足柄さんの場合、フォーマルウェアを準備するといってもさほど難しくない。普段がサテン地の上着にタイトスカートという出で立ちだから、艤装を外せばそれだけで済む。必要ならば、そこに勲章をつければいい。
鎮守府内や付近をぶらつく時はその格好だし、個人的に不便や不満を抱いたこともない。
ただ、わざわざ、
「フォーマルな姿で頼むぞ」
なんて提督より注文をつけられると、かえって意識してしまって、上からさらに一枚別のなにかを押し着せられたような気になってしまう。
肩にのしかかる重圧は、上着と同系色のコートを羽織ったからという理由だけによるものでは決してない。
ましてや大失敗をやらかしてしまった後ではなおさらで、鎮守府へと向かう足取りも自然重くならざるをえなかった。
軍令部への出向の指令が、秘書官の加賀に下ったのが昨日のことだった。
補佐として、もう一人だれか同道するという話になったのだが、普段ならそういう際に真っ先に指名される霧島や龍田が、任務のために席を外していた。
そんな際に、たまたま提督執務室に報告のため顔を出したのが足柄さんで、なんとなくその場ののりで白羽の矢が立てられた。
その場ののりで引き受けるんじゃなかった。
もれるため息すら、先を行く加賀に遠慮して、できるだけ控えたものになってしまう。
鎮守府から飛行機を駆って横須賀まで、そこから海軍省のある霞ヶ関に向かう。なかなかの強行軍だが、そこで待っていたのは、さらに気の滅入る詰問だった。
名目こそ現在の鎮守府の運営状況について、実際に任務にあたっている兵士から聴取するという穏やかなものだったが、実質は階級を笠に着たつるし上げに近い。
抜き打ちで行ったのも、反駁の余地を与えないためだろう。にもかかわらず、加賀は自分なりにペースを崩されることもなく、答えられる範囲で回答を行っていた。
むしろやきもきと状況を見守っていたのは足柄さんだった。足柄さんは具体的な鎮守府の台所事情を知らない。知らないからこそ、この聴取自体、単に加賀やひいては足柄さんも含めた故ない攻撃に見えた。
「過去数十回に渡る出撃をくり返しているが、目標にまで隣接させた例は一割を切っている。これはあまりにも無計画とではないかね」
「建造コストにばらつきがありすぎる。まさかとは思うが、いきあたりばったりに行っているのではないのか」
「近海に敵影の報告例もないのに偵察を敢行したり、予定のたっていない観艦式の練習を行っているが、この意図はどこにあるんだ」
「過去何例かの艦で過度と判断せざるをえないほどの演習を実行させているが、結果的にその艦の実戦投入は見受けられない。この無駄はどのように釈明するつもりだ」
指摘にはそれぞれ根拠はあったろうが、ただ指摘に終始しているきらいが癪に障った。
それで気付いた時には声を出していた。
『正確な数値を指摘いただきありがとうございました。けれども、合理主義だ、計画的だと、理論を振り回す前に、鉄底海峡を御覧ください。南方海域強襲偵察作戦を御覧ください。一切を解決した実例がそこにあるじゃありませんか!』
今思い出しても恥ずかしい。どうして咄嗟にあんな言葉が出てきたものか、自分でもわからない。
足柄さんにもわからないのだから、取り巻いていた高級将校達にわかるわけがない。あまりの出来事に開いた口がふさがらなくなり、あっけにとられたままうやむやで聴取は終了となった。
用件が済めば帰るほかないが、その道すがら、足柄さんは加賀の後ろについて、まともに背中すら見られないくらいに縮こまっていた。
上下の規律の最も重要視される軍隊で、反論ならまだしも、足柄さんの行ったのは口ごたえであり、到底許されるものではなかった。まして自分一人だけでなく、加賀の顔までつぶしてしまったと思うと、穴があったら入りたいどころでなく、そのまま埋もれてしまいたいほどだった。
