全ては有限である。
それ故に、終わりは必ず訪れる。
当たり前である。
だが、僕らは自身の目の前に存在する出来事を全てだと過大評価し、恰も永遠に続くと信じ込んでしまうことも少なくない。
そんな思い込みは、誤解だと正してくれるのが節目を知らせる行事(ハレ)なのだろう。
そのハレの一つが卒業式だ。
特に辺鄙な田舎に薄汚い形で立っている中学のそれは劇薬に等しい効果を有している。
9年間という長い期間、クラスという小さなそして陰険な村社会から解放されるのである。その効果の甚大さといったら形容し難いものがある。
それなのにである、間抜けな教師どもは、その意味を「寝てはいけない時間」だと矮小化させてしまったのである。
部活と点数がイエスとカエサルである教条主義的な空間に事象の真価を問うものなど稀ななのだから仕方ないのかもしれない。
仮にこのかび臭い伽藍に一匹でもアブが存在しても、彼らの社会を礼賛する讃美歌がその羽音を掻き消してしまうだろう。
真にその羽音を求める者の耳には決してその福音が入ることはないのだ。
道を欲しても見つけられなかった者は、自身が踏み入れてしまった獣道で毒虫か賊に命を奪わてしまう。
血を好む校舎の犠牲になった彼女を天は嘆いているのだろうか、その日は大雨だった。
雨水は彼女の血を啜り、横たわっていた赤土に繰り返し罵声を浴びせた。
風は天の言葉を猛々しく雄弁に語った。
それなのに、その言葉に耳を傾ける者ましてや心を動かされ、彼女の夭逝に再び涙するものは決して多くなかった。
多くの者は時間の砂嵐に自身の信念も美意識もそして倫理観も全て委ねてしまった。
代わりに彼らの声帯を震わしたのは嗚咽ではなく、可哀想だ、残念だという美しくも乾き空っぽの意味のない音だった。感情性の美酒を過去に満たした空瓶の発する虚しい響きだったのだ。
伽藍には空き瓶しか置いていない。
では、美酒はどこに行けば会えるのだろうか?
そんなことを考えながらある男は、誰にも悟られぬようひっそりと頬に塩水を走らせた。
自分の涙をごまかすために彼は以下のような言い訳を考えた。
三途の川渡し守は雀の涙ほどの手間賃を死者に請求するらしい。
また、古代ローマでは、塩が給料だったらしい。
願わくば、この塩水が彼女の渡し賃になり、渡し守が彼女を素敵な場所に連れていってくれますように。
式も無事に終わり、各自教室へと向かう。
ある生徒は、グループを作り、談笑しながら、ゆっくり教室に向かう。
またある生徒は、グループに取りあえず従い、相槌をうつ。
そして、ある男子生徒一人は、目を伏せながら、集団を追い抜き、我先にと早足で教室に向かった。
彼は、教室が恋しかったのではない。
周りの人間の作り笑顔と腹芸を一秒でも見たくなったからだ。
同じ空気を吸うのも、誰かに聞いてもらうことを切望する甲高く引き攣ったあの虚しい笑い声を耳にしたくなったからだ。
少年は、教室に着くと、無造作に置かれている自身のカバンを背負い、足早に下駄箱へ向かった。
教室の扉を潜る前に少年は立ち止まると、振り返り、窓に広がる赤土に声を掛けた。
少年は何事もなかったように下駄箱へと足を進めた。
数年後、彼も彼女と同じ場所へ向かうとも知らずに。
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前回の続きですが、見なくても楽しめるように書いておりますので、ご安心ください。