夜戦演習を終え、工廠から戻ってくると、正午にかなり近い時間になっていた。
夜陰に乗じての作戦は、昼以上に陣営把握や精密な攻撃が重要になるため、演習後のミーティングが長引くことも多い。さらにその後には艤装の点検が控えている。
隊員によっては、整備士を全面的に信頼しているからと、あえて手をつけない娘もいる。精密機器が多いからへたに素人が手を出しては二度手間三度手間になることもあるし、なにより戦争は一人で行うものではなく、軍全体の信頼関係があってこそという理屈があるのもわかっているから、それを尊重もしている。
それでも、足柄さんは、自分の命をあずけ、敵の命をあずかる装備であるからには、できる限り自らの手で整備を行いたいと考えている。
もっとも、そのできることが決して多くはないのも実状ではあるが。
結局のところ煤払いが関の山の自己満足に、本人としても苦笑いせざるをえない。だがその満足のおかげで、殺伐とした軍務のなかで自我を保っていられているのも事実だ。
世話になった整備スタッフの面々に頭を下げて、工廠を後にすると、油にまみれたつなぎを洗濯かごに放り込んでシャワールームに急いだ。
はじめは出のわるいシャワーを調節しながら適温に安定させて頭から湯をかぶる。
温水が疲れを溶かして、その奥から活力がわき上がってくるのが感じられる。けれど、それが湯による筋肉の緊張だということは承知している。
実際、シャワーの温度に慣れた頃になると、いいようのない気だるさがのしかかってくる。
立ったまま全身に湯を伝わらせていると、ふと意識が飛んでいってしまいそうになる。疲労と眠気のないまぜになった、快くすらある夢見心地の時だ。
それを妨げたのは、空っぽの胃袋の訴えだった。
甘いものが食べたい。
「あ、いいですね。御存知です? このあいだ、駅前にパーラーが開店した話」
不意にそんな声が返ってきた。
シャワーを止めてひとりごちたのが聞こえたらしい、薄いしきり一枚があるばかりで足もとの開いた共同シャワールームだからしかたない。
「間宮さんのところのはもちろんおいしいですけど、たまには洋菓子なんかも……きゃっ」
一糸まとわぬ姿で個室から出てきたのは榛名だった。その肩をタオルを一本首に巻いた足柄さんの両手がしっかりととらえた。
目には爛々と、獲物を前にした貪婪な輝きをたたえて。
金剛型高速戦艦三番艦榛名と足柄さんの共通点は少ない。艦種はもとより、所属艦隊も異なれば、鎮守府着任時期もずいぶん離れている。
共通点といえば、四人姉妹の三番目というところくらいなものだ。
それでもうまが合うというやつなのか、思い出した頃に行動をともにしても空いていた期間を感じさせない。
あまり他艦種と交わることの多くない重巡洋艦にとって得難い友人の一人だった。
それはシャワーあがりに髪のかわく間もないまま、町まで引きずってこられてもたいして腹を立てないくらいには。
「だいたい足柄さんは勝手過ぎます」
鎮守府が建てられるまでも、このあたりは貨客船の中継地点として港が栄え、街道筋はかなりの賑わいを見せていたという。
そこに海軍という海外事情に知悉する機関が加わったことで、多国籍な情緒を漂わせるようになっていった。洋食屋に舶来の雑貨店などが連なる街並みでは、西洋式の飾り窓に建物全体を白で統一されたパーラーもさほど違和感なく溶け込んでいる。
玄関脇に置かれたコルクボードに押しピンで留められた本日のおすすめは、すべてアルファベットで書かれ、やって来る客にどこまで通じているかはさだかではないものの、いかにもな雰囲気を提供するのには成功している。
その前で、藍染め地に水面に浮かぶらしい蓮の花と琵琶を配した着物に、朱色の羽織を重ねた榛名は腰に両手をあてて眉を怒らせていた。
「この前だって、服を選んでほしいって連れ出して」
結局持ち切れないほどの買い物をした榛名を手伝って、足柄さんまで買い物袋を提げることになった。
「シネマの時もそうでした。私の意見も聞かずに、勝手に西部劇のチケットをとってきましたよね」
その後にはまってしまって、パンフレットや雑誌を買いあさりポスターを部屋に飾るまでになったのは榛名だった。
この時も、口ではさんざん小言をくり返しながらも、視線は足柄さんを離れて、パーラーのウィンドウ内に陳列されているサンプルに釘づけになっていた。
「あっ、あれかわいいですよ! ほら、プチケーキがいっぱい。どれもデコレーションが違うんですよ」
目を細めて、めくるめくカラフルな洋菓子に、引き寄せられておさまりがつかないらしい。
