハイム建国戦争における最後の会戦がここで行われ英雄の一人である黒のオラウスがその身を呈したことによって勝利を得たという。
だというのに、この剣の森はいわゆる観光名所にはなっていない。街道からも外れている、というよりかは離されており近辺に存在するソウルム=ヴァドも小さな村である。
建国戦争最後の場所であり、英雄の死んだ場所だというのならばもっと賑わっていてもおかしくはなく、いわゆる聖地の一つとして数えられていたとしてもおかしくはない。なのにネアトリアハイムはそういった措置を一切行わなかった。
このことがクロエにとってはちょっとした疑問になっているのだが、解答にたどり着けるような手がかりを得たことは無い。もっとも、疑問になっているとはいえふとした時に思い出す程度のものであり、絶対に知りたいというものでもなかった。
せいぜい知っていれば話のネタにはなるだろうという程度のものである。
とはいえ剣の森について興味が無いというわけではない。むしろ興味は大いにあった。ここは英雄、黒のオラウスが死没した場所なのである。以前、オラウスの子孫であるエルザ・ウォルミスが魔術とは異なるが、それと非常によく似た術を使用していたのをこの目にした。もしかしたらその秘密がここにあるかもしれない。
ほんの少し前まで剣の森にはヨアキム一世が所持していたという聖剣アログリスが眠っているとされたが、近年の調査でそれは否定されている。尚、その調査を行ったのは二人の傭兵であるらしく、この時にオラウスが蘇ったらしいのだがそれは噂の域をまだ出ていない。
さて、この剣の森であるが近くに村があるにも関わらず人は入っていないという。英雄の死没した一種の聖地だからなのだろうかとクロエは最初思っていたのだが、村の人間に聞くとどうやらそうではないらしい。
皆、一様にして口を閉ざそうとするのだ。このことから考えるに村の人間からしてみれば聖地としてではなく、禁忌の場所として捉えられているのかもしれない。もしかすると最近現れだした黄衣の男とも何か関連があるのかもしれなかった。
剣の森の入り口付近を歩きながら、村人が剣の森についてどう思っているのか、それを今回共に依頼を遂行することになったソーマに尋ねてみる。だが返ってきた答えは至極そっけないものだった。
「さぁな」
その一言だけである。もう少し何か自分の考えではないにせよ、ほかの事を言って欲しいものである。つまらない男だとは思うが、実力のほどはどうなのであろうか。
今回、クロエとソーマが成すべきことはこの剣の森に現れるようになったという黄衣の男を捕獲することだ。依頼主はソウルム=ヴァド自警団ではなくネアトリアハイム騎士団からとなっている。
なんでもソウルム=ヴァドの住民が怯えているからというのが依頼文から読み取れる目的らしいのだが、どうにもそれ以外のものが含まれているように思われて仕方ないのだ。
ソウルム=ヴァド自警団が動いている様子はどうにもなく、騎士団が独自に動いて調べているような臭いが依頼文からは感じられる。それに気になるのは、なぜ騎士団が黄衣の男、と性別を断定しているのかだ。
依頼文には蒼白の仮面をつけているとあった、それなのになぜ性別を断定できるのか。どうにもこの依頼にはきな臭いものを感じているクロエではあるが、だからこそ楽しいと思えるところもあった。
ただ、同行者ソーマはどのように思っているのだろうか。彼は会ったときから表情を変えず、話を振ってみてものってきてくれない。どうも必要最低限の事しか離さない主義らしい、それともただ単に会話が苦手なだけなのか。
どちらであってもクロエにとって彼へと抱いた印象はただ一つ。つまらないである。クロエにとってみれば物事の判断基準は面白いか面白くないかであり、この依頼を受けたのもきな臭そうなところが面白いと思ったからだ。そうでなければこんな依頼を受けはしなかっただろう。
そういえばソーマはなぜこの依頼を受けたのだろうか。聞いてみるのも面白いかもしれない。
「ソーマさんにお尋ねしたいのですが、何故この依頼を受けたのですか?」
「その前に何故君がこの依頼を受けたのかを聞いてもいいかな?」
「それもそうですね。人に尋ねる時はまず自分からとも言いますし。一言で言えば好奇心ですわ、剣の森という場所にも興味がありましたし、黄衣の男というのも気になりましたので」
