この地の果てを目指してきた。
彼(か)の地から遠い果てだと思っていたこの地の、更なる果てを。
それこそが、家康の望む地。
石田三成が徳川家康の渾身一撃により、関ヶ原の地に伏した瞬間、家康は一度瞼を閉じて現実を噛み締めた。
「長かった」
だがすぐに目を開き、己の言葉に疑問を呈す。
「そうとも限らないか」
待ち過ぎて分からなくなったな、と心中呟く。三成はといえば、一度は膝を折ったものの、地面に突き立てた刀を支えに立ち上がりながら、家康を睨みあげていた。
「その程度で、私が屈すると思うのか家康っ」
「三成」
「斬滅しろ!」
地面に突き立てた刀を引き抜きながら、衝撃波を家康に放つ。しかし両腕を交差することで、身を守った家康への決定打には欠けた。
やはり先ほどの一撃が効いている。そう判断した家康は、それでもスピードでは三成に劣る己の攻撃を補うため、安易に間合いを詰めるのは避けた。
けれど、ここまで来た。
家康は確信する。自身が仕立て上げた舞台の正しさを。
「三成、これは絆だ」
力強く告げる男に、三成の目尻が一層上がる。かの男が、己に何をしたか自覚があっての言葉なのだとしたら、これほど陳腐なものはない。
主君・豊臣秀吉を討たれたあの場面を、三成は一瞬たりとて忘れたことなどない。既に骸となった君子の横に立っていた家康の姿に、三成は己の生きる意味と死ぬ意味を同時に失った。
あの瞬間から、三成もこの地を目指してきた。
「私から全てを奪った男が何をほざくかっ」
懺悔と悲哀と憎悪の入り混じる叫び。奪った者から与えられる感情の最たる物でもって、三成は号哭する。
「貴様が私に聴かせて良いのは、比類なき悔悟の慟哭のみっ」
一定の距離を保とうとする家康に前進し、横薙ぎに斬りつける。家康はそれを寸で払い、尚も切りつけて来る相手の間合いを取りながら、殴打と肘打ちの連打を仕掛ける。
「分からないか三成っ」
「戯言への理解など範疇にないっ」
八度目の殴打を避けられた家康が、一歩後ろへ下がる。
「そうじゃない。ワシは民の代行者に過ぎぬ」
家康もまた、三成と同じ光景を顧みる。
豊臣秀吉を倒し、幾ばくもしない後にやって来た三成の姿。瞬時に状況を悟ったかつての友が、凶王と呼ばれるようになる眼差しを向けた、あの瞬間を。
待ってばかりだった男が、待つのを止めた日。
守る地を持つ家康は、幼名の頃より、ひたすら敵であれ味方であれ、待つという選択しか無い武将だった。戦国乱世の只中でありながら踊り出ずる場もなく、世の流れを眺めるだけ。
不甲斐ないと嘆くのは簡単だ。けれどこの小さな主君は守る民を優先させ、心のままに戦いたい己を律してきた。
豊臣に協力したのも、秀吉を打ち倒したのも、家康にとっては同義語にすぎない。民が望む、平和な日ノ本具現化のため。その理念は今も、ほとんど変わらない。だからこそ家康は刀を捨てた武将として、戦場に降り立った。
そうして訪れた、三成と袂を別れる日。家康は、東照権現の名を象った、利己に生きる男となる。
誰からの理解も求めない男の、求める唯一。
「三成」
迷いのない声で呼ぶ存在は、誰からの理解も求めない男の、求める唯一。
分からなくて良い。
待ちわび、待ちくたびれた家康が、待ち焦がれる意味を知った、その感情。
「三成。お前は芥の中に居なければならない」
分からなくて良いが、知っていて欲しい。
「お前が芥の山の中に居ることで、ようやくワシはワシだけの物となれるんだ」
家康の言葉に三成は一瞬、眉をひそめる。意味など興味が無いものの、戦いの場において、あまりに似つかわしくない投げかけだった。けれどすぐに眉間に皺を寄せ、忌むべき物への眼差しに戻る。
「雑音を響かせるな。耳障りだ」
円を描くように拘束で移動するや、家康に斬りつける。鬱屈の三成から逃れられる相手は少ないが、それも万全であればこその技。
