No.651797

真・恋姫†無双 想伝 ~魏†残想~ 其ノ二十二


あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。
本年も皆様にとって健やかで平和な年でありますよう、お祈り申し上げます。

さてかなり間が空いてしまっての投稿です。正直すみません。

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2014-01-04 22:32:48 投稿 / 全11ページ    総閲覧数:8634   閲覧ユーザー数:5947

 

 

 

【 盧植という女性  ~思惑が交差する魏興郡~ 】

 

 

 

 

 

 

 

盧植。確か、字は子幹。

後漢末期に於いて黄巾党討伐で有名な皇甫嵩、朱儁の両名と共に名を連ねられる人物だ。

主に演義の方では黄巾党討伐の将軍というよりも劉備、公孫賛の師という側面が強いだろう。

 

そんな人物が何故ここに?

いや。もし歴史通りなら、得ている情報的にも辻褄が合うのか。てことは報告にあった正規軍は……

 

 

「盧植――さん、ですか。俺はこの魏興郡の太守、北郷一刀といいます」

 

 

頭の中で思考を巡らせながらも、ご丁寧に名乗られた手前、軽く笑い掛けながら挨拶を返した。

 

 

「ええ、存じ上げています。といっても名前だけだったので、このように若く格好の良い方だとは思いませんでした」

 

 

盧植さんもニコリと笑う。

影も無ければ気負いもない、ましてや警戒もない笑み。良く通る鐘の音のような声が辺りに響いた。

 

 

「華琳。李通は?」

 

「盧植殿が引き連れて来た軍を監視及び警戒中よ」

 

 

まったくオブラートに包まない発言に苦笑いする。そのままその苦笑いを盧植さんに向けた。

 

 

「すいません。他意はありませんが、彼女の言う通り少しだけ警戒させてもらっています」

 

「構いません。今や漢の正規軍というだけで無条件に無警戒で迎え入れる方は少ないでしょうから」

 

 

言って盧植さんは儚げに笑う。

それは自分の属している漢という国に対して、色々と思うところがあるからだろうか。しかし、まあ。

 

 

「何と言うか、それ。言ってしまったら反逆罪とかになりません?」

 

 

言論に厳しい世界であるなら、今の発言だけでも反逆罪になり兼ねない場合がある。

 

 

「大丈夫ですよ。今この場にいる皆さんが黙っていていただければ」

 

「あはは、なるほど」

 

「それに、冗談でもそんなことすら口に出せない国の方が余程怖くありませんか?」

 

「……なるほど」

 

 

二度目の納得は、一度目の納得よりも心に響いた。

何故それを俺達の前であからさまに口にしたのかは分からないが。

 

 

「ごめんなさい。私もそこまで長居できるわけではないので、要件をお話ししてもよろしいですか?」

 

 

微笑みから一転して申し訳なさそうな表情になった盧植さんに尋ねられる。

 

 

「ええ、構いませんよ。それじゃ立ち話もなんですから、少し移動しましょうか」

 

「一刀。私はお茶を淹れてくればいいかしら」

 

「ああ、悪いけど頼んだ。場所はいつもの東屋で。あ、星は李通と合流。状況に応じて臨機応変に対応してくれ。盧植さんの引き連れて来た軍には丁重な扱いを頼む。警戒しつつな。それと魏延は紫苑と桔梗の勝負を見届けて、どっちが勝ったか俺に報告すること」

 

「心得た。李通殿にも伝えましょう」

 

 

任せろ、と言わんばかりの笑みを浮かべ、星は直ぐに行動を起こす。

その反面、聞きようや捉えようによってはふざけているとしか思えない命令を受けた魏延は憤慨の素振りを見せた。

 

 

「ちょっと待て! なんで私がそんなことを――」

 

「焔耶、お願い出来るかしら」

 

「わかりました華琳様!」

 

「即答かよ、オイ」

 

 

華琳の言葉に一も二もなく即答した魏延にジト目を向ける一刀だったが、既に魏延は華琳からお願いをされたという至福に浸っている為、そのジト目も言葉も耳に入らない。盧植はそんな魏延の様子を見て、微笑みながら頬に手を当てる。

 

 

「あらあら、元気で良いですね。私のようなおばさんにとっては羨ましいくらいの元気だわ」

 

「年齢はともかく、おばさんには見えないと思うけれど?」

 

「これは私の癖なんです。実際、年齢的にもそうですし。どうかお気になさらず、吉利殿」

 

「そう。癖ならまあ仕方ないわね。一刀、先に行っていて。すぐにお茶を淹れてくるから」

 

 

興味無さげにそう言い残して、華琳は足早に歩き出す。

 

 

「華琳、別にそんなに急がなくてもいいからなー!」

 

 

後ろから掛けられる一刀の声。その労りを嬉しく思う華琳。

しかし同時に、その言葉に対して反論する内心をも華琳は有していた。

 

 

「……悪いけど急ぐわよ、一刀。馬を駆るくらいの速さでお茶を淹れて行くわ」

 

 

呟き、恐ろしい程の早歩きで華琳は廊下を厨房に向かって進み始める。

 

それは少しでも長く一刀の傍に居たいが為。それは少しでも一刀の横に他の女を居させたくない為。

後ろ向きな考えでは無く、前向きな考えであることが唯一救いである乙女心によるものだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「それで? 黄色い布を巻いた賊――所謂『黄巾党』を討伐するために任命された『三将軍』の一人、盧植殿が何の用かしら」

 

 

場所は城内の東屋。

一刀、華琳、盧植の三人がそれぞれ椅子に座り、卓を囲んでいる。

 

既に三人の前には湯気を立てるお茶が置かれていた。

茶を三人分淹れてくるとするなら、それなりに時間は掛かる筈。

 

