あれから二週間が過ぎた。
あの時の深海棲艦が妙に組織だった動きをしていたことから、司令部では新たに深海棲艦を統率する者が現れたのではないかと睨んでいるそうである。その捜索のために幾度となく遠征が行われているがいまだそれらしい艦、設備持ちは見つかっていない。
その間、強襲潜水戦隊がしていたことは――
*****
イムヤは海底スレスレを駆け抜けていた。身体を左右に揺らし、飛んでくる砲弾を躱しながら魚雷を調定する。とりあえず直進するように調節すると速度を落とすことなく発射管を真正面に構えた。そして今度は目標の船底とほぼ同じ位置まで浮上し、白い軌跡を放って海底に腹を付けかねないほど潜る。爆発と共に沈み始めたロ級の下を潜り抜けて向こう側の出口まで一気に泳ぎ切ったところでやっとイムヤは詰めていた息を吐いた。
「お疲れ様。ケガはないの?」
そう言って青い髪の艦娘、伊19ことイクが声を掛けてきた。
「なんとか……でもまさか2mちょっとしかないところに突っ込ませるなんて思わなかった……」
そう言って振り返るとイムヤ2人分ほどもない深さの海溝……いや、もはや川と言われても納得できるほどの場所が口を開いていた。この溝を通りながら自分は何隻くらい沈めただろうか? 二隻? 三隻? いや、残った魚雷の数を見るに五隻は沈めただろう。我ながらよくぞまぁ生きているもんだと思う。
「あっと。連絡を入れておかないと。ラバウル応答願います。こちら第3強襲潜水。ラバウル、応答を」
イムヤの呼び掛けに男性の声が無線機から鳴り響いた。
『ラバウル基地。問題か?』
「いえ、作戦終了。確認できる敵性艦艇は全て撃沈しました」
『わかった。すぐに水雷戦隊を防衛に向かわせる』
「了解。戦隊が到着するまで待機します」
そこで交信を終えようとした時、イヤホンの向こう側から『すまないな』という声が聞こえた。
「どうかしましたか?」
『ん? あぁ、聞こえていたか。すまないな。本来ならうちでどうにかすべき案件だというのに、所属の違う君たちにこのような無茶を強いらなくてはならない』
「いえ、こういったことのために私達はいますから」
その答えに交信相手はただ一言、『すまない』とだけ返して交信を終えた。
「…………イク。あたし、なにかマズイこといったかしら?」
イクに聞くと、彼女は困ったように笑いながら「うちはちょーっと、よく思われてないのね」とだけ教えてくれた。
帰還すると、基地は出撃する前よりもはるかに騒がしくなっていた。普段は一機かせいぜい二機程度しか動いていないクレーンが全て忙しなく動き回り、イムヤたちが帰りに乗せてもらった輸送船の数倍はある船にコンテナを積みこまれていく。忙しないのはクレーンだけなはずもなく、待機室(正確には執務室)に帰るまでのわずかな道すがらでさえ明石がクレーンを振り乱して走る姿や、飛鷹が艦載機に荷物を吊って各所に飛ばしている姿を見かけた。
艦娘たちが駆り出されるほどなのだから当然職員たちはさらに過酷らしく、担架で運ばれていく技術士官とすれ違い、壁にもたれかかったまま眠っているつなぎ姿の女性を見かける。
「やっぱり大変そう」
口に出したつもりはなかったが、イムヤの口から自然とそんな言葉が出てきた。それは隣を歩くイクも同じだったのか、「でもここが頑張り時なのね」と返ってくる。
基地に通達があったのは数日前。それも突然のことだった。
“呉造船所にて戦艦建造を行う。そのために同封した資料に書かれている機器の製作、ラバウルまで移送せよ。ラバウル以降は内地から派遣する部隊に引き継がせる”
それが大本営から出された指令だった。当初は不可能だと基地司令部すら苦言を呈していたが決定を覆すことは出来ず、こうして現場の人間が身を削りながらどうにか間に合わせようとしているところである。そして期限は明日に迫っていた。
「第一なんで内地の船を造るのにこんな前線にまで指令が出るのよ。大人しく内地だけでやっていればいいのに」
「内地は資源が少ないらしいの。一方こっちは内地に比べれば資源は豊富なのね。だからかも」
「でも機器の製作までやらせる必要はないでしょう?」
「時間を短縮したいとかそういった思惑もあるのかも」
イムヤにはまだ言いたいことがあったが、イクはそれを遮るように「とーもーかーくー」と続けた。
「私たちに手伝えることはないんだし、邪魔にならないようにしてるしかないの。ね?」
そう言ってイクは先を歩き始めた。
手伝えることはない。イムヤにはそれが悔しくて仕方なかった。
*****
「報告は受けている。よくやった」
報告書を塗装の剥がれた事務机に投げ置くと提督はイクの頭をわしゃわしゃと撫でた。ちらっと隣を見ると、イクが目を閉じて頬を緩めていた。頭を撫でられるのがそんなに嬉しいのか。イムヤにはよく分からなかった。
「イムヤもよく頑張ったな」
ただ、イムヤも撫でられるのは嫌いではなかった。少し乱暴だが優しさを感じる大きな手が髪の上から軽く抑えられる時には思わず「んっ」と声が漏れてしまう。
そんな優しい撫で方がイムヤには不思議でならなかった。仕事として淡々と下達するだけならばこんなことをする必要はない。だが提督は作戦を終えて帰ると成否にかかわらず撫でてくれた。それが心地良く、それでいて気味が悪かった。提督の真意が読めないし、撫でられている間はイムヤのことを見ていない気がする。そう、まるで何か別のものを自分の中に写しているように感じられた。
イムヤはこの気味の悪さだけは嫌いだった。だからイクの嬉しそうな顔がよく分からない。分からないし、分かりたいとも思えない。それを知ると何かが大きく変わってしまう気がしたから。
イムヤの思いなど知る由もない提督は頭から手を放すと、事務机に投げ置いた報告書の下から端の擦り切れたファイルを取り出した。表紙には“第3強襲潜水戦隊”の黒い文字が薄く残っている。