そこで足柄さんは改めて榛名の腰をつかむと、心をすっかり奪われてしまった相方を店内に誘うのだった。
「ちょっと、足柄さん! お話はまだ……」
はいはい。
店内は外観とはうってかわって、ロッジ風の内装が施されていた。
天井は吹き抜けで、梁の向こうに切り妻に設えられた窓から日が射し込んでいる。吊るされた洋灯のグラスシェイドがそれに照らされて、物陰にもやわらかな光を運んでいる。
客席は大小のちがいはあるけれどもすべて円テーブルで、板面の木目がたがいちがいの矢筈模様を組み立てていた。
その上に皿が次々と並べられていく。もちろん空っぽではない。色とりどりのプチケーキが一人につき三つずつ、そこに足柄さんはチョコレートサンデーと榛名はシュークリームをそれぞれ頼んでいる。
シュークリームとはいっても、ただちに思い浮かぶ岩のような外見をしたものとは違った。水平に切れ目を入れられたシュー皮には存分に粉砂糖がまぶされ、あふれるほどに詰め込まれたホイップクリームと混ざり合って、艶のある白みを演出している。そこに橙と緑のソースがかかり、雪と柑橘の対比を見るようだ。
ナイフとフォークでいただくということで、早速榛名が手ごろな大きさに切り分ける。シュー皮のサクサクという音が耳に心地よい。
「あ、これ、お抹茶ですね」
緑色のソースをつけて、榛名がまず一口賞味する。
なかなかに美味しそうではあったが、足柄さんの舌はチョコ具合になっていたため、さして羨ましくもなかった。
負けじとチョコレートサンデーを一すくいする。
驚いた。
温かいのだ。
器から半分以上大きな満月のような顔を出しているバニラアイスにたっぷりとかけられたチョコソースは、一度湯せんでとろかされていた。それだけにチョコレートの甘さが味覚と嗅覚に一層くっきりと働きかけてくる。
アイスクリームのバニラビーンズの甘い香りと牛乳の豊かな味わいもぜいたくだったが、ここでは完全にチョコの引き立て役だった。
クリームの甘さはいってみればとろける甘さだ。舌の上で広がって、そこから全身にしみ渡っていく。対してチョコの甘さはとろかせる甘さなのだ。味わうのではなく、チョコに体をあずける、陶酔の味だ。だからチョコレートのような美女はいるが、クリームのような美女はいない。クリームには、人にとって代わる野心も胆力もない。
なんてことを考えてしまうのがチョコ具合な人なのだ。
チョコレートソースのたっぷりとかかったバニラアイスを食べてしまうと、その下にはチョコアイスとそれに寄り添うように大粒のいちごが控えている。さらに下にはマスカルポーネチーズで作られたティラミスが敷かれている。ココアパウダーに、チョコアイスの冷たい苦みがまず舌に届くと、すぐにそれが甘みにとってかわる。この楽しいコントラストに、しばらく足柄さんは夢中だった。
プチケーキについて語るべきところは少ない。
足柄さんはモンブランとミルフィーユとイチゴタルトを、榛名はチーズケーキにチョコショートとシフォンを前にして、淑女としての面目を保てるギリギリのラインでペロリとたいらげてしまったからだ。
「美味しかったですね!」
連れてこられた時の反駁などどこへやら、キラキラと星の輝きそうなほどに輝く笑みを榛名は満面に浮かべていた。
足柄さんはコーヒーをいただいていた。ケーキセット付属のブレンドだったが、酸味のまさった口当たりが、甘いもののあとにはよくなじんだ。
「普段はお紅茶ですから、慣れてなくて」
いいながら、榛名はそのコーヒーに次々と角砂糖を投入していき、さらにミルクまでつぎ足す。心なしかカップの吃水線が上昇したと思えたところで、ようやく手が止まった。
何度も目にしてはいたが、一向になじまない光景だった。
一口含むなり、榛名がいかにも満足げなため息をつくところを見ては、しかし、なにかいう気にもならない。
むずがゆいように口をもごもごさせていると、榛名もそれを見咎めたらしく、いつになく神妙な面持ちで、
「足柄さん折り入ってご相談がございます」
と切り出した。
思わず居住まいを正したところで、
「このアップルパイ、半分こにしません?」
メニューに書かれたハーフサイズのアップルパイを指しつながらそう提案してきた。
甘いコーヒーが誘い水になり、先ほどのケーキ群は喉元を過ぎてしまったらしい。
足柄さんは眉を寄せて険しい顔をしてみせる。
肩すかしを食って心情を害されたというわけではない。
足柄さんは足柄さんで、苦いコーヒーで舌が洗い流されて、おかわりをどうしようかと真剣に悩んでいたところだったからだ。