にも拘らず東屋に直行した一刀及び盧植と、お茶を淹れて来た華琳の合流するタイミングは殆んど同じだった。

 

だからこそ、今こうして三人で卓を囲んでいるというわけなのだが。

手品でも使ったんじゃないかと思うくらいに東屋への到着が早かった華琳に、ちょっとだけ薄ら寒いものを感じる一刀であった。

 

そして。

 

 

「……はは」

 

 

漢の正規軍を率いる将軍など関係なし。

初っ端から尊大な華琳の態度に一刀はお茶を口に運びながら苦笑いを浮かべる。

 

しかし、殆んど初対面だというのにそんな対応を受けてもなお、盧植の表情は歪まない。むしろ皮肉にも近い華琳の言葉に微笑みを返す有り様だった。

 

 

「よくご存じですね、吉利殿。まだ各州への正式な通達は、各郡まで伝わりきっていないと思うのですけれど」

 

「それは黄色い布を巻いた賊の名称を『黄巾党』と名付けたこと? それとも『三将軍』の任命に関してのことかしら」

 

「ふふ、両方です」

 

 

愉しげに眼を細めて微笑む盧植。

微笑みというのは彼女にとって普段と変わらない表情なのかもしれなかった。

 

 

「よくご存じですね、吉利殿」

 

「独自の情報網があるのよ。もちろん、それがどんなものなのか言うつもりは無いけれどね。皇甫嵩、朱儁、盧植の三将軍が黄巾党を討伐する為に勅令を受けたと聞いているわ」

 

「その通りです。私、皇甫嵩、朱儁は勅令を受け、黄巾党と称されることとなった賊討伐の指揮を執ることになりました。既に私以外の両名も自ら軍を率いて各地の黄巾党討伐に当っています」

 

「なら貴女は今のところ、相当の権力とそれに伴う権限を持ち合わせているのね。盧植将軍?」

 

 

皮肉交じりな華琳の台詞。

盧植はそれに気分を害した様子もなく、ただ困ったように微笑んだ。

 

 

「意地悪なことを言わないでください、吉利殿。権力や権限を持ち合わせているとはいえ、私はそれを妄りに乱用することはしません」

 

「盧植さんみたいな権力者は昨今じゃ珍しいと思いますよ」

 

「盧植、と呼び捨てで構いません。北郷殿」

 

 

驚きと疑問が入り混じった一刀の視線と、あくまで穏やかな盧植の視線が交錯する。

 

 

「一刀も聞きたいことだろうから私が聞いておくけれど、盧植殿?」

 

「なんですか? 吉利殿」

 

 

相変わらずの穏やかな対応に、華琳は小さく溜息を零した。

穏やかであるからこそ、華琳は盧植の最初から今までの態度を不可解に思った。

 

 

「貴女は一応、漢の正規軍の一部を束ねる将軍。一刀は一郡を治めている太守。普通ならその上下関係は子供でも分かるくらいに明確な物よ。少なくとも、貴女が漢の将軍として何かを命令すれば、そう易々と逆らえないくらいの関係ではあるわ」

 

 

華琳は当たり前のことを滔々と述べていく。

盧植は微笑みを浮かべながら黙ってそれに耳を傾け、一刀もそれに倣う。

 

 

「にも拘らず、貴女はその立場を有効に活用しようとはしていない。それどころか、私達に対して下手にすら出ている節がある。貴女の性格と言ってしまえばそれまでだけど、私は違うと思っているわ」

 

「……その根拠は?」

 

「勘よ。女の」

 

 

さも当たり前の如く、華琳は一切の躊躇をせずに言い放った。

それを聞いた盧植の眼が点になる。始まった、と言わんばかりに苦笑いを浮かべて一刀は額を押さえた。

 

沈黙が続くこと数十秒。

 

 

「……ふふっ」

 

 

盧植は堪え切れず、小さな笑い声を零した。

自分としては思いもよらなかった反応に、華琳は眉根を寄せる。

 

それを見て取ったのか、盧植は笑いながらも頭を軽く下げて謝罪の意思を見せ、微笑みでは無く笑顔を浮かべて一刀、華琳と改めて顔を合わせた。

 

 

「ふふっ、ごめんなさい。そうよね、吉利殿は大真面目に言っているのよね」

 

「当たり前でしょう。何かおかしなところでもあって?」

 

「いや、おかしいところっていうか……あー、ナンデモナイデス」

 

 

個人的な意見を述べようとした一刀は、自分に向けられた華琳の冷たい視線を受けて少し仰け反りながら降参のポーズで両手を上げた。その光景を盧植は何か眩しいものでも見ているかのように目を細めながら眺める。しかしそれも数秒のこと。

 

一度何かを考えるように目を瞑り、やはり数秒と待たずに開く。

その間に、笑顔は微笑みへと戻っていた。いや、戻っていたというのは少し語弊がある。

 

先刻とは多少違う種類の微笑みになった、と言うべきだろう。それは何かを達観しているようにも見て取れるものだった。

 

 

「北郷殿。吉利殿。私は――」

 

「ん?」

「なに?」

 

 

同じような反応。そしてそこには微々たる警戒。

しかし対する相手を嘲っているような、軽く見ているような色は無い。

 

そんな様子に今一度、クスッと笑い声を上げて、盧植は口を開く。そして

 

 

 

「――貴方達に教えを請おうと、ここに来ました」

 

 

 

自身がこの街へ来た目的。自身がこの街の太守に会いに来た目的を、穏やかに、静かに口にした。

 

 

 

 

 

 

 

 

「「教え?」」

 

 

見事にハモった声に、華琳と顔を見合わせる。

 

素性を知ってはいれど得体は知れなかった女性、盧植。

そんな彼女の目的を聞いて、自然と疑問符が浮かんだ。予想していた答えの斜め上にも程がある。

 

 

しばらくの間その言葉の意味を捉えようと口の中で何度も反芻する――が、どうしても分からない。

 

教えを請う――何故?