「さて、早速だが次の作戦についてだ。明朝、正確には〇六〇〇から特々……第9号一等輸送艦の護衛部隊に加わってもらう。こいつの目的は大本営からの課題を提出することだ。ここのところ深海棲艦たちが組織だった動きを見せていることから用心として連れて行きたいらしい」
そこまで話して提督はファイルから顔を上げた。その彫の深い顔には疲れが見える。
「目的地はラバウル。それ以降は内地からの艦隊が護衛を引き継ぐのは知っての通りだ。何か確認しておきたいことがあれば言ってくれ」
その言葉を待っていましたとばかりに「はーい」とイクが手を上げる。
「指揮権は向こうなの?」
「その予定だ」
「うん。なら問題ないのね」
そう言ってイクが引き下がり、最後に「では明日の〇五〇〇まで自由時間とする。基地からは出ないように」という言葉でデブリーフィング兼ブリーフィングが締められた。
*****
イムヤは一人、港の長椅子に座っていた。何か手伝えることはないかと探しに出たのだが、どこに聞いても手伝うより休んでいてくれと言って荷物一つさえ運ばせてはくれなかった。
護衛に出るのだから今のうちに疲れを取っておけと言いたいのだろうが、影が足元で丸くなっている時間帯に眠れるほど便利な身体ではない。昼食も終えてイムヤは手持ちぶさただった。待機中は暇なのである。
いまの戦隊に別に不服なわけではないが、こういう時は他の戦隊や艦隊が羨ましくなる。提督が相手をしてくれることもあるし、何人もの艦娘がいるので話し相手はいくらでもいる。それに対してうちはイクと自分しかいないのでどちらかが出かけると提督しか話し相手が居なくなってしまうのだ。
残った提督も何のかは知らないが仕事が忙しいらしく――秘書艦がいないのだから当然か――執務室に籠っている。そちらを手伝おうかとも考えたが、イムヤが手伝おうとしたところで何をどうすればいいのかをいちいち聞かなくてはならないので邪魔にしかならないだろうと諦めた。
他の艦隊とはあまり一緒に行動しないのもあって、仲が良い艦娘はイクくらいしかいないのも自由時間を退屈な時間へと変えている理由になっている。同時期に建造された艦娘たちがどこに配属されたのかは結局分からなかったので会いに行くこともできなかった。いや、知っていてもこの基地以外だったら会いに行けないのだけど。
「あぁ、このままじゃ頭の中まで退屈で押し潰されるわ……」
呟いて空を眺める。早く夜になれと周囲の人間や艦娘たちとは真逆のことを願ってしまうイムヤをあざ笑うかのように太陽は微動だにしていなかった。普段は日の光を浴びることが好きなイムヤだが、この時ばかりは日の光が憎く感じる。
そうだ、資料室に行こう。そんなことを思いついて視線を港に戻すと、見慣れない提督が船から降りてくるところだった。
服装はイムヤたちの提督のものを少し豪華。それを身に纏っているのは妙齢の女性で、短く揃えた黒い髪を風に揺らしながらゆっくりとイムヤのほうへと歩を進める。一歩下がった位置に大きな書類鞄を持った不知火が、その後ろには護衛なのか鋭い眼光で辺りを見回す黒い長髪の艦娘“長門”と紫を基調とした服に身を包んだ那智を連れ立っている。
女性はイムヤの前で立ち止まると同じ目線まで腰を落して「こんにちは」と話しかけてきた。
「3強潜はまだ存在しているかしら?」
整った形の唇が形を変えて発するその単語にイムヤは固まった。いや、それよりも階級章のほうが大きいかもしれない。女性が付けていたそれには太い線が三本、細い線は一本……目の前の人物が大将であることを誇らしげに告げていた。
慌てて敬礼をしようと腰を上げたイムヤを女性は「いいから」と押し止め、同じ質問を繰り返す。イムヤがからからに乾いた口からどうにか絞り出して「あ……ありますっ!」と答えると女性は礼を言ってイムヤたちの待機室があるほうへと行ってしまった。
「…………なんだったんだろう。あの人」
うちの戦隊は大将などという大層な階級の人が訪れるような場所ではない。うちに限った話ではないが用があれば向こうから呼び出してくるのが常だ。だがあの女性は自ら向かっている。
提督の友人? それなら戦隊の有無よりも提督の所在を尋ねるべきだろう。
気にはなったが大将を尾行だなんて無礼なマネをするわけにもいかないので当初の予定通り資料室へと足を運んだ。
「久し振りだな柿沼。トラックから呼び戻されたか」
提督の言葉に柿沼と呼ばれた女性が薄い笑みを浮かべたまま「その通り」と答えた。
「トラックは良いところよ。でもこっちのほうが居心地は良いわね。思い入れもあることだし」
「向こうでの噂は聞いている。相変わらずのようだな」
「あなたも相変わらずのようね。まだ潜水艦たちを無茶な作戦に駆り出しているそうじゃない」
睨むような目つきの柿沼に提督は特に反応することも無く平然と「それが問題か?」とだけ答えた。
「艦娘は兵器じゃない……これ、誰の言葉だったかしら?」
「さぁな。新米のアマちゃんじゃないか?」
「…………前言を撤回する。あなた、変わったわね」
憎らしげに顔を歪めると柿沼は言葉を続けた。
「あなたは前の艦隊をもう一度率いたいとは思わないの?」
「思わないな。そもそも俺はこの強襲潜水戦隊しか任されていない。それより世間話でもしにきたなら帰ってくれないか? ご覧の通り仕事が残ってるんだ」
そう言って提督は事務机の上にある書類を指先で叩いた。乾いた音が部屋に響く。
「分かったわ。今日のところは退散させていただきましょう。でも一つだけ。佐藤。あなたは思っていなくても、彼女たちは思っているみたいよ。また一緒に仕事がしたいって」
そう言ってドアノブに手をかけ、「あ、そうそう」と言って振り返った。
「護衛艦隊の司令官。強襲潜水戦隊の同行に反対しているらしいわよ。私が彼の立場でもきっとそうだったでしょうね」