家康は紙一重ながらも避けたことに、決着の確信を得る。
三成は家康の思惑など露にも気にかけず、刀による連続攻撃を与える。
「何が代行者だ偽善者がっ」
「三成っワシは」
「黙れっ」
空気ごと切り裂く刃が、家康の頬を掠める。
「秀吉様をっ半兵衛様をっ豊臣の栄光を汚した貴様など、断じて認めないっ許さないっ」
「く……っ」
一寸家康が体制を崩したのを見逃さず、宙返りをしながら斬撃を繰り出す。
「秀吉様、私にこの男を断罪する許可をっ」
「しま、っ……」
三手目までは三成の攻撃を防いだが、四手目はくらった。むき出しの腕や胴回りに傷を負い、鮮血が飛び散る。
「あの日降り注いだ涙雨の上から、家康っ、貴様の粛清の血を流させろ!」
三成が間髪いれず五手、六手と切りつけた。手応えはあった。
「芥は貴様だ家康ッ!」
しかし刹那にも似た刃の軌跡も、成就の弧は描かなかった。
「ッ、そうだ三成」
会心となる筈だった八手目は、家康の身につけている籠手が受け止めた。
「?!」
目を見開いた三成の眼球に、家康が映る。また家康の目に映るのも、三成だった。一瞬の交差が最大の隙となり、長刀により詰められなかった懐へ入り込む。
「ワシとて芥だ」
葵の極みでもって強烈な気合いを放出した家康は、三成の体を無防備へと追いやる。そのまま殴打を連続で与える様は、東風の乱舞と評されている。
三成が持っていた刀と鞘が主の手から離れたのを視界に捉え、家康は迷いの無い拳を三成に叩きつける。
「それこそが正しき乱世の終止符だっ」
「ぐ、ぁあッ」
戦場で刃を捨てた拳の重みは、家康がつい先ほど噛み締めた現実を三成が味わうには充分な物だった。命のやりとりにおいて、どちらに死を預けるかを決するには充分な、現実の重さ。
完全に地に倒れ込んだ三成は、それでも生きていた。刀を視界の隅に捉えても、指一本動かせない。力の入らない四肢を投げ出し、呼吸は酷く短く浅い。
風前の灯である三成を、家康はただ見下ろしていた。家康自身も、己の拳の痛みを味わっていた。
ようやくたどり着いたか、と。
「三成」
ようやく、石田三成がこの世には不要であると示せた、と。
「三成……」
家康は一度息を吐き、ゆっくりと三成に近づく。三成は傷の痛みによって遠く聞こえる家康の足音に反応し、僅かながらも起き上がろうとする。けれど片足の膝を立てるだけで精一杯だった。指も土をえぐるだけに留まり、手を伸ばせば届く刀を一瞥する。
殺さなければ殺されるという観念は、三成には無い。とうに魂を豊臣に落とし、生きる屍同然でここまで来た。死ぬ恐怖はない。あるのは憎悪によって根を生やした、殺したいという気概だけ。
「く……っ、い、えやす、家康ぅああああっ」
乾いた喉はひきつり、枯れた声が戦場に響いた。三成の声を真上で聞いた家康は、三成の刀を拾って鞘に収めると、あろうことか地べたに尻を付けて座り込んだ。
「相変わらず見た目より丈夫だな、三成は」
三成の顔の近くであぐらをかき、いつもと変わらぬ大らかな笑みを向ける。およそ命を削りあった直後と思えぬ様子に、三成は憤怒の眼差しで見上げた。
「なにを、この期に及んで、貴様は……っ」
何故斬首しない、と目で問われ、三成の刀を握ったままの家康が、さらりと答える。
「生憎ワシは刀を捨てた。殺生も本意じゃない」
「……ならば私に、貴様を……殺させろっ」
己の体と同じく、力なく横たわっていた刃は、家康の手の中だ。家康もつられて握る刀を見る。
あの日以来、寸分変わらぬ三成の敵意を、家康は憂いた。自業自得が生んだ業にではなく、宿業によって家康という己を認識させた意味において。
家康は三成の長刀を己の横に置き、「ワシは三成が望むままになっても構わないと思ってる。本当だ」と伝えた。
「ただ一度ぐらいはワシの話を聞いて欲しかったから、こうするしか無かっただけのことだ」