教えを請う――何に対して?

 

考えてたどり着けない答えなら、道は一つだけ。

 

 

「すいません、盧植さん。『教えを請おうと』っていうのはどういう意味ですか?」

 

 

本人に直接訪ねるしかなかった。

 

 

「どういう意味も何も、そのままの意味ですよ?」

 

 

いや、可愛く小首を傾げられても困る。

というかこの人、見立てでは紫苑や桔梗よりも一回り以上は歳を重ねているとは思うのだが。何故だろう。その“可愛く小首を傾げる”的な仕草が妙に可愛らしい。あまり女性の歳を気にしたことは無いけれど、純粋な疑問として一つ。何か若さの秘訣でもあるのかと――

 

 

ごすっ!

 

 

「痛っ……!」

 

 

華琳が手にした湯呑みが脳天を直撃した。

気配に気付いた時には時遅く、既に間に合わなかったのでモロに食らってしまう。

 

幸い手加減はしてくれたようで、そこまでの威力では無かったのが唯一の救いだった。

 

 

「いやらしいこと考えているからよ」

 

「はい!? いや、考えてないから!」

 

 

そこは流石に断固否定した。

可愛いということをまともに考えることすら許されないというのだろうか。

 

そんなんじゃ今頃、華琳の湯呑みは全世界の男性諸氏に振り下ろされているだろう。

ある一部の人間(主に魏延とか)なら歓喜してその一撃を脳天に受けるだろうが、残念ながら俺にそんな性癖は無かった。

 

 

「皇甫嵩、朱儁、私の三人が、今は黄巾党討伐を主(おも)としている将軍だということは話しましたね?」

 

 

軽いコントなど何のその。

夫婦漫才のようなやり取りをやんわりといなした盧植は、微笑みながら尋ねる。

 

 

「あ、ああ」

 

「ええ、したわね」

 

 

戸惑いながらも頷いた俺。

まったく心を乱さずに肯定した華琳。

 

こういうところも器の違いだよなあ、とか考えている俺の心など露知らず。盧植さんは話を進める。

 

 

「今や大陸の各地で黄巾党が蜂起し、近隣の村や街を襲っています。その所業はまるで獣の如く。統率のとれていない獣の群れの勢いは留まるところを知りません。既にいくつか、太守や刺史が責務を放り投げて逃げ出す事例が発生しています」

 

「……」

 

 

盧植の言葉を受け、華琳の眼が細まる。かつて王だった彼女からしてみれば、自身が護るべき民を捨てて逃げ出す者のその行動は決して容認できるものではない。もし今この場にその対象がいたなら、無言で首を刎ねていただろう。

 

 

――ですが、と盧植が続ける。

 

 

「各地の郡や州が黄巾党に苦戦する中で、ほぼ唯一。敗北も後退も降伏も無い勢力が存在している。黄巾党と取引をしているわけでもない。兵数が多いわけでもない。にも関わらずその郡は勝利している。噂や人伝に聞いたことであったとしても、無視はできません」

 

「遠回しに言わなくてもいいわよ。その郡というのは私達が治めている郡――つまり、ここ魏興郡のことでね」

 

「もう……折角気を使ったというのに」

 

「必要ないわよ。それに貴女、そこまでゆっくりしている時間も無いのでしょう?」

 

「あ、そうでした。ではお言葉に甘えて単刀直入に聞くと……いえ、『教えを請う』とします」

 

 

こほん、と一つ咳払い。

 

 

 

「魏興郡太守、北郷殿。黄巾党討伐に役立つ知識がもしあるのなら、それを私にお教え願えませんか?」

 

 

 

深く頭を下げて。盧植さんは俺にそう言った。

不可解なほど真摯で、不思議なほど切実な声色で。

 

 

数秒、考える時間をもらった。

実際は考えるまでもないことだったけど。

 

盧植さんの台詞が耳に入り、それを理解した時に答えは決まっていた。

 

 

 

 

 

 

既に頭を上げていた盧植さんは、微笑みを消した真面目な表情で答えを待っている。

 

これ以上引っ張るのは酷というか、そもそもその必要性は無いだろう。

 

 

「構わないですよ。そのぐらいのことなら喜んで」

 

「本当ですか! ありがとうございます!」

 

 

こちらが驚くほどの喜色を湛えた表情を浮かべ、盧植さんが身を乗り出した。

同時に彼女は喜びの感情を表したのか、突然に俺の手を取ってブンブンと振る。

 

その拍子に胸が揺れた。

 

 

「そう喜色を浮かべた表情をされても困るわよ」

 

 

華琳が苦笑し、呆れ顔で呟く。しかし直ぐにその表情は真面目なものへと変わった。

 

同時に俺は横目で睨まれた。

 

ごめんなさい。今はさすがに多分おそらくちょっとだけいやらしいことを考えました。

 

 

「ひとつ断っておくけれど、必勝法なんてものが無いのは分かっているわね? 漢の正規兵を率いている将軍殿に何を、と思うかもしれないけれど。勝敗は兵家の常、よ。やる前から確実に勝てると決まっている戦なんてものは、ありえない。それを踏まえた上で、貴女は私達に黄巾党討伐の為の協力を求めた……そういう認識でいいのかしら」

 

「もちろん。分かっているつもりです」

 

「ならいいわ。もっとも、そうなると私達に出来るのは黄巾党との小規模な戦の記録を包み隠さず貴女に渡すことだけね。時間があれば兵の調練を見せてあげられるのだけれど……」

 

「構いません。その記録だけで十分です。あ、でも……」

 

 