その言葉を残して柿沼は扉の先に消えた。
「新艦殺しの司令官も変わったもんだな。柿沼」
提督の呟きは誰の耳にも届くことなく壁に吸い込まれた。
近道である工廠の裏を抜けようとした時、不意に後ろから名前を呼ばれた。
「イームーヤっ! 久し振りね」
振り返るとそこには甘栗色の髪にキッと吊り上った目元が印象的な一人の少女が立っていた。背中には艤装を背負い、セーラーに袖を通している彼女は――
「いかずち……雷じゃない!」
訓練の時に仲良くなった暁型駆逐艦の雷だった。長い間会っていなかったように思えるが、僅か二週間では竣工したあの日から何も変わっていない。そのことがイムヤには嬉しかった。
「いままでどこにいたの? 探したのにどこにもいなかったから基地にはいないものだと……」
「所属はここだけどしょっちゅう遠征に出てたからタイミングが合わなかったみたいね。でも今回の作戦は一緒だよ。またよろしくね」
「えぇ、よろしく!」
雷が笑いながら差し出した手をイムヤは固く握った。それに負けじと雷も固く握り返す。
「でも参加艦船の名簿を見て驚いたわ。まさかイムヤが強襲潜水戦隊なんてところにいるなんて思わなかったもの」
「あたしも最初は何かの間違いなんじゃないかって思ったんだけどね。でも一つ一つこなしていく内にだんだん自信がついて来たわ。私たちにしかできないこともあるんだって」
そこまで言ってラバウルでのことを思い出し、「無茶な作戦も多いけどね」と苦笑混じりに付け加える。
「……………………」
「な、なに? どうしたの?」
じっと見つめる雷の眼差しにイムヤはたじろいだ。何か不味い事でも言ったかなと不安になってきたところで雷は目を細めて「良かったわね。イムヤ」と呟いた。
「なんだか最後に会った時よりも大人になった気がするわ」
その言葉にイムヤは自分の頬が赤くなるのを感じた。久し振りに会った友達に「大人なった」なんて褒められるとは思ってもみなかった。
大人になった。じゃあ以前はどんなふうに見えていたんだろう。やはりどこか子どもっぽかったのだろうか。
「でも雷だってあれからパワーアップしたのよ!」
そう言って雷は腕まくりして見せた。白くて触れれば指が吸い付きそうな肌が陽光を浴びて映える。
「どこか変わった?」
「えっ……気付かなかったの? ひどーい!」
ツリ気味の目じりをさらに持ち上げて頬を膨らませる雷を「ごめんごめん」と押し止めて続きを促す。雷も聞いて驚けと言わんばかりに胸を張って、それこそ自慢げに話し始めた。
「まず砲雷撃戦が上手くなったわ! やっぱり駆逐艦なら戦闘が出来ないとね」
「そう……ね……」
イムヤにはその言葉を素直には受け取れなかった。あの時締め出したはずのイ級がいまだイムヤの頭にこびりついて離れない。
水上で戦う雷は見たことが無いのだろう。沈んでいく船というものを。水底の暗さに包まれ、身体の輪郭がぼやけて呑まれる姿を。でも、その姿は知らない方が良いのかもしれない。知れば、優しい雷はきっと戦えなくなるだろうから。
あの時、初めて作戦に参加した時、無我夢中で沈めた深海棲艦たちを見て自分はどう思ったのだろう。思い出せないし、思い出すべきではないのかもしれない。あの時がどうであれ、いま自分が当たり前のように沈めているという事実に変わりはなく、そこに何も疑問を抱かなくなっていた自分に気付いてイムヤは少しへこんだ。
沈めた深海棲艦たちに恨みがあるわけではない。妬ましいとも思わないし、なんとしても沈めたいと願いもしない。ただ仕事だから沈めているだけだ。仕事だから……仕事だから……では、あの深海棲艦たちにはその程度の価値しかなかったのだろうか。イムヤに仕事だからとその命を奪われるだけの価値しかないのだろうか。
では自分はどうか? 自分の価値とは――
「――ムヤ? ちょっと聞いてるの? イムヤぁー!」
雷の声がイムヤを深く沈み込んだ思考から引き揚げた。
「あ、うん! 聞いてた! 聞いてたわよ!」
「本当かしら。まぁいいわ。そう言うことにしておいてあげる」
そう言ってニコリと笑うとそのまま話を続けた。もしかしたらイムヤに気を使ってくれたのかもしれない。雷はそういう子だから。
「それでねー。他には電探の情報も整理できるようになったし、対空防衛も出来るようになったのよ」
「ふぅん」
「あとは書類整理や掃き掃除、お料理も上達したわ」
「はぁ……ん?」
「それと耳かきや肩もみもね。まったく。提督は私がいないとなーんにもできないんだから」
そう言ってはにかむ雷を見て、パワーアップはともかく雷も変わったなと感じた。訓練の時は自分のことで精一杯といった感じだったのに。でも……
「なんだかお母さんみたいね」
思うがままに呟いて、イムヤは自分の失言に気が付いた。雷は顔を真っ赤にして「なによもー! 私はまだそんな年じゃないってば!」なんて言いながら手を振り回しながらにやにやと笑っていた。
「えと……あ、そうそう! 私、対潜索敵も上手くなったんだから!」
「へぇ」
「もうイムヤの無音潜航だって見破れちゃうんだから!」
頬を染めたままニヤリと笑みを見せる雷にイムヤは不敵な笑みを返す。
「面白いわ。なら今度試してみる?」
「望むところよ。この雷様の成長っぷりにひれ伏すが良いわ!」
「じゃあ約束よ。そうね……この作戦が終わったら訓練用水域で待ってるわ」
「訓練用水域ね。使用許可は私が頼んでおくから」
そこで工廠の中から若い男性の声が雷の名前を呼んだ。「はーい!」と答えると、雷は「ごめんね。また後で」と言って工廠の中へと早足に駆け込んで行った。
空を見上げると太陽はだいぶ西に傾き、工廠の影も少しだけ伸びていた。何もすることがない退屈な時間は長いのに、久し振りに会った友人との一時はあっという間に過ぎて行ってしまうことがイムヤには恨めしい。