「好奇心か、なるほど。私の理由もそれに近いかもしれないな」
思わぬ言葉にクロエは足を止める。一歩先に進んだソーマが不思議そうに振り返った。クロエの抱いていたソーマの印象からでは好奇心で依頼を受けそうには思えなかったのである。
「どうした、何故足を止める? 何かあったのか?」
ソーマは周囲に視線を巡らせてみて、何も無いとわかるや否やまた振り返った。
「どうした?」
「あぁいえ。ソーマさんがそのような理由で依頼を受けたと思いもよりませんでしたから。私の印象ではそのような方には見えなかったもので」
「そうか、まぁオラウスには少し気になるところがあってな」
そう言うとソーマは歩き出す、置いていかれないようにクロエも歩を進めて彼の隣に並ぶようにして歩いた。こうしておいた方が危険は少ない。
「黒のオラウスと何かあったんですか? どうも伝説どおり本当に蘇ったらしいですが」
「私もこの目にするまであまり信じてはいなかったのだがな、本当だった。そして共に仕事をした、その時に少しあってな」
ソーマは話してくれているが視線は前を向いている、とはいえ顔が前を向いているだけであって瞳の動きをよくみれば周囲の変化を逃がさぬように忙しなく動かしていたが。
「となるとお互いにウォルミス家に対して興味を持っているということですか。私もあの家柄にはちょっと興味があるのですよ、今の直属をなさっているエルザ様とお仕事をさせてもらったことがありまして。その時に少しありまして」
最後に少し微笑んでみたのだが、ソーマはこちらを見ていない。見ていてくれれば何かしらの面白い反応をしてくれるかもしれないと期待していたのだが、その期待は裏切られた。
もっとも「少しありまして」とは言ってみたが、そこまで言うほどのことは無いのである。エルザの使っていた魔術に似た術をこの目にして、キャスティンが言っていた魔を断つ刃の秘法というのも興味があった。
とはいえ、聞かれたとしてもソーマにそれを教える気は無い。自分だけの秘密にしておきたい、というようなものでもないがどこか口に出すのは憚られたのだ。
この後は話すことも無く二人はただ真っ直ぐに歩き続けた。その内に霧が出始めて視界が悪くなってくる、とはいえそれほど濃いものでもなく道に迷うほどのものでもない。ただ、この辺りで霧が出るという話は聞いたことが無く今日の天気も霧が出るような天気ではなかった。
変わったことがあるものだな、そう思いながらクロエは周囲に何か無いか歩きながら探し続けていたのだが何かに気が付いたのかソーマが不意に足を止める。今度はクロエがその理由を尋ねる番だった。
「何かありましたか?」
「君は気付かないのか?」
ソーマの言葉に従い辺りを見渡す。薄い霧に覆われてはいたが、何の変哲も無い森である。二人が足を止めてしまえば辺りは静寂に包まれて、耳鳴りがしそうなほどの静けさだった。
しかし、目に見えて変わったところは特に無い。黄衣の男らしき影でもみつけたのだろうかとクロエは勘ぐってみたのだが、黄色は特に目立つというのにそれらしいものはみあたらなかった。ではソーマは何を気付いたのだろうか。
「何もありませんが? どうかされましたか?」
「それがおかしい」
「何も無いのがおかしいとはどういうことです? 私には普通の森にしか見えませんが」
「そうだ、普通の森だ。私も最初は思っていた、ある一点を除いてな。そしてこの霧で確信した。この森は普通ではない、気をつけたほうが良い」
「理由を尋ねてもよろしいでしょうか?」
「もちろんだとも」
ソーマは力強く頷いて見せた。
「この森には生き物がいない。虫一匹私は見なかった、普通は気にならないでもそれなりに虫の姿を見ることはできる。だが、君は見たか?」
「そういえば……」
顎に人差し指を当ててこの森に入ってからのことを思い出してみる。確かに、普通の森ならば虫や動物がいて当然だ。さらにいえばこの森はあまり人が入らないという、ならば他の森と比べて動物の数は多いだろう。
にもかかわらずソーマもクロエも生物の姿をみていないのだ。そのことに思い至った時、クロエの背筋に冷たいものが走る。思わず杖を握る右手に力が篭った。ソーマも警戒しているのだろう。両腰に刷いている剣の片方の柄に手が伸びていた。
「みていません。あなたも、みていないんですよね?」