長く考えていた設問の解き方をやっとのことで導き出したような表情から一転。

申し訳なさそうな表情で、歯切れが悪い言葉を発する盧植さん。華琳と俺は同じように首を傾げた。

 

 

「その記録は大切な物なのでは……?」

 

「ああいや、うちはそういうの全部写しを取ってるから」

 

「本書は無理だけれど、写したものなら構わないわよ。後で部下に持ってこさせるわ」

 

 

言うが早いか、華琳は手を叩いて兵を呼んだ。

まるでどこかのお嬢様……いや、ある意味お嬢様みたいなもんだけど。

 

ちなみに普段は華琳が手を鳴らすと李通がどこからともなく現れる。

まったくもってどうなっているのか。世界はまだまだ色々な不思議に満ち溢れていた。

 

そんな壮大な話もどきを勝手に頭の中でナレーションしていた間に、華琳の命令を受けた兵はいなくなっていた。

多分、楓にこの一件を頼んだのだろう。文官を取りまとめている立場の彼女は、そういう記録や報告書の保管や管理を一挙に引き受けていた。

 

事は済み、後は待つだけ。

 

となると時間を潰す為に世間話でもするしかない。

こちらも色々と、知りたいことや聞きたいことがある。例えば、そう。

 

 

「ところで盧植殿。聞きたいことがあるのだけれどいいかしら?」

 

「はい。構いません」

 

「さっき聞いて結果あやふやになってしまった話なのだけれど。何故貴女、私達に対してあくまで下手に出るのかしら」

 

 

盧植さんの、俺達に対する態度とか。

華琳の言う通り、今さっき話自体があやふやになった件についてだった。

 

 

 

 

 

 

 

前述した通り、盧植さんが自ら言った通り。彼女は漢の正規軍を率いる将軍だ。

もちろん個人差はあるだろうが、普通なら協力を求めるにしてももっと高圧的でもいいはず。

 

いやまあ、こっちとしては高圧的に出られるのは嫌だけど。しかしそう思っているからこそ気になることでもあった。

 

 

「……」

 

 

華琳の問い掛けに気分を害した様子も無く、顎に手を当てて少し考える素振りを見せる盧植さん。

 

顎に手を当てたその仕草のまま、盧植さんは華琳に視線を向けた。

 

 

「吉利さん。貴女には師と呼べるような方はいらっしゃいますか?」

 

「……いたわ。それがどうしたの?」

 

 

“いた”という言葉。それは過去形の発言。

遠い何かに想いを馳せるかのような、呟きに近い台詞だった。

 

 

「そうですか。その方は貴女にとって良い師であったのでしょうね」

 

「さあ。どうかしら」

 

「ふふっ。これでも私は以前、少数ではありますけれど若者達に手習いと剣を教えていたことがあるんですよ? 言わばその子達にとっては“師”ですね。ですから、なんとなく分かります。貴女はその方を師として尊敬し、尊重し、とても慕っていた。私の元で教えを受けてくれた子達が、私のことを慕ってくれていたように」

 

 

素知らぬ顔で白を切る華琳に対して、あくまでも穏やかな微笑みを浮かべて指摘する盧植。

過去を語る彼女の瞳には優しげな色と、華琳と同じように遠い何かを見ているような色が同居していた。

 

そんな盧植の様子に思うところがあったのだろうか。華琳は幾分か相好を崩す。

 

 

「貴女の“師”としての側面には感心するけれど、それが貴女に対する質問とどう関係があるの?」

 

「ああ、ごめんなさい。話を遠回しにしてしまうのも私の悪い癖みたいで。簡単に言うならば、私はあくまでも貴方達に教えを請いに来た立場。言わば“教えを受ける”側の人間ですから」

 

「うん?」

 

 

今いち、盧植さんの言っていることが上手く理解できなかった。

反面、覇王様はどうやら理解できたらしい。それが表情で分かった。

 

しかし、理解できたことを誇りもせず肩を竦め、嘆息する華琳。理解できたからといってそれが嬉しいことなのかどうかは、また別問題らしかった。

 

 

「つまり――『今回は教えを請うために来たのだから自分の立場の方が下。相手が太守だろうと自分よりも年下の青二才であろうと、それは変わらない。だから遜るまではいかなくとも下手に出る。相手を尊重した言葉遣いをする』――という認識でいいのかしらね」

 

「概ねそれで合っていますけど……吉利殿? 私は貴方達のことを『青二才』だとか『たかが太守』なんて思っていません。なんだか、少し悪意を感じますよ」

 

「悪意だなんて心外ね。私の心の九割は善意で出来ているわ」

 

「……凄い嘘吐いたな」

 

「何か言った? 一刀」

 

「イヤナンデモナイデス」

 

 

笑顔には種類がある。

特に、満面の笑みには気を付けた方が良いだろう。

 

でないと今の俺のように、背中に嫌な汗を掻きながら固まった笑顔で、片言で喋らなきゃいけなくなるぞ。

 

 

「他に、ご質問はありますか? ある方は手を上げて下さいね」

 

 

教師のように、しかしお茶目におどける盧植さん。華琳は生真面目にも、盧植先生の要望通りに真っ直ぐに手を上げた。盧植さんは手を差し出して華琳の発言を促す。

 

「はい、吉利殿」

 

「気になることがひとつだけあるわ」

 

「なんでしょう?」

 

「盧植殿。貴女は『青二才』や『たかが太守』のところは否定したけれど一番最初に私が敢えて付けた『今回は』の部分は否定しなかった。それはつまり、そういうことでいいのかしら」

 

 

華琳の口にした『今回は』と『そういうこと』。

それは、教えを請いに来たのでなければ今後別の案件で会った時にはまた違った対応の仕方をするのか、といった質問だった。

 