最後に工廠の中をちらっと覗くと、白い提督服に身を包んだ年若い将校――たぶん新米提督だろう――と、将校の腕に組み付いている雷の姿が見えた。
「幸せそうじゃない」
そう呟いて、イムヤは工廠を跡にした。
海鳥の鳴き声を聞きながらイムヤは揺れる甲板の上に居た。太陽は一周回って東の水平線から顔を出し、また昨日のように頭上高くに君臨していた。赤道直下に近いソロモン海は年中日差しが強く、北のほうからやって来る艦のなかには暑さに参って動けなくなるものもいるらしい。
そんな日差しもイムヤには心地よかった。昨日は時間の進み具合を表す指標になっていたので腹を立てたり恨んだりと散々な扱いだったが、本来イムヤは太陽の光が好きだった。潜水艦とって太陽の光を浴びるということは平和なことを意味しているのもあるが。
作戦に入れば暖かな海とは言え地上よりも冷たく、静かな海中へと身を投じることになる。それは必然的に死と隣り合わせの世界だと言うことを嫌でも思い知らされる。
力尽きた艦船が最後に行き付くのが海底だ。そんな海底に潜水艦は生きたまま近づいてゆくことになる。もちろんそこまで潜ることは出来ないが、陽の光が弱い海を泳いでいると誰かから見られているような気分になる。まるで生きている者への羨望と嫉妬が混ざり合ったような視線だ。
気のせいなのは分かっているのだが、いずれその視線の先から幾重もの腕が伸び、イムヤを水底へと引き摺り込むのではないかと想像してしまう。初めてその視線を感じた日の夜は伸ばした指先から陽光が遠退いて行く夢にうなされたものだ。
そんな夢こそ見なくなったが、それでも視線を感じる時がある。イムヤはたまにその視線の主たちであろう艦娘たちのことを考える。
彼女たちはどのような任務を受け、どのような戦いを繰り広げ、どのような想いを残して暗がりへと消えて行ったのだろうか。
この世の未練を口にしたのか。それともこの海で沈む自分の運命を、自らの沈む原因を作った司令部や提督を恨んだかもしれない。想い人に最期の言葉を残した艦娘もいるだろう。人間に好意を寄せる艦娘というのはよく聞く話だ。艤装を捨てて想い人と共に歩むことを選んだ艦娘もいるらしい。
だが一方で想いを告げることなく沈んだ艦娘も大勢いる。想いを告げ、受け入れられ、幸せの最中で沈んだ艦娘も大勢いる。そんな彼女たちには命を賭けるに足る何かがあったのだろう。相手が誰だったのかをイムヤに知る術はない。だが、そこには確かに自らの命より価値のあるものがあったのだろう。
では自分はどうなのだろうか。自分は、伊168は、この命を何のためになら捧げられるだろうか。誰のためにならこの海に消えることが出来るだろうか。
任務のため? 提督のため? 友人や仲間のため?
どれも正しく、どれも確信を持っては言い切れない。
「あたしには何もない……のかな」
船縁に凭れて見た海は何もかもを飲み込んでしまいそうなほど青く、そして暗かった。
「イムヤちゃん……だよね?」
うねる海面に潜っていたイムヤの意識を若い男性の声が引き上げた。少し慌てて顔を向けると、肩の張った白い軍服をぎこちなく着る青年の姿があった。短く揃えた黒髪の上からつば付きの白い帽子をかぶり、その下には優しい印象を与える柔らかな微笑みを浮かべていた。階級章は少将を表している。提督だ。
イムヤはその提督に見覚えがあった。たしか工廠で雷を呼んでいた提督だ。だがなぜここに提督がいるのかが分からない。護衛任務に提督が着いて来ることはほとんどないのだが……
「イムヤちゃん。となり、良いかな?」
そう言って少将はイムヤのとなりで船縁に手を付いた。イムヤも特に断る理由も無いので海のほうに顔を戻す。
「なんでこの人、ここにいるんだろう……そう思ってるんじゃないかな?」
「えぇ、少し」
「だろうね。本来ならここじゃなくて執務室に居るべきだよ。僕は」
少将はイムヤのほうを向くことなく続けた。
「重要任務てやつなんだ。これは。だから僕自身が護衛に同行して指揮を執るようにって……上からの命令でね」
命令……その言葉が今のイムヤには重く感じる。
「でも実際には僕が現場に出てできる事なんて何もない。せいぜい応援と追撃や撤収の指示をするくらいだよ。現場を知らない人間が、現場をよく知っている艦娘たちに口出しすべきじゃない」
そこで言葉を切ると、少将は思い出したように「名前がまだだったね。小津だ。よろしく」と言って幼さが残る笑顔を見せる。それにつられてイムヤも「い……伊168です。よろしく……」と、相手は当然知っているであろうことを返した。
「ところでイムヤちゃん。これだけのコンテナ。今まで見たことがあるかい?」
風を切る音を従えて、少将が積まれたコンテナの山に向かって腕を広げた。あのコンテナの中には今回の重要物資である内地からの課題が積まれている……はずだ。
「でもこんなに大量のコンテナを使わないと運べない機材っていったい……」
「君もそう思うだろう? でも、このコンテナの半分は空っぽなんだ」
その言葉にイムヤは耳を疑った。山のように高く積まれたこのコンテナ群の半分が空気しか運んでいないとはとても信じられない。だが少将はさらに「残りの半分もことのついでで運ぶものしかない」と続けた。そして最後に。
「そもそもこの船は護衛対象じゃない。名前は特々の第9号だけどね。本当の護衛対象は彼女さ」
そう言って少将はコンテナ群の端っこに立っている女性を指差した。
作業着のような服装なので長い黒髪を風に泳がせながら佇む彼女をイムヤはいままで船員だと思っていた。だが少将に言われてよく見てみると彼女の背後には艤装が見え、背負っているリュックサックは艤装に縛り付けてあるように見える。そのリュックサックより下にはみ出した艤装からは特殊潜水艇“甲標的”が吊り下げられていた。艤装の右側から生えている煙突のようなものは12.7cm連装高角砲だろうか?