「もちろんだ」
またもやソーマは力強く頷く。
「それだけではない。私たちは何の気なしに歩いてきた、この道をな。だが考えても見てくれ、この森は普段人が入らないのだろう? 何故道があるのだろうか」
クロエは慌てて前後を見渡した。彼の言うとおりだ。今まで歩いてきたのは確かに道と呼べるもの。獣道ならば不思議には思いはしなかっただろう、だが二人が歩いてきたのは人が通るための道なのだ。
そして彼の言うとおり、この森には普段人が入らない。なのに何故道があるのか。
「そしてまだある。この霧だ、これには君も気付いているはずだ。今日は天気も良い、霧が出てくるような天気ではない。そしてネアトリアハイムの国土は全体的に霧が発生しづらい気候だ、もちろん季節の関係もあるだろう。だが今日はそんな天気ではない。クロエ、背中を頼んでも良いか?」
「もちろんです」
ソーマの頼みを断る理由はどこにもなかった。存在しないはずの道、発生しないはずの霧、いなければおかしい動物。もしかしたら誰かがクロエとソーマの二人を既に狙っているのかもしれない。警戒をしておくに越したことはなかった。
身長に一歩、また一歩と歩いていく。先ほどまでと同様、生きるものの気配はどこにもない。静寂の中、重苦しい沈黙が二人の間に流れていた。
「クロエ、君は黄衣の男と呼ばれる人物がなぜ黄衣を纏っているのか気にはならないか?」
「いえ、気にしようとも思いませんでした」
「そうか、それはそれでいいんだ。だが私は気になって仕方が無い、文献を調べれば三〇〇年前のオラウスは黄色のマントを羽織っていたという描写は無い。最初は現ネアトリアハイム騎士団と同じ制服を着ていたのだが、途中から同じ意匠を施した黒い制服に変わっている。理由までは調べなかったが、少なくともマントも含めて服装は全て黒ずくめだった。今でもそれは変わらない。だがマントだけは黄色だ」
「なにが言いたいんですか?」
ソーマがどのような表情をしているのか気になったが、振り返らず慎重に歩みながらクロエは尋ねてみた。
「この国では良く知らないのだが、黄色という色はあまり良い意味を持たぬらしい。裏切り、怒り、衰弱、とかく良い意味を持たない。さらには気を狂わせるという意味すら持つ、そのような意味を持つ色の服で身を包むだろうか? オラウスとてそうだ。なぜそういった意味を持つ色でマントを染めるのか。私にはそれが理解できない」
「色の持つ意味ですか。そこまで考えたこと、私にはありませんでしたがソーマさんの言うとおりだとすると不思議ですね。黄色で身を包むということは自ら――」
「そう、自ら不吉だと言っているようなものだ。そこまでする理由が黄衣の男にはあるということ、そしてネアトリアの騎士団はそれを知っているのではないだろうか?」
「まさか! そのようなことがあればなぜ傭兵にこの依頼を出すのです!?」
思わずクロエはソーマの背中を守ることを忘れて振り返ってしまう。そこで目に入ったのは呆然と立ち尽くし沼を眺めるソーマと、その沼の側にある石に腰を掛けている黄衣を身に纏った人物の姿だった。
気が付けばいつの間にか霧は晴れている。
沼の側に座る黄衣の人物は手袋をはめた手で拍手しながら立ち上がり、ソーマとクロエへと顔を向けた。騎士団からの依頼文にあったとおり、フードに覆われた顔からは蒼白の仮面が覗いている。
「貴方が……」
ソーマは相手に対して呼びかけを行おうとしたが、よく考えてみれば黄衣の男というだけで騎士団から名前は伝えられていなかった。そのせいで彼は言葉に詰まってしまう。
「黄衣の王、と呼ばれています。ですが三〇〇年前、ここではイロウ=キーグと呼ばれておりました。ですから今回もイロウ=キーグとお呼び下さい」
その声は低く、紛れも無い男のものだった。
「そうですか、名乗っていただきありがとうございます。私の名はソーマ・デュラン、こちらの女性は――」
「クロエ・ヴァレリーと申します」
そう言って頭を下げた。相手がそれなりの礼を持って対応してきているのだ、騎士団からは捕縛せよといわれているが、こちらも礼を持って対応すべきだろう。
クロエが頭を上げた時、ソーマが「彼は人間ではない」と耳元で囁いてきた。その言葉に対して小さく頷く。クロエもイロウ=キーグと名乗るこの仮面の男が人間ではないだろうことに薄々ではあるが気付いていた。