良い言い方をすればそれは、メリハリがはっきりしているということ。公と私をちゃんと分けているということだ。しかし悪い言い方をするならばそれは、相手を上に見る原因や理由が無ければ横暴な接し方さえするということだった。

 

少し、乱暴な考え方だとは思うけれど。

 

しかしこれは漢軍への、盧植さんへの、三将軍への対応をはっきりさせる為の質問。

答えによってはあまり良い方向には進まないことは明白だ。もちろん、色々な状況を把握し切れていないという理由もあって、今のところは漢という国に対する叛意などを持ち合わせる理由は無い。

 

しかしこれがひとつの分水嶺、試金石になるであろうことはまず間違いなかった。

 

微妙な緊張感の元、盧植さんの答えを待つ――

 

 

 

「いいえ」

 

 

 

――が、彼女の口から語られた言葉は予想よりも軽く端的なものだった。そしてそれは華琳の問いに対する否定の言葉だった。

 

それだけでは終わらず、盧植さんは言葉を重ねる。

 

 

「もっとも、本来であれば吉利殿の言う通り私は漢の正規軍を率いる将軍として、その立場に沿った対応の仕方をしなければなりません。私自身、気に食わない相手には断固、高圧的な対応を善しとする節もありますから。ですが――気に入った相手であるなら、話はまた別です」

 

 

微笑みを浮かべ淡々と話していた彼女の瞳が、俄かに爛々と輝いた。

 

 

 

 

 

 

「「うん?」」

 

 

華琳と俺の台詞が重なる。

そんなことなどお構いなしに何かのスイッチが入った(ように見える)盧植さんは相変わらず瞳を輝かせている。

 

 

「ですから、分かりませんか? 私は貴方達のことが気に入った、と言っているんです」

 

「「はあ」」

 

 

言われていることは分かるのだが、なにぶん唐突過ぎて盧植さんのテンションとの差に開きがあった。だからこそ、俺と華琳はまたも揃って気のない返事を返してしまう。それに業を煮やしたのか、盧植さんは今まで我慢していた何かを一気に解き放つような感じで、卓の上に身を乗り出し俺と華琳の手をグッと握った。

 

 

「北郷殿。これからは一刀殿と呼ばせて頂いても?」

 

「は、はあ。別になんて呼んでいただいても俺は構いませんけど」

 

 

変なあだ名以外でなら。

 

 

「分かりました。それではこれから一刀殿、と呼びます。あ、それと公的な時以外での敬語は無しにしてくださいね? さんを付けるのも禁止です」

 

「はいっ!? いやちょっとそれはどうかと――」

 

「吉利殿。貴女のことは吉利、と呼ばせて頂いても?」

 

 

聞いちゃいなかった。というか何で俺には“殿”付けなんだ?

 

 

「え、ええ。別に構わないけど」

 

「ふふっ、断られなくて安心したわ。それじゃあこれからよろしくね、吉利。貴女も私にさん付けは駄目よ?」

 

「私もなのね……はぁ」

 

 

華琳の翻弄され戸惑う表情(レア)を眺めながら俺は自分の片手がブンブンと上下に振られる感覚を味わっていた。瓦解、とまではいかないものの最初に感じた盧植さん――いや、盧植のイメージはこれで相当に崩されたといっていいだろう。

 

というか本当にさん付けしなくて大丈夫かよ、これ。

 

 

「えーと、その。盧植さんって――」

 

「――ろ、しょ、く」

 

「ああ、はい。すいませ――」

 

「――け、い、ご」

 

「……わ、分かった。コホン。ろ、盧植の素ってそういう感じなのか?」

 

 

ひとつ質問をするだけで一苦労だった。

紫苑や桔梗とは年齢が一回りぐらい違うせいなのか、はたまた別の理由か。

 

なんとなく敬語を使わないというのが不自然というか、難しい相手だ。

 

 

「ええ。私、本当はああいう気取った話し方は嫌いなの。でもお仕事だからそうしないといけないっていう線引きだけはしっかりしなくちゃいけないでしょう? けれど初めての試みだったから、断られるのではないかと冷や冷やしたわ」

 

 

すいません。殆んど拒否権なんてものは存在しなかったと思います。

 

 

「別に気取ってはいないと思うけど? 年相応な落ち着いた話し方じゃない」

 

 

華琳の方が明らかに順応能力が高いようで。別段、戸惑いや気おくれも無しに盧植にそう言った。

 

 

「まあ、好き嫌いは人それぞれだから特に口出しはしないわ。でも、このことをダシにして私達のことを不敬罪で処罰するのだけは勘弁よ」

 

「そんなことはしないわ。もし心配なら書面にしてもいいけれど」

 

「冗談よ。忘れて」

 

 

あっけらかんとした素の盧植。しかしそれでいて生真面目なところは生真面目なままらしい。真面目な表情で尋ねられた華琳は、自分の言った冗談の空虚さを嘲るように少しだけ唇を尖らせて肩を竦めた。

 

 

そんな華琳を見て、盧植は柔らかく微笑む。

 

 

「吉利は本当に可愛いわね。貴女を見ていると私が教えていた女の子達を思い出すわ。それになんとなく、貴女はあの子達に似ている」

 

 

そう言って昔を懐かしむように宙に眼を向け、思いを馳せる盧植。そして彼女は呟いた。

 

 

「元気にしているのかしら――」

 

 

自分の教え子の名を。

 

 

「――劉備と、公孫賛は」

 

 

 

 

 

 

 

 

「……何と言うか、疲れたわね」

 

「はは、同感」

 

 

疲れた顔で壁に寄り掛かる華琳を見て、一刀は同意しながら軽く笑った。

 

場所は城の門前。

既に辺りは夕焼け色に染まっていた。

 

