真恋姫無双 幻夢伝 第四章 7話 『蓮華の訪問 上』
本のカビ臭さが立ち込める。詠は立ちこめる空気を逃がそうと、大きく窓を開けた。穏やかな日の光と共に冷たくなった空気が部屋に流れ込んだ。
上空では日は中天に差し掛かり始めていて、誰ともなくホッと息をついた。もうすぐ勉強時間は終わりだ。これでアキラと凪、真桜、沙和が、詠と音々音に“監禁”されてから、これで一週間になる。当初の予定では、あともう一週間も続くという。
「まだ半分なの~」
「こりゃ、きついで!」
「我慢するのです!これからが本番なのです!」
はあ~とため息が四人から洩れる。アキラは椅子の背もたれに思いっきり寄りかかって、頭の後ろで手を組む。他の三人は机に顔を突っ伏して、机のひんやりとした感触で熱くなった頭を冷やしていた。凪にいたっては先ほどから一言も発していない。顔を伏せているため表情はうかがえないが、慣れない勉強にうんざりとしている様子がありありとうかがえた。
詠はだれている四人に檄を飛ばす。
「こら!勉強は終わっても、午後から仕事でしょ!シャキッとしなさい!」
お前は俺のお母さんか、と心の内でアキラは呟いて、それを言う代わりに「はあい」と曖昧に返事をした。その態度に詠と音々音は目尻を釣り上げた。二人は机越しに詰め寄る。
「あんたたちが勉強できないのが悪いんでしょうが!」
「ねねたちも暇じゃないのです!」
アキラはピッシッと背筋を伸ばした。怒る二人は後ろを振り向いて、他の三人にも睨み付ける。その気に押された彼らも姿勢を正したが、「わ、わたしは文句を言っていません!」と凪が一人言い訳を口に出していた。
アキラは二人を宥める。
「とにかくだ。今日はおしまいだろう?明日からまた頑張るからさ、とりあえず昼食をとりに行かないか?」
「そ、そやで!それがええ!」
「わたしもお腹ぺこぺこだよ~」
彼らの姿勢には腹が立ったが、教師役にもこれ以上の気力は残されていなかった。音々音にちらりと視線を送られた詠は、うな垂れるようにガクッと縦に首を振った。
「そうと決まればさっさと行くか!月も誘ってくるかな」
息を吹き返したアキラが意気揚々と部屋を出て行こうとした。しかしその発言が癇に障ったらしい。彼の行く先を詠が妨げた。
「ちょっと!このバカ君主!」
「なんだよ。まだ何かあるのか?」
「私はあんたが見境なく他の女に手を出そうが構いやしないけど、月にだけは絶対に手を出さないでよね!」
と、先ほどよりも怒りを露わにして釘を刺した。
軍師役の詠とは異なり、もっぱら給仕に徹している月と接する機会は当然多い。一方で多忙なこともあって詠と月の時間は減ってしまっていた。そういう事情から、急に彼らの仲が良くなったことに、詠は警戒と嫉妬を感じるようになってきた。
怒鳴られたアキラは彼女を見つめながらポリポリと頭を掻く。すると急に右手を伸ばして、詠の頬を撫でた。
「あっ」
彼女は咄嗟のことに反応できない。彼はそのまま手をスライドさせて、やさしく彼女の顎を持ち上げた。そしてそのまま顔を近づけて、鼻と鼻が触れ合うほどの距離でそっと囁いた。
「じゃあ、詠なら良いのか?」
「ばっ!?」
ばっかじゃないの、という言葉もきちんと発することが出来ず、詠はあわあわと顔を真っ赤にした。無言で彼の手を振り払う。そして彼から逃げるように背を向けた。
この二人の周りでは、それぞれ思い思いの反応を示していた。真桜はニヤニヤと笑みを浮かべ、沙和は口をとがらせて羨ましそうに見つめている。耐性が無かった凪と音々音は、詠と同じように顔を赤くさせて先ほどの光景を頭の中でリフレインさせていた。
しかし彼らの様子をうかがう余裕は詠にはない。羞恥と淡い“何か”が入り混じる感情が現れた表情を隠すように、顔を俯けたままだ。
(さて、どうするか)
詠の冷静なツッコミを期待していたアキラは当てが外れて、腕組みをしながら渋い表情を浮かべた。この空気を変える方法が見つからない。
だが、彼は神に見放されてはいなかった。そこに“天使”が現れた。
「あの、アキラさん?」
「ゆえ~~!」
アキラの大きな歓喜の声に、月の身体がビクッと震えた。まつ毛が長く、大きな垂れ目が見える。その白い女中姿が一瞬にしてこの場を和ませた。君主としての威厳は失ったとしても、これは彼女にしかない魅力の一つであろう。
彼女は部屋に入って彼の前に来た。その身長差は驚くほど大きく、月が普通に振る舞っているにもかかわらず、まるで小動物のように彼を恐れているように見えた。彼女は上目づかいで彼を見て、そして伝える。
「孫策さんの妹君の孫権さんがいらっしゃいました」
「孫権?」
蓮華とそのお供の思春が通されたのは、汝南城内の庭にある小さな屋敷であった。大きさは一軒家ほどしかない。屋敷の片側は池に張り出しており、もう片側には庭が広がっている。壁を囲わず、木や岩が庭のいたるところに程良く固定されていた。その葉は少々赤く色づいており、岩や地面の上にはちらほらと落ち葉が置かれている。一方で彼女の居住地である会稽の木々はまだ緑色に染まっていたはずだ。蓮華はずいぶんと北に来たことを感じる。
汝南城に辿りついた彼女たちは、会談は昼食を取りながら、ということを提案された。不安が心によぎったが、彼女たちは急に訪れた手前、無下に断ることも出来なかった。
木々を見ていた彼女の元に、庭の奥まで入り込んでいた思春が戻ってきた。そして蓮華に耳打ちをする。