イロウ=キーグと名乗る男の雰囲気は人間のものではないように思える。どのように違うのかと言われれば、言葉にしがたいものがあるのだが一種の禍々しさがあるのだ。とはいえ、禍々しさがあるというのに邪悪さを感じることは無い。むしろこちらに対して友好的なようにも思えるのだ。それが不思議なところだった。
「ソーマさんにクロエさんですか。この森には人が訪れることはないはずなのですが……まぁ良いでしょう。それよりもお二人にお聞きしたいのです、この沼の側には剣が刺さっていたはずなんですよ。おっといけない、剣ではなく刀でしたね。まぁ、剣があったことに間違いはないんです。それがどこにいったのかは知りませんか?」
「いえ、私は存じませんが」
ソーマの言葉に準じるものをクロエも言った。この森の中に聖剣アログリスがあるといわれていたが、それは既に否定されている。剣の森には剣など無いのだ。
「私が聞いたところによりますと、この森にはヨアキム一世が使用していたといわれる聖剣アログリスがあったと聞いております。ですが近年の騎士団による調査でそれは否定されておりますわ」
クロエがそう言うとイロウ=キーグは首を傾げた。
「おかしいですね、アログリスがあるのは少なくともここでは無いのですが誰がそんな話を流したのでしょう。ここにあったのはアログリスではなく、オラウスが使っていた剣なのですが……本当にあなた達は知らないのですか?」
「申し訳ありませんが私は存じ上げません」
ソーマが否定の言葉を述べて、クロエは首を横に振った。
「そうですか。あなた達を疑うつもりはあまりないのですが、念のため嘘は吐かないでくださいね。私もこの遊戯には積極的に参加したいので、そのためにはここにあった剣とその持ち主が必要なのですよ」
イロウ=キーグは両手に嵌めていた手袋を外して地面へと放り投げた。手袋の先から現れたのは干からびて木の枝のようになった手指である。色も変色しており、まるでミイラを思わせた。
とてもではないが生きている人間のものではない。イロウ=キーグが人間ではないだろうと思ってはいたが、その姿までもが人間ではないとまでは思いもしなかった。何故ならば黄色のローブで全身を覆っているとはいえ、彼の輪郭は人間のそれなのだ。
先入観に支配されていたとはいえ、誰が彼の真の姿を想像できようか。
「イロウ=キーグ殿、その、何をなされるおつもりで?」
「あなた方が嘘を吐いていないと私は信じています、ですが私はあなた達に協力を求めたい。とはいえ私は力ある人間の協力が欲しい、英雄に匹敵するほどの力があれば幸いですがそれは望み過ぎというもの。ですが、せめて彼の補佐として働けるほどの力があるのか試させていただきたいのですよ」
イロウ=キーグは干からびた右手を顔の辺りまで掲げた。笑っているのだろうか、蒼白の仮面が僅かに揺れている。
「クロエ!」
「わかっていますよ!」
ソーマは両腰の剣を抜き放ち、クロエも杖をイロウ=キーグへと向け足を肩幅に開いて重心を落とす。
「準備はできましたか? それでは試験を始めると致しましょうか」
ケタケタと蒼白の仮面が揺れる。その内側ではさぞや嬉しそうに笑っているのだろう。戦闘は避けられない、イロウ=キーグがどのような力を持っているのかは分からないがこうなってしまった以上はやるしかなかった。
風が吹きイロウ=キーグの右手に集中していく。そこからどのようなものが放たれるのか、それとも現れるのかわからない。クロエの心臓の鼓動は高鳴っていく。
「黄衣の王よ、しばし待たれてはいかがかな?」
背後から声が聞こえた。クロエはその声に聞き覚えが無いのだが、ソーマは知っているらしい。彼は目を丸くして体を固くしている。
その言葉によるものか、イロウ=キーグは笑うのをやめて右手の風を集めることもやめた。ソーマは振り返ろうとしなかったが、クロエは背後を振り返る。そこにいるのは紅い衣を纏った黒人だった、だがその顔立ちには黒人の特徴は一切なく、腰には黒い鞘の剣を刷いていた。
彼もまた人間の姿をしているのだが、イロウ=キーグ同様の禍々しさを覚える。しかし彼はイロウ=キーグとは違い、邪悪さをその身の内に湛えているようだった。