まるで子供の我が儘のような言い分に、三成は奥歯を噛み締める。遡れば秀吉を射った雨の日すらも含まれる声色が、どうにも我慢ならなかった。
「貴様はっ一体何がしたいと言うのだ家康っ」
血反吐を吐いて糾弾する。己の中に渦巻いているのは、たぎる憎悪だけ。その先に生死などなく、家康の全てを否定するだけの心象世界。
敬愛する主君の亡骸の元、二人は同じ地に立っていた。雨の中、交差した眼差しの先には、お互いしか無かった。あの瞬間より、この地だけを目指してきた。
それなのに、手を伸ばせば届く位置に座する家康が、あまりに遠く思えた。
家康の持論も真意も興味がないとした三成が、初めて知りたいと口にした事に、家康は目を細める。そして空を見上げ、頭上に広がる青さに、また目を細めた。
「空が青いな」
雨が降り注がぬ空が、家康の、今の心情と重なる。
理解されなくても良い。ただ、知って欲しい。
「なあ三成、日ノ本は誰のためにあると思う」
ワシはこの空の下で生きる、多くの民だと思っている。と続けた。
「ごく少数の統べる者は、民たちの望む姿を形にする役目をたまたま担っているにすぎない。みなが今日ばかりか、明日を、これからの食べ物に困ることなく暮らせるように。愛しい者の命と寄り添い、育み、陽の下で笑顔を絶やさず生きられるように」
やや早口で説くのは、三成がはなから聞く気などない持論だと悟っているからだ。何より家康自身が、聞かせる気など無い。
これは、名も無き他人が求める都合の良い世界の話。
「民がいてこその我らであり、国の正しき姿だ。だからワシは全てを民に捧げ、民の求める徳川家康で有り続けた」
生まれた時より選べない男が選んだ仮りそめが、さもそれが世界の正しさだと告げる。
「豊臣は大陸をも視野に入れて戦を仕掛けようとしていた。長き乱世からようやく平定したというのにだ。あれ以上の犠牲など、日ノ本の民にとっては無用の長物だと思わないか」
そして多くの他人によって作られた徳川家康という東軍総大将が、己の心のままに生きる、西軍総大将・石田三成に審判を下す。
「少なくとも、皆が不要と決めた」
憐憫めいた物もなく、ましてや勝者としての重畳さもなく、ただ淡々と。他人が告げるに等しい言葉に感情など込めようもなく、不要とした事実を、家康自身も受け止めただけだった。
家康は何度も、秀吉を討った雨を顧みる。三成の眼差しが初めて、家康一点を凝視した瞬間より。変えようの無い事実の先にある、僅かな選択を模索することに費やしてきた。
「民が要らないとした日から、ワシはこの地を目指し、この時を待っていたとしたら、お前はどうする?三成」
万人の正義の使者たる皮を剥いだ中身があることを、三成は満身創痍の体で感じた。背筋におよそ味わったことのない震えが走ったのは、三成にある、人らしい本能だ。それほどに、家康の見せる繕いの無い笑みが、己にとってただ事ではないのを知らせている。
三成の変化に、家康は素直に喜色ばむ。
「ここはいわば、ワシとお前が同じ芥となるために用意した場所だ」
童が、自分で見つけた秘密の場所を教えるように。
「実は政宗にはばれていたんだがな。まあ、あいつも三成とは決着を着けたがっていたからだろう。ワシもまだまだだな」
苦笑いをしつつ頬をぽりぽりとかくも、突如出た政宗の名前に三成が無言で訝しい顔をするので、家康は目を丸くする。
「あの伊達政宗だ。三成が知らない筈がない。お前が一度倒した男だぞ」
「知らん」
あっさりと否定するのも三成らしいかと、嘆息した。むしろ家康の機嫌は良くなるばかり。今朝方交わした政宗との会話も、今や心中問題なくなった。
そう、決戦の日となった今日。今より数刻前に、家康と政宗は、この場所に立っていた。
関ヶ原での戦が決着の場であると、東西両軍が見据えるままに、夜が明けた。
東軍に座する徳川家康が、己の持ち場とする場所で腕を組み、静かに立っている。背後には戦国最強とうたわれる本多忠勝が居るが、特に会話らしい物はしなかった。