見れば見るほど艦娘でしかない。なぜ自分はこれほど大きなことを見逃していたのだろうか。
「彼女が今回の最重要対象。“第9号型輸送艦”だよ。特務輸送艦ってやつさ」
「あの人が護衛対象……」
「正確にはリュックの中身だけどね。そして、僕たちの艦隊は彼女を守るためなら盾にだってならなくちゃいけないんだ。当然君たちもね。これは“許される犠牲”ってやつだよ」
少将は「でもね」と言葉を紡ぐ。海面を駆ける風が三人の髪を揺らして吹き抜けた。
「でもね。僕は、そんなものはないと思うんだ。だってそうだろう? 作戦っていうのは出撃した者を一人残らず生還させるまでのことを言うんだ。誰かを犠牲にすることが前提では作戦とは呼べない。もちろん作戦が全て上手く行くとは限らないし、犠牲者が出ることだってある。でも、最小限にはできるはずだ」
「きれいごとですね」
「うん。きれいごとだ。困難な局面に立てば、嫌でも何かを切り捨てなくちゃいけなくなる……候補生の時に言われた言葉だよ。でも僕はこの艦隊が好きだ。大好きなんだ。内気だけど頑張り屋な名取。ぶっきらぼうで面倒見のいい天龍。いつも強がっている不知火。ため息ばかりな山城。メモ帳を絶対に離さない青葉。世話焼きな雷……みんな、大切な仲間だ。いや、家族と言ってもいい。誰ひとりとして失いたくはない」
少将は真剣な眼差しでコンテナの山を見詰めていた。その姿にイムヤは改めて、雷は良い提督のところに配属されたのだと思った。大事に思ってくれる人がいる。それだけで頑張れる時もあるのだ……そんな話を聞いたことがある。
私も、もしこんな人が自分の提督だったら悩むことなく提督の指示を受け入れていたのだろうか。砲弾と魚雷がすぐそばを掠めてゆく中でも迷うことなく飛び込めるのだろうか。
二度と浮上できない永遠の潜航の最中に、恐怖を薄れさせてくれるのだろうか。イムヤには分からなかった。
「提督? イムヤと何を話してるの?」
髪から滴を滴らせながら雷が表れた。哨戒から帰って来たところのようだ。
「コンテナ船は大きくて守りにくねって話だよ」
「それなら大丈夫よ! やってくる敵はぜーんぶ雷が沈めちゃうから!」
「それは頼もしいな」
「えへへっ……もっと私に頼っていいのよ?」
少将と雷の仲睦まじい光景に居心地が悪くなってきたイムヤはそっとその場を跡にしようと船尾のほうを向いた。その時、一瞬だけ海面に違和感を覚えたが波打つだけの海を横目で確認するとそそくさと船縁から離れた。
*****
「なあ、お前はどう思う?」
索敵用に鳴らしたピンの反射音に集中させていた意識を声が遮った。イムヤが何のことかと聞き返すと、天龍は「聞いてなかったのかよ」と面倒そうに繰り返してくれた。
「うちの提督のことだよ。いや、司令官って呼んだ方がいいのかな。あいつのこと、お前はどう思った?」
「どうって……優しそうな良い提督じゃない?」
困惑しながら答えると天龍は「そうか……やっぱりオレが厳しすぎるだけなのかな」と言って黙ってしまった。
「ねぇ、どうしてそんなことを聞いたのか教えてくれる?」
「ん? あぁ、いや……そうだな。誰かに聞いてもらった方が気が楽になりそうだ。お前は小津司令官のことを“優しく”て“良い提督”だって言ったよな?」
「えぇ。そうだけど……」
「たしかに優しいとは思う。でもオレには良い提督だとは思えないんだよ」
イムヤが黙っていると、天龍は言葉を続けた。
「うちの提督はさ。たしかに優しいんだよ。それは良い事だと思う。でもさ、あいつは優しすぎるんだよ。中破したくらいで簡単に撤退を選ぶくらい沈めてしまうことを恐れている。でも、それが必ず良い結果を生むとは限らないんだ。あの時だって……」
話し過ぎたな。ちゃちゃっと終わらせて戻ろうか。 そう言って天龍が速度を上げ始めた。それに着いて行こうとイムヤも泳ぐ速度を上げながら天龍の言葉を頭の中で繰り返――
『敵襲だ! すぐに戻ってくれ!』
――す時間は無かった。
*****
イムヤたちが戻ると、そこは大海戦が行われているのかと思うほどの砲雷撃戦が繰り広げられていた。タ級にハ級、ト級、リ級もいる。対する護衛側は山城が主砲と副砲で応戦し、その後ろから不知火の魚雷が飛び出している。
艦隊だけを見れば深海棲艦たちは劣勢に立たされていた。だが守る戦いとは難しいもので、二隻は無事でも後ろを進む輸送艦の舷にはいくつか小さな穴が空いていた。まだ高い位置にしかないが、もしこれが吃水線の辺りに空けばいかに艦娘や深海棲艦よりも巨大な輸送艦といえどもただでは済まない。最悪だと沈没もありうるだろう。
「くそっ! オレのいない間に攻めたてやがって!」
雄叫びを挙げながら突撃すると、天龍は一番近くにいたハ級を15.5cm三連装砲で撃ち抜いて行く。後ろからの攻撃に対応しきれなかったハ級は為す術も無く装甲を次々抜かれて果てた。推力を失ったハ級の身体が輸送艦の立てる波に押し退けられ、そのまま潮の流れに引っ張られてゆく。
その間にも天龍はまた一隻、今度はリ級の足具を魚雷で破壊し、海中へと沈み込ませた。そうかからないうちにあのリ級は海の底へと沈んでいくだろう。
イムヤもただ見ているわけにはいかなかった。いまだ深海棲艦たちを沈める理由は見つからないが、だからと言ってここで深海棲艦たちと戦わないという選択肢はあるはずもない。
軽く息を吸って潜ると天龍の下を駆け抜けた。そして正面にある比較的大きな船底、タ級の足に狙いを定めると、発射管にあらかじめ泳ぎながらでもまっすぐ飛ぶよう調定しておいた魚雷入れて構えた。距離を見定め、身体は激しく、しかし心は静かに保つ。そして最高のタイミングでイムヤは発射管から魚雷を放った。二番と三番から空気の混ざった白い軌跡が走り、駆走音を立てながらタ級へと迫る。