しかもそれを隠そうとする気はさらさら無いようで、黒人は笑みを浮かべているのだがその端々から目には見えないが黒いものが溢れ出ているようである。背筋が凍りつきそうになり、冷たい汗が額に流れるのを感じた。
「やれやれ、誰かと思えば闇をさまようものではないですか、いやダファラと呼んだほうが良いのでしょうか? ま、千の姿を持つあなただ、名前などどうでもいいのでしょう。ただ、また遊戯を始めるのならば私に教えてくれ、と伝えていたというのになぜ教えてくれなかったのです? おかげで私は出遅れてしまい、そのせいで私の駒はどこかに行ってしまった。もしかしてあなたのせいですか?」
「間接的には。ですが直接私は手を下してはいませんし、彼が次元の狭間へと落ち込むとは思いもしていませんでした。まさか私の生み出したモノがあれほど強大な力を持っていた、とは思いもしませんでしたので。オラウスは生前でも強力な力を誇っていましたが、あなたの眷属となってからは我々に匹敵するほどの力を持つようになりました。その彼が、私の生み出した半分も人間である存在に次元の狭間へ落とし込まれると誰が予測できましょう? あぁ、後。私は今ナイアールという名前で、真実の教団の教祖をしておりますので覚えて置いてください黄衣の王よ」
ナイアールと名乗った男はイロウ=キーグに対して恭しく一礼して見せたが、そこに礼儀と呼べるものはなかった。あるのは侮蔑的な挑戦だ。だがそれをイロウ=キーグは軽く受け流す。彼らの間ではこのようなことは日常茶飯事なのだろうか。
彼ら二人の間に挟まれているとこれが現実なのか、それとも夢の中の出来事なのかクロエには判別がしがたくなってきた。意識を保とうとするのだが、なぜか遠くへと飛んでしまいそうになっている。
「なるほど。つまりはナイアール、あなたが私の手駒を勝手に蘇らせたということでよいのですか? それならそれで私は報復したいのですが、彼は私が手塩にかけて育てた優秀な僕です。正直なところ、人間でいうところのはらわたが煮えくり返る、というような感情に襲われていますよ」
「勘違いしないで欲しいですな黄衣の王よ。確かにあなたの僕が次元の狭間に落ち込んでしまった責任の一端は私にあるかもしれない、ですが私が今日ここに赴いた目的はこの二人の人間。ソーマとクロエを助けるためです、なにせあなたの試験は手厳しいので。彼らが遊戯に参加するための資格を充分に有していることは私が証明しています」
どうしてナイアールはクロエとソーマの名を知っているのか不思議に思ったが、とてもではないが口を出せる雰囲気ではなかった。イロウ=キーグとナイアールの二人が言葉を交わすたびに周囲の空間が揺らいでいるように見える。
それともクロエの足元がおぼつかなくなっているだけなのか、しかし平衡感覚はちゃんとあるのだ。
「ではナイアール。この二人が遊戯に参加、というよりかオラウスの補佐が出来るとあなたは既に証明したのですか?」
「えぇ! しましたとも!」
ナイアールは両手を大きく広げた。それと共に彼が身につけている緋色のマントが大きく広がる。
「ソーマはこの私と剣を交わし剣技の高さを証明いたしました。クロエは異界の怪物と戦い見事に倒した。さらに言えばソーマは詠唱も無しに相手を惑わす幻術を使い、クロエもまた詠唱を必要とせずに水を沸騰させる術を使用します。英雄の補佐に相応しい人間であり、この遊戯の中で存分にあなたの思う通りの働きをしてくれると私は思いますよ」
「なるほど、詠唱なしに魔術ですか。そしてあなたと剣を交わしたというのに生き延び、異世界の生物とも戦えるとは、なるほど。試験は不要のようだ」
そう言ってイロウ=キーグは右手を下げた。蒼白の仮面のために彼の表情は読み取れない、ただ彼の言うところの試験を行う気は無くなったらしい。ナイアールと話している間も掲げていた右手をようやく下げた。
「そういうことです。あぁ、後この二人はあなたを捕縛するように騎士団から使わされたみたいですが、どうするかは黄衣の王よ、あなたにお任せします。これも遊戯の一つですしね、それに今回は以前と違って未来が予測できない。我々とてどうなるかはわからない、実に面白いと思いませんか?」
ナイアールが笑って見せると、同意するように黄衣の男も声を上げて笑う。
「なるほど! 三〇〇年前とは違うということか! 実に面白い、退屈凌ぎにはちょうど良さそうだ。この遊戯にはぜひ参加せねばならない、となれば私も駒の数を揃えねばな。それにはまずオラウスを次元の狭間から救い出さねばならぬ」