戦場となるであろう地が一望出来るこの場所で、家康は感慨深さにも似た心地でいる。
「ようやくだ」
家康はそれだけを呟き、瞼を閉じた。とうに軍議も済ませ、時が心に追いつくのをただ待つばかり。
そんな嵐の前の静けさを体感していた東軍の総大将に話しかけたのは、持ち場から離れてやって来た伊達政宗だった。
「よう、家康」
竜の右目である片倉小十郎も一緒だが、家康に話しかけたりはしない。主の右目に徹しているらしい。
家康はいつもの気兼ねのない笑みで、政宗に向かって右手を上げる。
「政宗。どうした、こんな所まで来て」
「同じ東軍の陣地に行くのに理由がいるのか」
「そんな事はないが」
質問に質問で返され、家康は所在投げに右手を下ろし、再び腕を組む。政宗は家康の隣に立ち、己の腰に手を添える。
「ただの暇つぶしってやつさ。まあ、ちょっとぐらい付き合えよ、世間話ってやつに」
政宗が横目で見れば、家康は「ああ」と頷く。
とはいえ世間話に付き合えと言いながら、政宗から会話らしい会話はしない。遮るものの無い場所から、時折吹く風の音を聞き、穏やかに流れる雲を見上げるばかり。
家康も話す気は無く、隣にいる政宗の存在を忘れるほどに、再び己の内へと籠っていた。
一見すれば平凡で緩やかな光景だが、互いに、腹に収まりきらない高揚感が発せられているのは明らか。家康の気に当てられたか、または自身の血が騒いだのか、口を開いたのは政宗からだった。
「家康。あんたはここで戦を終わらせたいんだろうが、俺にとっちゃここも通過点にしか過ぎねえぜ」
政宗は最初から、徳川との同盟は仮りそめにしか過ぎず、家康に天下を譲る気も無ければ、好敵手である幸村との相対も、関ヶ原を最終地としていない。
あくまで政宗の見る頂きは、いち武将としての理想と、奥州を束ねる者としての矜持だ。相手の主張に、家康は是非を示すだけ。
「良いだろう。だがな政宗、それを決めるは民だ。民が求めない物をワシが決めることは出来ない」
いっそ清々しい程の面構えに、政宗は鼻であざ笑う。
「徳川家康ってのは、とんだ狸だな」
狸と言われ、家康は目を丸くする。
「それじゃまるで私闘なんざした事ないって言ってるように聞こえるぜ」
方笑みを浮かべた政宗に、家康の目の色が変わった。
「そう聞こえたか」
「さっきてめえがどんなツラでここを見ていたか知ってるか?」
政宗が顎で指した先にあるのは戦場だ。挑発などという安っぽい物ではなく、確信を込めた声で、東照権現の皮を暴く。
「party会場を仕立てたのは誰だったっけな。てめえは偽善ぶってる分、タチが悪ぃぜ」
「独眼竜」
「Answer.言ってみな。てめえが見てるのは、本当に民か?」
爛々と光る隻眼が家康を射抜く。もののふとして、真正面の威嚇で負けていては、二つ名の名折れ。
家康はわざとらしく肩を諌め、軽いため息をつく。
「そんな事を聞くために、わざわざここに来たのか」
挑発に乗らないと分かるや、政宗はあっさり引いた。
「良いや、暇つぶしって言ったろ。もっとも、さっきのてめえのツラ見て、多少なりとも気分は変わっちまったがな」
意地の悪い顔をするので、家康はまた一つ「仕方の無い男だな」と苦笑混じりの息を吐く。
二人の空気を読み取ったのか、はたまた来るべき刻限の知らせか。竜の右目に徹していた従者が、主の名を呼んだ。
「政宗様」
「おう」
小十郎の呼びかけに簡素に返すと、政宗は家康の傍から離れた。そして背中を向けながら片手を上げ、同盟国相手への労いをかける。
「じゃあな。お互いしたいように暴れようじゃねえか。あんたが俺とあいつとのpartyを邪魔さえしなけりゃ、俺もそっちにゃ手を出さねえ」
「そうか。良かった」
「良かった、ね」
予想外の言葉に、思わずオウム返しをする。一度は撤退を余儀なくされた石田三成と、政宗も決着を付けたがっているのを家康も知っているからこそ出てしまった。
