そよ、と朝の湿り気を含んだ風が鼻の先をかすめる。眠りが浅くなっていた犬神はのろのろと薄目を開けた。
開け放たれた窓にかけてある古びたカーテンが風に揺らされるたび、太陽の光がちらちらと部屋の中へと差し込んでくる。
狂ったように光を放っていた月はすでになく、本来の天空の王者が明るく暖かな光で世界を照らしていた。
ああ、もう朝か。
ふわぁとあくびを漏らしたつもりがウーワゥと吠え声になったので、犬神は自分が狼の姿のまま眠り込んでしまったことに気がついた。
山や野原の代わりにはならないが、都会のビルの間を久しぶりに思いっきり駆け回ったことに満足して、帰りついた自分の部屋の中でついそのままうとうとと眠り込んでしまったらしい。
銀色の体毛が朝日を浴びてキラキラと輝く。
月が姿を隠しても体には力が満ちていて、昨日の疲れはまったく残っていない。だが、この朝のさわやかな時間をもう少し感じていたくて、犬神は寝床の上でウウウと低いうなり声をあげた。出来ればもう少し惰眠をむさぼっていたかったが、今日はあいにくと朝から授業が詰まっている。いくらものぐさな教師でも仕事を放棄してしまっては、この世界で生き延びるための糧を失ってしまう。
前足を立てて体を起こすと、犬神はふるり、と体を震わせた。銀色の体毛は陽炎のように立ち上って狼の姿を隠したかと思うと、急速に小さくなり人の形を作り出す。
「…はぁ…」
けだるいため息をついた犬神は完全に人型へと戻っていた。腕を伸ばして大きく伸びをするその身には一片の布きれさえも帯びてはいない。全裸であることを気にもせずに、犬神は時計を見て身支度を整えるのにまだ十分な時間が残されていることを確認すると、洗濯物の山から下着を引っ張り出し立ちあがる。満月に浮かれて全力で街を駆け、自分の眷属を祀る山のてっぺんまで行ってきたので、汗でべとついた体をさっぱりとさせたかった。
「…まったくタチが悪い…」
年甲斐もなくはしゃいだ自分を恥じ入るかのように、犬神は今は見えない月に向かって毒づく。
ほとんど八つ当たりだ。
満月は一年に何度もある。ただ普段の満月は穏やかに天空にあって、昨日の夜のように凄惨な美しさをふりまくことはない。
ただ、数年に一度、気まぐれを起こすのか恐ろしいほどに人々を魅了するような光を放ち、捕らえた人々の心をかき乱し狂わせる。昨日はまさにその数年に一度の満月だった。
「…お前を慕う人外の者はもうほとんどいないというのに、お前だけが昔から変わらないのは、俺たちの存亡などお前にとってはどうでもよいということなのだな」
それでも月に焦がれてしまう妖の本性を、滑稽だと笑いながら、古いガス給湯器のスイッチを入れて熱いシャワーを頭から浴びる。汗と共にまとわりついた月の妖気も洗い流され、犬神の意識は完全に覚醒した。
身体の水気をタオルでふき取り、クリーニングの袋を破って取り出した洗いたての糊のきいたシャツに腕を通す。身支度を整えて『高校教師 犬神杜人』を作り上げ、いつものネクタイはあとでいいだろうとカバンへと放り出すと、いろいろなものが積み上がった机の傍らに座り込み灰皿を引き寄せた。
しんせいに火をつけ、ゆっくりと煙を吸い込む。吸い込んだときと同じスピードで紫煙を吐き出す犬神の横顔には、昨日の影響はみじんも残ってはいなかった。
変わらない日常が、始まる。
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おまけ
「ちょっと、犬神さーん!?いーぬーがーみーさーん!?」
「そんな大声出さなくても聞こえていますよ、大家さん。何事ですか」
「これ、あんたの服でしょ?なんでこんなところに落ちてんの!!」
「あーー…、あ、ああ、さっき手をすべらせて落としてしまって」
「ずっと落ちていたよッ!」
「え、あ、さっきだったと思ったんですけどね…ねぼけてたんですかね」
「そんなの私にわかるわけないでしょ!さっさと持って行っておくれ」
庭の掃除が出来やしない。とぶつぶつ文句を呟きながら掃除を始めた大家さんをみて、犬神は次に変化するときは部屋の中でやろうと心に誓ったのであった。
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昨日UPした小説の翌日のお話。
今日もまた推敲しないで勢いで書いたので、支離滅裂なところがあるかもしれないです。昨日の今日だから間を空けずに投稿したかった