行きもさほど会話があったわけでもなかったが、かんたんな意思の疎通さえ途絶えて、重い沈黙が二人の間を支配している。
なにか話さなければと思うが踏ん切りもつかず、虎ノ門駅から路面電車に乗った後は、ただ車窓から流れる町並みを眺めるばかりだった。
大小様々な自動車が、電車のわきをすり抜けていく。足早に通り過ぎる町の光景よりも、並走するこれら車の姿の方が、足柄さんには隔世の観を強くさせられた。
そうしてセピア色に染まった、限られた数の車が走るばかりだったあの頃の街路の様と現在を重ねていると先ほどの失態も忘れられた。
ところがその矢先、
「ここで降りましょう」
新橋を目前にして加賀はそういうと、足柄さんの返答も待たずにさっさと降車してしまった。
なにがなんだかわからないままに、足柄さんも続く。
加賀は大通りを離れて、どんどんと路地を内へ内へと入っていく。しかし、何度も曲がりくねったあげく、元の場所に戻ってきたりさえしていた。足取りがしっかりしている分、なおのこと意図が汲めない。
それでも、歩き続けるうちに、やがて加賀にも特にあてがないらしいことがわかってきた。けれども、おかげで足柄さんは混迷の度をますます深めていった。
やがて行きつ戻りつしながら、無言の徒歩行を重ねるうちに、不意に足が止まった。
それは特別なところもなさそうな、町角の風景だった。左右に目をやっても、大きな邸宅の生け垣が続き、歩く人の姿も少ない。わずかに生活感の感じられるのは、すぐ先に一軒だけ、暖簾を掲げた店屋があるくらいのものだ。つつましやかに構えた軒に掛けられたその暖簾には、白抜きで蕎麦処菱庵と書かれていた。
「おなかが空きましたね。こちらに入りましょうか」
こぢんまりとした間口は、すぐに隣宅の生け垣に接し、盛りらしい寒椿が紅の色を冬の町に誇示している。そのうちの一輪が、ちょうど足柄さんから見れば、振り返った加賀の鬢のあたりにかぶさって、あたかも櫛飾りのように、文字通り花を添えていた。
店構えと異なり、中は案外と気さくな雰囲気だった。
適当な席に座り、お品書を見てみても、蕎麦ばかりでなくご飯ものも多い。
朝から移動やら聴取やらで、出る前に食事をとって以来、なにも胃に入れていない。そこに腹にたまりそうな名前を見せつけられては、どうにも我慢ができそうになかった。
「私は鴨南蛮を。足柄さんはどうしますか?」
加賀に振られて、注文を聞きにきた店員に、たまらず親子丼を頼んでいた。
それからしばらくして、加賀が改めて向き直った。
「先ほどはよい啖呵でした」
瞬間的に体が強張る。
「誤解しないで。私は怒ってるわけでもないし、皮肉をいっているのでもありませんから」
いう通り、加賀の声は険なく穏やかだ。
「少し腰を下ろして、静かな場所で話をしたかったのですが、あいにく、東京の地は不案内で」
だからあちこち歩きまわって、よさげな店を探していたのだという。
それならそうといってくれればよかったのに。
「いわれてみればそうですね。気が付きませんでした」
足柄さんはどっと疲れが押し寄せてくるのを感じた。
これだから、行動力のある不器用はまいる。
「ごめんなさい。けど、どうしてもいっておきたかったから」
感情の起伏に乏しい加賀の表情がわずかに翳ったように見えた。
そこで謝られても困る。ミスを犯したのは足柄さんなのだから、これでは居直ったようだ。
だが、表情の変化は束の間で、またすぐにいつもの朴訥とした顔にもどって話を続けた。
「あの方々は、ああして指摘をするのが仕事なの。私達に課せられていたのは、それに回答して説得すること。けど、こんなことを何度もくり返すうちに、いつの間にか、指摘して反論しての水掛け論が主体になっていたみたい。大事なのはその後になにをなすかなのにね」
店内に客の姿はほかにない。ただ厨房からの物音だけがかろうじて聞こえてくる。