弾みのついた二人の食欲は、結果として前の倍以上の皿をテーブルに並べさせた。
アップルパイにナイフが入ると、シナモンの香りがパイ生地から解き放たれて、りんごの甘酸っぱいにおいといっしょに爽やかに鼻腔をくすぐった。
足柄さんが追加で注文したバウムクーヘンは、よく見る環状のものとは異なり、年輪に沿って薄くスライスしたものだった。ヨーグルトソースとブルーベリーソースを好みでつけていただくのだが、砂糖の焦げた香ばしさが香るのに、舌触りはしっとりとした食感がたまらない。
ババロアのたっぷりと空気を含んだ淡雪のようなものと、レアチーズケーキのぎゅっと濃縮されたものの、それぞれ異なるとろける食感を食べ比べ、ワッフルの格子の上と下で変わる歯触りを楽しみ、サマープディングの口に含んだ途端ににじみ出てくるラズベリーの果汁をあわてて飲み込んで、バターの風味のきいたプレーンなカップケーキの卵の味を嗅覚と味覚で堪能した頃には、もう足柄さんも榛名も、どちらをどちらが注文したものかわからなくなってしまっていた。
締めのリキュールをきかせたシャーベットがまぶされたコーヒーゼリーを食べ、店を出ると、さすがに腹部の重さが足に感じられた。
「ちょっと食べすぎましたね」
はにかみながら榛名がいう。ちょっと食べすぎたというのがいかにも甘いものを食べた後の感想っぽく、自然に口元がほころんだ。
さして急ぐ必要もないから、甘味をこなせながらゆっくりと鎮守府に帰りついた頃には、夕刻にほど近くなっていた。
「オカエリナサイ」
鎮守府に戻ると中庭に日傘を立てて、用具一式を持ち出してティータイムを楽しんでいた金剛に出迎えられた。
「た、ただいまもどりました!」
「パーラーに行ってたんですっテ? 誘ってくれたらよかったノニ」
口を尖らせてはいるものの、本気ではない。なにしろ目が完全に笑っている。
「申し訳ありません!」
それでも榛名は深々と頭を下げる。
もともと丁寧な娘ではあるが、普段なら自分の姉とはいえここまで大袈裟な会釈はしない。
「私達も行きたかったヨ。ネー、提督」
原因は金剛の隣に座っていた。
当鎮守府の最高責任者であり、艦隊運用の指揮権を代行している提督を、榛名はなにかと気にしていた。
「あ、でも、これ買ってきたんです。おみやげです! 是非、みんなでと思って……」
差し出したのは、店名の捺された紙袋だった。足柄さんも両腕に抱えているそれの中には、マドレーヌが山盛り詰め込まれていた。
一部とはいえ、全艦隊分のおみやげをいきなり手渡されては、提督も戸惑わずにはいられない。
金剛はそれを見てクスリと微笑むと一つ目配せをする。
すると心得たもので、提督は腰を上げて、紙袋をテーブルの上に置くと、お茶の場から少し距離をとった。空いた席に残りをあずけて、榛名も夢中で後に続く。
足柄さんは一連の状景を見届けてから、ひとまず金剛の向かいに腰を下ろした。
「お疲れサマ。榛名につきあってくれたんデショ。サンキューだネ」
あわてて首を振る。ひどい誤解だ。足柄さんがなかば強制的に榛名を連れ出したのだから。
「ンー、ケド、嫌だったら、アノ娘は絶対に拒否するヨ。頑固だからネー。だからミス足柄には感謝しているんだヨ。似た者同士のヨシミで、榛名をよくガイドしてくれて」
ますます目を丸くしないわけにはいかない。榛名と似ているなどと、足柄さんは思ったこともなかった。
視線をそっとやや離れた二人に投げ掛けてみる。日の下にいるということもあるのだろうが、榛名には輝く華がある。
同性でさえ、思わずほうとため息をもらさずにはいられない華だ。
「はい、ええ、とても美味しかったんですよ、今度は是非、ええ、提督も……」
甲高い榛名の声だけがやけにはっきりと聞こえてくる。はにかんだ、頬を朱に染めたその姿は、微笑ましくも少なからず甘ったるく感じてしまう。
それが今になって効いてきたコーヒーの影響もあったのだろう、胸につっかえるところがあった。
「でも、少し食べ過ぎたかもしれません」
おかげで、
『胸やけしちゃいそう』
ほとんど異口同音に、足柄さんと榛名はそう口にしていた。
「やっぱり二人ともよく似ているネ」
榛名と足柄さんの様子を横目にしながら、おみやげのマドレーヌを前に、金剛が紅茶をくゆらせながらつぶやいた。
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甘いものを食べる女の子は幸せそうでいいですよね