政宗が選んだのは幸村だ。家康に三成を譲ったからではない。その複雑で単純な本能が、家康を煽る。
「まあ良いさ。てめえが腹に隠し持ってるやつを、精々遠くから拝まさせてもらうぜ、家康」
政宗と小十郎が、肩越しに家康を一瞥する。
一瞬だったが、竜の両目がギラリと光った。
あの時の竜の目を思いだした家康が、侮れぬ奴だと敬意を込めて「本当に見ていたら面白いな」と呟く。同時に、力なく横たわっていた三成が、家康から背中を向けた。
尚も戦いを挑もうとするのかと思いきや、それ以上は動く気配が無い。
「三成?」
名を呼んでみたが反応は無かった。急所は外したとはいえ、殺す気で向かって来る三成を相手に手加減など難しい。家康は、もしや生死に関わる深手を負わせてしまったのではないかと、手を伸ばした。
「おい、三成」
「私に触れるな」
家康の右手が、三成の髪に触れられる寸でのところで止まった。あと少しなのだからと触れてしまいたい衝動を一旦収める。
願いは叶ったのだから慌てることはないと、手を元の位置に戻した。
三成の意思など家康の中には無い。勿論、最初は存在した。
豊臣に協力し、共に戦場を駆けていた頃など、むしろ三成を尊重していたのだ。過度な思想のずれが生じた場合は、ある程度の苦言と抑制を働きかけていたものの、総じて三成にとっての不都合なことは少なかった。
家康の、深層心理の中でのみ渦巻いていた相克が表面に浮かび上がってきたのは、豊臣の終焉という雨。
唯一無二である己の心と、民という数多の命で、常に後者を優先させてきた武将が、三成の雨交じりの眼によって逆転したのだ。
豊臣軍のいち武将という位置から、二人とてこの世に存在しない者へ。三成の中での認識がみるみる内に変わったのを、間近で体感してしまったから。
だから家康は、待つのを止めた。
己の判断が間違っていないと確信出来た。
だから家康は、相克に約定を設けた。
「お前は要らない存在なんだ、三成」
家康の言葉に、三成の肩がほんの微か揺れる。
徳川家康は多くの民が作った。民が要らないと言った、民が求めていない世だから、彼らが作り上げた徳川家康が、求められるままに勤めを果たした。
民には求める物を与え、不要とされた物は排除する。
他人の為だけに同じ事を繰り返し、芥の山を築き上げてきた男が、己の為に見つけた妥協点であり報酬が、芥の山そのもの。
「そうして皆が要らないと、不要だと捨てられた物なら、ワシが拾っても構わないだろう?」
決定事項を伝える声は穏やかで、頭上に広がる空と同じく澄んでいた。芥は家康の物であると家康が決めたから、三成が民にとって芥だとされなければならなかった。
民の都合を己の都合にすげ替えた家康の望みは、その先にある。
「そうしていつか、ワシをも不要となった時が、真に日の本の安息となるだろう」
ほんの少しの寂寞と、本当にそうなれば良いという期待。
「それはな三成。ワシが徳川家康の皮を剥ぐ時だ」
徳川家康は、徳川家康であって、徳川家康にあらず。
偶像崇拝から利己へと天秤の重さが傾いた、その重さの主、三成へと今度こそ躊躇いなく手を伸ばす。
「三成分かるか、聞いているんだろ?」
興奮を隠さぬ笑みで、三成の左手を掴む。
「っ、私に触れる、なとっ」
受けた傷の痛みから眉を顰めるが、それ以上に、家康の手が嫌だった。自分から全てを奪った綺麗事の拳が、嫌いで仕方が無い。
「止めろ離せ、これ以上貴様の空想を聞かせるな」
腕を引っ張られた事で無理やり体勢を変えさせられた三成が、家康を睨み上げる。一方で、家康は三成の手を掴んでいない空いた片手を地面に付けて、相手の顔色を伺うように覗き込む。
「空想じゃない。数多の命が結んだ、絆という理(ことわり)だ」
「世迷言を。荒唐無稽な言い逃れに、崇高さなど微塵も無い。貴様こそが悪しき暴君の塊だ」