「蓮華様。一応見回ってきましたが、兵の姿はありません」
「やはり大丈夫そうね。こちらが予告なく訪れたわけだから、ここで急に危害を加えられることはないでしょう。そこまで思慮の浅い相手だとは思えない」
「しかし油断は禁物です」
「分かっているわ。でも姉様ならともかく、私だし、ね」
一瞬、目を曇らせた蓮華の心中を、思春は敏感に感じたが何も言えなかった。そして蓮華の後に続いて、一本道を歩んでいった。
石畳の道を歩いて行くと、屋敷の前には小柄な2人の給仕が出迎えていた。
「お待ちいたしておりました」
「こちらで我が主が待っております」
眼鏡をかけた凛々しい女性と子犬のような可愛らしさをたたえた女性がお辞儀をして出迎えてくれていた。以前の給仕とは違って、元気の良さはあまり感じられない。しかしその頭の下げ方からは微塵も身分のいやらしさを感じさせず、そして彼女たちが席に案内する際に見せた歩き方、具体的には歩幅を小さくしていることから、儒教をしっかり学んで実践していることが分かる。ぎこちなさも無い。朝廷に仕えていた経験があるのだろうか。
危険が無いか、思春がキョロキョロと視線を動かして警戒しながら、短い廊下を抜けて部屋に辿りついた。板間に置かれた席に着いた蓮華は思わず彼らに尋ねた。
「あなたたち、名前は?」
「それは……」
「じゃあ、以前はどこで働いていたの?都の出身のように感じたのだけど」
「………」
2人が言葉に窮していると、蓮華たちが座った向かい側の扉ががらりと開いた。
「あまり尋問しないでもらいたいな」
すっと入ってきた巨大な男は、彼女たちの君主アキラであった。天井に着きそうな背丈に威圧感を覚えると共に、そう感じてしまった自分自身に蓮華は不快感を持った。
一国の使者、かつ小覇王の妹は人に畏れられるべきで、自分が畏れてはいけない。彼女は自分を戒めた。
蓮華の質問を遮ったアキラは、その女給仕たちに茶菓子を持ってくるように指示を出すと、蓮華たちの向かい側に座った。座っても大きい。そんな感想を心の中で述べながら、蓮華は形式的に頭を下げて挨拶をした。
「この度は君主自らのおもてなし、ありがとうございます。またこちらの都合での急な訪問、失礼いたしました」
「いや、気にする必要はないさ、孫権殿。こちらとしても良い口実が出来たわけだし」
「?」
蓮華と思春がアキラの発言に首をかしげていると、先ほどの二人がお盆にお茶と菓子を乗せて部屋に入ってきた。彼女たちの横からするりとそれらを置く姿は、やはり様になっている。
この時代、庶民は基本、朝と夕の二食の生活を送っていた。一方で貴族は三食であったが、昼食は軽食程度に済ませておくのが一般的であったという。この場合もこの茶菓子が昼食であった。
彼女たちの目の前に出されたのは、棒状の黒い物体であった。見たことが無い。
無言でそれを眺める二人。不思議に思いつつもアキラに勧められるままに、まずは思春が口にする。
その瞬間、彼女の目がまん丸くなった。
「甘い!」
単純に甘く、そして美味しいと彼女は感じた。この時代の“甘さ”とは果物など植物の液を食した際に感じるものであり、それは酸っぱさやほろ苦さを伴ってのことである。しかしこの食べ物はただ“純粋な”甘さであった。
蓮華も手を伸ばして味わってみる。コリコリとした歯ごたえ。そして舌の上でとろけるように感じる甘み。体験した事のない世界が口の中に広がっている。
それを堪能する蓮華と思春の顔を見て、アキラはニヤニヤとしながら説明を始めた。
「小麦の粉を練ったものを揚げて、砂糖を絡めたものだ」
「サトウ?」
「印度から渡ってきた商人が持っていたものでな。その甘みの素だ。珍しかったから買って料理してみた」
印度。その名前は聞いたことがある。西の果てに存在する国。以前に越南から難破してきた船に乗っていた男がそこの出身者だったはず。しかし本当にそんな国があるのか?呉の人々にとってその国はおとぎ話の世界であり、蓮華でさえ半信半疑だ。
だが、この目の前にいる男は印度を知っている。あまつさえ貿易しているというのだ。
(そら恐ろしいものよ)
感心もしている。しかし蓮華はそれ以上にアキラに対して得体のしれない物への恐怖を感じていた。
「本題に入ろう」
そのうす気味悪い男は蓮華に今回の訪問の意を問うた。隣の思春の視線が机の右側を向く。先ほど給仕してくれた二人が、まだそこに立ったまま控えていた。
「彼女たちはあのような姿だが、我らの重臣だ。機転も効くし、重宝している。今回から孫家との外交にも関わらせていくつもりだ」
彼女の視線に対して、アキラはこう答えた。すると眼鏡をかけた方の給仕が(じゃあ、こんな恰好させているんじゃないわよ)という意味の睨みを投げかけてくるが、彼はそっぽを向いた。
「こちらに不満はありません。よもや誰かの“監視役”かと思いまして」
そう発言した思春に対して、蓮華は睨み付け、彼女は頭を軽く下げて詫びた。しかしその詫びには誠意が籠っておらず、蓮華も睨みも形だけのものに見えた。挑発というにはあからさま過ぎる。アキラは内心首をかしげた。
そうした中で蓮華は咳払いをして場を整えると、彼をじっと見つめて、そしてこう尋ねた。
「あなたは麺と玄米、どちらがお好きですか?」
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アキラと蓮華の会談です。次章の話への布石となる話が二話続きます。