直撃する。そう直感した瞬間だった。イムヤの放った軌跡に別の軌跡が重なり、タ級にぶつかる直前で派手な水柱を上げた。
タ級は怯んだところを山城の41cm砲の直撃をもらって崩れ落ちたが沈んではいない。
呆然とするイムヤの耳に魚雷の駆走音が届き、慌てて身を捻った。背中に背負った艤装スレスレを魚雷が通り抜け、水泡の線が崩れてイムヤの顔を滑って海面で弾けていった。
「うそっ……なんで魚雷が……?」
魚雷が飛んできた方を向くがそこには水面から差し込む光と果て無く広がる暗い青だけが広がっている。ピンを打っても戦闘の影響か、近場にも遠方にも大小さまざまな反応があって区別が付かない。
どこから来る? 次はどこから……
ふっと嫌な感じがしてイムヤはその場から大きく動いた。その瞬間、真下から三本の白線が海面へと打ち上げられ、着水すると今度は輸送艦のほうへと走り始める。いままで見たことのない光景を前に一瞬呆気にとられたがすぐに我に返って名取たちに魚雷が向かっていることを伝え、自分も魚雷を追いかけ――ようとして何かに足が取られた。
急がなくては行けないのにと足を振って払おうとするが、払うどころか太ももまで伸びてきたところでイムヤは足を取られたのではなく掴まれていることに気が付いた。そしてこの状況で自分の足を掴める相手が思い浮かんだ時にはイムヤの身体は青白い腕の中にいた。
「っ……放しなさいっ……!」
腕を振りほどこうともがくが腕はほどける気配が無く、それどころかイムヤにより一層絡みついて来た。まず慣れた手つきで無線機を外し、次にイムヤの首筋を撫でながら口元まで指を運んだ。その間に品定めでもするかのようにイムヤの身体を撫でまわすと、腕の主は口元に置いた指を動脈に沿って這わせる。
その不可解な行為にイムヤは恐怖を覚えた。沈めるつもりならなぜこんなにあちこち撫でまわすんだ。いったいなにが目的でこんなことをするのだ。気持ち悪い……気持ち悪いよ……
やがて撫でまわしていた腕が止まると、腕の主は「カ……カ……」と呟いてイムヤを抱いたまま潜航し始めた。離れていく海面へと必死に浮上するイムヤをあざ笑うように腕の主、カ級は暗がりへとイムヤを引き摺り込んでゆく。
「いやっ! 放せ! 放せ! はなせぇ!」
このままでは沈められる。そう悟ったイムヤが必死に手足をバタつかせ、身を捩るとカ級はあっさりとイムヤから離れて行った。抵抗に耐えかねてというよりは放してやったような感覚がイムヤには悔しくてたまらない。
せめてもと睨むイムヤにカ級は口元を薄い笑みを浮かべながら誘うような泳ぎ方をしている。
当てられるなら当ててみろ。
そう言いたげに透明な青の世界を舞うカ級を前にイムヤは奥歯をきつく噛み締めた。
挑発に乗ってはならない。それは分かっている。だがあの青白い顔に一発お見舞いしなければとうてい腹の虫がおさまらないだろう。
発射管を構え、残った一番と四番を調定する。思い出せ。対潜攻撃は先制攻撃が基本だが、それだけがすべてではない。イムヤがやったように躱すことができる。
なら躱されないようにするには? 答えは簡単――
視線の端にカ級が入り込んだ瞬間、イムヤは発射管のスイッチを押した。一番の魚雷が空気に押し出され、無限に続く世界に白い境界線を描く。その先には何もない虚空が広がっているだけでカ級の姿はない。
傍から見れば無駄撃ち以外のなにものでもないだろう。だがこの一本がカ級の進路にぶつかると言えばどうだろうか? カ級は立ち止まり、魚雷をやり過ごさなくてはならない。その瞬間こそイムヤが一本を犠牲にして得ることのできる僅かなチャンスだ。
そのことを知ってか知らずか、カ級は一番の魚雷を見るとイムヤのほうへ進行方向を変えて突っ込んできた。
チャンスなんて話ではない。まっすぐ突き進む魚雷に向かって目標がまっすぐやってくる……当ててくれと言っているのも同じだ。
「四番管。さぁ、戦果を挙げてらっしゃい!」
言葉と共に放たれた四番管の魚雷が白い矢となってカ級に突き刺さる――ことなく透き通った背景の先で薄い影となり消えていく。
イムヤの目にはその瞬間が美しささえ感じさせるものとして焼きついた。正面から迫る魚雷を大きく身体を捻って躱す。カ級がしたことを文字にすればたったそれだけのことだ。だが、カ級がイムヤの前で見せたのはたったそれだけの文字数では表せないほど衝撃を与えるものだった。
眼前まで迫った魚雷を前に身体を大きく反らし、波に揺れる弱々しい光をその肌に受けながら高跳びのように白線を潜り抜ける。そのしなやかな動きはイムヤとカ級の力量差を物語っていた。
魚雷を躱したカ級は茫然と浮かぶイムヤの頭を軽く撫でて背中側へと泳ぎ去る。明らかにイムヤのことを対等な相手だとは見ていなかった。
「…………過ぎよ……」
まるで子どもの相手でもするように振る舞うカ級を肩越し振り返って位置を確かめる。カ級はまるで警戒することなく変わらない進路のまま泳いでいた。装填されたすべての魚雷を撃ち切らせた上で背後に周ったことですぐには撃てないと判断したのだろう。もしかしたらイムヤが戦意喪失したと思っているのかもしれない。
「……く見過ぎよ……」
だが、カ級はふたつほど見落としているようだ。ひとつはイムヤにはまだ戦う意思が残っていること。もうひとつは――
「伊号潜水艦を甘く見過ぎよ! 五番、六番! 行きなさい!」
イムヤの背負っている艤装から二本の白線が走り、今度こそカ級の背中を捉えた。小さな水中爆発が水を掻き乱し、カ級の姿を消す。
――もう一つは、伊168には発射管がもう二つあるということだ。
魚雷を“艦首”発射管に装填しながら振り返ると、カ級はその場に留まっていた。二本だけにしては魚雷の破片が多いことからおそらく直前で自らの魚雷を盾に使ったのだろう。イムヤにはできない芸当だった。