あの後すぐに書類と竹簡を持った楓が現れ、盧植自身が急いでいたせいもあってか殆んど話を膨らませることなく、漢の正規軍を率いる将軍の非公式な訪問は終わった。

 

なんとなく華琳に対する楓の接し方に違和感を覚えた一刀だったが、確信があったわけでもないので一旦放って置くことにした。

 

自分が違和感を感じたということは多分、当事者であろう華琳はもっと色々と感じているはず。ならそれは華琳が、もしくは楓が何とかするだろう。もし二人がどうにも出来ない問題だったなら、及ばずながらその時に自分が出て行けばいい、という一刀なりの判断に基づくものだった。

 

黄巾党討伐における報告書を携え、何度も礼を告げ、何故か華琳に頬擦りをして帰って行った盧植。最初に会った時と別れる時。たった一日の間に起きた出来事だったというのに随分と印象が変わった、というのが一刀と華琳の共通の見解になった。

 

華琳に向けていた目を、盧植が歩いて行った街の通りに移す。

 

既にそこに盧植の影は無く、街の入口まで付き添って行った李通と星の影も無い。

 

今頃、街のすぐ外で李通がもの凄く紳士的で格好の良い『また、おいでください』的な礼をしているに違いない――

 

 

「一刀」

 

 

――なんていうことを考えていたら華琳から声が掛かった。

 

 

「ん?」

 

「あなた、知っていたの? 盧植の教え子に劉備と公孫賛がいること」

 

「まあ、一応。でもそれを聞くってことは、逆に華琳は知らなかったのか」

 

「ええ、まったくね」

 

「ふうん、そっか」

 

 

何の気の無い相槌に反して、心の中では少なからず驚いていた。

以前から思っていたことではあるのだが、華琳は何でも知っていそうな気さえしたから。

 

それこそどこかの誰かの言葉を借りれば、人が知っているのは自分が知っていることだけなのだろうけど。

 

 

「劉備、そして公孫賛……なんだか懐かしい響きね」

 

「ああ、華琳にとってはそうなるのか。俺はそうでもないけど、やっぱり思うところはある?」

 

「ええ、劉備は乱世最後の戦で相対した相手だもの。以前、孫策と会ったという話を一刀から聞いた時もそれなりに思うところはあったのよ? ……色々な意味でだけど」

 

「色々な意味で、ね。……はは」

 

華琳のゾクっとするような流し目を受け、一刀は乾いた笑い声を上げた。

 

同時に頭の中では別のことを考え始める。

 

劉備に孫策。どちらも乱世最後の戦いで相対した敵。蜀と呉の総大将。

俺にとっては最後の敵としてのイメージが強いけれど華琳にとってはその戦いの後、世を治めていくための同志だった側面も強いのだろう。

 

俺はそんな彼女らを知らない。それが残念と言えば残念だった。

ということでそれについて考えるのを止めた。戦や政治に関しては別だが、それ以外の分からないことは今考えても仕方がない。

 

 

「まあ公孫賛にしろ劉備にしろ、この外史ではどういう立ち位置にいるのか会ってみなくちゃ分からないよな」

 

「それはそれで先のことになりそうね。今のところ、幽州やそちらの方面に行く用事はないもの」

 

「確かに。取り敢えず俺達は今出来ることをやろう」

 

「ええ」

 

 

頭を縦に振ることで短い肯定の意を表した華琳。直ぐに自然な動作で俺の腕に自分の腕を絡めてきた。今では日常と化した華琳の甘え。それを幸せに思いながら華琳の顔を覗き込む。夕陽のせいか、その頬は少し赤く染まっていた。

 

それを確認し、自分の頬が綻んでいるのを感じながらゆっくりと踵を返して城へと戻るために歩み始める。

 

 

「にしても、一筋縄じゃいかないな」

 

「そうね」

 

 

世間話のような感覚で、お互いに盧植と対峙していた際に思っていたことを徐に話し始める。

 

 

「流石は盧子幹。役者だよな」

 

「それがあの人の全てではないでしょうけどね。でも、大事にならなくて良かったわ。自分でやっておいてなにをと思うかもしれないけれど」

 

「あ、一応自覚はあったんだ」

 

「もちろん。それぐらいの文面のものを送ったもの」

 

「華琳が書いた文って、人によっては神経逆撫でされるよなあ」

 

「自分でも悪癖だと思っているからそれ以上は言わないで」

 

「はいはい。でも本当に大事にならなくて良かったよ」

 

「ええ、本当に。いくら私達の有する軍が精強でも、相手が漢の正規軍ほぼ全てとなると流石に勝てないわ。……今はね」

 

「はは、怖い怖い」

 

 

あながち嘘ではない華琳の本気の言葉に俺は軽く笑った。

確かに、全盛期の魏軍の実力から比べればそんな話になってしまうよな、ホント。

 

 

 

 

 

 

 

 

時は経ち、場所は魏興の街から数里行った森の中。

既に辺りには夜の帳が落ちており、雲が月を半分隠していることもあって薄暗い。

 

そんな暗い森の中を、盧植は一人歩いてた。

乗ってきた馬は森の入口に繋いで、率いて来た部下たちに監視をさせている。

 

何故、彼女は一人で森の中を進んでいるのか。

盧植が進んでいくその先に、ポツリと赤い光源が浮かび上がった。

 

重なり合う葉を掻き分け、開けた空間に立ち入る。そこでは、二人の男女が焚火を囲んでいた。

 

 

「おお! 戻ったか、盧植」

 

「子幹、お疲れ様」

 

 

盧植の姿を見て取った二人は、それぞれ労いの言葉を掛ける。

 

 

「義真、公偉。貴方達は少し緊張感に欠けているんじゃありませんか?」

 

 

溜息交じりに口にされた苦言。盧植の視線は二人の手元に注がれていた。そう、即ち酒の入った杯に。

 