「そうですね、彼がいなくともこの遊戯を続けることはできる。しかしかつての英雄がいなければ私としてもいささか面白みに欠ける、狭間から助けることには私にも責任の一端がある以上、できるだけ協力したいのですがあなたはそれを拒むことがわかりきっていますから。それでは私はこれで失礼させていただきますよ、そこの二人の人間をどうするのかはあなたの自由だと思いますが……出来る限り本人の意思を尊重してやるのがよろしいかと。そちらの方がきっとこの遊戯は面白くなる」
ナイアールは口元だけを歪めて笑いながら背を向けて歩き出した。先ほどまで霧は晴れていたというのに、彼の前方にだけ深い霧が立ち込め始めその中にナイアールは消えていく。
黒人の姿が消えた途端にクロエは汗が引いていくのを感じ、それと同時に非現実的な感覚もまた消えた。イロウ=キーグへと向き直ると、彼は最初と同じように石に腰掛けて仮面の向こうからじっとこちらを探るような目で見てくる。
仮面の隙間から覗く目は酷く濁っており、死人のようだった。だがそこには生者の持つ光とほぼ同質のものがあり、彼が命と呼べるものを持っているのは確からしい。イロウ=キーグは胸の前で手袋を外したままの手を組んでみせる。
「さて、それではお話を始めましょうか。先ほどナイアールが言っていましたが、本当にお二人は私を捕らえに来たのですか?」
イロウ=キーグの表情は仮面のせいで見えないが、鋭い視線が二人を射抜く。ソーマは返答に窮していたがクロエは痛いほどの視線に耐えながら「その通りです」と答えた。
「そうですか、実直は素晴らしいことです。ところで騎士団からの依頼とのことですが、それは騎士団から? それとも直属から? どちらからなのでしょうか?」
「騎士団からでした」
クロエが答えるとイロウ=キーグは首を傾げる。
「あれ? 不思議ですね、私を捕縛するのならば直属が動きそうなものなのですが……あぁ、そうか。わかりましたわかりました、騎士団の考えが。傭兵組合の成り立ちを考えればこのようなことがあってもおかしくはありませんね、騎士団としては私の捕縛は二の次ということですか。要は私の存在を確認したかった、それだけのようですね。出なければ御三家が出てこなければおかしいですから」
「イロウ=キーグ殿、それはどのような意味でしょうか?」
ソーマが一歩前に進んで尋ねると蒼白の仮面が揺れた。
「簡単な話ですよ。あなた達は騎士団からしてみれば使い捨て、あなた達がこの森から出てこれ無くなったらそれは私に殺されたということ。騎士団はそうやって私の存在を知ることができる。あなた達が生きて帰っても騎士団に報告せねばならない、どちらにせよ騎士団は私が本当に存在しているのかどうか知りたいだけなのですよ。私を捕縛など出来ぬことを彼らは知っていますからね、とりあえずは私の存在を確かめる。そのためにあなた達を使わしたのです。私はもう危害を加えるつもりはありませんし、私の話さえ聞いてくれれば無事に帰しましょう。そして騎士団に報告すればいい、そうすれば減額はされるかもしれませんが報酬は貰えると思いますよ?」
「つまり、それはどういうことなのでしょうか? イロウ=キーグ殿、私には話がさっぱりと見えてこないのですが……」
「見える必要などありませんよソーマさん。あなた達に頼みたいことというのも非常に簡単なことです、先ほども述べましたが私に協力して欲しいのですよ。二人とも実力はナイアールのお墨付きですから、オラウスの補佐は務まるでしょう。さて、どうされますか?」
「どうされますか……と、問われても……」
ソーマは指を顎に当てて俯き気味に考え始めた。イロウ=キーグの視線がクロエへと向く。彼はクロエにも協力を求めているのだ。最初会ったときやナイアールと話していた時とは違い、彼の口調は非常に穏やかなものになっている。
本当に危害を加えるつもりは無いのだろう。ただ、彼の協力をするにしても断るにしてもその内容がわからない。
「その、協力とはどのようなことをすれば良いのでしょうか? 内容がわからないことにはお返事いたしかねます」
クロエが尋ねるとイロウ=キーグは、さも意外だったといわんばかりに手を叩いて見せた。静かな森の中、彼の手がなる音が響く。