大破寸前となったカ級に魚雷発射管を向ける。いまなら確実にカ級を沈められる。スイッチに触れる指に力が籠った。
だがイムヤがスイッチを押すより早くカ級の手元から幾重もの白線が走り、イムヤの視界を奪った。脇を抜けた後に残る気泡が弾けて白い壁を作り、カ級も青い世界も白で塗りつぶしていく。通っているのが魚雷なだけに下手に動くこともできなかった。
そして視界が晴れた時にはカ級の姿は跡形も無く消え去り、ただ透明な青と柔らかな光だけがイムヤの視界に入る全てだった。ピンの低く長い音もカ級を捉えずに広い海原の底へと吸い込まれていく。
意識せず研ぎ澄まされていた神経が解放され、身体からゆっくりと力が抜けていく。戦闘の緊張感から解き放たれるこの感覚は何度味わっても身が震える。
戦わなくては自分の身すら守れないのは分かっている。深海棲艦は敵であって、分かり合えない存在であって、それを倒すのは艦娘としての義務なのだと理解している。それでも明確な理由を持たぬまま、明確な殺意だけを胸に戦う自分が怖かった。あやふやな使命感では恐怖が拭えず、だからといって誰かに心を寄せて酔うことも今の自分にはできない。それでも一人前に殺意とそれを相手にぶつける術は着々と積み重ねられていく。
きっとそれは軍属として正しい姿なのだろう。みんなどこかで折り合いをつけ、納得した上で任務に当たっているのだろう。いまだに折り合いが付けられない自分がおかしいのだろう――
無線機を探し当てて付け直すと雷の怒ったような声が耳に響いた。あのカ級と揉み合いになっている間に輸送船は遠く離れ、水上での戦いも終わっていたらしい。
『いまイクと一緒に迎えに行ってるわ。人に散々心配させたんだから覚悟しておきなさい!』
そう言って無線を切った雷と入れ替わるようにイクが『意の一番に「イムヤを探しに行く!」って言い出したのに素直じゃないのね』と呟いてクツクツ笑っている。
日常的に交わされるような言葉にイムヤは先程まで頭を支配していたことを少しだけ忘れることができた。
そうだ……自分にはイクや雷がいる。自分で折り合いがつけられないなら誰かと共に、少しずつでもいいから見付けて行けばいい。
なんでこんなに簡単なことが分からなかったのだろう。頭の片隅に残っていたイ級の姿が消え、穏やかな気持ちを胸にイムヤは近付いてくる船底へと泳ぎだした――――
――――白い矢の群れがイムヤを追い越して行った。短い悲鳴と共に雷の左足が沈み込む。
イムヤが振り返った先には傷付いたソ級がいた。魚雷を装填しながらこちら目掛けて突っ込んでくる。
「イムヤ!」
「トドメはお願い!」
背中から聞こえるイクの声にそう返すとイムヤは発射管を構えた。
カ級の時は二発だけしかなかった。でも今は違う。イムヤは素早く発射管側の調定を済ませると間髪入れずにスイッチを押した。四本の魚雷が音を立てて走り出し、潮水を裂きながらソ級を囲んだ四角を描く針路で駆け抜ける。少し遅れてソ級から放たれた白線がイムヤの耳元を掠めるのと同時にイクの放つ六本の魚雷が四角の中心へと飛び込み、小さな水中爆発がソ級の姿を隠した。
水煙が晴れるとそこにはソ級を形作っていたものが散らばるだけで何一つとして残されてはいなかった。それは自分たち潜水艦には最期の言葉を残す猶予すら与えられないのだということを物語っていた。
「撃沈確認……なのね」
イクの言葉で我に返るとイムヤは掠めて行った魚雷のことを思い出して振り返った。
魚雷が爆発した音はしなかったはず――自分の耳と記憶を信じたかった。
雷ならきっと避けたはず――親友を信じたかった。
信じたかった……のに――
海上にあるはずの雷の身体はイムヤの視界の中をゆっくりと動いていた。下へ、下へと。
「うそ……うそよ……雷……いかづち。いかづち!」
眠るような顔で沈んでいく親友を追ってイムヤは暗い底へと突き進んだ。あの手を取ればまだ助けられる。海面まで引き上げられる。イムヤはそう信じて疑わなかった。
「雷! しっかりして!」
沈むよりも速く、いままで出したことの無い速度で雷の元へと駆け寄っていく。陽光が次第に弱くなり、青が黒へと変色していく。あと少し、あと身体一つ分。
「雷! 起きてよ! 寝坊なんて雷らしくないじゃない!」
雷の瞼が微かに動き、薄く開いてイムヤを向いた。弱々しい表情とは裏腹にその瞳はとても沈む船のものではなく、まだ生気に満ちていた。そんな彼女にイムヤは手を伸ばす。あと魚雷一本分。
「手を! 手を伸ばして! いかづちぃ!」
イムヤの指先がまだ温かい雷の指先に触れる。そのまま滑り込ませて手を掴む寸前にイムヤの身体は雷から引き離された。脇の下から伸ばされた細い腕がイムヤを進ませまいときつくしがみついている。
「ダメ! 触っちゃダメなの!」
「うるさい! 離して!」
背中から叫ぶイクを無視してイムヤは潜り続ける。
引き上げないと。早く冷たい海の底から引き揚げてあげないと。
縮まっていた雷との距離がまた開き始める。雷の姿が少しずつ少しずつ小さくなっていく。だがイムヤがどれだけ暴れようと、どれだけ泣き叫ぼうと、イクは決して腕を離そうとはしなかった。ただ「イクたちじゃ助けられない!」「耐えて! お願い! 耐えて!」と繰り返すだけだった。
雷はイムヤの伸ばした手の遥か先で笑顔を見せると、気泡を残して暗闇の中に消えて行った……
あの日、建造されてからずっと一緒だった腹心の友を失ったあの日から二日が経ったいま、イムヤは勲章授与者の席にいた。重要な作戦を見事に完遂させたとして勲章を授かることとなったからだった。
正直に言ってイムヤは辞退したくてたまらなかった。だが提督は「受け取って来い」と言って聞かず、こうして嫌々ながら表彰式の会場にいる。右には不知火が、左にはセーラー姿のイクが、そしてイムヤたちの胸には星のような形をしたバッジが輝いている。壇上では基地の総司令官が長々とイムヤたちの功績をお決まりの文言で褒め称えていた。