 

「なに、この程度の酒で酔うほど弱くは無い」

 

「子幹はそういうことを言っているんじゃないと思うけど……取り敢えず、ごめん。義真がどうしてもっていうからさ。ついでに言っておくと、私はまだ一杯目。義真はもう四杯目だ」

 

「お、おい公偉。裏切らんでもいいだろう」

 

「まったく……」

 

 

先刻よりも深く溜息を吐いた盧植。

彼女は目にも止まらぬ速さで男の手にあった杯を奪い、そのまま一息に飲み干してしまった。

 

そしてそれを持ち主に向かって投げ返す。

飛んで来た杯を慌てて受けた男は、拗ねたような表情を浮かべた。

 

そんな男を見て、盧植は再び溜息を吐く。

 

 

「黄巾党討伐軍筆頭将軍、皇甫嵩殿。ご報告を申し上げてよろしいでしょうか?」

 

「う、うむ。頼む」

 

 

必要以上に丁寧な敬語は少なからず怒っている証拠。

それを知っているが故、男――皇甫嵩は特に異を唱えずに盧植へ報告を促した。

 

 

「それでは僭越ながら。魏興郡太守、北郷一刀殿。彼に漢に対する叛意は見受けられませんでした。“あの文”を書いて寄越した人物、北郷一刀殿の部下である吉利殿も同様に」

 

「ふむ、そうか。いや良かった。黄巾党との戦を前にして、余計なことをせずに済んだか」

 

「ええ、本当に。確かに報告にある通り、彼らが有している軍は数こそ多くないものの、精強。しかしそれは、自らが治める地の民を護るための力。それに、彼らには野心というものの片鱗すら感じられませんでした。ですから、問題は無いでしょう」

 

「取り敢えずは一件落着。まずは司州北部や冀州の南部、それに并州か。黄巾党は討伐しなければならないとはいえ、面倒だな」

 

「まあ、そう言うな公偉よ。黄巾党の討伐はともかく、この面倒の発端は吉利殿とやらが寄越した文だ。しかしそれを問題にしたのは天下の大将軍であらせられる何進。恨むならあの嬢を好きなだけ恨め」

 

「吉利殿が寄越した文は、全て理に適っている内容でもありましたから。それが余計に腹立たしかったのでしょうね」

 

「ああ、それは確かに。あの文は恐ろしいくらいに漢の現状を痛烈に皮肉っていた。いや本当、笑えるくらいにね。でもだからといって『叛意が少しでもあれば討伐してこい』なんて乱暴にも程がある。私達は彼女の私兵では無いというのに、勝手なことだ」

 

 

盧植が一人で魏興の街を訪れたのは、必要以上に警戒させない為。もし叛意が明確であったなら、問答無用に皇甫嵩、朱儁の両将軍が伴ってきた軍で街に攻め寄せるつもりではあった。まあ、それも結果が結果だったので無駄になったわけだが。結局のところ割を食ったのは三将軍とその部下たちだった、という単純な話。

 

三者三様の感想を述べた後、三人は顔を見合わせて溜息を吐いた。

 

 

「子幹、もうひとつの方はどうだった」

 

 

大将軍、何進から与えられた命。『魏興郡太守に叛意の兆し有り。真実ならばこれを討滅せよ』。

 

それとは別に皇甫嵩達自身が必要だと思った物。それは即ち対黄巾党戦を有利に運ぶための何らかの材料だった。皇甫嵩からそう尋ねられた盧植は懐から出した紙と竹簡を答えとして提示する。

 

 

「これを。北郷殿や吉利殿にはただの記録と言われたものですけど」

 

「ふむ、どれ」

 

 

盧植から受け取った紙面に眼を通し始める皇甫嵩。

時折、顎に生えた薄い髭を撫でたり、短く切り揃えられた色素の薄い茶色の髪を掻きながら、その眼は冷静に素早く紙面の上の文字を追いかける。

 

 

「子幹。今回の訪問、本当の目的はどうあれ、先生としての君のお眼鏡に適う子は見つかった?」

 

「どうでしょうね。眼に止まったという意味では太守である北郷殿、その部下である吉利殿。その他にも数人いたけれど……ううん」

 

 

「へえ……」

 

 

珍しく言い淀んだ盧植を見て公偉――朱儁は、意外だという意味合いを込めての溜息を洩らした。

 

しかし口にしたのはそれだけ。

三日月の意匠を象った髪飾りを弄りながら、朱儁は続く盧植の言葉を待った。

 

 

「北郷殿と吉利殿に関しては、もしかしたら私の方が教えられることが多いのかもしれない――と、漠然とだけれどそう思ったわ」

 

「子幹がそういう評価を下すのは非常に珍しいね。もしかしたらその二人、本物かも」

 

「野心も無い。叛意も無い。驕りも嘲りも無い。そういうことは分かったの。でもあの二人は底が見えなかった。相対していて少し怖かったくらい」

 

「底が見えない、か。まだ若いから、といわけでは無く?」

 

「……何とも言えないわ。私自身、まだ戸惑っているもの」

 

「あの文からはそんな片鱗が見えてはいたけどね。並々ならぬ才というか、恐れを知らぬ明晰さというか。つまりはその主である北郷殿とやらもそれなりか。いやはや、そんな子達に野心が無いというのは正直救いかな。まあ、そういうものが透けて見えている河北の袁紹や、荊州南陽の袁術は正直見ていて飽きないけれど」

 

 

朱儁は薄い赤色の髪を弄りながら、興味があるのかどうか分からないような調子でそう言った。

 

 

「うん、確かにそう。あの文を読んだ時も、その張本人に会って話した時も、私は吉利殿に公偉と同じような印象を抱いたわ。でも、違うの」

 

「違う? 何が?」

 

