結婚生活はすでに地獄となっていた。ひとつひとつのしぐさ――例えば前髪をかき上げた後に耳に触ること、例えば紫煙を吐くときに薄くまぶたを閉じること――そのすべてに嫌気が差す。存在そのものを否定してしまいたかった。
子供のままごとは一瞬の夢を詰め込んだ理想だったのだと、そう思い知らされたのはいつのことだっただろうか。幸せだったはずの結婚は、いつしか屍のままごとのようになってしまっている。そこには欠片ほどの幸福もなかった。
歯車を狂わせたのは夫のほうであった。古い記憶をたどればそのはずである。よくある浮気話、それが絶望の扉を開けるきっかけになった。
重要なのは信頼、信用。それを失ったとき人は絶望する。そう、例えば私のように。
視界が薄暗いと感じるのは、思考が半ば停止していたからに他ならない。状況を理解できていない夫が私を見上げている。瞳の色は黒い。それは闇の中でさえもはっきりと見ることが出来た。
呻きだろうか。くぐもってよく聞き取れないが、夫は何かを伝えようとしているように見えた。涙を浮かべながら、夫が残した言葉。嗚咽を漏らしながら泣きじゃくる私には聞こえづらかったが、それは確かに謝罪の言葉に聞こえた。
今生の別れ際に、いったい何を謝りたかったのだろうか。
排水溝に流れる夫の冷たい血液。体温を捨て続ける夫を懸命に暖めようとするシャワー。そして赤い包丁をかつて愛した胸に突き刺して、号泣する私。握り締めた拳は、震えて、しかし決してその柄を離そうとはしなかった。
思えば私は何のために生まれてきたのだろうか。
この人を愛するためだと、そう言い切れた時期もあった。
そして、今はもうその気持ちはない。
この涙は悲しみの涙ではない。そう言い切れるほど心は乾いていた。宇宙に心があるのなら、きっと今の私のそれに近いものに違いない。悲しみではない、寂しさ。
これっぽっちも悲しくなんてないのに、涙が溢れて止まらない。それでもシャワーは、夫の体を温め、私の涙を隠してくれている。
夫から引き抜いた包丁は、もう赤くはなかった。これもシャワーの優しさなんだろう。そんなことを考えながらそれを喉に突きつける。
こんどは優しい夢が見れますように。
そう祈って。
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タイトルは夫の気持ちから。まぁ、語ることではないのかもしれませんが。