総司令の話はイムヤたちを褒めることからソロモン海の危険性へと変わり、雷を名誉ある戦没としてイムヤたちのものに加えてもう一つ勲章を与えることを声高に宣言して締めた。
司令部にとって雷の命はちゃちなバッジ一つ分の価値しかなかった。
*****
「イムヤ。こんなところで何してるの?」
表彰式が終わり、明日まで休暇を言い渡されたイムヤは訓練用水域の端にいた。貸し切られた水域には二人以外に姿はなく、波の音がいつもより大きく聞こえた。
「イク……」
少しだけ顔を上げるとイムヤは力なく返した。そしてすぐに抱えた膝に顔をうずめる。イクはそんなイムヤの隣に黙って座った。
それからどれくらい経っただろうか。イムヤは顔を上げないまま口を開いた。
「ねぇイク……聞いても良い?」
「答えられるかはわからないけど」
イクの言葉にイムヤは自分の中でも整理のできない思いを言葉にしていく。それは愚かしい問いなのかもしれない。それでも誰かに聞かずにはいられなかった。
「人間が深海棲艦に対抗するために艦娘が作られた……座学の時にそう習ったわ。だから人間のために持てる力のすべてを尽くすのは当然だと思ってた。でもね? あたしたちだって人間と同じで生きてるのよ。この地上で、地球で、息を吸って、吐いて、物を食べて、飲んで、走って、泳いで、潜って、跳ねて、笑って、泣いて、怒って、驚いて、嫌って、好いて、愛して、恋して……でも、それはほんのつかの間でしかない。いつ散るともしれない戦場に駆り出され、砲弾と魚雷、機雷や航空爆撃の飛び交う世界に放り込まれて、生きて帰っても褒めてくれるのは提督だけ。散れば部隊名簿から名前が消えてそれでおしまい。ねぇイク。あたしたちの価値って、その程度のものなのかな。そんなに軽んじられるだけの価値しかないのかな」
「気にしちゃダメなのね」
イムヤが悩んでいたことをイクはあっさりと言い切った。
「気にしちゃダメなの。私たちは、艦娘は兵器だから。誰も幸せにはできない、壊すことしかできない兵器だから。だから提督以外の誰かから愛されたいとか、想われたいとか、悲しんで欲しいとかなんて思っちゃダメなの。だから――」
そこで言葉を切るとイクはそっとイムヤの肩を抱いた。自分たちは兵器だと言ったイクの腕は血の通った温かさを持っている。
「だから……今日だけは何もかも投げ出して、雷のために悲しさに浸ろう……ね?」
訓練用水域の端には艦娘としての立場も使命も投げ捨てて、ただ友のために泣く少女とそれを静かに受け止める少女の姿があった。
「失礼するぞ」
そう言って提督は小津少将の執務室の扉を開けた。物置を改造した提督の執務室とは比べものにならないほど立派な部屋が出迎え、その先には材木の種類は分からないが頑丈そうな木の机とこちらも木製の椅子。その前に少将が立っていた。部屋の端には不知火が静かに佇んでいる。
「何か用ですか? 佐藤中将」
机のほうを見ながら言う少将に提督は「デブリーフィング資料を受け取りにな」と答える。
「では不知火から受け取ってください。失礼ですがあまり気分が優れないので」
その言葉と共に隅から不知火が近付き、提督に色の付いたファイルを手渡した。提督はそれを受け取ると「ところで」と言葉を続けた。
「新たに配備される艦が決まったそうだな。長月だったか? こんなに早いとは珍しいもんだな」
「ファイルを受け取ったのなら帰ってください」
「ここ最近は海域全体で深海棲艦の組織的活動が見受けられるようになってきたそうだ。たぶんそのせいだろうな。欠員“補充”がこんなに早いのは」
「帰ってくれと言っているんです……」
「まぁ沈んだのが竣工から二週間ちょっとだったのが救いだな。一番作戦遂行に支障が出ないやつだ」
「帰れと言っているんです!」
少将の怒鳴り声に不知火の肩が跳ねた。驚いたような表情からおそらく普段から怒鳴るような人間ではないのだろう。だが提督は眉ひとつ動かさずに続ける。
「初めて沈めたんだ。まぁ落ち込むのは分かるが後を引き摺りすぎだぞ」
「あなたとは違うんです……僕は」
「艦隊は家族だ……か?」
先に言われたことに今度は少将が驚いた表情で振り返る。目が赤いのは泣いた後だからだろうか。よく見れば不知火も瞼が少し腫れている。
「お前さんはたしか内地から来たばかりだったよな。ならその甘い考えも納得だ」
「甘い考え……」
「いいか。内地では艦娘を無事に生還させることが使命だとか、艦娘は大切な仲間だとか教え込まれて来ただろう。だが内地とここでは提督という言葉の重みは違う。ここでの提督なんて立場はただの作戦伝達係に過ぎない。俺たちはただ上からの指示を艦娘たちに伝え、必要なら作戦を与えるだけだ。最初からないんだよ。生還させる義務なんてものは。お前の目指しているのは内地の提督業だ。同じことをやりたいならそれこそ数多の艦娘たちを沈めてでも内地に転属するんだな」
提督はフェイルを軽く振って「たしかに」と言って扉を開く。だが少将が「待ってくれ」と引き止めた。
「中将。あなたもかつては通常艦隊を率いていたはずだ。その艦隊にいた艦娘たちのことをあなたはどう思っていたんだ?」
提督はそっと目を閉じて少しのあいだ黙ると「忘れたな。そんな昔のことは」そう答えて部屋を出た。
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艦娘は軍における備品とされている。
人と似た意思を持つ兵器。ゆえに形だけでも管理する『人間』が必要になる。
・注意
前回参照
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