「だから、それだけになおさら、先ほどはよい啖呵でした」
加賀はこの日、いつものサイドテールをおろしてうしろで一つにまとめ、鎮守府内では薄い化粧気も、けばけばしくならない程度にほどこしている。グレイの背広とズボンで上下をそろえ、ネクタイはせずにシャツの襟を外に広げた着こなしをしていた。同じ艦隊で過ごす仲間にとっても新鮮な姿だった。けれども、その時に薄く浮かんだ加賀の笑みが、初めて見るものに映ったのは、決してそのためばかりではなかった。
加賀はそれからまた口をつぐんだが、足柄さんはもう余分なプレッシャーを感じることもなく、ほどなく頼んでいた品がそれぞれ運ばれてきた。
「いただきます」
弾んだ声で手を合わせる足柄さんとは異なり、加賀は小さく頭を下げて控えめにそうつぶやくだけだった。
割り箸の乾いた音が鳴りやまぬうちに、足柄さんは早速一口目を頬張った。
よくむらされたごはんがあらわになると、陽炎のように熱気が舞い上がって丼の縁をゆがませた。それを目にしつつ、よくダシのしみた卵が舌の上で踊るにまかせる。黄身のコクが醤油の辛みも砂糖の甘みも、どちらの角も落として、まるく溶け合わせている。半熟でも鶏くささをまるで感じず、卵の味を楽しめる。
おかげで主役の鶏肉も一層引き立てられていた。ごろごろと舌の上を転がる小振りな塊は、少し歯を立てたくらいでは逆に押し返してくるほどの弾力を持っているが、ただ固いのではなく、きめの細やかな筋肉が噛む楽しみを歯に与えてくれる。そうして、はじめのうちは癖のない味だと思っていたものが、二度三度と噛みしめるうちに、ダシと合わさってうまみが後からにじんでくる。
思わずかっ込みたくなるのを抑えられたのは、食い気がより強かったからだ。
おいしいものは長く味わいたいというのも、どうしようもない本能だ。
本能のおもむくがままに口に運ぶ量を調節するという、複雑なんだか単純なんだかわからない作業をくり返して丼を堪能した。舌が重くなれば添えられた三つ葉をつまんで、またごはんにもどる。
そうするうちに丼鉢の底が見えはじめ、とうとう食べきってしまった。
失敗した。
まずかったわけじゃない。むしろ深い満足さえ覚えている。
けれども、その味がよければよかっただけ、今さらながらに後悔の念がよぎった。
こんなにいいダシを用意している店だったら、素直に蕎麦を頼んでおけばよかった。
そう思うと、目の前で啜られているものがいかにもおいしそうに見えてくる。
加賀の食べ方はいかにもいなせだった。適量を一口二口で啜りあげて、ほとんどかまずに喉に導き入れている。嚥下しているという風ではなく、無理なく食道を滑り落としているのだ。だから食事の間も、凛とした雰囲気が崩れない。
それが見ていて心地よく、食べているものもさることながら、加賀の食べている姿がいかにも食指を働かせるのだ。
ついつい見惚れてしまっていたのだろう。ぶしつけな視線は当の本人にも気取られた。
「何か?」
何度も首を横に振って、悪気のないことも含めて伝える。ただ、あまりにおいしそうだと思っただけなのだ。
「そんなに珍しいですか?」
いわれて、おやと思った。どうにも話が噛み合っていないような。
それで、加賀の持つ鉢の中をふと見やると、その原因に思い至った。鴨の肉厚の切り身が入った鴨南蛮を食べる加賀には、あまりありがたくないあだ名があった。「焼き鳥製造機」という。
「私は好きなんです、鳥が」
いかにも言い訳がましく口の中で小さくつぶやいた加賀は、目を下の方に逸らした。その表情は、明らかにはにかんでいるのだった。
その姿は足柄さんをして、加賀人気の一端をつかませるのに十分だった。
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蕎麦屋さんに入ってもついご飯ものがほしくなるのは直したいと思っています。