「あぁそうでした、内容がわからないと返事はできませんね。なぁに、簡単なことですよ。私が傭兵組合に依頼を出したときは積極的に受けて欲しいんです、ただそれだけです。そうすればあなた達には可能な限りの施しを致しましょう、どれだけのことをしてあげられるかはそのときによりますが決して悪いようにだけは致しません。それだけは確約しておきます」
と言われても具体的な事が何一つとして提示されないのでは信用のしようが無い。とりあえず彼に悪意は無いようであるが、彼がどのような依頼を出してくるのかは不明であり、また彼の言う“施し”の意味も分からないのだ。
しかし、彼とナイアールの話から察するにイロウ=キーグとオラウスには親密な関係が築き上げられているらしい。それがどのようなものなのか、一種の主従関係に似たものではないかとクロエは推察しているのだが実際のところは分からなかった。
「本当に私たちにとって悪くなるような事はしないのですね?」
「えぇ、それはもちろんですよ。私はあなた達に協力して欲しいのです、協力者に対して相応の分け前、というかは報酬を出すのは当然ではないですか。もちろんそれは金銭だけではありません、私は珍しい品物も幾つか所持しておりますのでそういったものを与えるかもしれません。もちろん、それはあなたがたが望めばです。そのときになって断っても私は構いません。私はあなた達に力を貸して欲しい、それだけなのです」
「では協力いたしましょう」
クロエがそう言うとソーマは痛いほどの力でクロエの肩を掴んだ。
「正気か!?」
「えぇ、私は至って正気ですわ。だって、面白そうではありませんか。それにあの方はオラウス・ウォルミスとも繋がりがあるようです、協力して損は無いと思いますわ。ソーマさんもオラウスには興味があるのでしょう? だったら協力しない手はないと思います」
「確かに私はオラウスに興味がある、だからといってあれを信用しろというのか?」
ソーマがイロウ=キーグを指差しながら言うと彼は「あれ呼ばわりとはひどいですねぇ」と、言ってさもおかしそうに笑って見せた。その姿はあまりにも不気味で奇妙で名状しがたく、彼に協力することを決めたクロエではあるが彼の笑い声には背筋が凍りそうだ。
「まぁ良いんですよソーマさん、無理に協力する必要はありませんし。私に協力したくない気持ちも理解はしている……つもりですから。まぁクロエさんが協力してくれると言っただけで良しとしましょう」
イロウ=キーグは腰掛けていた石から立ち上がり、尻の部分を軽くはたくと森のさらに奥へと目指して歩き始める。その背中にソーマは「待ってくれ!」と声をかけた。
黄衣の男は振り返り、彼の蒼白の仮面が傾ぐ。
「協力、しよう」
首を傾けたままイロウ=キーグは声を上げずに笑い、何も言わずに前へと向き直ると歩き出した。ソーマは追いかけようと前に一歩だけ歩み出たのだが、その瞬間に自分の手すら見えなくなるほどの濃い霧が立ち込める。
一瞬にして視界が奪われ、半ば混乱に陥ったクロエは同行者ソーマの名を叫ぶのだが返事は返ってこない。即座に彼のいた場所まで移動しようかと思ったがこの霧だ、方向感覚は完全に失われている。
だったらこの霧が晴れるまでここに居たほうが安全だと考え、武器である棒を地面に突き立てて霧が晴れるのを待った。霧はすぐに晴れた、数分もなかったとクロエの体内時計は告げている。
立ち込めた時と同様に、晴れる時も一瞬だった。本来ならばクロエは沼のほとりに立っているはずである。だというのにクロエがいたのは森の入り口だった、なにが起こったのかわからずに首を振って辺りを見回す。
すぐ隣にクロエと同じ行動を取っているソーマがいた。
「ソーマさん!」
「クロエ、一体なんなのだあれは!?」
「わかりません」
首を横に振る。皆目見当が付かない。クロエはまったく移動した覚えもなければ、動かされた気もしなかった。ソーマの動揺の仕方を見る限りでは彼もまったく同じだったのだと思う。
再び森の中に足を踏み入れるべきか、そう考えて森へと目を向けるとそこに入っていった時の道はない。木々や下草がうっそうと茂り、自然の城塞となり人の侵入を妨げていた。
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