 

ここに来て初めて、朱儁の表情が訝しげなものへと変化した。

盧植という女性はあまり曖昧なことを口にしない。もちろん、口にすることが無いわけではないが、その頻度は極々稀だった。そんな彼女が歯に物が挟まったような、妙な感じに言葉を紡ぐことに朱儁は違和感を覚えていた。

 

言い淀んでいた――いや、どういう言い方をすればいいのかをしばらくの間模索していた盧植の口がゆっくりと開く。

 

 

「私が気になったのは寧ろ――」

 

「子幹、公偉」

 

 

盧植の言葉をわざと遮ったかのような絶妙な間で、皇甫嵩の声が掛けられた。

 

 

「なんでしょう?」

「どうしたんだ?」

 

 

盧植と朱儁。二人は会話を遮られたことを特に気にもせず、皇甫嵩の呼び掛けに応じる。

理由としては、普段は飄々としている皇甫嵩の声色が普段よりも真面目なものになっていたから。

 

皇甫嵩の手の中には盧植が先刻渡した、魏興郡に於ける黄巾党討伐の記録があった。

 

 

「中々参考になった。どうやら魏興郡の太守とその部下達は非凡な者が多いようだのう。儂の元で働いてほしいくらいだ」

 

「それほどのものでしたか?」

 

「ああ、本来であれば記録に残す必要もないことまで事細かに記述されている」

 

「それは蛇足ということじゃないのかな?」

 

「儂も眼を通している最中はそう思った。だが、結局のところ一見不必要に見えるその事細かな記述が後々重要な内容へと繋がっていく様は、読んでいて中々に面白かったわい。数の多い敵を、それよりも少ない数の味方で押し返しているのにも合点がいった」

 

「では?」

 

 

盧植の問い掛けに皇甫嵩は頷く。

 

 

「うむ。この記録の内容を踏まえた上で少し軍を再編する。大将軍であらせられる何進嬢に報告もあるからのう。一度洛陽に戻るぞ」

 

「分かりました」

「了解だ」

 

 

黄巾党討伐軍筆頭将軍の命を受け、盧植と朱儁は即座に踵を返す。

一見落ち着いて見える彼女らの心の中には、黄巾党を迅速に討伐し民に平穏をもたらそうとする信念が渦を巻いていた。

 

 

「波音!」

 

 

本当に自由な時間の時にしか口にされない自分の真名を聞いた盧植はふと立ち止まる。

真名を呼んだのは焚火の傍にしゃがみ込み、火の後始末をしようとしている皇甫嵩その人。

 

何だ、と盧植は視線で問い掛ける。

 

 

「いやなに、ひとつだけ聞いておきたいことがあってな」

 

 

皇甫嵩は今日一番の真剣な表情で、真剣な眼差しで盧植を見た。

その口から語られるのはどんな内容なのか。これからの世を、漢王朝を案じる言葉か。

 

内容を予測しながら、構えた盧植の耳に

 

 

「吉利という名の嬢は、美しかったか?」

 

 

心の底からどうでもいい話題が飛び込んできた。

 

真剣過ぎる表情がこれまた腹立たしい。

一瞬だけ固まった後、深い深い溜息を吐く。そして盧植は満面の笑みで告げた。

 

 

「いい加減黙らないとその首飛ばしますよ? エロオヤジ」

 

 

 

 

 

 

 

 

その後、洛陽へと戻る漢の正規軍の中で、馬に乗った皇甫嵩将軍が頻繁に溜息を吐いている姿が目撃されたという。

 

 

「はぁ……重要なことだと思うのだがなあ」

 

「はは、子幹にそういう話題を振ったらいけないということは分かっているだろうに。まったく女心が分かっていないなあ」

 

「ふん、男心が分からんお主に言われてものう」

 

「それなりに気にしているんだから、言わないでもらえると助かるんだけど。男心が分かっていないのも、男運が極端に悪いのも自覚している」

 

 

皇甫嵩と朱儁がそんな他愛ない世間話をしている中で、盧植はただ一人黙って馬に揺られている。

 

 

 

「北郷、一刀殿」

 

 

 

その胸中には自分よりも遥かに若く、今日出会ったばかりの一人の青年の姿があった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【盧植―子幹(波音―はのん)】

皇甫嵩、朱儁を含めた所謂【三将軍】の一人。昔は九江太守だったが病を理由に官職を去る。それ以降は幽州の片田舎に住まい、自分ことを慕って尋ねてくる人間に剣と手習いを教えていた。その後【黄巾の乱】が起こったがまともに軍を指揮できる人間が少なかった為、以前交流のあった皇甫嵩からの推薦によって中央(洛陽)に召喚された。皇甫嵩、朱儁、盧植の三人は大将軍の何進によって任命されている。

黒髪で青い瞳を持ち、飾り気のない人柄で注目を集める正統派の美人。服は紫苑のような改造チャイナ服で基調としている色は薄い緑。胸はそれなりに大きいが、紫苑や桔梗ほどの物は無い。紫苑や桔梗よりも年上だが、そうは見えない程に若々しい容姿と肢体を維持している。本人曰く『特別なことはしていない。要は心の持ちよう』。それ(年齢)を初見で見抜けたのは一刀だけ。自分のことを時々『おばさん』と称することがある。

魏興郡に訪れた目的は二つあったが、その内一つだけを一刀や華琳に告げた。盧植自身はそのことを一種の『借り』だと思うことにしている。

基本的に使うのは敬語だが、生理的に受け付けない相手や礼を失する者に対しては手厳しい。時には汚い言葉を使うことがあるが、もしかしたらそれは彼女の素なのかもしれない。

一刀と華琳のことを個人として気に入り、生まれて初めて年下の相手に素の友好を求めた。

 

 

 

 

 


 
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