人々が空を見上げていた。
家路を急ぐ足をふと止めて、はるか高みから自分たちを照らす白き月を見上げて「きれいだ」とか「美しい」とため息をつく。
普段よりゆったりとした人の流れをかき分けて、犬神は月を顧みることなくねぐらへと急ぐ。
今宵は満月。
夏の熱気を鎮め、秋の到来を告げる十五夜。
月は今宵一瞬完全なる円の姿を取り戻し、冴え冴えとした夜の闇に浮かぶのはただ己のみ、とばかりに白く強い光を放って星々の姿を隠す。月はひと時傲慢な女神のごとく天空の支配者を気取り、人間を、草木を、人外をも支配する。
犬神は気が狂いそうになるほどの強い支配の力を振り切るかのように足早に駆け、月の光の届かない今の自分のねぐらであるぼろアパートの一室に転がり込んだ。
「なぜ、人間は、平気でいられる」
倒れこんだ畳の上で、犬神は身を縮めて己の中で荒れ狂う本性を抑え込む。
強すぎる月の光は人や人外が纏う虚飾を祓い本性をむき出しにさせる。時折月の光で狂う人間もいるが、ほとんどの人間はニコニコとほほえみながら月をうっとりと眺めるだけだ。
鈍いのか、それとも月の女神は人間になど興味はないのか。いずれにせよ人間のその鈍感さはうらやましいことだと皮肉を吐きながら、犬神は暗闇の中で一人じっと耐えていた。
身体の隅々にまで力がひたひたと満ちていく。
狂気に身を任せたらどれほど楽になるだろう。だが、自ら理性を手放すことは人狼の誇りが許さない。
「俺の、支配者は…俺だけ、だ。お前じゃ、ない」
ゆらり、と立ちあがった犬神の瞳は暗闇の中で金色の光を放っていた。月の光と同じ金色の光。
そのままゆったりと窓際に近づくと、カラリ、と硝子戸を開け放つ。昼間の太陽に温められた部屋の中の熱気が逃げて、夜の月に冷やされた冷気が滑り込んできた。
犬神は街で見た人間たちと同じように空を見上げる。睨みつけたその視線の先には今まさに天空の頂点にいたった月が座していた。
破邪の光を放ちながら、邪悪な笑みで人々を魅了する白き月。
「俺は決して、お前に屈したりはしない」
口の端を歪めて笑うと、犬神はそのまま窓から身を乗り出し、落ちた。
引力に引きつけられた体が地面にたたきつけられる寸前、犬神の体は人の形を失い光となってほどける。ほどけた光の束はすぐに寄り集まって人の形ではなく大きな大きなケモノの形を織り上げた。
銀色の光を纏う、一匹の大きな狼に。
一瞬のうちに銀狼へと変化した犬神は地面を蹴りつけ高く跳躍する。それはおよそ常識を超えるほどの高さであった。2・3度跳躍して都庁へとたどり着くとするすると都庁のてっぺんへと駆けのぼる。
下から吹き上げてくるビル風が火照った体に心地よい。
邪悪な月に照らされながらこの世にただ一匹残された銀色に輝く美しい獣は、天を仰ぎただ一声、月に向かって投げつけるように長く吠えた。新宿中央公園に巣食う野良犬たちが犬神の声を聞きつけて次々と遠吠えを返すが、人の耳には新宿の雑音にかき消されて犬神の声は届かず、次々に遠吠えを始めた野良犬たちを人間たちは不思議そうにみていた。
遠い昔に、明かりのない森の中から見上げた月も、江戸の町に流れ着いて狭い路地から見上げた月も、繁栄の極めた人間たちが作り上げた高層ビルのてっぺんから見上げる月も、昔からまったく変わらずに地上と人間と犬神を照らしている。
犬神は狼の姿のままでクフクフと笑うと、都庁から軽やかに空中へとジャンプした。
今宵は満月。風もなく適度に涼しく、絶好の散歩日和。
ビルの屋上をつたいながら、犬神は気の向くままに駆けていく。先ほどまでの抑圧されるような力はもう感じない。
「たまには思い切り駆けるのも、悪くない」
人の姿であればそう言ったであろう犬神の言葉は、今はがうがうと狼の吠える声にしかならなかった。
月の支配をはねのけながらも、月に酔わされている。
それもまた一興とばかりに、犬神は月の光を背負いながら人間が作り出した街にあふれる光の中へと消えていった。
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中秋の名月に誘われて書き上げました。剣風帖の犬神先生のとある夜の物語です。お酒を飲みながら月を見ながら書いたので、まったく推敲してません。勢いって恐ろしいけれど面白いですね!挿絵に使った絵は、むかーしサイトにUPしていたものをリサイクルしてます。