三成からすれば家康の持論は、結果を正当化するための屁理屈でしかない。何より、家康の説く結果の根源など、理解出来るはずがないのだ。
考えたくない、認めたくない、だのに肝心な本心をさらけ出さない中の、家康の言葉全てでそれが全てだと言っている。
主君だけを求め、軍師の描く世界に夢を見てきた。今も変わらぬ忠義でいる三成は、知る由も無い。
豊臣にいた頃より厚みも傷も増えた、家康の手の歴史を。本当はもっと強く握っていたいのに、三成の怪我への労わりと、振り払って欲しくないという板挟みでいるのを。
三成を初見した頃から一度とて、三成の手に触れたことがない家康は、実は今が一番緊張している。
握り返してくれなくて良いから、振り払わないでくれ。理解もしなくて良い。けど、知って欲しい。
利己で築いた芥の山から選ぶために、三成を芥に落とした張本人が、残酷な理想論の中に簡素な感情を隠す。
本音を吐露するための言葉を知らない訳ではない。心のままの告白が自己満足すらも得られず、赦しにも免罪符にもならないのを知っているのだ。
「三成」
その代わりとして、家康は何度も三成の名を呼んでいた。名前の先にある想いを飲み込んで。
「空が青いだろ、三成」
家康の肩ごしから、三成は空を仰ぎ見る。
「芥の山の頂きを超えた果てでも、青いと良いな」
あの雨が時を隔てて押し流され、今の青さに繋がっていれば良い。そしてこれから向かう道を照らしている。そう解釈する家康ごと見る青に、三成の心情は一層の忌避感を覚える。
言葉にしない感情など、この世に存在しないのと同じだとして、三成は告げる。
「どこの地だろうが、貴様は家康だ。私だけが貴様を殺せる」
黄泉路の先でも生涯の敵と呼ぶのは、目前の男だけ。家康の基準などどうでもよく、言い得てしまえば、三成の中では、とうに家康の全ては三成の物になっている。
「空が青い訳など無い。死色の空に降る雨は、貴様か私が現に居る限り止みはしない」
己が立ち止まる地も進む道も、空が差す先はない。晴れたる空は主君と軍師が立つに相応しい。
三成が願い、請うのはただ一つ。
「貴様が諳んじる芥の山などに私は居ない。その果てに貴様が居るというなら、どこまでも殺しに行くだけだ」
家康の全てを否定し家康の存在をこの世から殲滅する権利も役目も、誰にも譲りはしない。
君主殉凶を背負いし凶王の、不純物のない憎悪に、家康は心の底から笑んだ。
「そうか」
失望などより、よっぽど良い。選択肢の無いことを思えば、待ち焦がれたかいはあった。
「ありがとう三成」
離さないままの三成の手を、少しだけ強く握る。そしてとても愛しげに、己の頬にすり寄せた。
動乱の世で多大な疲弊と犠牲を払ったのは、家康の言うように、本当に名も無き民か。それとも、民の都合の良い偶像崇拝によって具現化した東照か。
もし何者からも理解を求めない家康の利己のために疲弊と犠牲が必要だったなら、それは間違い無く。
「秀吉様」
虚ろな目で空の先を眺める三成の、盲目一途な心ではないか。
三成は家康どころか自身すらも聞こえない音色で、敬愛する主君の名を囁き、請う。
「私に、輪廻の業に留まる許可を」
空が死色に染まってから、幾度となく請うてきた許可という赦しに、終焉の無い、よすがという懺悔を被せる。
形は違えど互いへの執着を捨てられない、捨てる気の無い二人が芥となった、最果て。それが名も無き民たちの望む地であり、象られた名を剥いだ、二人の立つ地。
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7/28恐惶謹言 涼月 J42。友達の本「友垣の夢」(委託で置きます)でゲストで書いたやつです。狸家康書きたかったがために、エロ無し指定なのにダラダラ長いという。私的にはここから監禁というか三成飼育ネタに入るんですよ、書いてないけど。